2015年4月6日月曜日

カラスノエンドウ-1 「薇」 爾雅,埤雅,本草綱目(金陵本),三才圖會,欽定授時通考,植物名實圖考,古代・近代・現代中国での「薇」はカラスノエンドウ

Vicia sativa subsp. nigra
2015年4月
人里に多く生育し,救荒植物としても用いられたことから,食料として大陸から持ち込まれた史前帰化植物と考えられている.磯野の初見は『和漢三才図会』だが,この書での「雲実 カラスノヱンドウ」はジャケツイバラであり,その一種として記された「野豌豆」がカラスノエンドウに該当する.一方,同書の「薇(いぬえんどう)」の別名は「野豌豆」であり,その記述も「カラスノエンドウ」に該当する.私の調べた限りでは『本草綱目啓蒙』の「翹搖」の条に,「三種アリ。其一ハ、カラスノヱンドウ 一名、イラヽ(筑前)」とあり,これが,現在の「カラスノエンドウ」に該当する植物の名の初見である.
古くから日本においては「薇」はゼンマイの漢名とされてきたが,既に江戸時代には,これに対する疑問とカラスノエンドウあるいはスズメノエンドウと校定するのが正しいとする説が出されている.

春秋戦国時代以降に行われた古典の語義解釈を漢初の学者が整理補充したものと考えられている訓詁学の書,中国最古の類語辞典・語釈辞典『爾雅』の「釈草」の條に「薇」は「薇 垂水」と記されている.また,宋代のの『埤雅 釋草』にも長文の説明があり,重要な植物であったと考えられる.明の李時珍著『本草綱目』には「薇」の項があり,別名として垂水,野豌豆,大菜が挙げられている.清末の呉其濬の『植物名実図考』には,マメ科の草本の絵が掲げられ,中国においてはごく近代まで「薇」をゼンマイとする考えは主流ではなかった.

『本草綱目』の和刻本においては,貝原本では「イヌノソラマメ」と校定され,稲生本では「ゼンマイ」と校定されている.明治時代の「国訳本草綱目」においては,「和名 ぜんまい」とされているが,頭注で「木村(康)曰,[原植物]」としてゼンマイの他,スズメノエンドウも挙げている.

(10421102)埤雅 巻十八』宋代
「釋草 
爾雅曰薇垂水好生水邊故曰垂水似藿萊之微考也
故禮羌芼以薇記曰鉶芼牛藿羊苦豕薇是也詩曰采
薇采薇薇亦作止采薇采薇薇亦柔止采薇采薇薇亦
剛北作止木可食之時也柔止則可食之時剛共則不
可食矣采薇采薇薇亦剛止曰歸曰歸歳赤陽止然猶
戍役焉未己則所以甚言其苦也傳曰君子能盡人逐
情故人忘其死此之謂也詩曰山有蕨薇隰有杞(木+夷)君
子作歌維以告哀蕨薇所以祭也下國構禍怨亂並興
則孝子有不得饗其親者矣故詩所以告哀也孔子曰
吾於四月見孝子之思祭也其為是歟字曰葱疏關
節達氣液忽也所謂葱珩其色如此●(糸+葱)亦如此薇禮豕
用焉然微者所食故詩以采薇言戍役之苦而草蟲序
於薇後求取之薄●(くさかんむり+彊)疆也彊我者也於毒邪臭腥寒
熱皆足以禦之芥介也界我者也汗能發之氣能散之

埤雅の研究・其八 釈草篇(4)
 『爾雅』に曰く、「薇は垂水なり」と。好んで水辺に生ず。故に垂水と曰ふ。藿に似て菜の微なる者なり。故に礼に豕を芼るは薇を以てす。『記』に曰く、「鉶は牛藿、羊苦、豕薇を芼る」とは是れなり。『詩』に曰く、「薇を采り薇を采る。薇も亦た作れり」「薇を采り薇を采る。薇も亦た柔らかなり」「薇を采り薇を采る。薇も亦た剛し」と。「作れり」は未だ之を食ふべからずの時なり。「柔らかなり」は則ち之を食ふべきの時なり。「剛し」は則ち食ふべからず。「薇を采り薇を采る。薇も亦た剛し。帰らんと曰ひ帰らんと曰ふ。歳も亦た陽かなり」。然るに猶ほ戍役未だ已まざるは、則ち其の苦を甚言する所以なり。『伝』に曰く、「君子は能く人の情を尽くす。故に人、其の死を忘る」とは此の謂ひなり。『詩』に曰く、「山に蕨薇有り。隰に杞有り。君子歌を作り、維れ以て哀を告ぐ」と。蕨薇は祭る所以なり。下国禍を構へ、怨乱並び興る。則ち孝子の其の親を饗するを得ざる者有り。故に『詩』哀を告ぐ所以なり。孔子曰く、「吾、四月に於いて孝子の祭りを思ふを見る」とは、其れ是れと為すか。『字説』に曰く、「蔥は関節を疏し、気液を達すること怱なり。所謂葱珩は其の色此の如し。總も亦た此の如し。薇は礼に豕の用なり」と。然れば微は食ふ所あり。故に『詩』は采薇を以て戍役の苦を言ふ。而るに草蟲の序は蕨の後に於いて求取の薄きを喩ふ。{+}は疆なり。我に疆する者なり。毒邪、臭腥、寒熱に於いて、皆以て之を禦ぐに足る。芥は介なり。我に界する者なり。汗は能く之を発し、気は能く之を散ず。(加納喜光・野口大輔,埤雅の研究・其八 釈草篇(4),茨城大学人文学部紀要『人文学科論集』4429-44頁、20059月)


明時代に李時珍が著わした『本草綱目  菜之二 柔滑類』には,「(《拾遺》)
【校正】自草部移入此。
【釋名】垂水(《爾雅》)、野豌豆(《綱目》)、大菜。
時珍曰許慎《文》云薇,似藿。乃菜之微者也。王安石《字》云微賤所食,因謂之薇。故《詩》以“采薇賦戍役”。孫炎注《爾雅》云薇草生水旁而枝葉垂於水,故名垂水也。菜見翹搖下。
【集解】藏器曰薇生水旁,葉似萍,蒸食利人。《三秦記》云夷齊食之三年,顏多不異。武王誡之,不食而死。李珣曰薇生海、池、澤中,水菜也。時珍曰薇生麥田中,原澤亦有,故《詩》云“山有蕨、薇”,非水草也。即今野豌豆,蜀入謂之菜。蔓生,莖葉氣味皆似豌豆,其藿作蔬、入羹皆宜。《詩》云采薇采薇,薇亦柔止。《禮記》云 豕以薇。皆此物也。《詩疏》以為迷蕨,鄭氏《通志》以為金櫻芽,皆謬矣。項氏云︰巢菜有大、小二種大者即薇,乃野豌豆之不實者,小者即蘇東坡所謂元修菜也。此得之。
【氣味】甘,寒,無毒。
【主治】久食不飢,調中,利大小腸(藏器)。利水道,下浮腫,潤大腸(珣)。」
とある.

添付した図(上図 NDL)は「金陵本」の本文で,項目名は「」とは見えないが,目次ならびに図(附図巻之下)(右図 NDL)においては「」と明確に描かれていて本文も後世の本草綱目のそれと合致する.さらに,図は明らかにマメ科の植物で,シダ科とは思えない.この図の由来した『本草綱目』の初版本で,冊1の「輯書姓氏」欄に「金陵後学胡承竜梓行」と記すので「金陵本」と呼ばれるが,図示した資料の同欄にはこの字句が存在するので,金陵本に間違いない.(明)李時珍撰, (明)李建中図 出版者:胡承竜 万暦18 (1590) 年刊

『本草綱目』の和訳★白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)『頭註国訳本草綱目 菜部 第二十七巻』(1929)春陽堂 においては,「(拾遺)
和名 ぜんまい
學名 Osmundla biformis, Makino
科名 ぜんまい科(薇科)
【校正】草部より此に移し入る。
【釋名】垂水(爾雅)野豌豆(綱目)菜 時珍曰,按ずるに,許慎の文に『薇は藿に似たり。乃ち菜の微なる者なり』とある。王安石の字には『微賤のものの食ふものだ.それでこれを薇といふ。故に詩に采薇といふ言葉で戍役を賦(よ)んである』とある。孫炎の爾雅の註には『薇草は水旁の面に生じ,枝,葉は水に垂れる.故に垂水と名ける』とある。菜については翹搖(げうゑう)の條下に記載する。
【集解】藏器曰薇は水旁に生じ,葉は萍(ひょう)に似たものだ。蒸して食へば人を利する。三秦記に『夷,齊はこれを食ふこと三年にして顏色が異らなかつた。武王がこれを誡(いまし)めたので食はずして死んだ』とある。
李珣曰く,薇は海、池、澤中に生ずる水菜である。
時珍曰く,薇は麥田中に生じ,原澤にもある.故に詩に「山に蕨、薇あり」といつたので,水草ではない。即ち今の野豌豆(のゑんどう)であって,蜀地方ではこれを菜といふ。蔓生で莖,葉,氣味はいづれも豌豆に似てゐる,その藿は蔬にし、羹に入れても宜し。詩に『薇を采り薇を采る,薇亦た柔止』とあり,禮記に『豕に芼(すす)むるに薇を以てす』とあるはいづれもこの物である。詩疏にこれを迷蕨とし,鄭氏の通志にこれを金櫻芽としのたは(ママ)いづれも謬(あやまり)だ。項氏は『菜に大、小の二種ある.大なるものは即ち薇であって,それは野豌豆にして實(みの)らぬもの,小なるものは即ち蘇東坡の所謂元修菜である』といつた。このは當を得ている。
三才図会 NDL
【氣味】甘し,寒にして毒なし
【主治】久しく食すれば餓ゑず,中を調へ,大小腸を利す(藏器)。水道を利し,浮腫を下し,大腸を潤す(珣)。」と「」をゼンマイと校定しているが,頭注で「木村(康)曰,[原植物]」としてゼンマイの他,スズメノエンドウも挙げている.


明時代の類書(百科事典)★王圻 (1592-1612) 纂集『三才圖會 全百六卷』萬暦371609)序刊の『草木 十巻 蔬類』には,「薇」の項はないものの「蕨」の項に
「蕨 蕨鼈也生山間根如紫草莖青紫色末如小児拳周泰曰
蕨魯曰鼈初生時似鼈脚故名味甘寒滑去暴熱利水道
人食弱陽小児食之脚弱不行又似蕨而差大有芒而

味苦山間人食之謂迷蕨格物即蕨也」と珍しくワラビの類品あるいは同一品としている.

乾隆帝の勅命(1737年)で編纂された清朝の代表的農書,★鄂爾泰・張廷玉編『欽定授時通考 78巻』(1742年進呈欽定)は,それまでの農書の集大成で,便利であるが創意が乏しいといわれている.この書でも「薇」は野豌豆,大菜とされていて,若い芽は羹にすると旨いと記されている.また図はワラビやゼンマイとは異なり,マメ科植物と見て取れるが,巻きひげは見えない.(右図,欽定授時通考 第59巻 大家藝文天地(この項 150530 追記)
薇 字説云賤所食因謂之微 一名野豌豆 一名大菜 本草項氏曰菜有大小二種 大者即薇乃野豌豆 之不實者小者即東坡所謂元修菜也 生麥田及原隰中
本草云非水草也莖葉氣味皆似豌豆其藿作蔬入羹
皆宜
爾雅薇垂水
注生於水邊疏草生於水濱而枝葉垂於水者曰薇
陸璣詩疏薇山萊也今官園種之以供宗廟祭祀」

清末の★呉其濬 (1789-1847)『植物名實圖考 蔬類』(1848) には, 
維基文庫
爾雅曰薇垂水陸璣詩蔬菜蔓生似豌豆項安世以爲野豌豆
之不實者本草拾遺始著録禮鉶芼羊苦豕薇漢時漢園種之
以供総廟祭祀而字説以爲微者之食何其謬耶古今南北飲
食不同地黄葉唯懐慶人得食之亦将謂在下者之食耶薇垂
水注云生於水邊考據家以登山采薇薇自名垂水不可云水
草今河畔葉擩蔓生尤肥茎弱不能自立在山而附在澤而垂
奚有異也杜詩今日南湖采蕨薇蕨有山水二種薇亦然矣説
文薇以采之微者形義倶足陳藏器以爲葉似萍亦與豌豆
葉相類而釋者或曰迷蕨或曰金櫻芽或曰白薇宜爲前人所
詰此菜亦有結實不結實二種結實者豆可充餓不結實者莖

葉可茹余得之牧豎云」とある.
図は明らかにマメ科の植物だが,実を結ばない種はゼンマイかもしれない.

清末・呉其濬著の『植物名実図考』三八巻と『同長編』二二巻は,薬草のみならず植物全般を対象とした中国初の本草書として名高い.『図考』には実物に接して描いた,かつて中国本草になかった写実的図もある.

現代中国語においても,「」はマメ科のカラスノエンドウの意味がある.

★白水社『白水社中国語辞典』(201547日閲覧)には,「 ピンインwēi
1((文語文[昔の書き言葉])) カラスノエンドウ.⇒ cháocài
2付属形態素 バラ.⇒ qiángwēi .」とある.

更に★小林信明編『新選漢和辞典 第八版』小学館 (2011) には
 ビ 艸13
    のえんどう 食用になる草の名
    薇(しび) 薇花はさるすべり,百日紅
    薔薇(しょうび 装備)ばら
《国》〈ぜんまい〉草の名,ワラビに似て食用となる
[薇藿]びかく(くわく) のえんどうと豆の葉,粗末な食事
[薇蕨]びけつ ぜんまいとわらび」とあり,薇をゼンマイと読むのは,あくまでも国字の用法であるとしている.

一方,中国では,★基百科(201547日閲覧)に,「救荒野豌豆(学名:Vicia sativa)是豆科野豌豆属的植物。分布在 美洲大 洲暖温 欧洲暖温 洲、 地区、 非洲、 斯西伯利地区、 欧洲、 澳大利 欧洲温、地中海地区以及中国大的各地均等地,生于海拔50米至3,000米的地区,多生于田、荒山以及林中,目前已由人工引栽培。
名:(本草目)、、野豌豆(本草目)、野菉豆(植物名实图考)、箭舌野豌豆(北)、草藤(西北)、山扁豆(河南)、雀雀豆(江)、野毛豆(浙江)、豆(云南)、希一布斯(内蒙古)、苕子(四川))」とあり,「薇」は,Vicia sativa (カラスノエンドウの学名のシノニム)とされている.
ただし,他のサイトでは,「薇菜」としている例もあり,日本でのゼンマイとの区別を容易にしているかとも思われる.

カラスノエンドウ-2 「薇」 詩経(1) 国風「喓喓草虫」の薇,白川訳,朱子注

2015年3月13日金曜日

イヌノフグリ-3 6つの学名 Tenore,Fries,松村任三,牧野富太郎,山崎敬,環境省第4次レッドリスト

Veronica polita  subsp. lilacina
名の由来の果実をつけた枝と,熟して口の開いた果実
鉢からあふれんばかりに茎を伸ばし,多くの花と実をつけて,鉢受けの皿に種をこぼしている.こんなに実や種をつけるのに絶滅危惧種とは信じがたいが.

Y-list でイヌフグリの「学名」には,Table-1 6個がある.
米倉浩司・梶田忠 (2003-) 「BG Plants 和名−学名インデックス」(YList),http://bean.bio.chiba-u.jp/bgplants/ylist_main.html(2015年3月13日)



Y-list 学名ステイタス
Veronica didyma auct. non Ten.
1811
synonym
Veronica polita Fr.
1817
広義
Veronica caninotesticulata Makino
1940
synonym
Veronica dydima Tenore v. lialacina (Hara) Yamaz.
1957
synonym
Veronica polita Fr. v. lilacina (T.Yamaz.) T.Yamaz.
1963
標準
Veronica polita Fr. subsp. lilacina (T.Yamaz.) T.Yamaz.
1993
synonym

最も古い①, V. didyma (二つの連なった) は MicheleTenore (1780-1861) によって欧州原産のベロニカ属の植物に命名された(Prod. Fl. Nap. p. vi .(1811),左図)が,現在は auct. non との位置づけとされている.
メルボルン規約によれば,「[auct. non] , auctorum non, of the authors not ….~ではない著者による(学名の原著者の前に置き,誤用名の引用に用いて原著者の指定したタイプと異なることを示す).」図鑑類では、~氏という個人名でなく,一般的な著者という意味でauct.auctorum)と書くことが多い.
United States Department of Agriculture USDA, Germplasm Resources Information Network (GRIN) Taxonomy for Plants   Taxon: Veronica didyma auct. の項には Comment: application of V. didyma Ten., older than V. polita Fries, is apparently uncertain とある.

「広義」の学名はVeronica polita Fr. で,スウェーデンの植物学者 Elias Magnus Fries (1794-1878) が学名をつけた (Nov. Fl. Suec.: 63 (1817)*), 欧州原産の青い花を着ける V. polita と同じとする.(右図は Thomé, O.W., Flora von Deutschland Österreich und der Schweiz, Tafeln, vol. 4 t. 503, fig. A (1885).

*  Novitiae Florae Suecicae. Edit. Altera, Auctior et in Formam Commentarii in Cel. Wahlenbergii Floram Suecicam Redacta. Lund

東京帝国大学植物学教授の松村任三 (1856 – 1928) は日本のイヌノフグリがこれと同種とした(Index Pl. Jap. **2(2): 572 (1912),下図).

**  Index plantarum Japonicarum, sive, Enumeratio plantarum omnium ex insulis Kurile, Yezo, Nippon, Sikoku, Kiusiu, Liukiu, et Formosa hucusque cognitarum systematice et alphabetice disposita adjectis synonymis selectis, nominibus Japonicis, locis natalibus,

一方,牧野富太郎はイヌフグリを新種としVeronica caninotesticulata Makino を与えた(Ill. Fl. Nippon日本植物図鑑: 140, f. 418 (1940))****
高知県立牧野植物園
「第418圖 ごまのはぐさ科/いぬふぐり(地錦)/一名 いぬのふぐり・へうたんぐさ・てんにんからくさ
Veronica caninotesticulata Makino /(中略)
蒴果ハ扁圜ニシテ縦ニ一溝ヲ有シ,宛モ二箇相接スルノ状ヲ呈ス.本種ハ元来外来ノ植物ナルベシト雖モ決シテ V. agrestis L. 或ハ V. polita Fries. ニ非ズ,故ニ今此ニ上掲ノ新学名ヲ剏定セリ.和名狗フグリハ其果実ノ状狗ノ陰嚢ニ似タレバ云ヒ,瓢箪草ハ同ジク果実ノ状ニ基キシ名,天人唐草ハ其草姿ヲ形容セル称ナル.漢名 婆々納(誤用)」
なお,ラテン語で,canino とはイヌ,testiculata とは陰嚢の意であるので,和名そのままを種小名をつけたことになる.
面白い学名と思うが,残念ながら現在は「裸名」とされ,用いられないようだ.(nomen nudumnom. nud.)裸名:記載文あるいは判別文を伴わないか,あるいは記載文または判別文への出典引用を伴わないで発表された新分類群の名称(メルボルン規約)).

Veronica dydima Tenore v. lialacina (Hara) Yamaz. はイヌノフグリを V. dydima の変種とする考え方で,山崎敬 (1921-2007) によって1957年の東京大学理学部紀要(J. F. S. U. T. 3, J. Fac. Sci. Univ. Tokyo, [Rigaku-bu kiyo], Sect. 3, Bot..7(2): 150 (1957), '(H.Hara) T.Yamaz.)に記載された.後述のように最近の図鑑類ではこの学名の採用が多い.しかし,①で記したように基本名は auct. non. なので,イヌフグリの学名としてこれを採用するのはためらわれる.

「標準」の学名は,イヌノフグリを V. polita の変種とする考え方の Veronica polita Fr. var. lilacina (T.Yamaz.) T.Yamaz.***  であり,④ から基本種が変更された.
欧州産の基本種V. polita と異なり,花の色が藤(ライラック)色であることから,山崎敬 (1921-2007) によって,朝鮮半島産のものを基にして名づけられた(Bull. Kwanak Arbor. 4: 66 (1983)左).

Wikipedia 日本語の「イヌノフグリ」の本文中ではこれが採用されている.

***Bulletin of the Kwanak Arboretum. Suwon A revision of the Scrophulariaceae in Korea / Lee, Tchang Bok; Yamazaki, Takasi)

 更に最新の学名は,イヌノフグリを V. polita の亜種 (subspecies) とする考え方の V. polita Fr. subsp. lilacina (T.Yamaz.) T.Yamaz. であり,山崎敬を命名者とし, in K.Iwats. et al., Fl. Jap. 3a: 354 (1993) が原記載文献として挙げられている.この学名は環境省第4次レッドリスト2012)●絶滅危惧Ⅱ類(VU)で用いられており,政府機関で採用されているという意味では,それなりの重要性があるやに考えられる(2015/03/11 閲覧)
下表 13. 日本植物分類学会『日本植物誌DB Flora of Japan (http://foj.c.u-tokyo.ac.jp/gbif/)』のイヌノフグリの項には,イヌノフグリを V. polita の亜種 (subspecies) とした山崎敬自身のコメントが載っている.
” Subspecies polita of Europe has the larger and blue corollas 5--6 mm across, and the pedicel short pubescent with hairs generally 3--4-celled, sometimes mixed with 5--6-celled hairs. In subsp. lilacina the pedicel has hairs generally 5--8-celled, sometimes mixed with 3--4-celled hairs.”.命名者が変種から亜種にランクを上げた理由は読み取れなかった.

以下に手持ち及び閲覧可能な最近の図鑑類で,イヌノフグリの学名として上記のどれが採用されているかを示した.圧倒的に④のVeronica dydima Tenore v. lialacina が多い.

1.
長田武正『原色日本帰化植物図鑑』保育社 (1976)
V. dydima v. lialacina
2.
長田武正『原色野草観察検索図鑑』保育社 (1981)
V. caninotesticulata
3.
林弥栄ら編『日本の野草 (山渓カラー名鑑)』山と溪谷社 (1983)
V. dydima v. lialacina
4.
長田武正ら『検索入門 野草図鑑 (7) さくらそうの巻』保育社 (1985)
5.
『世界大百科事典(4)』平凡社 (1988)
6.
佐竹義輔ら編『フィールド版 日本の野生植物 草本』平凡社 (2000)
7.
北村四郎ら『日本原色植物図鑑 草本編(1)合弁花類』保育社 (2002)
8.
大井次三郎ら『エコロン自然シリーズ 植物Ⅰ』保育社 (2004)
V. caninotesticulata
9.
清水矩宏ら『日本帰化植物写真図鑑』全国農村教育協会 (2008)
V. dydima v. lialacina
10.
岩槻秀明『街でよく見かける雑草や野草がよ-くわかる本』秀和システム (2006)
11.
環境省第4次レッドリスト(2012)●絶滅危惧Ⅱ類(VU(2015/03/11 閲覧)
V. polita. subsp. lilacina
12.
岩槻秀明『街でよく見かける雑草や野草がよ-くわかる本』秀和システム (2014)
V. dydima v. lialacina
13.
日本植物分類学会『日本植物誌DB Flora of Japan(2015/03/11 閲覧)
V. polita. subsp. lilacina

イヌノフグリは多くの県のレッドリストに載っているが,その学名は上記の③⑤⑥とさまざまに分かれているが,環境庁リストのように⑥に統一した方がすっきりとはする.