Tropaeolum
majus
2015年7月 |
南米ペルー原産.原産地では多年草であるが,温帯では,一年草として栽培される.ノウゼンハレン類の一種(たぶん T. minor ヒメノウゼンハレン)がヨーロッパに移入されたのは比較的古く,ドドネウスの本草書では,1616 年の版には図と共に記事がある.学名をつけたリンネによれば Tropaeolum majus は,1684 年にペルーから欧州に舶来した.
日本には,赤花を弘化二年(1845,三年との説もある
)にオランダ船がアナナス(パイナップル?)とともに長崎に持ち渡り,翌年には江戸に入って流行し,また,嘉永元年(1848)には,黄花をつける株がでてきて,江戸の花戸,内山長太郎が売り出した.なお,ノウゼンハレンは純然たる和語で,「花はノウゼンカズラに似て、葉が蓮(れん ハス)に似ている」の意を,オランダ語めかして名付けたと,伊藤圭介の『植物図説雑纂』にある.
原産地や欧州では,観賞用以外に薬用植物(ビタミンCが豊富なので抗壊血病)やサラダ用の野菜としても利用されていたが,日本ではもっぱら花卉としての価値が高かった.
★岩永文禎(1802 - 1866)『鍾奇遺筆』,文禎は大坂の医師・博物家.本書はその備忘録的著作で、冊5には草木に関する記事が少なくない.その冊五には
「アナヽスホウム ノウゼンハヽレム 二品弘化二年冬十二月和蘭齎来
アナヽスノ 形ハ草アタンニ似テ葉辺鋸歯ハリノ如シ 実ノ形蘇テ
ツノ如ク夫ヨリ又葉ヲ生ス 実ハ食用ナル* 甜味ノヨシ
ノウゼンハヽレム 形状ハ葉ハ蓮ノ至テ小ナル者ノ如シ 蔓艸ナリ 花
ハノウゼンカツラノ如ク香気アリ 枝ヲ折リサセガ活ス 寒ヲ恐ル」とあり,渡来経由と時期,及び簡単な性状の記載がある(左図,NDL).* パイナップルか?
★松平定朝 (1773 – 1856) 『百花培養集』上巻:自序 嘉永元年 (1848),後編:自序 嘉永二年 (1849) には書名通り,「一.牡丹」から,「百.芍薬」まで 100 種の観賞用花卉の項があり,天竺牡丹(ダリア)やオギザリスなど,渡来植物の記事も多い.
百花培養集-総目録 NDL |
「十四 トロパアーヲユルシマユス 長崎方言 ノウゼハレン
百花培養集 NDL |
葉の形蓮に似てさし渡し二寸程に生す 蔓棣○に似○○○○竹木○まとひ生立ちものにものばす 地上を這○○○○夏四月前よ里紅蒲五英の○○○○○○○○さし芽○○○○○○○○根を卸ろし○○を○○○○實多くして熟して散乱せ○時は○○○蒔○○は早きハ五六日○○○○芽○○○○廿日程○○○芽○○○○肥ゆるその秋を○○○冬中○○宿根し翌春彼岸○○○俄に肥繁生す 枝多く生○○○○○多く○○○○實熟し採○○○後ハ蔓衰○○○○○繁生○○○○切詰○れは新芽多く吹○再○○○○芽は追○枝を○夏○用ゆ繁生○○○多し 弘化三年臘月浪華より場師長太郎買入 差芽実生多く培養し俄に流布○○○美○○○暑○○○○ハ○○○○葭簀の下○養されハ○○す実生多く生す○勢○○○ 今年長太郎園圃よ里黄花の一品を賣○○○ 舶来の一品○○未曽有の○○な里」
と解読不能文字(〇)は,多いものの,紅色や樺色の五辧の花をつけ,渡来一年後の 1847 年には長太郎百合に名を残す植木屋内山長太郎(1804-1883)が江戸にもたらし,俄に流行した.さらに,黄色い花をつける種が売り出されたが,これは渡来した花としては,これまでにはない事だとある.
定朝は江戸幕府の旗本で,花菖蒲の育種家として知られる. 1796年に父 松平織部家6代目松平定寅の死去に伴い,安房国朝夷郡,長狭郡内2,000石を相続し,小普請となり,その後西丸目付,京都西町奉行,小普請組支配を歴任したが,1835年職を辞し,子の松平定央に家督を譲り隠居する.父の影響で幼い時より花を好み様々な草花を栽培し,特に父から受け継いだ花菖蒲の改良は,京都在任中も含めて,晩年まで実に60年もの間継続し,1845年には自作の品種の栽培方法などを「花菖培養録」に著した.
★渡辺又日菴(1792 - 1871)『新渡花葉図譜』(天保末年から明治初年,転写:伊藤圭介の五女,伊藤篤太郎の母の小春(1914))には,
「ノフゼンハーレン 花戸の名 ゴローナ スパーンセ ケルス 蘭名 慾斎出」とあり,種か,蘭名が慾斎からが出たとされ,飯沼慾斎が関西(又日菴は名古屋在住)の渡来植物普及の中心であったことが伺える(マツバボタンの項,参照).
★毛利梅園(1798 – 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)
新渡花葉図譜 乾 23 NDL |
江戸後期の博物家.名は元寿,号は梅園,楳園,写生斎,写真斎,攅華園など.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.
その,夏之部第八には「凌霄葉蓮 ノウゼンバレン 又 凌霄荷葉 花戸
此者阿羅陀ヨリ弘化三丙午年
始テ将来人皆甚重シス亦近年黄
花ノ者江戸ヨリ出ス挿芽ヨリ変生
スト云能挿レセハ幹ミキヲ即活ツク故ニ今ハ所々ノ
花戸ニアリ四月ヨリ九十月迄花ノ盛
久シ
巳酉*林鐘**十日庭
園瓦器挿芽眞寫」とある.*嘉永二年(1849) **陰暦六月の異名〔色葉字類抄〕
★馬場大助(1785〜1868)『遠西舶上画譜』紙本着色 /安政2年(1855)写
には,濃紫色の花のノウゼンハレンが描かれている.突き出した距に注目している.
弘化三丙午年洋船載來ル草蔓ニシテ葉ハ蓮葉
ニ似テ小互生ス夏花ヲ開キ形チ紫葳花2) ニ似
テ小色?丹紅色ニシテ底ニ紫斑アリ葶酔仙3)又坐
奴草4)ノ如シ○幹背ハ〇○色後実ヲ結ヒ多?ク
ノ三稜内ニ三子アリ香氣山崙菜5)ノ如シ物印
満6) 七百五十二ニ図アリ「ナスチユルチユム」ト
アリ「インド」ノ産ト云
「ノウゼンハレン」ト云ハ土俗ノ偽名ニシテ花紫葳
ニ似葉蓮ニ似タルヲ以テ云」
1)
六百薬品:★山本錫夫(1809-1864)『和蘭六百薬品図』安政五年(1858)写
左:和蘭六百薬品図 四,右:原画 |
天保期(1830-43)には舶載され,本草学者に利用されたオスカンプ等編『薬用植物図譜』(Oskamp, D. L.: Afbeeldingen der artseny-gewassen met derzelver
nederduitsche en latynsche beschryvingen..( 1796 - 1800))の図のみをすべて模写したもの.ラテン名,オランダ名,漢名,和名を付記する.部分図の省略は見られるものの,繊細な筆致で丁寧に再現されている.巻末に「安政五年戌午夏四月十日 平安榕室山本錫夫 題名」の墨書があり,本草学者山本榕室(1809-1864)が漢名,和名を付記したものと思われる.原書の図は手彩色された銅版画である.榕室については「マツバボタン」の項,参照.
2) 紫葳花:ノウゼンカズラ,凌霄葛. 3) 葶酔仙:ホウセンカ(鳳仙花)か. 4) 坐奴草:坐拏草(ツリフネソウ)の書き損ないか. 5)山崙菜:不明
6) 物印満:ウェインマンJohann
Wilhelm Weinmann (1735-45) .ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬学者・植物学者で,その著書『Phytanthoza-Iconographia,薬用植物図譜』は1737年から1745年の間に出版された.この書にはメゾチント印刷に手彩色の1000以上の図版(植物画家として知られるエイレットGeorg Dionysius Ehret, 1708 -1770) が原画を描いた)が収録されている.江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に伝わり,当時の本草学者に影響を与えた.
江戸末期から明治にかけて,日本の植物学の黎明期を支えた伊藤圭介が,植物に関する私的資料を集めた★『植物図説雑纂』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608083) の第130分冊には,ノウゼンハレンの項があり,種々の先行資料の抜粋や切り抜き,彼の研究結果が記されている.そこは彼自身の考察「金蓮花考」には
「金蓮花一名大紅鳥花戸ニ凌霄花蓮ト呼ビ洋名ハ「トロペオリュス マユス」ニシテ米洲孛露*ニ自生シ西暦一千六百八十六年世ニ創見セラレ弘化二年我邦ニ蘭舶齎来セシ者ナリ花ノ大小色亦紅黄濃淡等数種アリ今諸国ニ傳栽シ世人愛玩シ知ルモノニシテ且コノ冊紙陜隘ナルヲ以テ今茲ニ形状ノ詳説ヲ贅セズシテ只ソノ名實ヲ略記スルノミ植物名實圖考ニ此圖ヲ掲ゲ又其説ニ云金蓮花在直隸圃中蔓生絲莖脆嫩圓葉如荷葉開五辨紅花長鬚茸々花足有短柄橫翹如鳥尾京師俗呼大紅鳥山西五臺尤多以為佛地靈葩云々此説ニ据レバ支那ニモ自生アリト見ユ洋説ニ此草藥用トシテ壊血病ニ効アリト云
明治十三年五月時齢七十七丈五月翁
錦窠伊藤圭介識」とあり(下図,右部,NDL),『植物名實圖考』の記述の引用(下線部)があり(次Blog),また,西洋では壊血病に効果がある薬草との説があるとしている(*孛露:ペルー).
この洋説の元が何かは記されていないが,上に記したウェインマンの『Phytanthoza-Iconographia,薬用植物図譜』のナスタチウムの項には,新しい切傷と壊血病に効くとある.
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