2025年10月22日水曜日

モミジアオイ(12) 種から開花まで 紅蜀葵播種三年を焦れて待ち 布川直幸

 Hibiscus coccineus

紅蜀葵播種三年を焦れて待ち       布川直幸                   201107

モミジアオイは,株分け或は種子から育てる.通常,夏から秋にかけて取れる種子を翌春に播き,発芽した株を育て,秋に枯れた地上部を刈る.その翌春,株元から出た芽はぐんぐんと育ち,高さ一メートルほどになると,枝分かれをした枝の先に多くて3-4 個の花をつける.花後,多くの種子を含む蒴果をつける.
 種は黒い小さい球形で,突起があり,発芽率は良い.双葉はタチアオイと同様の切れ目のない全縁であるが,後から出てくる葉には切れ目が少しずつ入るようになり,茎や葉柄には赤い筋が入る.6枚目の本葉辺りから名に恥じないモミジ様の形になる.秋には高さ50-100㎝になり,やがて葉が黄色くなり,地上部は枯れる.
 翌春,赤い部分がある濃い緑色の元気な芽が1-2本現れ,どんどんと成長する.葉は最初からモミジ葉で,大きく切れ目も深い.枝分かれをして初夏から蕾をつけ,通常一日花だが次々と真紅の目を引く花をつける.花辧の間に隙間があり,葉にも深い切れ目があるため,アメリカフヨウ等に比べると花色の割には涼しげで,暑っ苦しさを感じさせない.観賞時期は長い.
 花後比較的大きな果実をつけるが,実成りは非常に良いので,若い株では採種目的以外,終わった花は切った方が翌年の株の成長が見込まれる.丸い実は大きな苞に囲まれて,可愛らしい.

咲き終わった花
 若い果実 襟飾りの様な苞が可愛い
 ③熟した果実
 ④果実と種子 


翌春鉢に播種
⑤鉢植:双葉(播種:2024-03-23):撮影 2024-05-03
⑥鉢植:双葉+本葉3枚(播種:2024-04-13):2024-05-16
 鉢より降ろす.日当たりの良い地味の肥えた土地が最適だが,乾燥気味でもよく育つ.
⑦地植え,双葉+本葉6枚:撮影 2024-06-14
⑧地植え,葉がモミジ葉:撮影 2024-07-26


枯れた地上部を伐採,翌春新芽が伸びる.
⑨地植え,新芽:撮影 2025-04-18
⑩地植え,地上部,葉は最初からモミジ葉:撮影 2025-04-21
⑪地植え,伸びる地上部:撮影 2025-05-27
⑫地植え,開花:撮影 2025-08-17


 条件がよろしいと,播種した年に十分成長して開花する.花が着く時期は遅いが,日照時間が短いと3-4日観賞できる.
⑬一年目開花株の根元,切れ込みの無い葉が残存
⑭花:撮影 2025-10-20
同一の花:撮影 2025-10-21
同一の花:撮影 2025-10-22

●布川直幸(ぬのかわなおゆき)Profile】:1945年神奈川県川崎市出身、茨城県石岡市在住.1976年「氷海」入会.→清水径子に師事.「氷海」終刊後、1978年「峰」創刊に参画.1981年「河」入会、後同人.2005年「峰」主宰継承.現代俳句協会会員.茨城県俳句作家協会会員.

何か吐く泰山木の白さかな
大蜘蛛の真上に構へ子蜘蛛の囲
手花火や人それぞれの物語
薀蓄を述べたき人と皐月展
走り梅雨握つて痒き感情線
耶蘇信じ神道信じ花まつり

2025年10月19日日曜日

モミジアオイ(11)和文學-7 明治-昭和初期の散文-2.中里介山,岡本かの子,林芙美子

Hibiscus coccineus

中里介山1885 – 1944)明治・大正・昭和期の小説家,作品には,未完の大作『大菩薩峠』の他に『夢殿』『黒谷夜話』『百姓弥之助の話』などがある.

岡本かの子1889 – 1939)大正・昭和期の小説家,歌人,仏教研究家.漫画家岡本一平と結婚し,芸術家岡本太郎を生んだ. 若年期は歌人として活動しており,その後は仏教研究家として知られた.作品に『鶴は病みき』『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』などがある.

林芙美子1903 – 1951)本名フミコ.幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』で一躍人気作家となる.詩情豊かな文体で,暗い現実をリアルに描写する作風で,一貫して庶民の生活を共感をこめて描いた.作品に『風琴と魚の町』,『晩菊』,『浮雲』などがある.

中里介山『非常時局論』隣人之友社(1937
今秋の院展

今秋の院展は、二月の帝展失敗の後を承けて、謂はゞ出直しの院展であるだけになかな
かの責任ある展覽會になつてゐる。さうして我輩の概觀したところでは、立派に院展本來
の面目を揚げて、院展としても近來の好展覽會であることを思はせると共に、院展は失張
りこれでなければならない-といふ心持を持たせるに十分である。全體に於て舊來の覇
心、叛骨といふやうなものが隱れて、さうして底力のある落付きがにじみ出てゐるのを甚
だたのもしく思ふ。
 前田靑邨の「白河樂翁」も惡い出來ではない。山村耕花の「寒嚴主」これは東山時代の
有ゆるものを盛り込んで織り出した野心的の圖柄であるが、此の人、挿繪や端ものをやら
しては、さして出色ありとも見えないが、斯ういふ野心的の(野心的といふ意味はどうい
ふ意味だかよく知らないが、近頃さういふ文字を使いたがる人があるから假りに使用して
見たまで)大物を扱はせると、相當にこなす力を持つてゐるところが不思議である、以前
の「腑分け」などもレンブラントを化したといへば云へるが、容的に相當大きな收穫
を與へた作品であつた。一種の大もの食ひと謂うべし。
 橫山大觀の「野の花」これは、前の「虫の音」や「龍」と違つて特に人を考へさせたり
からかつたりするやうな氣味は少しもないし、花崗質と見える土坡に凡調を破つた描法は
見えるけれども、全體に人をおどすの匠氣はなく、さうして堅實無類の感じがする、
少しよく見て考へて見たならば何か云へるかも知れないが、少くともさういふ考へるタツ
チを與へずして、大家の筆だと、すつかり安心の出來るやうな、其の點に於で又大觀の一
進歩であるか、一心境であるか、何れにしても年々愈々老いずして、自由自在に融通の途を
持つところを看取せざるを得ない。
 

小林古徑の「紫苑紅蜀葵」山種美術館

しかし、今年の最大收穫といへば、小林古徑の「紫苑紅蜀葵」であらう、六曲二双の大

作で、一方には紫苑を畫面一杯に描き、茫洋たる波のやうに現はれ、一方には卓然たる紅蜀
を描いて巖の如く聳えてゐる、その一枝半葉の繊細なる筆づかいに至るまで、ごまか
しといふものが更になく、見てゐるうちに、襟を正すべき嚴肅な思ひに打たせるものがあ
る、特に松や紅葉や巖石や奔流を扱はずして紫苑や紅蜀葵の弱い草花をもつてしたのが古
徑らしい、借りに山樂の筆と比較して見ても、山樂を黃金とすれば此の人の筆をプラチナ
とも譬へたいほどの貴重さがある、然し、山業と古徑との器量を上下するわけではない、
山樂は桃山時代の權化である、其の規模に於ては古徑と比較にならないであらう、其の質
に於ては黄金であり白金であるとまで特に此の繪の前ではいへるとも思ふ。恐らく今年の
各展覧會でこれほどの産物はあるまい、其の他、大小不同に云つて見ると、第二室で加藤
淘綾の「春隻」などは院展らしからぬ穩健な作で、我輩も新別莊でも建てたら不取敢これ
を買ひ込んで新らしい畳の上に立てゝ見たいと思はれる、吾妻碧字の「松韻」なども特に
優れたとは云へないが、松風の響きが、そゞろに耳に響いて來ないでもない。長井亮の「砂
丘」などもよい意味での寫生であり、田中靑坪の花卉の色彩、洋書のあくどさを去つて又
一種爽快なる感じを興へないものでもない。岡本彌壽子の「課外稽古」も可憐な圖である。
(以下略)」

岡本かの子『随筆感想』人文書院(1938
十六、この秋の花
 秋立ちて花々のいろ落付くにひとつ燃ゆるは紅蜀葵はな
 紅蜀葵の張る花びらの隙(ひま)よりぞ秋空蒼くわれは見にけり
 百日紅空も染むがに高々と枝差し抽きて咲きひろごれり
 この秋の萩の幽(かそ)けさ遙なる國の戰(いくさ)をおもふ軒端に
 應召兵立ち寄り給ふわが門の芙蓉は今朝もあでに咲けるに
 (昭和一二、九)

林芙美子『紅葉の懴悔』版画荘(1937
 「    

 (略)
信之はすぐ障子を開けて、大きい聲で、女中に麩を澤山持つて來てくれと云ひつけた。障子の外は鄙びた庭で緣の下には廣い池が造つてあり、きびの惡い程な大きい鯉が澤山飼つてあつた。
 黃蜀葵、紅蜀葵、木槿、紫陽花の花のさかりで、かつと照りつけた雨あがりの陽が、花の上に針のやうな陽光を降りそそいでゐた。しいつと云つた音をたてゝ蟬が啼いてゐる。すみ子が小さい女中に案内されて這入つて來た。
 「早かつたかしら?」
 「まアいゝさ··」
 「だつて、約束の時間通りより、丁度、十分遲くれて來ましたのよ。加奈江さんまだ?
 「もう來るだらう····おい、早く麩を持つて來てくれ····」
 「厭ねえ····つつがなくおわかれつてことも、考へてみると、まるで芝居みたい····」
(中略)
「あツ!
と加奈江が聲を擧げた。信之が愕いて立ちあがるのと一緒だつた。義之が池へ墜ちた。
加奈江は廊下へ出て、「誰か來て下さいツ」と叫んだ。信之は裸足のまゝ芝生を走つてゆき、
少時/\紅蜀葵や、葉櫻の木蔭に、信之の白いY襯衣が見え隱れした。
 女中や下男が、四五人走つて行つた。義之はすぐ池の底へ沈んで行つたが、飛んでもない築
地よりの方へぽかりと浮いて、變な聲をあげた。下男がすぐ池へ這入つて義之を抱きあげた。
加奈江は腰がすくんで動けなかつた。池は淺くて、下男の胸の邊までしか水がなかつた。信之
が義之を抱いて部屋へ戾つて來た時には、義之はもうものをいつてゐた。
「駄目ぢやないか!一人でゐると、すぐ怖いことをするから」
緣で着物をぬがして、宿の浴衣を着せると、義之は生ぐさい濕つた兩手で、父親の首を抱き、
「池の中つて怖いよ····」
(以下略)」

林芙美子『女の日記』第一書房(1937
八月*日
   (略)             ―― 晝から、新聞に出てゐた、東伏見行き
の西武線へ乘つて、一人で郊外へ行つてみる。鷲の宮と云ふ處で降りてみた。驛のそば
の雜貨屋の店先きで、白いヱプロンをした十七八の娘が、店先きに水を撒いてゐた。わ
たしはその娘へ、「この邊に産婆はないでせうか。」と訊いてみた。訊きながらわたし
は自分で陰氣になつていつた。現實はもうここまで來てゐるのかと、わたしは、そのみ
しらぬ娘にさへおどおどしてしまつてゐる。
 「小學校の眞裏に、若いひとですけど、いい婆さんがあります。」と
云つて、その娘は、あの漬物屋を曲つて邸町をつつ切ると小學校だと指を差して教へ
てくれた。
 わたしは、小學校の裏にある
院を探がして行つた。白の看板には田坂りつと書いて
あり、お乳の相談と大きく書いてあつた。お乳の相談と云ふのが、いかにもほほゑまし
いので、この産婆さんは、きつといい人なのだらうと、わたしは彌生院としてある硝
をあけて案内を乞うた。
 お婆さんが出て來て、わたしに初めてですかと尋ねた。
 「ええ初めてです。」
と云ふと、わたしは庭向きの六畳ばかりの部屋に通されて少時く待たされた。
産婆さん
は二三軒赤ん坊に湯をつかはせに廻つてゐるのだと云つて丁度留守だつた。庭には大き
な柘榴の木があつて、赤い小さい花が咲いてゐた。ぱつと明る
い陽射しの中に、誰の丹
誠になるのか、躑躅や芍藥の花が水を吹くやうに鮮かな色をしてゐた。藪垣のそばに納
屋があつて、さつきのお婆さんが猫を抱いて畑を見てゐた。
松葉牡丹、紅蜀葵、スヰートピイなぞを植ゑてある。何か氣の澄むやうな清楚な庭だ
つた。京都の小柴の庭と違つて田舍びた處があつて、この小さい院が幸福氣におもへ
る。
 三十分位して田坂りつさんは歸つて來た。よく肥えてゐて、肌が子供のやうに綺麗な
ひとだつた。
 「まアまア、よくお待ちでしたこと······どうぞお樂にして下さいましよ。」
さう云つて
産婆さんははんかちで汗をぬぐひながら、次の間で足袋をぬいでゐる。四
圍は森としてゐた。時々蟬の鳴くやうなしいつと云ふ蟲の鳴く音がする。小學校からま
ぢかくピアノがきこえて來て、
  遠い遠い佐渡が島·······
と云つた風な唱歌がきこえて來た。わたしはいつぱい胸の中に綿を詰めたやうな切なさ
だつた。女一人が、かうして、天氣のいい日曜日の晝下り、郊外の院でぢつとしてゐ
あることを誰が知るだらうと、瞼の熱くなる思ひだつた。軈(やが)て診て貰ふと、もう四月。だ
らしのない自分を嗤ふばかりだ。
 「赤ちやんは生んでみるもの、生まなくちや嘘ですよ。お軀がいいのだし、樂々
とお
生みになるわよ·····。」
 「若いひと達は、赤ちやんが出來たら、すぐ里子にやつちまふなんて云つてますけど、
中々どうして、とても可愛くつて手離せませんわよ······。」
 若い婆さんは何もかもよく識つてゐて、ぢいつとわたしの眼を見てゐた。「なんと
かなるもンですから······ 怖いこと考へちやいけませんよ。もうすこししたら帶を締めて
あげませうね······。」 とも云つてくれた。
 食費共で一日五拾錢で置いてくれるとも教へてくれて、
鷺の宮の驛まで産婆さんはわ
ざわざ送つてくれた。
 四月と云はれてわたしは別に愕きもしなかつたが、これからの生活を考へると暗くな
つてしまふ。色んな冗なものを賣り拂つて、切り詰めた生活をするのはもとより、會社
の方も、出られるまで出ようとおもつた。

(中略)
瀨尾が訪ねて來てゐた。
 「明日の晩、小柴さんに一寸だけ逢つてあげられませんか。もしよかつたら、ここへ

來てもいいと云ふんですがね·····。」
 「え、逢つたつて仕方がないとおもふんだけど······
 「一寸だけ、氣にしていらつしやるし、逢はせてほしいとおつしやるんですよ。」
 わたしは、自分の貧しい部屋を見せて哀れ氣にするのが厭なので、外で逢ふことに約
束をする。瀨尾へ使つて頂戴と云つて五拾圓渡す。瀨尾は愕いてゐたが、うれしさうだ
つた。
 雨あがりのきらきら光る往來へ來て、瀨尾と別れ、鷺の宮へ行く。道々空間の札が眼
につく。いつそ、誰にも默つてこつちへ越して來てもいい。産婆さんはゐなかつたが、
おばあさんにところてんを御馳走になる。一時間ほど待つて田坂さん歸つて來る。空間
をみつけて越して來たいと話すと、
 「それ
なら、家へいらつしやいましよ。二階も廣いのですし、診てあげるのに樂です
もの·····。」
 と云つてくれた。越してもいい氣持ち。二階を見ると、四疊半の疊の新らしい涼しい部
屋があつた。庭が目の下で、窓から覗くと、昨日の嵐で、紅蜀葵も、向日葵(ひまわり)も、百合も
昨日の嵐で根が洗はれてむちやくちやだつた。
 「隨分ひどかつたんですね。」
 「ええ、手がつけられないのよ。」
 肥えた田坂さんは團扇をぱたぱたつかひながら、
 「本當に越していらつしやいましよ。」
と云つてくれた。わたしも「ええさうしませうか。」と返事をした。

(以下略)」

2025年10月18日土曜日

モミジアオイ(10)和文學-6 明治-昭和初期の散文-1.徳冨蘆花,与謝野鉄幹,泉鏡花,北原白秋

Hibiscus coccineus

明治-昭和初期の散文に紅蜀葵を記した例は多いが,殆どが点景としてで,季節や庭園の情景であるが,一部,真紅の花が登場人物の心情を表す.

徳冨蘆花1868 – 1927)ベストセラーとなった小説『不如帰』や,キリスト教の影響を受けた自然描写作品『自然と人生』などで知られる.

与謝野鉄幹1873 – 1935)慶應義塾大学教授.文化学院学監.妻は同じく歌人の与謝野晶子.

泉鏡花1873 – 1939)明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家.小説のほか,戯曲や俳句も手がけた.帝国芸術院会員.尾崎紅葉に師事した.『夜行巡査』『外科室』で評価を得,幻想的な『高野聖』などで人気作家になる.

北原白秋1885 – 1942)詩人,童謡作家,歌人.帝国芸術院会員.生涯に数多くの詩歌を残し,今なお歌い継がれる童謡を数多く発表した.活躍した時代は「白露時代」と呼ばれ,三木露風と並び評された近代日本を代表する詩人.一つだけと云われれば『邪宗門』を挙げたい.

★徳富蘆花みゝずのたはこと』新橋堂書店等(大正2
落穂の掻き寄せ
(六)
 紅蜀葵(こうしよくき)の花(はな)が咲(さ)いた。
 甲州玉蜀黍(かふしうたうもろこし)をもぎ、煮(に)たり焼(や)いたりして食(く)ふ。世(よ)の中(なか)に斯様(こん)なうまいも
のがあるかと思(おも)ふ。田園生活(でんゑんせいくわつ)も此(これ)では中々(なか/\)やめられぬ。
 今日(けふ)は土用中(どようちう)ながら薄寒(うすさむ)い日(ひ)であつた。朝(あさ)は六十二三度(ど)しかなかつた。
盡日(じんじつ)(きた)の風(かぜ)が吹(ふ)いて、時々(ときどき)冷(つめ)たい繊(ほそ)い雨(あめ)がほと/\落(お)ちて、見(み)ゆる限(かぎ)りの
青葉(あおば)が白(しろ)い裏(うら)をかへして南(みなみ)に靡(なび)き、寂(さび)しいうら哀(かな)しい日であつた。
 今日(けふ)は鶏小屋(とりごや)にほゞ鼬(いたち)と見(み)まがうばかりの大鼠(おほねずみ)が居(ゐ)た。
(八月(ぐわつ)二日(ふつか)

★与謝野鉄幹『新派和歌大要』大学館(明35.9
澁谷日記 (三十四年作)
(一)
 武蔵野に沿へる澁谷の里すまい,ここも秋に候.
日ぐらしの聲稀になりて,蟋蟀,くつわ虫,まつ虫など啼き初め候.
わが庭のさま少し書かばやと思い候.
垣の朝顔,おそく植ゑたれば今盛りに候.紅き紫,水色,ゑんじ,ましろ,何れも人
の百二十里西より,いまだ苗のほどに,小包郵便にて送りこしに候.送りこしぬし,
いまここにその花ながめて,朝髪とく人思ひ給へ.垣一面にひろがりたれば,青地の
錦に,様々彩ある繍ひ花,露ひと朝毎の光おかしく候.
歌筆,繪筆もちて寄る數多の子等の,土産にと呉し白百合,紅百合,葉鶏頭,女郎
花,桔梗,櫻草,床夏,秋海棠、向日葵(ひぐるま)、芙蓉、紅蜀葵(からくれなゐ)など、二つの椽をめぐりて芳
を競い候.宛らその子等の秀才のにほいとも推計り給へ.
(後略)
(二)
 知りおはすや紅蜀葵、のみを挿簪(かざし)の昨日けふ一昨日に候。白きがおはす芙蓉,この子
にふさひ知らずと許し給はぬなさけ,憎しやと側目(そばめ)する子に,さらば一つに,大人ら
しくなるやとの一人の君,無理に候かな.
(後略)
(九月七日)
(四)
 小ながの夜,秋なるを,鮎賣の若婆が聲に,萌黄蚊帳くぐりて,芙蓉見し人のまなざ
し,一人の人,猶夢にておはせばこその羞しの朝,君よやがて夜網の漁不漁,人もど
かれまじの睡氣の聲に,問ひし人のありしを知り給え.
(中略)
 知りおはすや,こヽの花園,君よ,新誌社のにてはおはさず,澁谷橋の下のなのに候
そこに紅蜀葵折りて、別れし三人と二人と知り給へ。君よ、夕なり(以上晶子)
(後略)
(九月八日)

★泉鏡花『鏡花全集 巻の二十六』岩波書店(1942
湯島詣(ゆしままうで)」

大詰 (二)入谷松源の池のほとり

蝶 (幕あくとともに夢の遊ぶ如く池の汀をさまよひつゝ)まあ、嬰(あか)ちやん、(紅蜀葵を折つて抱
く)寒いでせう/\(ひとへ長編絆の袖を引切つてかい包み胸に押しあて)おなかが空いたわ
ね。お、よしよし、さあ、お乳(つぱ)い。(やゝ襟をはだける)あれ擽い――ほんたうは、お乳な
んか出ないんだもの、堪忍よ。お小遣が少しあるから、お前のおとうちやん、(泣く)おとうち
んの、氣が利かないわね、お酒でなくつて、でも大すきな甘いもの、桃山をね、嚙んでね、
嚙んでくゝめてあげようね。
 源二 (出でうかゞひ/\すれ絡ふ)さあ、それ、足を、足を。な,へ、へ、へ、蝶(てふ)ちやん、お前、
すはだしで、眞綿に白魚といふ鹽梅ぢやあ、枯草だつて針の山だぜ。打たれた駒下駄でおとも
をする、此の心中だてを見てくれよ。池を前にしていふんぢやあねえが、溺れたもんだぜ、我
ながら、かうまで惚れたも因果なら、惚れられたも因果ぢやねえか。滿更にくくもあるめえが、
えへへへへ、どうだい、まあ此の手觸りは······(駒下駄をはかせた手にて、裾,膝、腰、胸
帶、やがて、懷に手の觸れんとする時、その時まで、氣づかれの果、たゞふら/\としてする
がまゝなりたるが、屹となり、忽ち簪にて矢庭に源二の鼻を刺す。

(以下略)

泉鏡花『鏡花全集 6巻』春陽堂(1926
雌蝶
 
否、最(も)う式は濟んだであらう。餘處から歸つて裏木戸へかゝつた時は、彼是一時近であつたから、其は近所の此の寂然
となつたのでも分る。・・・・式も早や、床杯も納つたらう。
 勿論、一人娘であるから、絲卷へ婿、養子であることは斷るまでもない。――――さて其の養子と云ふのは、色の白い,上方
ものゝ醫學生である。
 性を篠田と云ふのだが、緣は不思議なものであつた。
 去年の秋、從妹が誘はれ、二人づれで、向島の秋草見物。午飯を濟ましてから出掛けたが、途中で綾子の方は兎も角,
從妹なぞは止せば可いに、女同士、白木屋の二階を覗いて、其れから淺草へ行くと、綾子が観音様を附(つき)あつたかはりに
從妹は水族館に引張られる事になつた。あの薄暗い隧道(とんねる)の中を見て歩行く、と入り口邊から、一人後になり前(さき)になり,二
人の目にちら/\して、海を通りものゝするやうに、硝子(びいどろ)に映る、色の白い、鼠の洋服を着た年少な男があつたが,出口
近くで、ひらりと白いものを落して、其のまゝ見えなくなつた。 
 「何か落してよ、」
 と綾子が拾ふと、其は名札で。
 「一寸、醫學生――篠田·····」
 「そんなものはお打棄(うつちや)り、」
 と●(むしり)取る勢で從妹の云ふ時は、もう其を忘れたやうに摘(つま)んで提げて、綾子は硝子越に透通る水の上から、鯛の大きな目
を指の尖で突いて居た。「大きな針刺だわね。」
 行路(ゆき)は東橋を。百花園(ひやくくわゑん)へ入つた。が從妹は花の映る、綾子の顔に見惚れたと言つて話す―― 白芙蓉の面に清(すずし)い瞳がく
るくると動いたり、嫁菜に睫毛が濃くなつたり、紅蓼に眉が伸びたり、紅蜀葵が簪に擦れたり――
 「おゝ、可愛い、」
 と桔梗に口紅。其の間に萩が袂に搦む。葛がはら/\と背に翻る······又少し風があった――見た目に殘つたか,大川べ
りを歸り路には、隅田の水がもみぢに早い、花の錦を紅の夕日に宿した。
 途中トある土堤の下の、濕々(じめじめ)した藪の蔭に、ぱつと咲いて火花を散らしたやうな、曼珠沙華を見付けて、
 「姉さん、あれは·····」
 「彼岸ぢやないか。」
 「綺麗だね、」
 「あゝ、だけれどもね·····」
 「百花園にはなかつたわよ。」
 「あゝ、庭なんかへは植ゑないものなの。何故つて?花が咲く時は一枚も葉がないし、葉のある時は花がないの.だか
ら緣起でないでせう。綾ちやん、お前さんは、花よ、お前さんの母さんは、まあ、葉だわ、どつちが缼(かけ)ても大變ぢやな
いか。」
 「まあ可哀相ねえ、葉がないからつて、こんな處に此の花ばかり、一人ほつちで寂(さびし)いわ。」
 で、わざ/\舞踏沓を汚して、折つて、一束胸へ抱いたのを見ると、被布にかゞつた總(ふさ)のやう。
(以下略)

★北原白秋きよろろ鶯』書物展望社(1935
綠ヶ丘の秋
10. 9. 1927
「いヽ朝だな.」
と,私は家を出る時,うちのものを見返つた.開け放つた入り口のドアの前には,細かな砂
利の舗石に,細かなはのひまらや杉の參差たる影が動いてゐる.その土用芽は,まだ新芽の
やうに柔らかな白と緑である.空は洗われたやうに水いろですがすがしい.輕い白い雲も浮
かんでゐる.この二三日來の濛濛たる雨氣がやつと霽れたのである.
(中略)
 
このあたりからとてもかしましい蟬の時雨になる.ぢんぢん蟬である.椎,樫の喬木に沿
ひ,何かの紅い木の果のかげを右に盆地へ降りる小さなだらだら坂がある.落ち葉の一つがこ
ろげてゆく.風があるのだ.唐黍,錆いろの板塀の朝顔の花,それに對つた竹垣,孟宗,ま
た門さきの紅蜀葵
りんりんりんりん.
「號外屋さあん.」
内親王殿下の御誕生の號外だ.
(後略)
「週刊朝日」昭和二年九月