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2025年10月22日水曜日

モミジアオイ(12) 種から開花まで 「紅蜀葵播種三年を焦れて待ち」 布川直幸

 Hibiscus coccineus

紅蜀葵播種三年を焦れて待ち       布川直幸                   201107

モミジアオイは,株分け或は種子から育てる.通常,夏から秋にかけて取れる種子を翌春に播き,発芽した株を育て,秋に枯れた地上部を刈る.その翌春,株元から出た芽はぐんぐんと育ち,高さ一メートルほどになると,枝分かれをした枝の先に多くて3-4 個の花をつける.花後,多くの種子を含む蒴果をつける.
 種は黒い小さい球形で,突起があり,発芽率は良い.双葉はタチアオイと同様の切れ目のない全縁であるが,後から出てくる葉には切れ目が少しずつ入るようになり,茎や葉柄には赤い筋が入る.6枚目の本葉辺りから名に恥じないモミジ様の形になる.秋には高さ50-100㎝になり,やがて葉が黄色くなり,地上部は枯れる.
 翌春,赤い部分がある濃い緑色の元気な芽が1-2本現れ,どんどんと成長する.葉は最初からモミジ葉で,大きく切れ目も深い.枝分かれをして初夏から蕾をつけ,通常一日花だが次々と真紅の目を引く花をつける.花辧の間に隙間があり,葉にも深い切れ目があるため,アメリカフヨウ等に比べると花色の割には涼しげで,暑っ苦しさを感じさせない.観賞時期は長い.
 花後比較的大きな果実をつけるが,実成りは非常に良いので,若い株では採種目的以外,終わった花は切った方が翌年の株の成長が見込まれる.丸い実は大きな苞に囲まれて,可愛らしい.

咲き終わった花
 若い果実 襟飾りの様な苞が可愛い
 ③熟した果実
 ④果実と種子 


翌春鉢に播種
⑤鉢植:双葉(播種:2024-03-23):撮影 2024-05-03
⑥鉢植:双葉+本葉3枚(播種:2024-04-13):2024-05-16
 鉢より降ろす.日当たりの良い地味の肥えた土地が最適だが,乾燥気味でもよく育つ.
⑦地植え,双葉+本葉6枚:撮影 2024-06-14
⑧地植え,葉がモミジ葉:撮影 2024-07-26


枯れた地上部を伐採,翌春新芽が伸びる.
⑨地植え,新芽:撮影 2025-04-18
⑩地植え,地上部,葉は最初からモミジ葉:撮影 2025-04-21
⑪地植え,伸びる地上部:撮影 2025-05-27
⑫地植え,開花:撮影 2025-08-17


 条件がよろしいと,播種した年に十分成長して開花する.花が着く時期は遅いが,日照時間が短いと3-4日観賞できる.
⑬一年目開花株の根元,切れ込みの無い葉が残存
⑭花:撮影 2025-10-20
同一の花:撮影 2025-10-21
同一の花:撮影 2025-10-22

●布川直幸(ぬのかわなおゆき)Profile】:1945年神奈川県川崎市出身、茨城県石岡市在住.1976年「氷海」入会.→清水径子に師事.「氷海」終刊後、1978年「峰」創刊に参画.1981年「河」入会、後同人.2005年「峰」主宰継承.現代俳句協会会員.茨城県俳句作家協会会員.

何か吐く泰山木の白さかな
大蜘蛛の真上に構へ子蜘蛛の囲
手花火や人それぞれの物語
薀蓄を述べたき人と皐月展
走り梅雨握つて痒き感情線
耶蘇信じ神道信じ花まつり

2025年10月18日土曜日

モミジアオイ(10)和文學-6 明治-昭和初期の散文-1.徳冨蘆花,与謝野鉄幹,泉鏡花,北原白秋

Hibiscus coccineus

明治-昭和初期の散文に紅蜀葵を記した例は多いが,殆どが点景としてで,季節や庭園の情景であるが,一部,真紅の花が登場人物の心情を表す.

徳冨蘆花1868 – 1927)ベストセラーとなった小説『不如帰』や,キリスト教の影響を受けた自然描写作品『自然と人生』などで知られる.

与謝野鉄幹1873 – 1935)慶應義塾大学教授.文化学院学監.妻は同じく歌人の与謝野晶子.

泉鏡花1873 – 1939)明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家.小説のほか,戯曲や俳句も手がけた.帝国芸術院会員.尾崎紅葉に師事した.『夜行巡査』『外科室』で評価を得,幻想的な『高野聖』などで人気作家になる.

北原白秋1885 – 1942)詩人,童謡作家,歌人.帝国芸術院会員.生涯に数多くの詩歌を残し,今なお歌い継がれる童謡を数多く発表した.活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ,三木露風と並び評された近代日本を代表する詩人.一つだけと云われれば『邪宗門』を挙げたい.

★徳富蘆花みゝずのたはこと』新橋堂書店等(大正2
落穂の掻き寄せ
(六)
 紅蜀葵(こうしよくき)の花(はな)が咲(さ)いた。
 甲州玉蜀黍(かふしうたうもろこし)をもぎ、煮(に)たり焼(や)いたりして食(く)ふ。世(よ)の中(なか)に斯様(こん)なうまいも
のがあるかと思(おも)ふ。田園生活(でんゑんせいくわつ)も此(これ)では中々(なか/\)やめられぬ。
 今日(けふ)は土用中(どようちう)ながら薄寒(うすさむ)い日(ひ)であつた。朝(あさ)は六十二三度(ど)しかなかつた。
盡日(じんじつ)(きた)の風(かぜ)が吹(ふ)いて、時々(ときどき)冷(つめ)たい繊(ほそ)い雨(あめ)がほと/\落(お)ちて、見(み)ゆる限(かぎ)りの
青葉(あおば)が白(しろ)い裏(うら)をかへして南(みなみ)に靡(なび)き、寂(さび)しいうら哀(かな)しい日であつた。
 今日(けふ)は鶏小屋(とりごや)にほゞ鼬(いたち)と見(み)まがうばかりの大鼠(おほねずみ)が居(ゐ)た。
(八月(ぐわつ)二日(ふつか)

★与謝野鉄幹『新派和歌大要』大学館(明35.9
澁谷日記 (三十四年作)
(一)
 武蔵野に沿へる澁谷の里すまい,ここも秋に候.
日ぐらしの聲稀になりて,蟋蟀,くつわ虫,まつ虫など啼き初め候.
わが庭のさま少し書かばやと思い候.
垣の朝顔,おそく植ゑたれば今盛りに候.紅き紫,水色,ゑんじ,ましろ,何れも人
の百二十里西より,いまだ苗のほどに,小包郵便にて送りこしに候.送りこしぬし,
いまここにその花ながめて,朝髪とく人思ひ給へ.垣一面にひろがりたれば,青地の
錦に,様々彩ある繍ひ花,露ひと朝毎の光おかしく候.
歌筆,繪筆もちて寄る數多の子等の,土産にと呉し白百合,紅百合,葉鶏頭,女郎
花,桔梗,櫻草,床夏,秋海棠、向日葵(ひぐるま)、芙蓉、紅蜀葵(からくれなゐ)など、二つの椽をめぐりて芳
を競い候.宛らその子等の秀才のにほいとも推計り給へ.
(後略)
(二)
 知りおはすや紅蜀葵、のみを挿簪(かざし)の昨日けふ一昨日に候。白きがおはす芙蓉,この子
にふさひ知らずと許し給はぬなさけ,憎しやと側目(そばめ)する子に,さらば一つに,大人ら
しくなるやとの一人の君,無理に候かな.
(後略)
(九月七日)
(四)
 小ながの夜,秋なるを,鮎賣の若婆が聲に,萌黄蚊帳くぐりて,芙蓉見し人のまなざ
し,一人の人,猶夢にておはせばこその羞しの朝,君よやがて夜網の漁不漁,人もど
かれまじの睡氣の聲に,問ひし人のありしを知り給え.
(中略)
 知りおはすや,こヽの花園,君よ,新誌社のにてはおはさず,澁谷橋の下のなのに候
そこに紅蜀葵折りて、別れし三人と二人と知り給へ。君よ、夕なり(以上晶子)
(後略)
(九月八日)

★泉鏡花『鏡花全集 巻の二十六』岩波書店(1942
湯島詣(ゆしままうで)」

大詰 (二)入谷松源の池のほとり

蝶 (幕あくとともに夢の遊ぶ如く池の汀をさまよひつゝ)まあ、嬰(あか)ちやん、(紅蜀葵を折つて抱
く)寒いでせう/\(ひとへ長編絆の袖を引切つてかい包み胸に押しあて)おなかが空いたわ
ね。お、よしよし、さあ、お乳(つぱ)い。(やゝ襟をはだける)あれ擽い――ほんたうは、お乳な
んか出ないんだもの、堪忍よ。お小遣が少しあるから、お前のおとうちやん、(泣く)おとうち
んの、氣が利かないわね、お酒でなくつて、でも大すきな甘いもの、桃山をね、嚙んでね、
嚙んでくゝめてあげようね。
 源二 (出でうかゞひ/\すれ絡ふ)さあ、それ、足を、足を。な,へ、へ、へ、蝶(てふ)ちやん、お前、
すはだしで、眞綿に白魚といふ鹽梅ぢやあ、枯草だつて針の山だぜ。打たれた駒下駄でおとも
をする、此の心中だてを見てくれよ。池を前にしていふんぢやあねえが、溺れたもんだぜ、我
ながら、かうまで惚れたも因果なら、惚れられたも因果ぢやねえか。滿更にくくもあるめえが、
えへへへへ、どうだい、まあ此の手觸りは······(駒下駄をはかせた手にて、裾,膝、腰、胸
帶、やがて、懷に手の觸れんとする時、その時まで、氣づかれの果、たゞふら/\としてする
がまゝなりたるが、屹となり、忽ち簪にて矢庭に源二の鼻を刺す。

(以下略)

泉鏡花『鏡花全集 6巻』春陽堂(1926
雌蝶
 
否、最(も)う式は濟んだであらう。餘處から歸つて裏木戸へかゝつた時は、彼是一時近であつたから、其は近所の此の寂然
となつたのでも分る。・・・・式も早や、床杯も納つたらう。
 勿論、一人娘であるから、絲卷へ婿、養子であることは斷るまでもない。――――さて其の養子と云ふのは、色の白い,上方
ものゝ醫學生である。
 性を篠田と云ふのだが、緣は不思議なものであつた。
 去年の秋、從妹が誘はれ、二人づれで、向島の秋草見物。午飯を濟ましてから出掛けたが、途中で綾子の方は兎も角,
從妹なぞは止せば可いに、女同士、白木屋の二階を覗いて、其れから淺草へ行くと、綾子が観音様を附(つき)あつたかはりに
從妹は水族館に引張られる事になつた。あの薄暗い隧道(とんねる)の中を見て歩行く、と入り口邊から、一人後になり前(さき)になり,二
人の目にちら/\して、海を通りものゝするやうに、硝子(びいどろ)に映る、色の白い、鼠の洋服を着た年少な男があつたが,出口
近くで、ひらりと白いものを落して、其のまゝ見えなくなつた。 
 「何か落してよ、」
 と綾子が拾ふと、其は名札で。
 「一寸、醫學生――篠田·····」
 「そんなものはお打棄(うつちや)り、」
 と●(むしり)取る勢で從妹の云ふ時は、もう其を忘れたやうに摘(つま)んで提げて、綾子は硝子越に透通る水の上から、鯛の大きな目
を指の尖で突いて居た。「大きな針刺だわね。」
 行路(ゆき)は東橋を。百花園(ひやくくわゑん)へ入つた。が從妹は花の映る、綾子の顔に見惚れたと言つて話す―― 白芙蓉の面に清(すずし)い瞳がく
るくると動いたり、嫁菜に睫毛が濃くなつたり、紅蓼に眉が伸びたり、紅蜀葵が簪に擦れたり――
 「おゝ、可愛い、」
 と桔梗に口紅。其の間に萩が袂に搦む。葛がはら/\と背に翻る······又少し風があった――見た目に殘つたか,大川べ
りを歸り路には、隅田の水がもみぢに早い、花の錦を紅の夕日に宿した。
 途中トある土堤の下の、濕々(じめじめ)した藪の蔭に、ぱつと咲いて火花を散らしたやうな、曼珠沙華を見付けて、
 「姉さん、あれは·····」
 「彼岸ぢやないか。」
 「綺麗だね、」
 「あゝ、だけれどもね·····」
 「百花園にはなかつたわよ。」
 「あゝ、庭なんかへは植ゑないものなの。何故つて?花が咲く時は一枚も葉がないし、葉のある時は花がないの.だか
ら緣起でないでせう。綾ちやん、お前さんは、花よ、お前さんの母さんは、まあ、葉だわ、どつちが缼(かけ)ても大變ぢやな
いか。」
 「まあ可哀相ねえ、葉がないからつて、こんな處に此の花ばかり、一人ほつちで寂(さびし)いわ。」
 で、わざ/\舞踏沓を汚して、折つて、一束胸へ抱いたのを見ると、被布にかゞつた總(ふさ)のやう。
(以下略)

★北原白秋きよろろ鶯』書物展望社(1935
綠ヶ丘の秋
10. 9. 1927
「いヽ朝だな.」
と,私は家を出る時,うちのものを見返つた.開け放つた入り口のドアの前には,細かな砂
利の舗石に,細かなはのひまらや杉の參差たる影が動いてゐる.その土用芽は,まだ新芽の
やうに柔らかな白と緑である.空は洗われたやうに水いろですがすがしい.輕い白い雲も浮
かんでゐる.この二三日來の濛濛たる雨氣がやつと霽れたのである.
(中略)
 
このあたりからとてもかしましい蟬の時雨になる.ぢんぢん蟬である.椎,樫の喬木に沿
ひ,何かの紅い木の果のかげを右に盆地へ降りる小さなだらだら坂がある.落ち葉の一つがこ
ろげてゆく.風があるのだ.唐黍,錆いろの板塀の朝顔の花,それに對つた竹垣,孟宗,ま
た門さきの紅蜀葵
りんりんりんりん.
「號外屋さあん.」
内親王殿下の御誕生の號外だ.
(後略)
「週刊朝日」昭和二年九月

2025年9月30日火曜日

モミジアオイ(9)和文學-5 加藤武雄『砧村随筆』「紅蜀葵(べにあふひ)」,『郊外通信 : 随筆小品など』「紅蜀葵」,『加藤武雄短篇選集 落花の如く』「夏草」

Hibiscus coccineus

大正・昭和期に大衆小説を數多く著した加藤武雄1888 - 1956)は神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)の富裕な農家に生まれ,尋常小学校で訓導(準教員)を務めながら,投書をつづけて,投書家として次第に名を知られるようになった.1911年,新潮社に入社し編集者となり,『文章倶楽部』などを編集.1919年,農村を描いた自然主義的な短編集『郷愁』で作家として認められた.1922年-1923年の『久遠の像』以後,通俗小説,少女小説の書き手となり,大正末から昭和初期にかけて,中村武羅夫,三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡し,三人あわせての『長編三人全集』28 新潮社,193032)が刊行された.戦時下には戦意高揚小説を書き,戦後はやはり通俗小説を量産した.
 生家は 1901 年,失火で焼亡したが,育った加藤家は養蠶,製糸,機織を行う半農半工の家で,そこには,近隣や遙か上總からも若い娘たちが製糸,機織の働き手として住み込んでいた.武雄はその内の一人の「田舍には珍らしい美しい娘」をひそかに愛し,家の「背の石垣の下に咲き亂れてゐた紅蜀葵の眞紅な花」に例えて慕った.
 明治-昭和初期の小説・随筆に紅蜀葵を記した例は多いが,殆どが点景としてで,紅蜀葵の特別な性状(「
竹のやうにすらりと伸びた莖、刻みの淺い眞靑な葉、單瓣の眞赤な花」)を受け止めて主題とした著作は,これ以外見つけられなかった.

加藤武雄『砧村随筆』玉川学園出版部(1932
紅蜀葵(べにあふひ)
 竹のやうにすらりと伸びた莖、刻みの淺い眞靑な葉、單瓣の眞赤な花紅蜀葵は、十五六
の田舍娘のやうに單純で無邪氣だ。
 此の花が咲く時分になると、養蠶が終つて、絲取りがはじまる。裏縁の雨戸がからりと
明け放たれて、そこに漏斗型の大きなこんろが十ぐらゐ並べられる。一つこんろに一つ
づつの鍋がかけられ、一つの鍋に一人づつの工女が坐る。繭を煮る鍋からは、もやもやと
烟が立ちのぼり、その烟の中に、赤くのぼせた頬を浮べながら若い工女たちは糸を取るの
だ朝暗いうちから、晩暗くなるまで、笑つたり歌つたりしながら工女たちはその作業を
つづける。―― 私はその賑かさが好きだつた。
 工女の中には未だ下手なのがあつて、外の者がみんな鍋を空にしてきりあげてからも、
カンテラの灯をたよりに殘りの仕事を續けてゐる。意地の惡いのが、
 「野中の、野中の、お地藏さん――。」
などと云ひながら、さなぎを投げつけたりする。名は忘れたが上總から來てゐた、瘠せ
た色の白い娘が「お地藏さん」にされて泣きながら鍋の前にすわつてゐた姿を、今でもあ
はれに思ひ出す。紅蜀葵を見る每に思ひ出す。」

加藤武雄『郊外通信 : 随筆小品など』健文社(1935)
  「紅蜀葵

 甲斐絹を織るを業とせし我が家には、年若き織子常に七八人を下らず、織屋の窓に機臺
をつらね、はやり唄など口ずさみつゝ、ひねもす織りくらし織りくらしき。おたま、おせ
ん、おてつなど、名は覺え居れど、面影は皆忘れぬ。唯おすみと云へる、色白く唇赤き小
女の、織屋の軒に咲ける紅蜀葵(べにあふひ)に似たりし姿のみは、今もあざやかに思ひ出づ。我が十三
なりし時、彼女は十五位なりけむ。父は酒呑みのあぶれものにて、小ばくちなどにうき身
をやつせるが、ある夜、醉を帶びて我が家に來り、糸を繰れるおすみと、その傍に『少年
世界』讀みつつありし我とを、かたみに見つつ、坊ちやん、もう三四年すればおすみはう
つくしき娘盛り、坊ちやんも亦世心つきたまふころぞ。おすみを側女(そばめ)にしてなり愛で給へ
おすみは坊ちやんが好きだと申して居りますと、ささやくやうに云ふに、おすみの頰見る
/\火のやうに赤くなり、我もまた頰の熱きをおぼえたりき。
 この醉ひどれの、何を云ふにや。坊ちやんあちらへまゐりませうと、つと立ちつつ、あ
たりを憚るやうにしておすみとわれに云へる時、羞恥に伏せられしおすみの眼に、つつま
しきなまめきの動くをわれは見たりき。その時ぞ我が、異性といふものを感じたる最初に
てありけむ。
 我が十五なりし時、おすみは故ありて我が家を去りぬ。おすみの母が、あだし男とちぎ
りて夫を捨てたりと聞きしもその頃なりき。おすみはかの女優ナナの如く、生れながら
に淫蕩の血を享けたりけむ。その後、あまたの男に弄ばれての果、橫濱にて娼婦の群に入
りぬと聞きし時、われはやる方もなき憂悶の、胸をとざすを覺えたりき。われ、おすみを
戀へりしや否やを知らず。しかも今になほおすみの事を憶ひ出づる事に、遠き笛を聞くや
うなる哀愁を感ずるは何故ぞ。――今年家にかへりて、斷礎のあとになほ紅蜀葵の一株の
咲きのこれるを見、花年々に同じうして人歲々に同じからざるのかなしみを今更の如く感
じぬ。このかなしみは平凡也。しかも人間のかなしみは、畢竟、この一つのかなしみに盡
くるにあらずや。

加藤武雄『加藤武雄短篇選集 落花の如く』大都書房版(1940)

夏草

 半農半工とでもいふのか、その頃、私の家では、農家として養蠶なんか盛んにやつてゐたが、
同時に又製糸をも機織をも兼ねてゐて養蠶が濟むと、製糸をやる。製糸が了ると、機織をやると
いふ風だつた。明治の三十年代だから、まだ家庭的な手工業の時代である。働き手は、いづれも
十五六から二十一三までの若い娘たちで、一年一季の雇人もあれば、二三年から四五年の年は
季奉公の者もあつた。上總(かづさ)の方から、糸機の道を習ひに來る娘たちは、みんな年季奉公の口で、
それを上總ッ子と云つてゐた。
 私は、その娘たちから『坊ッちやん』『坊ッちやん』と云はれて、女くさい空氣の中で幼年期
少年期を過したもので、か·その頃の事を回顧すると、今でも、赤い塗櫛を挿した黑い髪や、紫の
襷でかゞられた袖をぬけ出した白い手やらがちら/\と浮んで來るのだが、しかし一個の人間と
してのまとまつた印象を記憶にととめてゐる者は案外少ない。その中で今もはつきりと思ひ出す
事の出來るのはお粂といふ娘の事だ。くゝり顎の色の白い圓顏で、二重瞼の黑瞳勝の眼の片方が
いくらか斜視氣味な、少し厚日の唇に口紅でも塗つたやうに赤い十五六の娘――それが私の思
ひ出に浮ぶお粂だが、事實お粂は田舍には珍らしい美しい娘であつた。
(中略)

(中略)
    お粂は、二年の年季が了ると、又更に二年の年季を加へたが
その四年目の秋に、逃げ出して行衞をくらまして了つた。
 『おふくろの子だでな。こんな事だらうとは思つてゐやした。』
 榮次は、沈痛な顏附をして見せた。お粂は村中の若者に騒がれてゐた。そして、事實、かなり
多情な女らしく、誰彼との間に噂が立つてゐたが、しかし、お粂をおびき出したのは、矢張父親
の榮次に違ひ無いと思はれてゐた。それから間もなく榮次が村から姿を消した事が、何よりもの
證據であつた。
 『屹度何處かへ賣られたのだよ。あゝいふ親父を持つちや、お粂も浮ばれない。』
 私の母は斯う云つて溜息ついたが、それから二年の後、お粂がY市の遊廓にゐるといふ噂が
傳はつて來た。きらびやかな裲襠(しかけ)すがたで、店先に坐つてゐたお粂を、たしかに見て來たと告げ

る若者もゐた、そんな事を聞くと、私は、くわッと全身の血の湧き立つおもひがした。よッぽど
お粂に會ふ爲めにY市へ出かけて行かうかと思つたくらゐだつた。
 その當座十日ばかりの間、私は飯もうまくなかつた。その時になつて-私はもう二十になつ
てゐたのだが-私は、はじめて、自分がいかにお粂を愛してゐたかを知つた。文學靑年だつた
私は、お粂の追憶を一篇の文章に綴つた。題して曰く、紅蜀葵。あの背の石垣の下に咲き亂れ
てゐた紅蜀葵の眞紅な花に、お粂の面影を寓したのである。
 
ところが、それから十年ばかりの後、私は思ひがけなくもお粂に邂逅する事が出來た。あの大
震災の三月ばかり後の事である。もうそのずつと前から東京へ出て來てゐたが、私は、牛込に居
たので、無事だつた。ある日神樂坂の通りを步いてゐると、
 『坊ちやん?坊ちやんぢやありませんか?
と呼びかけたのがお粂であつた。
 『おゝ、お前は――?』
私は、しばらくの間口が利けなかつた。お粂は五六年前から淺草の方で小料理屋をしてゐたのださうで、震災の時は辛うじて命だけこは助かつたといふ事だつた。
 『まあ、宜かつた!なあに、命さへありや何とかなる。ところで、君のお父ツつあんはどう
してゐるね。』

『父は駄目で御座いました。』

『やられたのか?―― 一緒に暮らしてゐたのか?』
と私が云ふと、
 『えゝ、本當に仕方のない父でございますけど、近頃、年齡をとつてすつかりおとなしくなり
ましてね。一生懸命に店の仕事を手傳つてゐて呉れたんでございますが―― 實は、私が斯うして
命びろひをしたのも父のおかげでございますよ。』
 當時病氣で二階に寢てゐたので、逃げおくれて、慌て惑うてゐるうちに、火焰につゝまれ、も
ういけないと觀念したところへ飛び込んで來て呉れたのが父の榮次だつた。榮次はお粂を肩にか
けて二階から飛びおり、火焰の渦卷の中からお粂を抛り出した、と、その時遲し、どつと燒け落
ちて來た材木の下になつて、榮次はそこで即死して了つた
 『つまり私の身代りになつてれたわけなんですよ――
お粂は涙ぐんだ。
 罹災者のそぼろな姿ではあるし、痩せて、黑ずんで、お粂は見るかげもなくなつてゐた。もう
どこにもあの『紅蜀葵』のおもかげは見られないのに、かなり強い幻滅を感じた私の心も、その
話をきくと、頓(とみ)に明るくなつて行つた。
 『さうか。矢張ねえ。』

 『矢張、親は親ですね。私しみじみと感じたのでございますよ。』
 
お粂は眼をしばだたきながら云つた。」