2025年12月9日火曜日

ヤマグルマ-7, ライデン標本館,腊葉標本.ビュルガー,ピエロー,須川長之助

Trochodendron aralioides

ヤマグルマを最初に欧米に紹介したのはシーボルトPhilipp Franz Balthasar von Siebold, 1796– 1866,日本滞在 1823– 1829, 1859– 1862)で,ライデン大学のツッカリーニJoseph Gerhard (von) Zuccarini, 1797 – 1848)との共著『日本植物誌Flora Japonica” 1835 -1870)に新属の植物として Trochodendron aralioides の学名をつけて発表した.屬の名前,Trochodendron はギリシャ語の車輪(τροχός)と,樹木(δένδρον)に由来し,和名のヤマグルマが基であり,シーボルトはこの名前が,花の形状や枝先の葉の着き方をよく表していると感心している.なお,種小名aralioidesはウコギ科タラノキ属 Aralia に似た oides という意味で,シーボルトの日本での植物研究の協力者,ドイツ人の薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーのメモに由来しているのかも知れない(前記事).

 シーボルトが滞日中,実際にヤマグルマを観察したか否かは不明.彼の “NIPPON” の内の “REISE NACH DEM HOFE DES SJOGUN IM JAHRE 1826”(江戸参府紀行)を検索したが Trochodendron はヒットしなかった.また彼がライデンに設立した「気候順化園」の販売品リストを見たが,Trochodendron は見当たらなかった.『日本植物誌』でのヤマグルマの植物学的な詳しい記述は Siebold & Zuccarini が腊葉標本を温水に浸して復元し,精査して得た知見や,シーボルトの離日以降の在日ハーバリストの情報を基にしたのであろうか?興味深い.

 ライデンのナチュラリス生物多様性センター(Naturalis Biodiversity Center,以下ナチュラリス)の Bio Portal によると,八十九点の Trochodendron aralioides の標本が収蔵され,日本が採集地とされているのは,五十点だが,内五点はナガバノヤマグルマ(T. aralioides f. longifolia)である.

  シーボルトが蒐集者とされるヤマグルマの標本が少なくとも四点保管されている(L 0741017L 0175238L 0175784L 0175237)が,何れもその画像は公開されていない.その内一点(L 0741017)はアルコール漬けの標本である.また,L 0175237 は水谷豊文(助六,Sukerok)が肥後で採集した個体とメモにある(秋山忍,次記事).また,標本番号は不明ながら,秋山は美馬順三が肥後で採集したヤマグルマの標本も所蔵されていると記している(秋山忍,次記事).

シーボルトの協力者の一人,ドイツ人の薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーHeinrich Buerger, 1806?-1854)が蒐集者とされるヤマグルマの腊葉標本は五枚保管されていて(L 0175239L 0175240L 0175241L 0175242U.1743465),その内,L 0175242 を除く四枚(L 0175239L 0175240L 0175241U.1743465,冒頭図)は画像が公開されている.内,秋山らによって L 0175239 2012年にヤマグルマのレクトタイプに,L 0175240 2013年にイソレクトタイプに選定された.

 L 0175239 L 0175240 に貼付されているラベル(左図)には,『日本植物誌』でのヤマグルマの植物学的な詳しい記述の基となった知見が記されている.この筆者がだれか,興味があるが,秋山らはシーボルトであろうと推定している(秋山忍ら『ナチュラリスト シーボルト』ウッズプレス(2016)).筆跡は,シーボルトのとは異なるようにも思えるが?(後記事).なお,L0175239 Genus dubium とは,属不明の意味で,上書きされている正名 Trochodendron aralioides がシーボルトの筆であり,また日本語の「トリモチノキ」は伊藤圭介の筆になると思われる.
 

    また,シーボルトの助手になろうと日本を目指していたが,途中のマカオで客死したジャック・ピエローJacques Pierot, 1812-1841)がバタビアで購入し,後に欧州で売られた日本植物の腊葉標本のコレクション(Pierot collection)に含まれていたヤマグルマの五枚が,ナチュラリスに収蔵されていて(U.1743464L 0175245L 0175243L 0175244U.1743462),その内二枚(U.1743462U.1743464)の画像が公開されている.更にBio Portal のリストでは蒐集者不明となっている一枚のラベルには,ピエローの名が読み取れる(L.4214225)のでこれを入れると六枚となる.なお,ミクェルの “Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica”(ライデン王立植物標本館標本目録1. 日本植物,以下 Catalogus)(1870年)には,collector として J. Pierot の名はない.従ってこれらの標本は,彼がカタログを作成した以降に他の標本館などから来たと思われる.
 なお,この “Pierot collection” の大部分の真の採集者は,シーボルトによって出島に招請され,シーボルトが追放された後の 1830 年に当時のオランダ館長,メイラン (Meijlan, Germain Felix, 17851831) の江戸参府に同行した画家のフィレネーフCarl Hubert de Villeneuve, 1800 - 1874) であろうと推定していた(2019510日金曜日 「ホトトギス (18)  欧文献-12,ピエロー・コレクション,採集者・2ndラベルの筆者」https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/18-102nd-1.html,及びそれ以降の記事)が,最近下記のような資料を見つけた.
  
 These so-called Pierot specimens all bear nicely written labels with collecting data, which are usually lacking on the specimens collected by Von Siebold, Bürger, Textor, and Mohnike. As many of the collecting localities are places along the route of the court journey, the collector of these specimens must have been a member of one of them. In case these specimens have been collected by Bürger, he must have done so during the court journey of 1826. It is however not likely that Von Siebold had permitted Bürger to collect and keep such a collection for himself. At that time he was still his assistant. When these plants have been collected during the later court journey of 1830, they can not be Bürger's. Although Bürger wanted to join the court journey of 1830 the Japanese officials (H. Beukers, pers. comm.) did not allow him to. Perhaps it was Von Siebold's other assistant, the skilful draftsman C.H. de Villeneuve, who collected these specimens during the court journey of 1830. (Gerard Thijsse “The history of the Herbarium Japonicum Generale in Leiden”, https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DImages/Kankoubutsu/IBulletin/no41/contents/001_01.htm)

 ミクェルの前の王立植物標本館(Rijksherbarium)の館長ルートヴィヒ・ブルーム (Blume, Carl Ludwig, 1796-1862) は,その著著 Mus. Bot. Tome. I (1849) 179 ページに, Brexiaceae 科に Pierotia 属を新たに設けた.この属は,日本に派遣される途上に病没した JACOBI PIEROT を悼み,彼に献名した名称であるとし, Pierotia lucida BL. Pierotia reticulata BL. の二種を記録した.つまり,1949 年にはブルーメは,ピエローが日本に赴く途上で死去していたことを,認識し記録にとどめていた事となる.現在ではこの属名は Ixonanthaceae(イクソナンテス科),Ixonanthes属のシノニムとされている.
 また,ミクェルは,ピエローに Clematis pierotii Miq.(コバノボタンヅル 標準),Senecio pierotii Miq.(サワオグルマ synonym),Salix pierotii Miq.(オオタチヤナギ 標準),Fimbristylis pierotii Miq.(ノハラテンツキ 標準),Carex pierotii Miq.(シオクグ 標準)の学名を献名した.
 
 ロシアの植物学者マキシモヴィッチ(
Carl Johann Maximowicz1827 - 1891)の助手として,彼の日本植物の研究に協力した須川長之助1842 - 1925)が1864年に Prov. Senano(信濃)で採集したナガバノヤマグルマ(T. aralioides f. longifolia)の標本 L.1717899 が,蒐集者 Tschonoski として保存されている(左図).これは “Catalogus” にてマキシモヴィッチが蒐集したとされる標本であろうか.
 ナガバノヤマグルマは,マキシモヴィッチによって,
1871年に変種として,1953年に大井次三郎によって品種として発表された.
 須川長之助とチョウノスケソウについては後記事.

2025年12月1日月曜日

ヤマグルマ-6,ミクェル “Prolusio Florae Iapoica”, “Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit”

Trochodendron aralioides

Friedrich Anton Wilhelm Miquel, Wikimedia Commons 

  ヤマグルマを最初に欧米に紹介したのはシーボルト
Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796– 1866,日本滞在 1823– 1829, 1859– 1862)で,ライデン大学のツッカリーニJoseph Gerhard (von) Zuccarini, 1797 – 1848)との共著『日本植物誌Flora Japonica” 1835 - 1870)の第一巻に新属の植物として Trochodendron aralioides の学名をつけて発表した.屬の名前,Trochodendron はギリシャ語の車輪(τροχός)と,樹木(δένδρον)に由来し,和名のヤマグルマが基であり,シーボルトはこの名前が,花の形状や枝先の葉の着き方をよく表していると感心している.なお,種小名aralioidesはウコギ科タラノキ属 Aralia に似た oides という意味である.

シーボルトの『日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)』は2巻に分けて出版されたが,その第二巻はシーボルトとツッカリーニの死後に出版された.遺稿を補充し,校訂して続刊したのは,ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel, 18111871)であった.もっともミクェルが『フロラ・ヤポニカ』2巻でしたのは,たかだか45ページ,45ページから89ページにわたる第6から第10分冊と,22図版(第137図版を除く,第128図版から第150図版)の出版にかかわっただけに過ぎない.しかし,シーボルト・コレクションの今日を考えるときミクェルの貢献はきわめて大きい.それはライデンの王立植物標本館にあったシーボルトと彼の後継者たちが日本で収集した全標本を同定・整理し,集大成したのがミクェルだからである.
 1862年にミクェルは,ブルーメ(Carl Ludwig Blume, 17961862)の後継者として,今日のオランダ国立植物学博物館ライデン大学分館の前身である王立植物標本館(Rijiksherbarium)の館長となった.彼は,シーボルトとその継承者たちによる,当時の世界では最大の日本植物の標本コレクションに大きな関心を寄せていた.ライデンのコレクションを参照せず日本の植物を研究することは不可能であった.
 ミクェルがライデンの日本植物コレクションの研究を急いだ重要な動機のひとつは,日本が1854年にオランダ以外の国に対しても門戸を開いたことであった.実際,その後,アメリカ,イギリス,ロシアもまた広範な日本植物の標本コレクションを作りはじめた.おそらくミクェルはライデンで始められた日本植物を記載する研究が引き続きライデンで行われるべきだと考えたのであろう.このような状況の中で,日本植物の研究上でのライデンの植物標本コレクションについての研究は重要さを増していったのである.(参考資料:東京大学コレクションXVI 『シーボルトの21世紀』,6.「シーボルト植物コレクションを集大成したミクェル」(大場秀章・秋山忍))
 1863年から1870年にかけて,ミクェルは4巻からなる『ライデン王立植物標本館紀要』(Annales Musei Botanici Lugduno-Bataviを出版し,その中で日本植物コレクションについて研究し,多数の新植物を記載している.
 新植物ではないものの,第二号(186566)の Prolusio Florae Iapoicae の章の「ヤマグルマ」の項には,伊藤圭介が尾張で観察し,ヤマグルマ,モチノキ,ビランジ等とよばれるとある.シーボルトは蝦夷と肥後産の標本を入手し,肥後では鳥を捕獲するのに使われている.とあり,更に性状に関するビュルガーのメモの概要も記している.
 また彼はライデンの日本植物コレクションが植物学上たいへん重要なものであるとし,それらを一般の標本から分けて別室にて保管した.これが Herbarium Japonicum Generale” と呼ばれるようになる日本植物標本のコレクションである.ミクェル自身によれば,それは1776年にツュンベルクによって採集されたコレクション(重複標本),シーボルトと伊藤圭介ら彼の日本人助手によるコレクション,及びビュルガー(H. Bürger),ピエロー(J. Pierot),テクストール(Textor),モーニケ(O. G. J. Mohnike)が収集したコレクションからなるものであった.1864年にはイギリスの王立キュー植物園は植物学者のオルダム(T. Oldham)によって収集された1200点からなる日本植物の標本コレクションをライデンに寄贈した.1866年にはマキシモビッチ(K. J. Maximowicz)が日本に滞在した3年間に収集した標本のコレクションが加えられた.
 
この “Herbarium Japonicum Generale” の標本目録がミクェルによって,1870年に『Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica 』(ライデン王立植物標本館標本目録1. 日本植物)として出版された.この中に,ヤマグルマの腊葉標本として,蒐集者が,シーボルトのが3点,モーニケのが4点,ビュルガーのが2点,伊藤圭介のが1点,マキシモウィッチのが1点あると記載されている.また,アルコール漬けの標本と,伊藤圭介が提供した腊葉帖とにヤマグルマの標本がある事も記している.


ライデン大学におけるシーボルト&ツッカリーニの後継者,ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel18111871)が「Annales Husel Botanici Lugduno Batavi186369)」(ライテン植物園年報,全142ページ)第二号(186566)に投稿した『日本植物誌試論』“Prolusio Florae Iaponicae”(日本植物誌試論) “PARS TERTIA” の部のMAGNOLIACEAE(モクレン科)の「ヤマグルマ」の項には

TROCHODENDRON SIEB. ET ZUCC.

1. TROCHODENDRON ARALIOIDES SIEB. ct ZUCC. Fl. Jap. I. p. 83 tab. 39 et 40.

Genus potius Araliaceis adiungendum. — Detexit KEISKE probabiliter in Owari ubi Jama Guruma et Mosi noki,
  etiam Biroo dsifu vel B. tsigu vocatur; e Jeso apud Ainoe et e regione sept. ins. Nippon accepit SIEBOLD;
  porro e prov. Higo ubi gluteu ad aves capiendas exinde paratur. B
UERGER haec habet : ,,Calyx nullus nisi
  bractcae 2 exiguae; corolla nulla; stamina circiter 50, thalamo subtus affixa; capsula 7-locularis submono-
  sperma. Habitus Araliaceas spectat."
とある.「(モクレン科よりも)ウコギ科に加えるべき.伊藤圭介が尾張で観察し,ヤマグルマ,モチノキ,ビランジ*等とよばれる.シーボルトは蝦夷と肥後産の標本を入手し,肥後では鳥を捕獲するのに使われている.」とあり,更に性状に関するビュルガーのメモの概要も記している.
 ここに述べられている「ビュルガーのメモ」は,腊葉標本(L 0175239)に貼付されている,手書きのメモと内容は一致するようだ.このメモの文末には “Bürger” の文字が読み取れるが,手跡から判断されたのであろうか,秋山忍氏はこれを「シーボルトのメモ」と言っている(秋山忍ら『ナチュラリストシーボルト』ウッズプレス(2016)).内容は『日本植物誌』のヤマグルマの性状の記述と一致している.
  *
伊藤圭介『日本産物志前編 美濃部 中』文部省(1876)(ヤマグルマ-4)参照

 ミクェルがまとめた「Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit」(1870)には,ヤマグルマの腊葉標本として,蒐集者が,シーボルトのが3点,モーニケのが4点,ビュルガーのが2点,伊藤圭介のが1点,マキシモウィッチのが1点あると記載されている.蒐集者については,文末に記す.


Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit」(1870

Divisio Prima. Herbarium Japonicum Generale.
Polypetalae
MAGNOLIACEAE

VIII. TROCHODENDRON S. et Z.
       aralioides S. et Z.  B. 2.  S 3.  Mx 1.  M 4.  K 1.

SIGNA.
Literae singulis speciebus adjectae collectorum nomina, numeri
chartarum quibus specimina adglutinata sunt numeram indicant.

    B. = H. BÜRGER, Med. Doctor.
    S. = P
H. F. DE SIEBOLD, Med. Doctor, medicus militaris.
    Mx. = C. J. M
AXIMOWICZ. Med. Doctor, botanicus Rossicus.
    M. = O. G. J. M
OHNIK, Med. Doctor, medicus militaris neerlandus.
    K. = I
TOO KEISKE, botanicus japonensis.
Bürger
については次記事.シーボルト以外のコレクターについては,文末,


 同書には伊藤圭介がシーボルトに提供したと思われる腊葉標本帖中八冊(内二冊は亡失)の植物リストも掲載されていて,第五分冊にヤマグルマの標本もある事が記載されている.

1. HERBARIUM ITOO KEISKE; VOLUMINA
FORMA OCTAVA, QUORUM DUO
DEPERDITA

VOLUMEN V.
     162  Cacalia aconitifolia В
UNG.?
     163  Phytolacca Кaempferi A. G
RAY.
     164  Ixeris ramosissima A. G
RAY.
     157  Smilax, sp. dubia.
     168  Trochodendron aralioides S
IEB. et ZUCC.
     169  Acer carpinifolium S
IEB. et ZUCC.
     170  Salix japonica T
HUNB.?
     171  Salix?

   さらに,アルコール漬けの標本のリストにも,ヤマグルマの(部分)標本があるとされている.これは,シーボルトが蒐集者とされ,現在でもナチュラリスで保存されている標本(L 0741017)かもしれない.なお,ここにおいてもヤマグルマはモクレン科に分類されている.

DIVISIO QUARTA.
PLANTAE VEL EARUM PARTES
IN
SPIRITU VINI ASSERVATAE.

I. RANUNCULACEAE.
              96 Paeoniae species.

II. MAGNOLIACEAE.
              3   Ilicium religiosum S. et Z.
              98  Magnoliae species.
           99  Trochodendron aralioides S. et Z.


ヤマグルマの腊葉標本が Herbarium Japonicum Generale” にあるコレクター.
★カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz または Karl Johann Maximowicz1827 - 1891)は,19世紀のロシアの植物学者で,専門は被子植物の分類.ペテルブルク帝立科学アカデミー会員.極東アジア地域を現地調査し,生涯の大半をその植物相研究に費やし,数多く新種について学名を命名した.その業績を含め,日本との関わりは大きい.1860年から18642月まで日本に滞在し,精力的に日本の植物相調査を行った.手始めに函館で採集助手として日本人の須川長之助を雇い,1年ほどをそこで過ごし渡島半島の植物相調査を行う.1862年,助手の長之助を伴って横浜を経由し九州へ向かう.途中,偶然にも横浜滞在中に生麦事件に遭遇している.九州では長崎に1年余り滞在し,周辺を調査するとともに長之助を雲仙,阿蘇,霧島などへ遣わした.またこのとき,たまたま日本滞在中であったシーボルトとも長崎で会っている.

★オットー・ゴットリープ・モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike1814 - 1887)は,ドイツ帝国の医師である.日本に牛痘苗をもたらし,日本の天然痘の予防に貢献した.シュトラールズントに生まれた.文献学を学んだが,父の友人エルンスト・モーリッツの影響で医学に転じた.各地の大学で医学を学び,シュトラールズントの父の屋敷で医者を開業した.1844年にオランダ領東インドのジャワに派遣され,1848年から1851年まで長崎の出島で働いた.佐賀藩主鍋島閑叟がオランダ商館長に牛痘苗のとりよせを求めたので,来朝時に痘苗を持参したが,接種しても感染せず,再度バタヴィアから痘痂を取り寄せ,18487月に鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種,善感し,この痘苗は日本の各地へ受け継がれていくこととなった.閑叟の息子の淳一郎(後の藩主直大)も接種をうけた.それまで日本への牛痘苗の輸送は,航海中に効力が失われ失敗していたが,この成功によって牛痘法は日本に広まっていった.日本に初めて聴診器を持ち込んだことでも知られる.彼の標本はボイテンゾルグ(Buitenzorg,現在のインドネシアのボゴール)植物園の園管理者(hortulanus)であったテイスマン(Teysmann)から贈られたものとされている.(ライデンの日本植物標本コレクション The Herbarium Japonicum Generale in Leiden ヘラルド・テュイセ Gerard Thijsse

★伊藤 圭介(1803 - 1901)は,幕末から明治期の本草学者・蘭学者・博物学者・医学者.日本初の理学博士[2].男爵(従四位勲三等).尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身.翻訳において「雄蕊(おしべ)」「雌蕊(めしべ)」「花粉」という言葉を作った事でも知られる.文政10年(1827年),長崎にてシーボルトより本草学を学ぶ.その後,シーボルトより受け取ったツンベルク著『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を訳述し,文政12年(1829年)に『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』として刊行した.嘉永5年(1852年),尾張藩より種痘法取調を命ぜられる.文久元年(1861年),幕府の蕃書調所物産所出役に登用される.明治3年(1870年)末,名古屋より東京へ移住して大学出仕,翌年より文部省出仕となった.同14年(1881年),東京大学教授に任ぜられた(1886年に非職,1889年に非職満期).同21年(1888年),日本初の理学博士の一人として学位を受ける.また初代の東京学士会院会員となった.