2020年4月6日月曜日

レンゲツツジ (8)  羊躑躅 レンゲツツジ.増補花壇大全,接木口傳 花壇叢木画譜,躑躅皐月名寄集,日光山草木之図,本草図譜,梅園草木花譜,有毒草木図圖説


Rhododendron molle subsp. japonicum

★『増補花壇大全 全部八冊』
浪華書林 崇高堂 龍章堂    青藜館    麗章館 合梓
★『接木口傳 花壇叢木画譜
後付けには両者とも
「文化十年癸酉春増補
書肆       京都 菱屋孫兵衛 仝 林伊兵衛                      江戸 須原屋茂兵衛           大阪 河内屋八兵衛           仝 河内屋吉兵衛        仝 今津屋辰三郎 仝 松本新助」
とあり,跋や扉絵,巻数を除いて,全く内容は同一で,版木も同じものを用いている.多くの園芸植物の名称,図,育て方が記載されている.図は一ページに複数の植物が描かれ,『増補地錦抄』の雰囲気に似ている.
『増補花壇大全. 巻五』及び『花壇叢木画譜 巻六』には,図とともに「蓮華(れんげ)つヽじ」が記載され「一名 ??んつヽじ」と別名が追記されている.
花のつき方や葉の先端が丸いレンゲツツジの特徴が良く把握されている.別名は解読できなかったが「一名 くわいんつヽじ」の可能性があり,そうならば,『長生花林抄』(1692) の「くちば」と「れんげつゝじ」の間に記載されている「くわりん」も花色の異なったレンゲツツジの可能性もある.

★伊藤伊兵衛『躑躅皐月名寄集』(1693)(同八年(1696)亥 写,文化十二年(1815年)亥年 西郷久章 写,同年 後藤宗賢 写)
内容的には,前年に刊行された伊兵衛の著書「長生花林抄」と同じツヽジ・サツキのモノグラフであるが,この書では「長生花林抄」の「くちば」が「朽葉」とされ,記述文がだいぶん簡略化され,「本草綱目」の羊躑躅への言及はなくなっている.また,「くわりん」(かりん)と「蓮華つヽじ」の記述はほぼ同一である.
変体仮名の記述文は完全には読み解けなかったが,「朽葉」はキレンゲ,「くわりん」はコウレンゲ,「蓮華つヽじ」がカバレンゲように思われる.

岩崎灌園(名は常正,号は灌園,通称は源蔵,源三,1786 - 1842)は,幕府の徒士の子で江戸下谷三枚橋に生まれる.本草学を小野蘭山に学び,若年から本草家として薬草採取を行う.1809年幕府に徒士見習いとして出仕する.28年『本草図譜』9692冊を完成,30年から44年にかけて出版した.本書は外国産も加えた約2000種の植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である.

★岩崎灌園『日光山草木之図 七巻,目録一巻』(1824)は彼が文政七年に日光地方の藥草採取旅行で観察した本草品の記録であり,観察地と美しい図からなる.
その巻之七に「きれんげ」の名で,キレンゲツツジの図がある.雄ずいが5本あり,若葉が先端が丸く外まきで裏面が蒼白色であるレンゲツツジの特徴を忠実に写生ている.

★岩崎灌園『本草図譜』は彼が20歳代から準備をすすめ20年をかけて作成され,文政11年(1828年)に完成した.これまでの本草書の図版が欠落していたり,精密さに欠けることに不満を感じた灌園が,自ら描いた2000種の図を集大成したもので,92冊からなり,李時珍の『本草綱目』にしたがって配列された.5巻から10巻は木版印刷して出版された(14巻は『本草項目』が植物以外の薬の項目であるため5巻から始まる).その他は模写によって配布された.描かれた植物は自ら写生したもののほか,ヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマンの『花譜』からの転載も含まれた.

その「巻之二十三 毒草類」に
羊躑躅(やうてきちょく)             きれんげ             れんげツヽジ     映山黄 撿蠹随筆

木曽愛知川驛にあり稀に庭中に栽う小木なり高さ三四尺叢生す葉ハ桃に似て尖り
なく黄綠色毛茸あり春月葉に先て花開く枝の梢に五七蕚周り附く花の形本
筒にして末五辧萱草花に似て小く黄花なり此保昇の説に似桃花花黄似
と云是なり

一種      淡紅花の物
形状相似て但花淡紅色なり致富全書に羊躑躅有紅黄各種と云う

一種      黒船つヽじ
地錦抄に寛文
中に渡るといふ葉
大にして石楠しやくなきに
似て短く尖り花色
も石楠に似たり

一種 紅れんげつヽじ
と三種の羊躑躅が記載されている.「一種 紅れんげつヽじ」はコウレンゲであろうか.
また,クロフネツツジ (R. schlippenbachii) は一名カラツツジ.朝鮮に分布する「躑躅の女王」とも呼ばれる美しい花を着ける.「寛文中に渡る」とあるように江戸初期に渡来,葉が有毒との説があるため,羊躑躅の一種とみなされたのであろう.

★毛利梅園(1798 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849
江戸後期の博物家.名は元寿,号は梅園,楳園,写生斎,写真斎,攅華園など.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.
他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.

この 『梅園草木花譜』夏乃部七 には,
蓮華躑躅
丙午四月十日後園折枝眞
寫」とあり,折り取ってきた枝を写生したとある.
彼の図は全て精密・正確であり,しかも美しい.この図に於いても花序や蕾の性状,葉の形状が正確であり,花弁の中心に向けて黄味がかった色のグラデーション,葉の先端の丸さなど,江戸時代のレンゲツツジの絵としては屈指の物であろう.彼は多くの植物の絵には異名や出典などを記すことが多いが,これには名称のみ.
丙午:1846年,弘化3

★清原重巨『草木性譜』『有毒草木図圖説』は,1827年(文政十年)に同時に刊行された.この2冊は相互関連をもつもので,わが国独自の本草・博物学の到達点とされる.『有毒草木図圖説』は毒性のある植物百二十二種を選び,前後二編・附録の二巻の構成である.有毒植物に関するまとまった図説としては本邦初のものと言える.
本書は,当時毒性のあるとされていた植物の図譜並に解説書であるが,通常の著作本とは少々異なり,編者は舎人(とねり)重巨(じゅうきょ)(姓は清原,字名(あざな)は君規,又は武兵衛)尾張藩世臣,藩主宗睦(むねむつ)の小姓から身を起こし,後に四百石を禄した)である.
当時尾張では,京都や江戸と並び称されるくらい,本草学が盛んで松平君山を筆頭として水谷豊文(ほうぶん),沼田正民,大窪昌幸らがおおいに活躍した.そうした多くの研究者,同好者三十九人に草木一品以上を受け持たせ,挿図並びに解説文の寄稿をもって成立した.
その『有毒草木図圖説』後編には,

羊躑躅 いやうてきちやう,ちやうせんつゝじ 本草綱目
大毒阿り 山中の産なり葉山--(さんてきちやう,やまつゝじ)に比すれば長-大にして
形粗石楠(せきなん,しやくなんげ)の葉に似たり春黄-花を開くきつつじとも云ふ
-目釋-名云羊食其葉躑躅而死故名とす
れんげつゝじは其一-種なり」
とある.図の印鑑は,書の凡例の「圖印鑑」によれば,「舎人經榮」との事であるが,詳細は不明.

0 件のコメント: