秋になると薄紫色の優しい花の穂を立てる多年草.今は秋の野の花としても見過ごされがちだが,江戸時代にはその球根は飢饉の際の救荒植物として重要だった.
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貝原益軒『大和本草,巻之九 草之五,雑草類』(1709) には,「綿棗児(ツルボ) 野圃ニ多ク自生ス 葉ハ薤ニ似テ 若キ苗ハ紫色ヲ帶フ 冬モ葉アリ 枯レズ ツルホハ京都ノ方言也 筑紫ニテハ ズイヘラト云 根ハ水仙ノ如シ 救荒本草曰 一名石棗兒 根ハ獨頭蒜ニ似たリ 花ハ莧(ノビユ?)ノ穂ニ似テ淡紅 微シ紫色ヲ帶フ 其子(ミ)小ニシテ黒色 根味甘ク 根オ採取シ水ヲ添ヘ久シク煮テ 極テ熟シ之ヲ食フ 水ヲ換ヘズシテ煮テ食ヘハ 後腹中鳴テ下氣有リ
國俗ニ 婦人ノ積滯アルニ煮テ食スレハ驗アリト云 虚人ニハ不可也 性冷滑ニシテ瀉下ス 飢人食ヘハ瀉下シヤスク 身ハルルト云 故ニ凶年ニモ多ク食ハス 水ヲカヘテ久シク煮レハ害無 村民之オ知ラズ 是ヲスミレト云ハ誤レリ 水ヲカヘテ久ク煮ル事ヲ貧民ニ教フ可シ」と,植物の形状とともに「ツルボ」は京都地方の方言,筑紫では「ズイヘラ」と呼ぶ.あまり知られていないが,救荒植物として用いられることを『救荒本草』を引用して処理法と共に紹介している.
この知識は,九州地方で共有されていて,天明の大飢饉の際に九州を訪ねた橘南谿 (1753 - 1805) の『西遊記 巻之六』には,彼が経験した以下の惨状が綴られている.
「飢饉
近年打続き五穀凶作なりし上、天明二年(注 1782年)寅の秋は、九州飢饉して人民の難渋いふばかりなし。
村々在々は、かず根といひて、葛の根を山に入て掘来り食せしが、是も暫の間に皆掘つくし、かなづち(注 イケマの根か,ガガイモの根か)といふものを掘て食せり。是もすくなく成ぬれば、すみらといふものを掘りで其根を食せり。 (中略)
すみらといふものは水仙に似たる草なり。其根を多く取あつめ、鍋に入れ、三日三夜ほど水をかへ、煮て食す。久敷(ひさしく)煮ざれば、ゑぐみ有て食しがたし。三日程煮れば至極やはらかになり、少し甘み有やうなれど、其中に猶ゑぐみ残れり。予も食しみるに、初め一ツはよし、二ツめには口中一ばいに成て咽に下りがたし。あわれなる事筆の書つくすべきにあらず。予一日行キつかれて、中にも大(おおき)にしてきれいなる百性の家に入て、しばらく休息せしに、年老たる婆(ばば)壱人也。「いかゞして人のすくなきや」と問へば、「父、子、嫁、娘、皆今朝七ツ時よりすみら堀に参れり」といふ。「それは早き行やうなり」といへば、「此所より八里山奥に入ざればすみらなし。浅き山は既に皆ほりつくして食すべき草は壱本も候はず。八里余、極難所の山をわけ入、すみらを掘て此所へ帰れば、都合十六里の山道なり。帰りも夜の四ツならでは帰りつかず。朝七ツも猶おそし。其上近き頃は皆々空腹がちなれば、力もなくて道もあゆみ得ず」といふ。「其すみらいか程か掘り来る」といへば、「家内二日の食にはたらず」といふ。扨も朝の夜より其の夜まで十六里の難所を通ひ、三日三夜煮て、やうやうに咽に下りかぬるものをほり来りて露の命をつなぐ事、あわれといふもさらなり。
中にも大なる家だにかくのごとし。まして貧民の、しかも老人、小児、又は、後家、やもめなどは、いかゞして命をつなぐ事やらん、とおもひやれば胸ふさがる。」 (板坂耀子,宗政五十緒 校注『新日本古典文学大系 98,西遊記』,岩波書店 より引用,一部の旧字,旧かなを新字,新かなに変更) と実際に食した経験をも記している.すみらはツルボの地方名で,救荒食としては葛の根,かなづちの次の選択であったようだ.
ツルボ (3/3),日葡辞典,ケンペル,ツンベルク,シーボルト,牧野
https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2012/11/33.html
ツルボ(2/3) 広益地錦抄,花彙,物類品隲,本草綱目啓蒙
https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2012/10/23.html
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