2025年9月3日水曜日

モミジアオイ(6)和園芸書.『倭種洋名鑑』,『百花辧覽 初篇』,『園芸十二ケ月 続』,『草花の作り方』,『最近和洋園芸十二ケ月』,『野の花庭の花』

Hibiscus coccineus


  北米南東部の湿地が原産の多年生草本.大きい緋色の花が目を引き,”It is certainly one of the loveliest of our native flowers.” と,米国でも高く評価されている.現在あまり見かけることはないが,花弁と花弁の間が離れていて,葉もモミジのように分かれているので,花色が派手でも,アメリカフヨウなどの他のフヨウ類の様な暑苦しい感じは与えない.
   
馬場仲達の『舶上花譜』(1844)にその画が載っているので,日本に渡来したのは,実際は1800年代前半と思われる.江戸末期から明治にかけては,それまでの日本の観賞用花卉にはない大きく鮮やかな色の花が賞され,「花色極紅にして繪ける色より美紅なり」(1864-,渡辺又日菴),「花は濃紅色の美大花にして品位高く花壇に栽植し初夏より晩秋に至る観賞として最も適するものならん.」(1921 杉浦非水),「花は大にして葉腋に出でたる梗端に獨在し鮮紅色で頗る美麗である.」(1930,岡本東洋),「夏日、赤色ノ有梗大花ヲ腋生シ、側向シテ開キ、美ナリ」(1940,牧野富太郎)と高く評価されている(既述).明治・大正・昭和初期の園芸書にも育て方が収載されているので,それほど珍しい花卉ではなかったのであろう.俳句・短歌にも詠った歌は多く,小説や随筆にも点景として登場する(後記事).
     以下和文献画像はNDLの公開デジタル画像の部分引用

★柏木吉三郎(1799 - 不明)『倭種洋名鑑』は,江戸末期に書かれた植物図譜(乾坤二冊)であるが,その乾の巻に「倭俗名 紅蜀葵ト云 又 朝日牡丹ト云」とあり,「草高サ七八尺ニ及 花七月咲 宿根寒ヲ畏 實生モ出来ル二歳ニ而花咲 一日丹一輪宛咲順々ニ咲ナリ」とあり,付箋には,「ヒヾスキュス スぺシース Hibiscus Species」とある.この付箋はいつ誰が付けたかは不明.「朝日牡丹」という名もその形状を現すのに適切な名と思われる.(Blog-1

三田育種場は、1877年から1886年まで東京の三田(現在の港区芝)で営まれていた官営種苗会社.農産物の優良な種苗の普及に努めるほか,牛馬や農機具の改良も行われた.また官営競馬の発祥の地としても知られる.
 1874年内務省勧業寮は,三田四国町の薩摩藩邸跡地を買い取り,内藤新宿勧業寮付属試験場にした.18776月「三田培養地」と名を変え,さらに同年8月「三田育種場」と名を変更した.大久保利通が推し進める殖産興業政策に乗り,明治の官僚・勧業家前田正名の献策によって三田育種場は優れた種子・苗の普及を目的とし,また農産物・園芸植物に関連する,数々の出版物を刊行した.しかし,農産物の改良の目的も政策転換に伴って1886年に終了し,その土地の一部は民間に払い下げられた.

 民間移行後の三田育種場が『百花辧覽 初篇』を 1889 年に刊行した.この書(折帖)は 100 点の植物図と簡単な記述文からなる.当時としては珍しい特に舶来の観賞用植物の普及を目的にしたのであろう.
 故磯野直秀教授によれば,この書の原画の多くは植物画の名手,服部雪斎が描いたもので,他に『東京三田育種場種物図解』,『有用植物図説』(田中芳男・小野職愨篇,大日本農会 1891)にも使用された(磯野直秀,田中誠『東京三田育種場種物図解』覚書,慶応義塾大学日吉紀要,自然科学,47, 2010
 この『百花辧覽 初篇』に,モミジアオイが掲載されている.NDLのデジタル画像(上段)は白黒で,花の紅が真っ黒につぶれていて見る影もないが,故磯野教授が上記論文中で復元した『東京三田育種場種物図解』(下段)では鮮やかな紅色の花や蕾,紅色が差した茎や葉がパッと目を引く.

讀売新聞社の園芸担当記者★竹中卓郎『百花弁覧 初篇』三田育種場(M221889)には,「紅蜀葵.もみぢあふひ」として,木版の絵と共に
  「丈夫なる宿根草なり春月種
   
子を下す明年夏月より秋月の
   
頃迄大輪紅色の花を開く茎は
   
高さ四五尺に至る籬辺抔に栽へて
   
遠く望むを宜しとする
       
東京三田育種場」と,春に播種し,発芽二年目から花を着け,丈夫な宿根草であること,(花が派手過ぎるので)垣根にして遠方から眺めるのが良かろう,記されている.

同じく讀売新聞社の★久田二葉(賢輝,1883 - 1907)『園芸十二ケ月 』読売新聞社(1908)には,
「九月 この月の花のかずかず
  ▲紅蜀葵(もみぢあふひ)殘暑の炎天を衝き赤き心を燃やしてか、花に眞紅の焔を擧げたやう  
  な面影を見せる風情は、誠に目覺ましく凛々しくて、我等は、野の百千草と共に  
  碌々たる生涯を睥睨されるやうに思はれ、今更花に對して恥多きを自覚するの  
  であります。此花の能く成長したのは丈にもなつて直立すること麻のやう、葉  
  は大きくて五尖、恰度楓のやうですからモミヂアフヒの和名があります、花は  
  五瓣眞紅で大きく徑四寸くらゐにもなりませう。そうして思ふ存分咲いて愁色  
  を見せぬところ、日々に新たなる爛燈(?)華美の面影、などは唯だ/\嘆賞の外は  
  ありません。
  ▲此草花は宿根しますから秋風落莫の候、其狼藉たる莖葉を收めて藁や雜草の
  類を被ひ春になつて堆肥馬糞の類又は下肥、油粕を天肥として敷込むと嫩芽は
  肥え、遂に立派な新芽は育つやうになります。勿論其節根分と同時に移植を行
  へばよろしい。」と,情緒たっぷりの言葉で,真夏炎天下に咲くモミジアオイの花を嘆賞している.

★島谷直方『草花の作り方』子文社(1912)には,
紅蜀葵(もみぢあふひ)
紅蜀葵(こうしよくき)叉は秋葵(あきあふい)とも申(まを)しまして,秋の初め頃から永い間,紅色(くれなゐ)の直經(さしわたし)四寸
 にも餘る程,美大な花を咲きます.しかも葉は楓(かへで)の様な形をして莖にも葉に
 も赤い條(すぢ)があつて,風情中々捨て難(がた)い,そして能く成長したのになりますと
 一丈餘にもなりますが,普通六七尺,麻の様に眞直(まつすぐ)に上に延(の)びます.
  丈夫な宿根草ですから,秋なり春なりに根分(ねわけ)をしておやりなさい.叉種子(たね)
 は春蒔けば其の翌年から花を咲かせます.」と,優しい言葉で,繁殖法をのべながら,「美大な」花だけではなく,葉や幹に赤い筋が入ることまでも「風情中々捨て難い」と草姿までを高く評価している.

★久田賢輝(二葉,1883 - 1907)『最近和洋園芸十二ケ月』岡村書店(1926)の「續園藝十二ケ月」「九月」の「この月の花のかずかず」の項には,
 「◆紅蜀葵(もみぢあふひ) 残暑の炎天を衝き赤き心を燃やしてか,花に真紅の燄を擧げたやうな面影を見せる
 風情は,誠に目覚ましく凛々しくて,吾等は野の百千草と共に碌々たる生涯を睥睨されるやう
 に思はれ,今更花に對して耻多きを自覺するのであります.此花の能く成長したのは丈にもな
 つて直立すること麻のやう,葉は大きくて五尖,恰度(ちやうど)楓のやうですからモミヂアフヒの和名が
 あります.花は五瓣真紅で大きく徑四寸ぐらゐにもなりませう.そうして思ふ存分咲いて愁色
 を見せぬところ,日々新たなる爛漫華美の面影,などは唯だ唯だ嘆賞の外はありません.
 ◆此草花は宿根しますから秋風落莫の候,その狼藉たる莖葉を収めて藁や雑草の類を覆ひ春にな
 つて堆肥馬糞の類又は下肥,油粕を天肥として敷込むと嫩芽は肥え,遂に立派な新芽は育つや
 うになります.勿論其節根分と同時に移植を行へばよろしい.」と,あり(ルビの一部を省略),「(花は)唯だ唯だ嘆賞の外はありません.」と高く評価している.

★辻永(繪,1884 - 1974),服部静夫(説明,19021970)『野の花庭の花』朝日新聞社(1948)には,芸術院会員の辻永の筆になるモミジアオイの美しい繪とともに,東大教授の服部静夫の文

「  もみじあおい
 木だけれど東京あたりでは冬は枯れて
 しまうが,根と根ぎわのくきは枯れな
 いで,來年それから芽が出る.八月か
 ら九月にかけて花が咲く.日本の花の
 ように思われているが,もと北アメリ
 カからうつされたものなのである.し
 かし,そんなことは,花の美しさとは,
 なんの關係もない,夏の花であるが,
 初秋になっても,さきのこって,なか
 なかおとろえずに美しい.」(ルビ省略)
と花期の長さも褒めている.(冒頭図,左・中央)