2011年12月28日水曜日

トベラ Japanese mock orange, 大和本草,和漢三才図会

Pittosporum tobira年の暮れにはトベラの枝を門扉に挿して,邪鬼を祓う風習があった.

日本(本州岩手県新潟県以南・四国・九州・琉球)・朝鮮・中国(江蘇・浙江・福建・廣東)・台湾の海岸に分布する,常緑の灌木.潮風に強いので都会のスモッグにも耐性があり,シャリンバイと共に,都心の公園や交通量の多い幹線道路のグリーンベルトの植え込みにも使われる.(画像撮影 2007年5月ひたち海浜公園)
春咲く花は小さいながら甘い良い香りがして,西欧ではその香りがオレンジの花に似ているとして, “Japanese mock orange 日本オレンジもどき” という名前で呼ばれ,海岸近くの公園や庭園に植えられている.2006年4月に訪れた米国ノースカロライナの海岸では花をつけた大きな繁みを見たし,カリフォルニアでも海岸に植えられていると同行した友人が言っていた.

葉や茎,根には悪臭があり,また,葉を燃やすとはぜて燃えるので,その音と臭気で鬼を祓うと考えたのか,むかし節分や除夜に,この木の枝を門扉に挿して魔よけとしたことから,扉の木(とびらのき)と言われ,それがトベラになったとされている.

深江輔仁『本草和名』(918頃) 石南草に「和名止比良乃岐」と,源順『倭名類聚抄』(934頃) 石楠草に「和名止比良乃木、俗云佐久奈無佐」とある.

江戸時代に下ると伊藤伊兵衛の園芸書,『花壇地錦抄』(1695)巻三「冬木之分 笹のるい」に,「とべら 木 葉ハしやくなんげのごとく花ハミるかいなし」また,同書の「草木植作様伊呂波分」には「植替二三月時分」とあり,庭園樹として栽培されているが花は鑑賞価値が低いとされていたこと,石南草・石楠草と呼ばれていたのは葉がシャクナゲに似ているからということが分かる.

貝原益軒『大和本草』 (1709) の『諸品図(中)』(1715?)には,「除夕(除夜)ニ国俗此木ノ枝ヲ扉ニ挟テ来年疫鬼ノフセギトス 故ニトヒラノ木ト云 葉ハ臭味共ニアシ(悪し) 花ノ香ヨシ 葉ノ中ノ筋ハ白シ」とある(上図).

また寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)の巻第八十二 香木類には(右図)
「扉木 とべら とびらのき
正字未詳〔『和名抄』(草木部木類)では、石楠草の三字を用いている〕
俗に止比良乃木(とびらのき)という。いま止閉良(とべら)という。
△思うに、この樹は山中に多い。現今では、人家の庭園でもこれを植えている。樹葉の状は楊梅に似ていて臭い香がある。伝えによれば、除夜にこの樹を門扉に挿すとよく疫鬼を避けることができる。それで扉木という、という。四月に小白花を開き、実は四、五顆(つぶ)ずつ群がって結生する。青色でやや熟すると自然に裂ける。中に赤色の子があって、水木犀(もつこく)(香木類)の子に似ているが大きい。
牛病を治す。 葉を擦り揉み、塩を少しばかり加えまぜ、これを与えるとよい。」(現代語訳 島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫)とある.

放射線鬼や増税鬼もこれで防げればよいのだが.

2011年12月18日日曜日

バジル メボウキ (3) 種の効用,大和本草,和漢三才図会,本草綱目啓蒙,アマゾン原住民.悪口の効用,博物誌

Ocimum basilicum seeds バジルの種を目に入れると,吸水し周りに多糖質の粘液を分泌して膨れ上がり,目の中の異物を吸着するのが日本名「メボウキ」の由来である.
〇貝原益軒『大和本草』 (1709) 巻之九 草之五 雑草類「羅勒」 「實ヲ目ニ入レハ目ノアカヲトル」
〇寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)「羅勒子(らろくし) 乾いた子を用いて目の腎(かすみ)や塵が目に入ったのを治す。」(現代語訳,島田勇男ら,1987年)
〇小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 「羅勒 メバゝキ水ヲ見レバ即外二白脂ヲ纏フテ一分余ノ大サニナル。故ニ目中ニ入テ痛マズ、能塵ヲ粘シテ出。故ニ、メバヽキト云。」

そこで,今年収穫した種に水を加えてその変化を見た.水を加えて20分ほどで,周りに白いゼリー状の物質を分泌し,20倍以上に体積が膨らんだ.触ってみるとぶよぶよで確かに目の中で異物を吸着しそう.
このような薬効が西欧や中国で認められているか気になって,ネットで調べてみたところ,『本草綱目』にこの薬効の記述があった.
さらに,アマゾン原住民が使っている薬用植物についてのホームページ
“Albahaca – Ocimum basilicum
A seed of albahaca placed in the eye will remove unwanted material from the eye, like mucus.”
という記述が見つかった.アマゾン流域にはバジルが自生しているとは思えないので,勿論この植物自体は後で移入されたのであろうが,地球の裏側でこの草の種に,日本と同じ薬効が認められているのは興味深い.

なお,古代ローマの博物学者,ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus, 23 – 79,大プリニウス)の『博物誌』の植物篇には
「三六 各種の種子
メボウキよりもたくさん種子のなるものはない。さらにたくさんなるようにするためには、悪口とか罵声を浴びせてから種子を播くのがよいと、人々は教えている。」(大槻真一郎編,1994年発行,八坂書房)とあるので,来春播種の時には試してみようと思う.

2011年12月9日金曜日

シジュウカラ 四十雀 和漢三才図会,名の由来

Parus minor庭のサクラの木を訪れたシジュウカラ.オスは喉から下尾筒にかけての縦縞がより太いので,画像の個体はメスと思われる.以前はユーラシア中部・西部に分布する P. major と同じと考えられていたが,2006年にアムール川流域では2種が交雑なしに共存している事が報告され,別種とされた.P. major は腹部が黄色いが,シジュウカラ P. minor の腹部は白い.

「シジュウカラ」の名は,古くは,平安時代の「日本霊異記」という書物に「しじゅうからめ」という名前であらわれ(2種の現代語訳を読んだが,確認できず),その後,室町時代から「シジウカラ」と略されたとされている(http://choyukkuri.exblog.jp/i58/).名前の由来には諸説あるが,地鳴きが「チ・チジュクジュク」と聞こえるので,この鳴き声を表した「シジウ」に,「カラメ」がついてできたと考えられる.「カラ(メ)」は、ヤマガラ,ヒガラの「ガラ」や、ツバクラメ(ツバメ)の「クラ」と同じく鳥類を表す古語である.

江戸時代の百科事典,寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)には
「四十雀 正字は未詳
△思うに、四十雀は小雀に似ていて大きい。頭は黒く両頬は白くて円紋をなし、黒い圏(わ)は頸にまで至っている。胸・背は灰青、翅・尾は黧黒(きぐろ)で灰白の竪条(たてしま)がある。腹は白色で胸から尾にかけて黒雲紋がある。声は清滑で盛んに囀る。四十加羅(しじゅうから)と囀っているように聞こえる。それでこう名づける。老いると毛が変わり、色もやや異なり形も大きくなる。俗に五十雀という。雌は腹の雲紋が幽微である。
朝まだき四十からめぞたたくなる冬ごもりせる虫のすみかを 寂蓮」 (現代語訳 島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫)

とあり,シジュウカラの名前は囀りから,年老いるとゴジュウカラになるとされている. また和歌の作者「寂蓮」は平安時代の歌人.したがって平安時代にはしじゅうからめと言われていたことが分かる.

他には,雀四十羽とこの鳥一羽を引き換えたとする説,多く群がる意で「四十(シジュウ)」,かるく翻るがえって飛ぶとことから「軽(カル)」で「四十カル」が転じた説があるが,前者は「四十」+「雀」という漢字表記に引っ張られたと思われ,やはり「鳴き声」+「カラ(メ)」説が説得力がある.

P. major の英名は Great tit.英語の Tit には乳房・乳頭の意味もあるので,中国語 Wiki のこの鳥の項(「大山雀(Great Tit)」)を,自動翻訳させると,かなりエロチックな文が現れる.中→和ではなく,中→英→和訳なのでこのような事が起こるらしい.

2011年11月30日水曜日

オニナベナ,チーゼル wild teasel, teasel

Dipsacus fullonum
撮影 2001年7月 米国インディアナ州シーモア.農道脇の溝の斜面に発見.実物を見た事がなかったので,友人の Daniel Hodge に車を止めてもらって撮影.

古い本草書に描かれたチーゼル.左より,シェーファー『ラテン本草 Latin Herbarius』(1484),シェーファー『ドイツ本草 German Herbariuus』(1485),フックス『植物誌 De Historia Stripium』(1542),ブルンフェルス『本草写生図譜 Herbarum Vivae Eicones』(1531)

欧州原産の大型の二年草.乾燥させた頭花にはタワシのような穂先にトゲがあり,そのトゲにはマイクロメートル単位の鈎がびっしりついている.この鈎で毛織物の表面をひっかくと,ラシャガキグサの別名が示す様に,肌触りの良い風合いが生まれる.織物の起毛に用いるため古代から重要な作物であったが,現在ではそのような利用法はごく限定的となっている.

文頭の画像下部に見られるように,茎を抱く葉の基部は密着し,ここに雨水がたまるので,茎をはい上るアリなどの昆虫はその水におぼれて死に,空中を飛ぶ昆虫だけに蜜を吸わせて,効率よく受粉をはかるといわれているが,本当なら驚くべき自然の戦略であろう.
★大英自然史博物館『ビジュアル博物館 第11巻 植物』(1990) 同朋舎出版の「自分の身を守る」の章には「溺死
オニナベナの茎についた1対の葉は、根元でくっつき合って小さなくぼみをつくり、そこに雨水がたまるようになっている。このくぼみは植物を守る堀のような役割を果たす。この草にのぼって若い葉を食べようとするカタツムリや昆虫は水たまりにぶつかり、退散するか、あるいは水に落ちて溺死する。」とあり,この堀で溺死した昆虫類の画像がある.(2019年11月追記)

また,欧州では俗に Venus はこの水でゆあみをしたと言い,またこの水には,そばかすやいぼを取る効があって,それで洗顔すれば Venus のような美人になれるというので,この草を Venus’-basin,Venus’-bath,Venus’-cup などと呼ぶ.

テーゼルの属名(Dipsacus)はギリシア語の dipsakos,ラテン語の dipsacos がもとになっているが,ともにデイオスコリデス,プリニウスで「チーゼル」を表す名称として使用されていた.また,teasel の語原は古代英語の taesan(=to tease cloth)で,この植物は衣料業の象徴ともなり,ロンドンの Cloth-Workers’ Company では紋章に “teasle-head” を用いている(左図,ネットより).



日本では明治時代,毛織物産業のために移入された.明治 18 年(1885) に東京の大日本農会三田育種場から出版された『舶来穀菜要覧』には「チーセル チースル(英) 二年草,山梗菜科 欧州原産にて丈夫なる二年草なり.四月上旬地床に散播きし五月下旬圃地に移し翌年七月中旬頃子鞠を結ふ.其老熟を待ちて採収すべし.其子鞠長体?にして片々鱗次端末鈎刺をなす.絨布の製造に供し其絨毛を惹起するに欠くべからざるものとす.」とある.その後毛織物産業の盛んな地方に広がり,高度成長期にはカシミヤなど高級毛織物の仕上げに珍重されて,大阪・泉州などで頻繁に栽培されていたが,毛織物業の衰退と金属製の起毛機の開発で現在では栽培面積は激減している.

北米では広く帰化して一個体から 2,000 個の種が散布され,プレーリーの原植生を破壊する有害外来植物とされていて駆除対象とされているが,作物としてではなく,種が他の有用植物に混入して移入されたのが始まり.

2011年11月21日月曜日

ヒマワリ (4/4)  キルヒャーのヒマワリ時計 向日性,何故東を向くか? 体内時計の関与

Helianthus annuus
2001年7月
開いたヒマワリの花が太陽とともに回転するという説は,現在では否定されているが,まだヒマワリがめずらしかった十七世紀に,好奇心旺盛なドイツの万能学者アタナシウス・キルヒャー (Athanasius Kircher, 1601 - 1680)はホロスコピオン・ヘリオトロピコン (ヒマワリ時計)を考案した.『磁石あるいは磁気の法』 (Magnes sive de arte magnetica 1641) という著作(下右図)に掲載された銅版画では,水盤のなかにコルクの円盤が浮いており、コルクの中央から一本のヒマワリの茎がまっすぐ伸びている.花の中心には指針がついているので,太陽が動けばコルクといっしょにヒマワリがぐるぐる回転して,指針によって時を指示するという仕掛けである(左図).
彼の場合,光ではなくて,太陽の磁力を受けて,ヒマワリの花が回転すると考えており,したがって,曇天でも時計として機能するというのがみそのようだ.アタナシウス・キルヒャーを記念した博物館にはこの時計の模型も展示されているそうだが,実際に動いているのか否かは確認できなかった.
The sunflower clock, from Kircher, "Magnes, sive De Arte Magnetica" (1643 ed.), p. 644.


ヒマワリの若い蕾は確かに太陽の動きにつれてその方向を変え,日没後夜の間にその方向を東に戻し,日出と共にまたその方向を変える.東の方角は記憶されており,鉢植えのヒマワリの方向を変えると,しばらくの間は夜の間に記憶に基づいた東へと蕾の向きを変える.成熟するにしたがって,東から西への運動の幅は小さくなり (下左図,A R G Lang & J E Begg,瀧本敦『ヒマワリはなぜ東を向くか』中公新書 1993 より引用)開花時には,花の向きは東へと固定される.


この首ふり運動の原動力はオーキシンという名の植物ホルモンで,日の当たらない陰の部分の濃度が高くなるため,茎の東面と西面の成長が交互に促進され,若いヒマワリは東から西へ首を振る.このオーキシンの不均衡化は,このホルモンの日当たり部分から影の部分への移動である(コロドニー・ウェント説)とされ,アイソトープで標識化されたオーキシンの投与により,日の当たる部分で分解するのではなく,日当たりから日陰への移動が原因だという事が,トウモロコシ幼葉鞘の実験で証明された.(日本植物生理学会-みんなの広場).

茎が成長をやめる時期,すなわちオーキシンの作用がなくなる時期には,花の向きが東向に固定されるので,ヒマワリ畑のヒマワリの花は殆ど全てが東を向いてしまう.ではなぜ,他の方向ではなく東へ固定化されるのかについては,わかっていないようだが,多数の花が同方向を向くことによって,受粉昆虫を遠くからひきつける効果が増大するからではないかという説や,「東を向いていると朝日があたり、夜露が早く乾燥するので、病原菌のまんえんを防ぐことができる」という説もある.しかし,東の方向を向くことにそんなに利点があるのなら,なぜ,他の植物でも全部の花が東を向かないのかという疑問も起こる.

ヒマワリは古くから,食用としての種を採るため,また観賞用に育てられて,人との付き合いの長い植物だが,インカやアズテックで神格化されていたのも頷ける謎の多い植物でもある.

ヒマワリの花の首振り運動についての興味深い深い報告が,最近発表された.(2016-08-23)
「体内時計によるヒマワリの日周運動の制御,花の向き,受粉昆虫の訪問」
 米カリフォルニア大(University of California - Davis)の研究チームが,成長途中のヒマワリは,昼は太陽光を受けて東から西へ首を振り,夜は体内時計の働きで元に戻ること,この生体リズムを乱すと,成長が妨げられこと.更に東を向いて開花することは,花の温度を上げることによって訪問する受粉昆虫の数を増やす効果があることを実験的に解明した(201685日付の米科学誌サイエンス(H. S. Atamian, N. M. Creux, E. A. Brown, A. G. Garner, B. K. Blackman, S. L. Harmer. Circadian regulation of sunflower heliotropism, floral orientation, and pollinator visits. Science, 2016; 353 (6299): 587)).
 つぼみの状態のヒマワリの鉢植えを実験室に持ち込み,青色発光ダイオード(LED)の照明を頂上から照らすると,数日間は,東から西へ,そして東へという運動を行うが,やがてその運動は止まってしまう.再度太陽の動きをまねた照明をあてると,首を振る動きが再開される.
照明を16時間点灯・8時間消灯する24時間サイクルから,20時間点灯・10時間消灯の30時間サイクルに変えると,消灯時に西から東へ戻る動きが不安定になった.体内時計が乱れたためと考えられる.遺伝子の発現の検討から,昼は太陽光を受けて茎の東側の成長が速いために次第に西を向き,夜は体内時計の働きで茎の西側の成長が速くなって東向きに戻ることが分かった.
ヒマワリが首を振れないよう固定したり,鉢植えのヒマワリを朝に西,夕方に東を向くように手で回したりすると,成長が妨げられ,全体の重さ (biomass) や葉の面積が1割減った.
 成長し終えて開花期になると,障害物がない開けた場所では,体内時計が,午後や夕方の日光より,早朝の日光に強く反応するようにして,花が東を向いたままになる.
東向きだと花が朝に太陽光を受けて早く温度が上がり,受粉を担うハチなどの虫がよく集まる効果があった.西の方向に向かせておくと集まる昆虫の数は2割に減ったが,赤外線ランプで花の温度を上げると,その数は東向きの花と同等となった.

2011年11月15日火曜日

コスモス Cavanille “Icones et descriptiones plantarum”

Cosmos bipinnatus

英国で最初に咲いたコスモスを描いた 1823 年のカーチスの Botanical Magazine (左図)の記述を読むと,メキシコで採集・送付された種からマドリードの王立植物園でコスモスが初めて咲いたのは 1789 年で,文献の初出は 1791年,Antonio Jos. Cavanille (1745 - 1804) の “Icones et descriptiones plantarum” の第一巻であるとされている.(最下図)

そこで,インターネットで検索したところ,この書籍がバレンシア大学でPDF 化されていて,オンラインで閲覧することができる事がわかった.全6巻の ”Icones et descriptiones plantarum” (Madrid, 1791-1801) にはメキシコ,テキサスやフィリピンなどの新スペイン(ヌエバ・エスパニョーラ)から運ばれた多くの植物についての解説と植物画が掲載されていて,その第一巻の第 14 図にコスモスが,第 79 図にキバナコスモス(C. sulphuruos)のなかなか美しい画像が描かれている(右下図).その記述も見つけることが出来たが,ラテン語かスペイン語で書かれているので読解できなかったが,メキシコ植物園の Vincentius Cervantes (1755 – 1829) , I(J)osephus Longinos 及び I(J)osepho Antonio Alzate がメキシコ市近辺の多くの植物をマドリード植物園に送ってきて,その中にコスモスとキバナコスモスがあったらしい.

コスモスの記述には1789 年と 1790 年の10 – 12 月にマドリード植物園で赤紫色の花が咲いたとある.また文中の◎は,リンネが使っていた植物記号で,一年草を表す.

なお,現産地メキシコでは,ピンクの花のコスモスは標高1600~2800mの涼しい高地に多く,オレンジ色のキバナコスモスはやや高温の1600m以下の低地に自生して,すみわけをしている.
冒頭の画像のピンクのコスモスは,サカタの「イエローキャンパス」の種を播いたはずのポットから生育した苗を植えたところ,成長してこの色の花が咲いたもの.種が混入していたのか,どこからか紛れ込んだのかは分からない.

左図 Cavanilles_Icones_1_ tab 14 (1791)
コスモスの原記載図

2011年11月7日月曜日

ヒナゲシ (2/2) Poppy day,ジョン・マクレー,G20,ベッカム,サッカー・イングランド代表ユニホームにポピー

Papaver rhoeas
先ごろ閉幕したカンヌでのG20 (Group of 20) の集合写真,何人かのメンバーは胸に赤い造花を着けていた.確認できたのは英国及びカナダの首脳だけだったが,これはヒナゲシをモチーフにしたもので,国によって違うが11月11日やそれに近い日曜日の「戦没者記念日」のシンボルである.

古戦場に多く咲く血赤色の poppy が戦死者の流した血から生えるとの俗信は,特に欧州に共通で,Napoleon が一敗地にまみれたベルギー中部 Waterloo では,Wellington 公の戦勝後,畑をいくら耕しても field poppy が群がり生えるといい,この辺りではこれは戦死者の血から生えると言い伝える.

Yet nature everywhere resumed her course;が,自然はどこでもその営みを再開し,
Low pansies to the sun their purple gave,地をはうサンシキスミレは太陽を紫に染め,
And the soft poppy blossom,d on the grave.柔らかなヒナゲシはその墓に花を開いた。
-R.Southey: Pilgrimage to Waterloo,III, 36-8.

しかし,ヒナゲシが戦没者記念日の象徴となったのは,第1次世界大戦の激戦地フランダースの荒野に咲き乱れる poppy を詠んだ,カナダの詩人 John McCrae の有名な詩,‘In Flanders Fields, (1915)’ による.

カナダ・バーモント大学の教授であったジョン・マクレーは軍医としてフランドルの戦地に赴いた.激戦の中で,彼の教え子のアレクシス・ヘルマー中尉がイープルで戦死し,ヘルマーを埋葬したマクレーは,幾重にも並ぶ白い十字架と辺り一面に咲き乱れる赤いヒナゲシ花を見た.ヒナゲシの種は、地中で何年もそのまま発芽せず,地面が掘り返されると芽を出す.戦場となったフランダースの野原は,兵士たちや砲弾によって地中深くまで,荒らされ,掘り返され,それまで眠っていたヒナガシの種が,いっせいに真紅の花を咲かせた.マクレーにとってその光景は兵士たちが戦場で流した血潮のように見えたのであろう.

この詩と共にま真っ赤なヒナゲシは戦没者を悼む花となり,1921年に Royal British Legion (英国在郷軍人会)が,戦没者への募金を集めるために赤いポピーを売ったのが,この運動の始まりとなった.特に英連邦の各国 オーストラリア,バルバドス,バーミューダ,カナダ,南アフリカなどでは Remember Day (Armistice Day) やPoppy Dayという名前で11月11日に戦没者を悼むための休日にしたり,礼拝を行ったりする.

"In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved, and were loved, and now we lie
In Flanders Fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders Fields.

- John McCrae

英国ケンブリッジに住んでいたとき,11月になると街角では,この記念日のための募金がされ,ヒナゲシの花のシールや造花を募金した印に渡していた.また,植物園近くのラウンドアバウトの中心に立つ戦没兵士の銅像の足元は,ヒナゲシの造花で埋められていた.

ビートルズの初期の名曲,"Penny Lane" の歌詞のなかに,
”Behind the shelter in the middle of a roundabout
The pretty nurses is selling poppies from a tray”
とあり,歌を聞くたびにその光景が思い出される.

冒頭の図はJohn Curtis's British Entomology (England, 1834-1838)
Papaver Rhaeas & Acontia Catena (Brixton Beauty),銅版手彩色

追記 11月11日 NHK の朝のニュースで,ロサンゼルス・ギャラクシー(Los Angeles Galaxy)のデビッド・ベッカム(David Robert Joseph Beckham OBE)が 11/03 に 2 - 1 で New York Red Bulls を破ったゲームでの貢献についてのインタビューを放映していたが,そのとききっちりとしたスーツ姿の彼の右胸にこのヒナゲシの造花がつけられていた.大英帝国から勲位(OBE)を受けた男として,さすがと感心した.

追記2.11月11日の朝日新聞夕刊に,「サッカー・イングランド代表ユニホームにポピー」という見出しで以下の記事が掲載された.サッカーのイングランド協会(FA)は 12 日にロンドンのウェンブリースタジアムで行われるスペインとの親善試合で,Poppy Day にあわせてユニホームの胸にポピーを縫い付けて出場することを予定していた.しかし,「代表ユニホームに政治や宗教,商業宣伝につながるものをつけてはならない」との規定を持つFIFAが認めなかったが,キャメロン英首相や,FA 会長を務めるウィリアム王子が反発したため,選手の腕の喪章の上にポピーを縫い付けることで妥協したとのこと.英国における,第一次世界大戦の戦没者追悼の日の重要性がうかがい知れる.

追記3. 上記親善試合の結果
イングランドは昨夏の南アW杯王者・スペインにホームで1-0勝利。後半4分にMFランパード(チェルシー)がヘディングで押し込み決勝点を奪った。」 FA の HP のビデオを見ると,英国のペレーヤーは腕に巻いた黒い腕章にポピーのマークをつけていた.

2011年10月30日日曜日

ヒマワリ(3/4) へリオトロピウム 太陽を慕う花

Helianthus annuus
ヒマワリの花が太陽の動きにつれてその向きを変えるという「神話」は,ペルーからヨーロッパに導入された直後からあったようで,欧州でのヒマワリの最初の記述 Monardes & Frampton の書“Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales (1569)” & its translation “Ioyfull newes out of the New-found Worlde (1577)”には “ the flower dooth turne it selfe cotinually towards the Sunne, and for this cause the call it to be that name, as many flowers and Hearebes doo ths like:” 「その花は,太陽の動きにつれて,みずから継続的にその方向をかえる.これが太陽の花という名前の由来だが,他にも多くの植物が同様の動きをする」と書かれている.

英国の本草・園芸家の Gerarde はもっと冷静で,” The flower of the Sunne is called in Latine Flos Solis, taking the name from those that have reported it to turne with the sunne, the which I couldevever observe, although I have endeavored to finde out the truth of it;” 「ヒマワリはラテン語で太陽の花と呼ばれるが,これは太陽の動きと共に花がその向きを変えると報告されていることから名づけられた.私はこれが真実であるか検討してきたが,これまでのところその様な事は全く観察できていない.」といい,また「私見ではその名前は,花の形が太陽に似ているからだ」とした(“The Herball (1597)”).
Parkinson は “Paradisi in Sole (1629)”に形状や性状,利用法については細かく記しているが,名前に関しては,The Names “The first hath his name in his title (The flower of the Sunne). The second, besides the names set downe, is called of some Plantamaxima, Flosmaximma, Sol Indianus, but the most usuall with us is, Flos Solis: In English, The Sunne Flower, or Flowers of the Snne.” と太陽を追いかけるからだとは云っていない.

古代の南欧州で,向日性の植物として良く知られていたのは,地中海沿岸に自生する草本のヘリオトロープ(Heliotropium europaeum)で,ギリシャ神話では,太陽の神アポロに愛されていた水の妖精 Clytie クリユティエが,アポロの新しい愛人を讒言し捨てられたが,それでもあきらめきれず9日間飲まず食わずで,天空のアポロの日の馬車の動きを横たわった地面から目で追い続け,ついにこの花になったとされる.

ローマ時代の博物学者プリニウス (Pliny the Elder, 23 AD –79 AD) の「Naturalis Historia 博物誌」のBOOK II. AN ACCOUNT OF THE WORLD AND THE ELEMENTS. CHAP. 41. (41.)—OF THE REGULAR INFLUENCE OF THE DIFFERENT SEASONS.には,”One might wonder at this, did we not observe every day, that the plant named heliotrope always looks towards the setting sun, and is, at all hours, turned towards him, even when he is obscured by clouds.” (英訳,John Bostock) とあり,また第22巻,57節には「へリオトロピウムの驚くべき力についてはすでに何度か語ったが、これは曇りの日にも太陽に合わせて動くほど、この天体に強い愛着を抱いている。夜になると切ないかのごとく青い花をとじる。」(大槻真一郎責任編集「プリニウス博物誌 植物薬剤篇」八坂書房 1994)と記されている.
この和訳本では「へリオトロピウム(ヒマワリ、その他の向日性の植物)」とし,また渋沢龍彦『フローラの逍遥』(平凡社 1987)のヒマワリの項では,「プリニウスがへリオトロピウムと呼んだ植物は、たぶん今日へリオトロープという名で知られている、ムラサキ科に属する潅木のことだったらしい。園芸植物としてはペルー原産のものが知られているが、南ヨーロッパの原野に自生している種類もあったようである。」としている.
しかし,プリニウスの時代にはヒマワリも,現在ヘリオトロープと一般に言われている潅木の H. arborescens も欧州には入っていなかったことや,プリニウスのその後の記述にあるこの植物の草丈や花穂の形状から,このへリオトロピウムは南欧州に自生している H. europaeum の事であることが分かる.


17世紀になり,ペルーから花が大きく,その形も太陽に似ているヒマワリが入ると,地味な H. europaeum の「へリオトロピウム=太陽とともに回転する花」の地位を完全に奪い,絵画や彫刻のクリユティエはヒマワリとともに現れるようになった.しかし,欧州では現在でも H. europaeum はEuropean Turnsole, Europäische Sonnenwende, など,太陽の動きと関連付けられた一般名で呼ばれている.

Filippo Parodi (1630 –1702) “Clytie”
Charles de La Fosse (1636 – 1716) “Clytie changee en tournesol” 1688

2011年10月28日金曜日

ヒマワリ (2/4) 丈菊 天蓋花 迎陽花 日向葵 日廻り.花史左編,花壇綱目,訓蒙図彙,花壇地錦抄,草花絵前集,大和本草,廻国奇観,花木真写,滑稽雑談,絵本野山草

Helianthus annuus中国にはスペインに移入されてから数十年後には渡来した.
王路『花史左編』(1617)にヒマワリが「丈菊」の名で記載されているのが,中国の文献での初出と見られる.「其茎丈余亦堅粗毎多直生雖有傍枝只生一花大如盤盂単弁色黄心皆作窠如蜂房状至秋漸紫黒而堅劈而袂之其葉類麻而尖亦叉名迎陽花」.と草丈・茎の強さ・花の着き方・一重の黄色い花弁・種子のつき方や葉の形など,短い文の中にヒマワリの特徴が良く描かれている.背の高さだけではなく日を迎えて咲くと考えたのか,「迎陽花」という呼び名もあった(左図).
「この書は,初め24巻、のち27巻。花の形状・変異・栽培法・病害虫・月別の園芸作業・園芸用具などについて記すとともに、花にまつわる故事や名園・名勝を収録する。文学色が濃く、一般の園芸書とは趣を異にする。」とのこと.

日本には中国経由で 1660 年代までには入ったと思われる.調べることの出来た文献を経時的に並べると,

●水野元勝『花壇綱目』草稿本寛文4年(1664)に記述が含まれるが図はない.(磯村直秀 「明治前園芸植物渡来年表」)

●中村惕斎『訓蒙図彙』寛文6年(1666)にヒマワリ、ヒナゲシ、ギボウシ、イワレンゲなどの図が初出。刊行はこの年か翌年。(日本最初の百科事典)(右図は寛政元(1789)年版,寛政版は複数の項目を1頁に詰め込んでいる.絵画的な側面もあり美しい。画者は下河辺拾水)
「「丈菊」じょうきく・てんがいばな(天蓋花) 〇丈菊は一名ハ迎陽花という.日輪にむかう花なり.よって日車ともいう.花菊に似て大い也.色黄又白きもあり」 とある.

●伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)「日廻(ひまわり)(中末) 葉も大きク草立六七尺もあり花黄色 大りん」

●伊藤伊兵衛『増補地錦抄』(1695)には,日廻(ひまわり)の図がある.

●伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』(1699) 「○日向葵 〇一名日廻り、〇一名にちりん草、花黄色なる大りん、草立も八九尺ほど亦は十尺ばかり、何所に植ても花は東へ向て開、八九月に咲。」と,花は東を向いて咲くと記述(右図).

●貝原益軒『大和本草』 (1709) 巻之七  草之三 花草類 には「向日葵 ヒフガアオイ」 「一名西番葵.花史ニハ丈菊ト云.向日葵モ漢名也.葉大ニ茎高シ六月ニ頂上ニ只一花ノミ.日ニツキテメクル.花ヨカラス.最下品ナリ.只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ.農圃六書花鏡ニモ見ヱタリ.国俗日向(ヒフガ)葵トモ日マハリトモ云.」彼は渡来した観賞用植物に厳しかった.

●エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 – 1716, 滞日 16901692)『廻国奇観 Amoenitates Exoticae , P 877. (1712)には,
菊丈  Dsĭo Gikf, vulgo Tengai fanna. Solis flos
Peruv[ianis]Lob[elii] . Chrysanthemum Peruv[ianum] Dod[onaei] . Helenium
Indicum maximum C[asparis] Bauh[ini] P[inacis] とあり,丈菊,天蓋花と呼ばれていたことがわかる.(引用羅文の[  ] 内は,略の補足).

●近衛予楽院(1667-1736)『花木真写』(1736年以前の成立)には,正確で美しいヒマワリの絵が「日向葵」として描かれている(右図).

●四時堂其諺編録『滑稽雑談』(1713年)巻之第十二 六月之部廿四下 に「日向葵」が出ているが,その記述は「葉が5裂して先が尖がり,花は薄黄色で(花弁は)5枚で中心は赤い(丹色)」とその記述から想像される花はトロロアオイに似ており,現在のヒマワリとは思えない(最下図,右側).

●橘保国『絵本野山草』(1755)には「「丈菊」日向葵(ひうかあをひ)といふは、長(たけ)七八尺、花の大さ七八寸、色黄にして春菊に似たり。かたち、岩畳(がんでう)に見えて柔なり。此はな、朝は東に向ひ、日中には南に回り、夕陽の比(ころ)は西にむかひ、大陽を追ふ。よって、日草とも名つく。合歓木(ねふりのき)は夕に葉をたゝみ、朝に開く。其外、朝に開き、夕に葩(はなひら)を抱(かかゆる)花多し。丈菊ひとり、大陽にむかひ回る。東坡(とうば)の詩に、李陵衛、律陰山二死ス。葵花ノ大陽ヲ識ルニ似ズ、と云にひとし。七八月花。」とある.
しかし図は花弁の先が丸く,むしろ現在メキシコヒマワリと呼ばれる近縁種に似ている.ただ,橘保国の記述や絵には間違いが多くあることが知られている(最下図,左側)

2011年10月21日金曜日

ヒマワリ (1/4) ペルーからスペイン,欧州へ Hearbe of the Sunne, Flower of Sunne, Marigolde of Peru, ロシアでの栽培が盛んな理由

Helianthus annuus
原産地は北西アメリカ.中央アメリカで栽培品種化され広がったと考えられ,紀元前からアメリカ大陸では食用作物として重要な位置を占めていた.ペルーでは黄色い花と形から太陽神の象徴として大事にされ,古いインカの神殿には彫刻がよく見られ,司祭や太陽神につかえる尼僧が金細工のヒマワリを身につけていた.この花を初めて見た西欧人は1532年にペルーへ進攻したFrancisco Pizarroで,スペインの進駐兵はインカの尼僧が胸につけていた黄金製の大きなブローチを貴重な戦利品とした.ペルーに多いので marigold of Peru とも呼ばれたこの花は,16世紀はじめに種が持ち帰られ,ダリアやコスモスなど,新世界の植物が最初にそだてられたことで知られるマドリード植物園で栽培が始まった.


1569年にスペインのニコラス・モナルデス(Nicolas Monardes, 1493 - 1588)がアメリカ大陸の植物に関する最初の本 “Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales” を出版したが,その中にヒマワリが出てくる.その後,これをジョン・フランプトン(John Frampton, 16世紀後半に活躍した翻訳家)が英語に翻訳して『新発見の世界からきた楽しい知らせ “Ioyfull newes out of the New-found Worlde”, 1577』という題で出版した(左図は1596年版の表紙,
全文は http://www.botanicus.org/title/b12075176 で閲覧できる).
フランプトンは「この太陽の植物 "Hearbe of the Sunne”」について”This is a notable hearbe, and although that nowe they sent mee the seede of it, yet a few yeeres paste we had the hearbe here. It is a strange flower, for it casteth out the greatest Blossomes and the moste particulars that ever have been seene, for it is greater then a greate Platter or Dishe, and hath divers coloures. It is needefull that it leane to some thing, where it growth, or els it will bee alwaies falling. The seede of it is like to the seedes of a Mellon, somewhat greater, the flower dooth turne it selfe continually towardes the Sunne, and for this cause they call it by that name, as many other flowers and Hearbes doo the like: it sheweth marvelleus faire in Gardens.." 変わった花である.というのは,とても大きな花をつけるからである.しかもこれまでに見たこともないほど変わっているのは,様々な色の大皿よりも大きい花をつけるからで,庭の中で見るとすばらしい」と書いている.



その後,欧州各地に広がり,英国の初期の本草家・園芸家のジェラード(John Gerard aka John Gerarde, 1545 – 1611 or 1612)はヒマワリについて,彼の“The Herball (1597)”に「この大きな花はカミツレのような形で,きれいな黄色の花弁を持っており,その中央部は手入れのされていないベルベットのようであり,針仕事で作られた奇妙な服のようでもある.じっくり見るとこの大胆な作品は,小さなたくさんの花のようで,根元で壊れたロウソク立ての先の部分に似ている.この植物が大きく育つと,花は枯れ,その部分に種子が現われる.種子は腕のよい職人が整頓して置いたかのようにきれいに並んでいる.それはまるでハチの巣のようである.」と記し,その大きさについては「私の庭では十四フィートにもなっている.ある花などは重さが三ポンド二オンスもある.直径が十六インチになるものもある」と自慢をしている(右図,左側).

30年後の英国では,ヒマワリはもうよく知られるようになっていて,パーキンソン(John Parkinson, 1567-1650)は “Paradisi in Sole (1629)” に,「このすばらしい堂々とした植物は,今日では誰でもよく知っている」と書いている(上図,右側).

やがて,庭園での観賞用花卉としての価値は落ちたものの,ヒマワリの種子の重要性が認められたのは 17 世紀に到達したロシアにおいてであった.ロシア正教会は大斎の40日間は食物品目の制限による斎(ものいみ)を行う.オリーブ油を含むほとんど全ての油脂食品が禁止食品のリストに載っていた.しかしヒマワリについては聖書に言及がなかったので,そのリストにはなく,ロシア人たちは教会法と矛盾なくヒマワリの油を食することができた. 19世紀半ばには広く民衆に普及し,ロシアが食用ヒマワリ生産の世界の先進国となったのであった.

ソフィア・ローレンの主演した映画『ひまわり』(“I Girasoli”, Vittorio De Sica. 1970) の舞台になったウクライナの広いヒマワリ畑には,このような宗教的な背景があった(図をクリックすると YouTube のイタリア版『ひまわり』のタイトル場面へリンクし,あのテーマ曲を聞くことができる.と記したが,著作権違反が摘発され,現時点では聞くことは出来なくなった).
(続く).

2011年10月6日木曜日

ヒガンバナとシロバナマンジュシャゲ

いつもは赤が先に咲くが今年はほぼ同時に咲いて見事.

10月2日(日)付の朝日新聞の『天声人語』にヒガンバナについて,「またの名を「ハミズハナミズ(葉見ず花見ず)」と言うそうだ。彼岸花のことである。葉が出る前にするすると茎が伸びて花が咲き、葉は花が終わってから出る。葉と花をいちどきに見られないゆえの異名だと、ものの本にある。〈前略でいきなり咲きし彼岸花〉神田衿子▼それ以外にも彼岸花は土地土地で様々に呼ばれ、異名は50を超えるそうだ。「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」はよく知られる。「死人花(しびとばな)」は墓地に咲くことが多いためらしい。わが郷里では、花の形からか「舌曲がり」と呼んだ。この名もどこか禁忌のニュアンスがある」とあった.

ヒガンバナに異名(里名という人も多い)が多いのは良く知られており,それだけ異様な花として目立ち,また生活と密着していたことが伺える.元千葉大学名誉教授栗田子郎理学博士によれば「越谷吾山が安永4年(1775)に著した『物類称呼』に18種、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(弘化元年、1844)にはすでに47種類」の里呼び名が」ありまた,「その後の山口隆俊をはじめとする多くに人々の精力的な収集により、現在では1000余の呼称が記録されている。例えば、松江幸雄著『日本のひがんばな』の巻末には1090の呼び名が地域別にまとめられている。」「これほど多くの名で呼ばれる植物は他にない。」との事である(http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/folklore-ethnobotany.htm).博士のホームページには興味深いヒガンバナ属の民俗・文化誌がまとめられている.

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806)  巻之九 草之二 山草類 下 (東洋文庫)では数えたところ各地方での48の呼称が紹介されている.

石蒜 マンジユシャケ(京) シビトバナ テンガヒバナ(共ニ同上) キツネノイモ(同上下久世 )ヂゴクバナ カラスノマクラ ケナシイモ キツネバナ(備前) サンマイバナ(勢州) へソビ(同上粥見 凶年ニハ団子トナシテ食用トス ヘソビダンゴトイフ) ホソビ(同上) シタカリバナ(同上松坂) キツネノタイマツ(越前) キツネノシリヌグヒ(同上) ステゴノハナ(筑前) ステゴグサ(同上) シタマガリ(江州) ウシノニンニク(同上) シタコジ(同上和州) ヒガングサ(仙台) セウゼウバナ クハヱソサウ ワスレグサ(共ニ同上) ノダイマツ(能州) テクサリバナ(同上) テクサリグサ(播州) フヂバカマ(同上三ヶ月) シビレバナ(同上赤穂) ヒガンバナ(肥前) ドクスミラ キツネノヨメゴ(共ニ同上) オホスガナ(熊野) オホヰヽ マンジユサケ(共ニ同上) ユウレイバナ(上総) カハカンジ(駿州) スヾカケ(土州) ウシモメラ(石州) ハヌケグサ(豊後) ジユズバナ(予州) イチヤニヨロリ(同上今治) ホドゾラ(同上松山) テアキバナ(丹州笹山) キツネノアフギ(濃州) ウシオビ(同上) イツトキバナ(防州) ヤクべウバナ(越後) ハミズハナミズ(加州) 〔一名〕石垂(三才図会) 天蒜 重陽花詣 酸頭草 兎耳草 脱紅換錦 脱緑換錦 脱衣換錦
翻訳名義集ニ曼珠砂此ニ朱華ト云。俗ニマンジユシャケト云ハ此ニ拠ナルべシ。又小児コレヲ玩べバ言語詘シ。故ニ、シタコヂケト名ヅク。原野甚ダ多ク、阡陌道旁皆アリ。一根数葉、葉ハ水仙ヨリ狭ク、長サ一尺許、線色ニシテ黒ヲ帯、厚ク固クシテ光アリ。夏中即枯、七八月忽円茎ヲ出ス。高サ一尺余、其端ニ数花聚(あつま)リ開ク。深紅色六弁ニシテ細ク反巻ス。内二長鬚アリ、花後円実ヲ結ブ。実熟シテ茎腐リ、新葉ヲ生ズ。冬ヲ経テ枯ズ。根ノ形水仙ノ如ク、大サ一寸許、外ハ薄キ茶色ノ皮ニテ包ム。内ハ白色、コレヲ破バ重重皆薄皮ナリ。一種白花ノモノアリ。此ヲ銀燈花ト云。秘伝花鏡二見エタリ。(以下略)

『天声人語』の筆者の故郷では「シタマガリ」と呼んでいたそうだが,これは江州,すなわち近江国での呼称で,筆者はこの名は花の形状に由来すると考えているようだが,他にも「シタカリバナ」「シタコジ」「シタコヂケ」など名があり,「子供がもてあそぶと言葉が明瞭に話せなくなる」とあるので,むしろなめたりかじったりした時の球根の毒性に由来すると考えたほうがいい.植松黎『毒草を食べてみた』文春新書(2000) には,「万一、口にすると、最初は口のなかがヒリヒリ熱くなって生唾がこみあげ、おう吐がはじまる。吐いても吐いてもむかつきはおさまらず、胃のなかがかきまわされるように痛んでくる。頭がくらくらとし、上体をおこしていられず、何かにしがみついていても、自分がどうなっているのかさえわからなくなる。」と食したときの状況が記されている.

一方,ヒガンバナの球根は救荒植物としても使われていて,『本草綱目啓蒙』にも,「へソビ(同上 粥見 凶年ニハ団子トナシテ食用トス ヘソビダンゴトイフ)」(同上=勢州,伊勢国)との記述がある.『毒草を食べてみた』には,実際にそのヘソビ餅を作ってくれた能登のおばあさん(出身地は『本草綱目啓蒙』にある伊勢)の事が記載されている.
「毒性は、煮たり妙めたりして熱を加えても変わらない。それなのに、昔の人は飢饉とはいえ何だってこんな毒草を食べたのだろう。
その答えを出してくれたのは、球根を粉にして蒸したものをヘソビ餅だと教えてくれた能登のおばあさんだった。明治三二年生まれの彼女は、十六歳で伊勢から嫁ぎ、かつては旧家だったであろう、海にのぞむ大きながらんとした家にひとりで住んでいた。この家が建てられたのは百年以上も前だという。そのまま陋屋と化し、崩れ落ちたままになっている壁からは無数の小さな土の塊がごろごろとこぼれ、畳はカビで薄汚れ、何もかもが荒れ果てていた。そして、とほうもない静けさを破るものといえば、すさまじい勢いで岩場にうちあたる波の音だけだった。日本海の荒涼たる風景をひとりぼっちで眺めながら、彼女はときおり故郷を思い出してヘソビ餅をつくるのだという。」

なお,このブログのヒガンバナシロバナマンジュシャゲの昨年の記事はこちらから.

2011年9月26日月曜日

番外編 ペリー「下田 公衆浴場の図」 Public Bath at Simoda

「ペリー提督日本遠征記」第一巻
“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”  vol. 1 (1856)

ペリーは帰国後,知人のホークス師に公文書,航海日記,個人的な日誌,乗組員のノートなどを提供して,政府から求められていた報告書の作成を依頼し,1856年には完成した.これが,“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”『ペリー日本遠征記』である.
この書籍の書誌には不明のところが多いが,いくつかの版があり,その発行部数も相当多い.公式な報告書(議会版)は 16,000 セット余印刷され,そのうち 1,000 セットはペリーに贈られた.したがって,この報告書に添付された図譜は,現在でも比較的安価で購入できる.唯一つの例外が,この「下田 公衆浴場の図」で,非常に希少とされている.最初に議会版が少数印刷された際に,この図が「混浴の情景は風紀を乱す」という理由で,それ以降削除され,約十分の一のセットにしか収載されていないといわれている(http://kyotoobserver.wordpress.com/2008/11/10/shimoda-public-bath-1854/).上に掲げた図譜は 2011 年 6 月に e-Bay のオークションで落札したもの.

Gregory James Smits, “East Asian History Textbooks” Pennsylvania State University
"The "Banned" Lithograph. A very limited number of editions were published with a "nude bathing" (Public Bath at Simoda) lithograph. This lithograph was quickly deleted from Government published volumes due to public indignation at the nude figures in the scene. The scene was the inside of a public bath house in Japan where males, females and children have bathed together in the nude for centuries without concern. The lithograph is sometimes found unbound/extracted. When found in a bound volume 1, the print is generally found facing page 408. Either bound or unbound, this lithograph is scarce. "

「私達は昭和十年に初めて、本紀の全訳を弘文苑から上下二巻として刊行した。彩色版、凸版も、原書のまゝ全部挿入し、最も珍奇とされてゐる「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も挿入した。」(ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948) )

「また,挿入画の中で最も珍奇とされている「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も本書に収載することができた。」(『ペリー日本遠征記図譜』 伊豆下田郷土資料館編 京都書院 1992)

「第1巻には、マデイラ諸島、セントヘレナ島、セイロン、香港、広東、琉球(那覇・中城など)、小笠原、江戸(浦賀・横浜など)、下田、函館など様子を描いた石版画(リトグラフ)が90枚、木版画が78枚(下記リストにないものを含めると100枚以上)収められています。石版画の中には、原文書でも除かれていることが多い『下田の公衆浴場』も収録されています。」(完全復刻版『ペリー日本遠征記』株式会社 Nansei)

とこの図譜は流通している数が少ない.また,いくつかOn-lineで読める遠征記でもこの図のない版が多い.

書誌ノート議会版には,少数の仮綴じ版,多数の上院版と下院版の三つ.市販版として,ニューヨークのアップルトン(Appleton)社から出された,一巻ものが二つの版(1856, 624 pages & 1857~9, 514 pages)あるようだ.但し,市販版は版が小さく(オクタボ 18.5 x 26 cm),全頁大の挿絵が少数(9枚)で単色鋼板画である点が,議会版がフォリオサイズ(23+/-cm x 29 cm)で,全頁大の挿絵(90枚以上)の多くが色刷り石版であることと大きく異なる.

議会版の印刷部数だが,一部20ドルの印刷の全費用が$360,000であったことから,18,000 sets と考えるのが妥当だろうと考えられる.各院からそれぞれ500 部,合計1,000 部がペリーに贈呈されたほか,議員には50部ずつが配布されたが,どうも殆どが直ぐに本屋に直行したらしく,これを批判する声が上がったと記されている(『航海記』出版と同年の1856年の Putnam's Monthly Magazine,左下図)

資料ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948)
「この記録は合衆国の約三十三議会第二開期中に特殊刊行物第九十七として、一八五六年春に印刷にとりかゝり、合衆国印刷局に於て数十冊を紙表紙仮綴四巻として出版したが、その後、ワシントンの一印刷業者によって刊行されることになった。結局元老院 Senata 版と衆議院 House of Representative 版との二種があり、前者には更に水路図を別冊とする四冊本と、これを別冊とせず、第二巻に合綴した三冊本との二種あり、後者は殆んどすべて三冊本であると云ふ結論に達した。」

『伝記ペリー提督の日本開国』サミュエル・エリオット・モリソン著 座本勝之訳 双葉社 (2000)
原著:Samuel Eliot Morison著 "Old Bruin": Commodore Matthew C. Perry, 1794-1858 (1967)
「政府の刊行物であるこの『遠征記』は一般の市販ルートでは発刊されないため、1856年、ペリーはその『第1巻』だけをニューヨークのアップルトン社からも発刊することにした。この市販の『遠征記』は、政府の公式記録と比べ、多くの石版画が削除されていたが、熱狂的な評判を呼んだ。
このような背景の中で、議会は後に40万ドルの予算を計上し、全3巻、3万4000部が印刷された。そのうちの半数以上が議員と政府高官に贈られ、残りの2000部が海軍省、1000部がペリーのものとなった。ペリーはこの中の半数を、ホークス師と『遠征記』の寄稿者たちに贈呈している。」

『ペリー提督『日本遠征記』ともうひとつの遠征記録』 山下 洋一 金沢大学附属図書館報 (2003)
「当時の議会上院の印刷所として,Beverley Tucker,下院にはA.O.P. Nicholson があり,刊行部数は,上院が5000 部の印刷(後に海軍用として500 部追加が認められている。),下院が10500 部の印刷が承認され,各院からそれぞれ500 部,合計1000 部がペリーに贈呈されています。(*計 16,000 部)」

『ペリー提督が見た日本』 海上自衛隊 元幹部学校長 田村 力 (2008)
「議会版3巻本が34000部、ニューヨークのアップルトン(Appleton)社からも第1巻の簡略版が出版された。」


Baxley Books ~~ Bibliography
"Putnam's Monthly Magazine" (Volume VIII, Issue 44, page 218, American Literature and Reprints: Commodore Perry's Japan pp. 217-218, 1856)
An 1856 article asserted that 18,000 sets were produced at a cost of $20.00 each. The article also alleged that each Congressman was allocated 50 copies and most of them were sold to booksellers. Obviously, the lavish Narrative was not free of criticism. It can be confirmed that the House of Representatives passed a resolution ordering 10,000 copies be produced with and additional 500 for presentation to Commodore Perry. (左図)

2011年9月20日火曜日

リシリヒナゲシ モドキ

Papaver miyabeanum2003年6月に「利尻島・礼文島」の花旅ツアーで一泊した利尻島.朝,海岸を散歩すると.人家の近くには淡黄色の花をつけたケシ属の植物が栽培されていた.日本原産の唯一のケシ属で,利尻山の高山帯岩礫地にのみ自生する,利尻島の固有種リシリヒナゲシ( Papaver fauriei )ではないか,と興奮した.さすが,緯度の高い北の利尻島では高山の植物まで海岸でも栽培できるのだと感心して写真を何枚か撮った.

しかし,帰宅後冷静に考えると、環境省のレッドリスト(2007)で絶滅危惧IB類(EN)に,北海道のレッドデータブック(2001)では絶滅危急種(Vu)にそれぞれ指定されている希少で脆い植物が,市街地で栽培されていることに違和感を覚え,また定評のある植物図鑑のリシリヒナゲシの写真に比べると,花の色が薄いことも気にかかった.

その後,ネットで調べると,利尻島の平地で栽培されているこのケシ属の植物は,リシリヒナゲシとは異なるリシリヒナゲシモドキとも云うべき植物であろうということが分かり(http://48986288.at.webry.info/201001/article_6.html),さらに,「これ何?」サイトに投稿したところ,交雑種というより,海外からの移入された園芸種の可能性が高いということを教えてもらった.
この問題については,北海道大学農学部の山岸研究室でも多大の関心を払っており,2008年にはリシリヒナゲシとリシリヒナゲシモドキの葉緑体DNA上のtrnL-Fおよび核リボソームDNA上のITS領域の塩基配列を解析し,その結果,リシリヒナゲシとリシリヒナゲシモドキは別種であることを確認し,またリシリヒナゲシモドキが,播種によって自生地にも定着していることも明らかにした.

更に2009年には遺伝子解析の結果から,このリシリヒナゲシモドキは,欧州で園芸植物として広く栽培されている P. miyabeanum であろうと報告している(http://www.springerlink.com/content/1021712008317k55/).しらべると,このP. miyabeanum は比較的高温にも耐える非常に栽培しやすい種であり,本州でも栽培に困難は無く,欧州では広く帰化していることが分かった(右).

このように,利尻島市街地で栽培されるケシはリシリヒナゲシは異なっていることが証明されているにも関わらず,現在でも自然観察ツアーを催行している旅行会社のブログで,「リシリヒナゲシは利尻山の山頂部でしか見られないと思いきや、何と平地でも見ることが出来る。これは利尻島をリシリヒナゲシの里にしようと島民の方々が植えたもので、島を廻ると民家の玄関先や昆布を干す「無砂干場」に見られる。」と掲載するなど,誤解を招く情報が氾濫している.

情報不足のために,「善意」が原生地を破壊し,また遺伝子攪乱で貴重な植物を絶滅させることのないよう,利尻に住む人,利尻の花を見に訪れる人に,教育も含めて色々な媒体で十分な情報を与えることが必要では.

2011年9月12日月曜日

ジョロウグモ ジョロウグモトキシン 画図百鬼夜行 和漢三才図会 本草綱目啓蒙

Nephila clavata北海道を除く日本,朝鮮,台湾,中国に分布する大型の美しい蜘蛛.メスの方が大きく,オスはメスの巣の隅に居候しているように見える.メスの大きな腹部には幅広い黄色と緑青色の横しま模様があり,下面には紅色の紋がある.オスはずっと痩せ型で,褐色がかった黄色で濃色の縦じま模様がある.網は大きく、直径1mくらいのものもあるが,横糸が黄色いので光が当たると金色に光って見える.このクモは興奮性神経の伝達を司るグルタミン酸受容体を阻害する毒をもっていて,この毒を獲物の昆虫に打ち込んでその行動の自由をうばう.このジョロウグモトキシン (Joro Spider Toxin (JSTX-3) 下図) は日本の生理学者川合述史によって発見された(Kawai, N., et al. 1982. Brain Res. 247: 169-171).ただ,一匹がもつ毒の量は微量で,たとえ人が噛まれたとしても機械的障害はない場合がほとんどだそうだ.

蜘蛛の類は稲や農作物の害虫を捕食することから,古くから敬されていたが,特にジョロウグモは,その獰猛さと美しさのギャップからか,恐れをも持って見られていた.そのため,妖怪の一種,美しい女「絡新婦」の姿に化けることが出来るとされていて,鳥山石燕の「画図百鬼夜行」(最下図)では,火を吹く子蜘蛛達を操る蜘蛛女の姿で描かれている.

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)
絡新婦 斑蜘蛛(まだらぐも)[俗に女郎蜘蛛という〕
『本草綱目』(虫部、卵生類、蜘蛛〔集解〕)に次のようにいう。赤斑色の蜘蛛を絡新婦という。昔、張延賞という人があり、斑蜘妹に頭の上を咬まれた。一晩すると二つの赤脈が項の下を繰り心臓の前まではい、頭面は数斗ほどに腫れ、ほとんど救いようのない様子であった。ある人が大藍汁に麝香・雄黄を入れ、そこへ一匹の蜘蛛を取って投げ入れると、化して水となった。これを咬まれた処に点じると、二日して悉く愈えた。また、蜘蛛に咬まれて全身に瘡ができた場合は、好い酒を飲み、酔がまわると、虫は肉中で小米のようになって自ら出てくる、という。
△思うに、絡新婦とは俗に女郎蜘妹と称するものである。黄・黒・緑・赤の斑が美しいが・かえって醜い。毒が最も甚だしいせいである。形は蜘蛛より長く、細い腰、尖った尻に手足は長くて黒い。糸は黐(トリモチ)のように粘くて黄色を帯びており、樹枝や家の檐(のき)に網をはる。人が捕らえて打つと脆(もろ)くつぶれて血を出して死ぬ。他の蜘蛛は血を持っていない。尻は尖りその二カ所は動揺するにつれてぴかぴかと光る。けれども螢火のように鮮やかではない。老いたものはよく火を生じる。闇夜、あるいは微雨の中でたまたまこれを見ることがあるが、大きさは小さい碗ぐらいで、円くて徽青色を帯び、ゆっくりと動き、それほど遠くまで行かず、また家の檐よりも高いところへは行かない。鵁鶄(ゴイサギ)の火は遅速高低さまざまで、この点が鳥と虫とのちがいである。『西陽雑姐』(巻十四諾皐記上)に、深山に車輪ぐらいの大きさの蜘蛛がいて、よく人や動物を食べる、とある。(現代語訳 島田・竹島・樋口)


小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806)  巻之三十六 虫之二 卵生類 下
蜘蛛 〔集解〕絡新婦ハ、ジヨロウグモ(京) ジヤウログモ(同上) ジヤウラグモ(筑後) テラグモ(和州) ハタオリグモ(予州) コガネグモ(琉球) 此蛛ハ身瘠長ク一寸許、黄色ニシテ黒青赤斑アリテ美ハシ。足ニモ黒黄斑アリ。庭樹ノ間二巣ヲハリ、昼夜ムシヲ取食フ。其糸黄色ニシテ甚ツヨシ。

中国では「棒络新妇(=婦)」又「络新妇」或いは「橫帶人面蜘蛛」と呼ばれ「身体颜色美丽(=麗)」とされている.ただ,『维基百科』における記事は多くない







2011年9月8日木曜日

センニチコウ バイカラーローズ

Gomphrena globosa cv. "Bicolor-rose"去年育てたセンチニコウ ローズネオンの評判が良かったので,今年も育ててみた.同じ色では芸がないと思い,”明るい桃紫色に中心が白で、コントラストが美しい”という品種”バイカラーローズ”を育ててみた.強健で,キキョウやハナショウブの葉を食い荒らすウリムシにもたかられず,大きく育ち,多くの花をつけている.ただ,色のインパクトが小さく,群生させるには今一.また,風に弱く根元から倒れるのが欠点.肥料のやり過ぎかも.訪れるチョウやハチも多いが,花にあわせて小型のものが多い.

中南米原産のヒユ科(ケイトウ,ハゲイトウなどの仲間)の植物で英名は Globe Amaranth (球形のヒユ) 或いは Bachelor Button (独り者の釦,但しこの名で呼ばれるのはヤグルマギク,マツムシソウ,八重のウマノアシガタなど20種以上も).

寛文4年(1664)稿の『花壇綱目』草稿本にも「千日紅」として,センジュギクやダンドクと共に記載される.
江戸時代の園芸書や百科事典には,以前記したほかに,以下の様に書かれていて,広く栽培・愛玩されていた事がわかる.
伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』 (1699)
〇千日向(せんにちこう)
花形さながら覆盆子(いちご)のごとく、色はこいむらさき、七八月にさく、此花九十月の時分枝ともにかり、かげほしにして、冬立花の下草につかふ。色かわらずして重宝なる物。(左図,右側)

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)
千日紅
△ 思うに、千日紅(ヒユ科)は高さ二、三尺。茎は秋海棠に似ていて淡紫色。葉は鶏頭草に似て大きく、表面に毛茸(うぶげ)がある。八、九月に花を開くが深紫色。千葉(やえ)で円く、形は揚梅(やまもも)に似ている。その盛りは百日ほども続く。樹に昔日紅(灌木類サルスべリ)という名のものがあるが、これに勝っているので千日紅という。実は成らず、ただ花を収集し、二月に揉み砕き、これを蒔き種えて育てる。あるいは枝を挿しても生育する。大体、菊花のような実のないものについては、近年になって花を蒔けばよいことが知られるようになった。(現代語訳 島田・竹島・樋口)

橘保国『絵本野山草』 (1755)千日紅(せんにちこう)六月,花有葉あつく、茎、むらさきのうつり有。葉の末に、花一りんづゝさく。かたち丸く、いろ、紅紫。至極見事也。日をかさね、花のいろかはらず・千日紅の名有。白花有。花葉、共に同し。(上図,左側)