Gomphrena globosa
| 2007年7月 | 
一方,欧州に渡来した明確な年を示した文献は見出せなかった.しかし,コスモスやヒャクニチソウより約一世紀早く17世紀末には,インドから来た植物としていくつかの植物誌・植物図譜に取り上げられていて,学名をつけたリンネもインド産としている.熱帯アジアで広く分布していたのであろう.英国には 1715 年に渡来したとされており,日本への渡来は英国より早く,欧州大陸と同時期ということになる.
見出せた欧州のセンニチコウの古い図版を出版年代順に掲げる.
リンネを含め,その後の殆んど全ての植物誌が,ブレイニの図譜をセンニチコウの項目の引用文献のトップに記述しているところを見ると,最古の文献と考えられる.この記述には, 1664 年と言う年号が読み取れるが,ドミノ教授が発見した年なのか,欧州に移入した年なのかは判読できなかった.これらの絵も実際の生の植物の絵なのか,腊葉から書き起こしたのかは不明だが,最初の絵は臨場感にあふれていて,美しい.
1-1, 2. Brenii, J. Exoticarum aliarumque minus cognitarum plantarum centuria prima... LI (1678)
Amarantho affinis indiæ orientalis, floribus conglomeratis, ocymastri folio
 “HUjus
piantae, ab Indis expetiti flores  vel potiùs
capitula, Anno M. DC. LXIV. a Nobilissimo Excellentisstmoq; Domino Jacobo Goliop.
m.Professore Matheseos & Orientaliu Linguarum Lugduni-Batavorurn mihi ostensa;
& postmodum à Filio ejus Amplissimo & Nobilissimo Dn. Domino Theodoro Golio
F. V. D. Civitatis Lugduni Batavorum Consutari, nomine Florume Batao missa:
paucos ante annos ex India flores  seu capitula excipias, eàdem, qua Lychnidis
ocymoidis flore purpureo, facie.”
ヤコブ・ブレイニ(Jacobi Breynii or Jakob Breyne or Jacob Breyne
or Jacobus Breynius Gedanensis )(1637-1697)はオランダ系のドイツの植物学者.商人の父と共に働いていたが,1665年父の死後,ダンチッヒに移住し,商売を続けると共に植物学の研究に勤しんだ.息子で,ポーランド産の赤色色素を生産するカイガラムシの研究で知られる博物学者
Johann Philipp Breyne はいくつかの父の著作の作成に助力した.
1678年に ““exoticarum aliarumque minus cognitarium plantarumcenturia”
の第一巻を出版し,これは息子の Johann Philipp が継承し増補改定した.この書には 100 種を越える南アフリカ産の植物が記されていて,その中にはセンニチコウもはいっている(次記事).そのほか,彼の著作としては以下の二つが知られている.
Jacobi Breynii, Johann Philipp Breynii, “Prodromus fasciculi rariorum plantarum”, 1680 - 1689.
Jacobi Breynii, Johann Philipp Breynii, “Prodromus fasciculi rariorum plantarum”, 1680 - 1689.
Jacobi Breynii, Christian Mentzel, “Pinax
botanōnymos polyglōttos katholikos, Index nominum plantarum universalis,”
1682
中南米の植物研究で知られるフランス人の植物学者シャルル・プリュミエ (Charles Plumier,
1646-1704) はコミカンソウ科 (Phyllanthaceae)
の一つの属を彼に献じて Breynia と命名し,リンネもそれを引き継いだ.
モニンクスの絵は,オランダの植物園に栽培されていたセンニチコウを描いたことがわかっているので,1686年には欧州で栽培されていたことは確実である.コメリンの著作の挿図ではモノクロだが,引用した図譜では美しく彩色されている.残念ながらこのアトラスでは絵だけで,説明文はない.
2.  Moninckx,
J., Moninckx atlas, vol. 1 t. 18 (1682)
ヤン・モニンクス (Jan
Moninckx, c1656 - 1714) はオランダ人の植物画家で,娘のマリア・モニンクス
(Maria Moninckx, 1673-1757) と共に,アムステルダムのHortus Medicus (薬用植物園)に栽培されていた植物を描いた全 9 巻,420図からなる “Moninckx Atlas” で知られている.この図譜は1686-1709 に出版された.またこの図譜の図の一部は,ヤン・コメリン (Jan Commelin,
1629-1692) とヤンの甥のカスパル・コメリン(Casper
Commelin, 1629-1692) が1701年に出版した "Catalogus plantorum horti medici
Amstelodamensis rariorum” にも用いられている.
ルンフィウスの『アンボイナ植物誌』から,1680年には東南アジアに既に分布していたことが分かる.現地語では “Bonga Knop” と呼ばれていた.
3. Rumpf, Georg Eberhard. Herbarium
Amboinense [...] Pars quinta, Tab. 100 (1747)(部分) ”Flos globosus, Bong Knop”
ゲオルク・エバーハルト・ルンフィウスまたはルンプフ(Georg Eberhard Rumphius,元の名は Rumpf,1627-1702)はドイツ生まれで,オランダ東インド会社で働いた植物学者.著書『アンボイナ植物誌』(Herbarium
Amboinense)で知られる.誘拐され,奴隷として働かされたりした数奇な運命を辿った後,オランダ東インド会社に雇用された.1654年にアンボン島(現在インドネシア,モルッカ諸島の一部)へ技師として派遣されたが,その後民生部門に移り,動植物の研究を始めた.バタビアの総督のJoan Maetsuycker (1606-1678) は,ルンフィウスに通常の業務を離れ,研究に専念させた.『アンボイナ植物誌』はアンボン島の1,200あまりの植物の一覧と分類を記したもので,1680年頃に完成したが,機密をまもろうとする東インド会社の方針で,没後の1741年以降に出版された.「東インドのプリニウス」と呼ばれるようになったルンフィウスだが,妻子を地震と津波で失い,集めた図を火事で失うなど不幸にみまわれ,1670年頃には緑内障で失明したが,口述筆記でこの大著を完成した.
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