Scilla peruviana
スペイン・ポルトガル・アルジェリア・チュニジア原産のオオツルボは,そのエキゾティックな花が高く評価されて,欧州各地の庭園で育てられた.
イタリアの植物学者 ジョルジョ・ボネッリ(Giorgio Bonelli,1724 - 1803)は,ローマに在った植物園に栽培されていた植物の図録を当時主流のトゥルヌフォール(Tournefort)の分類法に基づいて著わした “Hortus Romanus juxta systema Tournefortianum” (Hortus Romanus, 1772 - 1793 ) には,栽培されていたオオツルボの美しい図が収載されている.
フランスの植物学者であるルネ・デフォンテーヌ(René Louiche Desfontaines、1750 - 1833)は,パリ植物園の植物学の教授になった後,チュニジアとアルジェリアで2年間の採集旅行に赴き,多くの植物標本を持ち帰った.著書『大西洋の植物』 “Flora atlantica :sive
historia plantarum quae in Atlante, agro tunetano et algeriensi crescunt”(Flora Atlantica, 1798–1799, 2 vols)には300種の新種を記載したが,この書にも,図はないもののオオツルボの記述があり,「生育地(Habitant)は(チュニジアとアルジェリアの)“arvis”(原野)」とし,「庭で育てられると,野生種より淡い色もしくは白い花をつける」としている.この書の挿図はルドゥーテ兄弟(Pierre-Joseph Redouté & Henri-Joseph
Redouté*)が手掛けている.
18世紀中-末に活躍したイタリアの医師・植物学者
ジョルジョ・ボネッリ(Giorgio Bonelli,1724 - 1803)は,イタリア北西部ピエモンテ州クーネオ県モンドヴィ(Mondovì)近郊のヴィコフォルテ(Vicoforte)で生まれ,そこで最初の学業を終えた後,奨学金を獲得しトリノ県立大学(Collegio delle province di Torino, College of the Provinces of Turin)で医学の学位を取得した.モンドヴィに戻って医師としての活動を始めたが,ボネッリは,職務の遂行に忙しかったにもかかわらず,植物学に対する情熱を捨てることはなく,トリノでの研究期間中に,ジョヴァンニ・バルトロメオ・カッチャ(Giovanni Bartolomeo Caccia, 1695 – 1746,トリノ大学植物園の初代園長)の指導の下で植物学を深く研究し,植物学者のカルロ・アリーニ(Carlo Ludovico Allioni, 1728 - 1804)やジュリオ・ポンテデーラ(Giulio Pontedera, 1688 – 3 September 1757)とは交流を続けていた.
若くして妻を亡くしたボネッリは,より実りある科学的議論に参加したいという願望に駆られてローマに移ることを決意し,そこで医師としての診療を始めた.彼は,ある高名な人物(身元は不明)を治癒してローマの高貴な貴族や高位聖職者の間で評判を得た.1757年,彼はラ・サピエンツァ大学(Università della Sapienza)の実用医学講師(medicina pratica presso)の地位を勝ち取り,その後は順調に出世し,医師会(Collegio degli archiatri, College of Archiatrists)のメンバーに選出され,教皇の主任医師(protomedico pontificio)を何度も務めた.
1770年頃,ローマ在住のフランス人書店主兼出版者であるブシャール(Bouchard)とグラヴィエ(Gravier)は,ローマ植物園(Orto
botanico di Roma, Botanical Garden of Rome)の植物の系統的かつ図解入りのカタログを印刷する計画を立て,ボネッリにその学術的な指導を依頼した.名誉に感じたボネッリは招請を受け入れ,第一巻では植物学の発展の状態とさまざまな分類システムの関係についての概要を提供することを目的とした内容の濃い序文を執筆した.トゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort, 1656 - 1708)の分類法の訓練を受け,熟達していたボネッリは,それが学習に適していると考え,カタログの起草にそれを採用した.図解部分は植物園の管理人であるリベラト・サバティ(Liberato Sabbati, 1714-1778)に,タイポグラフィーは,パウリ・ユンチ(Pauli Junchi, 1772 - 1793)が担当した.
理由は不明だが,この叢書の方向性は第1巻の直後にボネッリからサピエンツァ大学の植物学教授ニコラ・マルテッリ(Nicolo
Martelli, 1735-1829)に委ねられた.マルテッリはこの作品にリンネ的な性格をもたせ,第 2 巻の序文で方向性の変更を正当化した.リベラト・サバティの死後,図は息子のコンスタンチノ(Constantino, fl 18th cent-)が受け継いだ.
この叢書は全8 巻からなり,最終巻は 1793 年に出版された.
この叢書の第六巻に,Ornithogalum(オオアマナ屬)に属するとして,7 Ornithogalum Eriophorum peruvianum の名で栽培されていたオオツルボの美しい図が収載されている.
GENUS VII.
Ornithogalum T. & L.
FLorem habet liliaceum, corolla hexapetala, erecta,
persistenti, supra mediam patenti : Capsulam subro-
tutidam angulatam : Stamina sex alterna basi dilatata:
Stylum unum.
(中略)
7 Ornithogalum Eriophorum peruvianum I. R. H. 381.
Bulbus Eriophorus peruvianus C. B. Pin. 47. Erio-
pherus peruvianus Clus. Hist.173.
(後略)
図には
Ornithogalum umbellatum, majus Sive
Hyacinthus Peruvianus
Ital. Giacinto del Peru, Gall. La Sqiulle
と,ラテン語名とともに,イタリア語とフランス語の俗名が美しいタイポグラフィーで記されている.(冒頭図)
フランスの植物学者であるルネ・デフォンテーヌ(René
Louiche Desfontaines、1750 - 1833)は,イル=エ=ヴィレーヌ県のトランブレ (Tremblay) に生まれた。レンヌのコレージュ
(Collège de Renne) を出た後、1773年に医学を学ぶためにパリに出た。パリ植物園 (Jardin des Plantes) でルイ・ギョーム・ルモニエ (Louis
Guillaume Lemonnier, 1717 – 1799) の講義を聴いて植物学への興味を抱いた。1783年には Académie des sciences (French Academy of Sciences)の会員に選ばれ,また,彼はAcadémie
Nationale de Médecine の会員でもあった.
1783年,彼はチュニジアとアルジェリアへ2年間の採集旅行に赴き,多くの植物標本を持ち帰った.1786年にはルモニエ(在職:1759 - 1786)の後を継いで,パリ植物園の植物学の教授になった.
フランス革命の荒波も乗り越え,彼は後に国立自然史博物館(Muséum National d'Histoire Naturelle)の館長となり,またフランス学士院(Académie des sciences (Botanique).)の創設者の一人であり,科学アカデミー会長を務め,その功績をたたえられレジオンドヌール勲章を受章した.
彼はチュニジアとアルジェリアの採集旅行で得られた,多くのタイプ標本を含む
1480 の標本を収蔵する “Flora Atlantica” を設立していたが,死後パリ市に寄贈された.
アフリカ旅行で得られた知見を著した『大西洋の植物』 “Flora atlantica :sive
historia plantarum quae in Atlante, agro tunetano et algeriensi crescunt”(Flora Atlantica, 1798–1799, 全二巻)には300種の新種を記載した.第一巻298ページには Scilla perviana とリンネの命名した学名でオオツルボが,アルジェリア・チュニジアの原野に生育していると記載されている.第一巻には120の,第二巻には 141 の,計261枚もの,P. J. Redouté (1759 - 1840) 及び 弟のH. J. Redouté* (1766 - 1852) の原画によるステイツプル・エングレービング(点刻彫版)のモノクロームの美しい図が収められている.残念ながら,既によく知られている植物ゆえか,オオツルボの絵はない.
SCILLA PERUVIANA.
SCILLA corymbo conferto, conico. Lin. Spec. 442.
Ornithogalum coeruleum lusitanicum latifolium. T. Inst, 381. — Schaw.
Specim. n. 447.
Hyacinthus indicus bulbosus stellatus. C. B. Pin. 47.
Hyacinthus stellatus peruvianus. Clu. Hist. 173 et 182. Ic.
Hyacinthus stellatus peruvianus multiflorus, flore coeruleo. Moris. s. 4 .
t. 12. f. 19.
Hyacinthus peruvianus. J. B. Нist. 2. p. 585. Ic — Ger. Hist. 109. Ic.
BULBUS ovatus,
magnus, solidus, tunicatus. Folia jacentia aut decum-
bentia, in orbem expansa, margine ciliata, laeviter undulata, 11 — 15
millimetr. lata, 11 — 27. centimetr. longa, basi canaliculata. Scapus foliis
brevior. Flores coerulei aut violacei, numerosissimi, conferti, corym-
bosi; corymbo maximo, convexo. Bracteae membranaceae, longae, lan-
ceolatae, acutae. Corollarum laciniae ellipticae, subacutae, patentes, hori-
zontales. Stamina concolora, corolla breviora. Floret Hyeme. In hortis
flores saepe pallidi aut albi.
HABITAT in arvis. ♃
* アンリ=ジョゼフ・ルドゥーテ(H. J. Redouté, 1766 – 1852)は“花のラファエロ”として知られるピエール・ジョセフ・ルドゥーテ(P. J. Redouté, 1759 – 1840)の弟で,博物画家として知られている.
ベルギーのディナン(Dinant)出身で,父・シャルル=ジョゼフ・ルドゥーテ(Charles-Joseph Redouté, 1715-1776)は,パリのアカデミー・ド・サン・リュック(L'Académie de Saint-Luc)で絵を学んでいたところ,1743年にサン=テュベール (Saint-Hubert) の大修道院から修道院や教会の装飾を依頼され,サン=テュベールへと移住した.シャルル=ジョゼフはサン=テュベールの質素な庭付きの一軒家で妻(Marguerite- Josephe Châlon, 1712 - ?)と暮らし,6人の子供をもうけた.それら6人のうちのピエール=ジョゼフを含む3人の息子たち(長兄:アントワーヌ=フェルディナンド(Antoine-Ferdinand Redouté, 1756-1809),末弟:アンリ=ジョゼフ)は父親と同様,絵の道に進み,サン=テュベールの修道院の装飾を手伝いながら絵の修業をしていた.当時修道院で庭園の手入れを行っていた医師兼薬剤師の修道士,イックマン(Hickmann)が若き日のピエール=ジョゼフ・ルドゥーテに植物の世界との出会いをもたらしたといわれている.
後に三兄弟はパリで,美術の分野で活躍した.
長兄のアントワーヌ=フェルディナンドは舞台装飾のほか、フランスの現エリゼ宮やコンピエーニュ城などの内装を手掛ける装飾画家として,実績を残した.
ピエール=ジョゼフはフランドルやオランダを旅したのち、兄のいるフランスへと渡りマリー=アントワネット(Marie-Antoinette, 1755-1793)やナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)の妻ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763-1814)のお抱えの植物画家となり,またのちのベルギー王妃である、ルイーズ=マリー・ドルレアン(Louise-Marie d'Orléans/1812-1850)をはじめ、特権階級の子女にデッサンの指導も行っていた。自ら開発したと称する「多色点刻銅版画」を駆使した大判花譜「バラ図譜」「ユリ科図譜」「名花選」を出版した.
末弟のアンリ=ジョゼフは.1785年にパリで兄弟たちと合流し,自然史のデッサンを学び,その後自然史博物館でネコ科の画家に任命された.1798年,彼はナポレオンの「エジプト遠征軍」随伴する調査隊に招かれ,その才能により科学芸術委員会の委員としての地位を獲得した.したがって,彼はボナパルトのエジプト遠征に同行した167人の科学者,技術者,植物学者,芸術家のうちの1人でした.彼は1798年4月23日にパリを出発し,7月6日にアレクサンドリアに到着し,8月から9月にかけてデルタ地帯を探検した.博物学者のエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレール(Étienne Geoffroy Saint-Hilaire, 1772 - 1844)は彼を専属画家に任命し,1798年8月22日,エジプト学院(Institut d'Egypte)芸術部門の会員に任命され,9月22日にカイロに到着した.
彼がエジプトを去ったのは,メヌー将軍の降伏(1801年9月2日)後のことだった. 1802年1月8日にパリに戻った彼は,博物館での職に復帰し,『エジプト記述』の寄稿者の一人となったが,彼については今ではほとんど語られていない.
委員会がフランスに戻ると,委員たちはエジプトでしばしば極めて困難な状況下で作成された多数の文書(メモ,スケッチ,図面など)を収集し,出版する作業に着手しました.これらの業績は後に1809年から1828年にかけて刊行された『エジプト誌』 Description de l'Egypte にまとめられ,エジプト学の成立に大きく寄与した.本文は「古代遺物」4巻,「現状」3巻,「博物」2巻の計9巻にわかれ,図版は超大型本で「古代遺物」5巻,「現状」2巻,「博物」3巻,「地図」1巻の計11巻よりなっている.アンリ=ジョゼフは,特に博物の図譜に多くの作品を残している.
アンリ=ジョゼフは兄ピエールと共に,上記『大西洋の植物』”Flora atlantica” の他にMichaux, F. A.,
“North American sylva” (1817-1819) (N. Amer. Sylv.), にも挿図を担当しているほか,単独で,『エジプト誌』の他にも多くの博物誌の植物画を描いている.
1. “Journal d’histoire naturelle” (Journ. Hist. Nat. Paris), vol. 1 (1792) t. 19
name cited: Hydrophyllum magellanicum Lam.,
name recognized: Phacelia secunda J. Gmelin
2. Lamarck, J.B.P.A. de Monet de, Poiret,
J.L.M., “Tableau encyclopedique et methodique des trois règnes de la nature,
Botanique. Illustration des genres” (1791-1823) (Tabl. Encycl.), vol. 4 (1795),
t. 828
name cited: Dombeya chilensis Lam.
name recognized: Araucaria araucana
(Molina) K. Koch
name recognized (basionym): Pinus
araucana Molina
3. Desfontaines, R.L., Flora Atlantica
(1798-1799)(Fl. Atlant.), vol. 2 (1799), t. 239
name cited: Anthemis punctata Vahl
name recognized: Anthemis punctata Vahl
4. Raffeneau-Delile, A., “Flore d’Egypte,” Plates [in: Description d’Egypte]
(1826) (Descr. Egypte, Hist. Nat.), vol. 3 (1813), [Plates] t. 60 (1813)
name cited: Nymphaea lotus L.
name recognized:Nymphaea lotus L.
5. Michaux, F.A., “North American sylva”
(1817-1819) (N. Amer. Sylv.), vol. 2 (1819), t. 63
name cited: Platanus occidentalis L.
name recognized: Platanus occidentalis
L.
6. Thory, C.A., “Prodrome de la monographie
du genre Rosier” (1820) (Prodr. Monogr. Rosier) (1820), t. 1, t. 2
name cited: Rosa spinulifolia Dematra
name recognized: Rosa pendulina ×
tomentosa