ヤマグルマを最初に欧米に紹介したのはシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,
1796– 1866,日本滞在 1823– 1829, 1859– 1862)で,ライデン大学のツッカリーニ(Joseph
Gerhard (von) Zuccarini, 1797 – 1848)との共著『日本植物誌』”Flora Japonica” (1835 -1870)に新属の植物として Trochodendron aralioides の学名をつけて発表した.屬の名前,Trochodendron はギリシャ語の車輪(τροχός)と,樹木(δένδρον)に由来し,和名のヤマグルマが基であり,シーボルトはこの名前が,花の形状や枝先の葉の着き方をよく表していると感心している.なお,種小名aralioidesはウコギ科タラノキ属 Aralia + に似た oides という意味で,シーボルトの日本での植物研究の協力者,ドイツ人の薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーのメモに由来しているのかも知れない(前記事).
シーボルトが滞日中,実際にヤマグルマを観察したか否かは不明.彼の “NIPPON” の内の “REISE NACH DEM HOFE DES SJOGUN IM
JAHRE 1826”(江戸参府紀行)を検索したが Trochodendron はヒットしなかった.また彼がライデンに設立した「気候順化園」の販売品リストを見たが,Trochodendron は見当たらなかった.『日本植物誌』でのヤマグルマの植物学的な詳しい記述は Siebold & Zuccarini が腊葉標本を温水に浸して復元し,精査して得た知見や,シーボルトの離日以降の在日ハーバリストの情報を基にしたのであろうか?興味深い.
ライデンのナチュラリス生物多様性センター(Naturalis Biodiversity Center,以下ナチュラリス)の Bio Portal によると,八十九点の Trochodendron aralioides の標本が収蔵され,日本が採集地とされているのは,五十点だが,内五点はナガバノヤマグルマ(T. aralioides f. longifolia)である.
シーボルトが蒐集者とされるヤマグルマの標本が少なくとも四点保管されている(L 0741017,L 0175238,L 0175784,L 0175237)が,何れもその画像は公開されていない.その内一点(L 0741017)はアルコール漬けの標本である.また,L 0175237 は水谷豊文(助六,Sukerok)が肥後で採集した個体とメモにある(秋山忍,次記事).また,標本番号は不明ながら,秋山は美馬順三が肥後で採集したヤマグルマの標本も所蔵されていると記している(秋山忍,次記事).
シーボルトの協力者の一人,ドイツ人の薬剤師ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Buerger, 1806?-1854)が蒐集者とされるヤマグルマの腊葉標本は五枚保管されていて(L 0175239,L 0175240,L 0175241,L 0175242,U.1743465),その内,L 0175242 を除く四枚(L 0175239,L 0175240,L 0175241,U.1743465,冒頭図)は画像が公開されている.内,秋山らによって L 0175239 は2012年にヤマグルマのレクトタイプに,L 0175240 は 2013年にイソレクトタイプに選定された.
また,シーボルトの助手になろうと日本を目指していたが,途中のマカオで客死したジャック・ピエロー(Jacques Pierot, 1812-1841)がバタビアで購入し,後に欧州で売られた日本植物の腊葉標本のコレクション(Pierot collection)に含まれていたヤマグルマの五枚が,ナチュラリスに収蔵されていて(U.1743464,L 0175245,L 0175243,L 0175244,U.1743462),その内二枚(U.1743462,U.1743464)の画像が公開されている.更にBio Portal のリストでは蒐集者不明となっている一枚のラベルには,ピエローの名が読み取れる(L.4214225)のでこれを入れると六枚となる.なお,ミクェルの “Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica”(ライデン王立植物標本館標本目録1. 日本植物,以下 Catalogus)(1870年)には,collector として J. Pierot の名はない.従ってこれらの標本は,彼がカタログを作成した以降に他の標本館などから来たと思われる.
なお,この “Pierot collection” の大部分の真の採集者は,シーボルトによって出島に招請され,シーボルトが追放された後の 1830 年に当時のオランダ館長,メイラン (Meijlan, Germain Felix, 1785–1831) の江戸参府に同行した画家のフィレネーフ(Carl Hubert de Villeneuve, 1800 - 1874) であろうと推定していた(2019年5月10日金曜日 「ホトトギス (18) 欧文献-12,ピエロー・コレクション,採集者・2ndラベルの筆者」https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/18-102nd-1.html,及びそれ以降の記事)が,最近下記のような資料を見つけた.
These so-called Pierot specimens all bear nicely written labels with collecting data, which are usually lacking on the specimens collected by Von Siebold, Bürger, Textor, and Mohnike. As many of the collecting localities are places along the route of the court journey, the collector of these specimens must have been a member of one of them. In case these specimens have been collected by Bürger, he must have done so during the court journey of 1826. It is however not likely that Von Siebold had permitted Bürger to collect and keep such a collection for himself. At that time he was still his assistant. When these plants have been collected during the later court journey of 1830, they can not be Bürger's. Although Bürger wanted to join the court journey of 1830 the Japanese officials (H. Beukers, pers. comm.) did not allow him to. Perhaps it was Von Siebold's other assistant, the skilful draftsman C.H. de Villeneuve, who collected these specimens during the court journey of 1830. (Gerard Thijsse “The history of the Herbarium Japonicum Generale in Leiden”, https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DImages/Kankoubutsu/IBulletin/no41/contents/001_01.htm)
ミクェルの前の王立植物標本館(Rijksherbarium)の館長ルートヴィヒ・ブルーム (Blume, Carl Ludwig, 1796-1862) は,その著著 “Mus. Bot. Tome. I” (1849) の 179 ページに, Brexiaceae 科に Pierotia 属を新たに設けた.この属は,日本に派遣される途上に病没した JACOBI PIEROT を悼み,彼に献名した名称であるとし, Pierotia lucida BL. と Pierotia reticulata BL. の二種を記録した.つまり,1949 年にはブルーメは,ピエローが日本に赴く途上で死去していたことを,認識し記録にとどめていた事となる.現在ではこの属名は Ixonanthaceae(イクソナンテス科),Ixonanthes属のシノニムとされている.
また,ミクェルは,ピエローに Clematis pierotii Miq.(コバノボタンヅル 標準),Senecio pierotii Miq.(サワオグルマ synonym),Salix pierotii Miq.(オオタチヤナギ 標準),Fimbristylis pierotii Miq.(ノハラテンツキ 標準),Carex pierotii Miq.(シオクグ 標準)の学名を献名した.
ロシアの植物学者マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz,1827 - 1891)の助手として,彼の日本植物の研究に協力した須川長之助(1842 - 1925)が1864年に Prov. Senano(信濃)で採集したナガバノヤマグルマ(T. aralioides f. longifolia)の標本 L.1717899 が,蒐集者 Tschonoski として保存されている(左図).これは “Catalogus” にてマキシモヴィッチが蒐集したとされる標本であろうか.
ナガバノヤマグルマは,マキシモヴィッチによって,1871年に変種として,1953年に大井次三郎によって品種として発表された.
須川長之助とチョウノスケソウについては後記事.





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