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2017年4月25日火曜日

サクラソウ (23)  濡れつばめ 草木弄葩抄・画本野山草・武江産物志・艮斎文略・植物一家言

Primula sieboldie cv. “Nure-tsubame”
品種名:濡れつばめ,認定番号:140,品種名仮名:ぬれつばめ,表の花色:桃色ぼかし,裏の花色:桃,花弁の形:桜弁,花容:平受け咲き,花柱形:僅長柱花,花の大きさ:中,作出時期:江戸末期,その他:表の花色に濃淡がある.
一昨年の夏に近くのホーム・センターで花後 100 円で購入.良く増えて,地植えにした株も含めてよく咲いている.花の形は整ったいかにもサクラ.一茎につく花の数も多く見事.

江戸時代文献

★菊池成胤『草木弄葩抄』上巻(1735 )
さくら草
花のかたち、さくら花のごとく、しの立、まハり咲。花にいろかず
多し。白或ハ雪白、紫、又咲分、うす紫とび入有。咲分
桜草ハいまの、志ほりにあらす。一りんの花びらに、紫と白と
色分る。うす紫ハ、花少し大りん、小まち桜草といふ。飛人
は、志ほり桜草、にしきさくら草、又咲分さくら草といふ。〇志ほり
なる一種を○○花家(うへきや)○○唐花さくら草といふあり
葩あつくこひむらさき○○○○志ほりちいさくはな
○しろく紫羅蘭(あらせいとう)花の花ごとく見るなり」
〇は解読不能文字

★橘保国『画本野山草』(1755
さくらな さくら草 品多し。三月より四月迄、花さく
花の形、桜花のごとく、しのだち、回り咲。花に色数多し.白或は雪白、紫、又咲分、
うす紫飛入有。咲分桜草は今の、しぼりにあらず。一りんの花びらに、紫と白と色分
る。うす紫は、花少し大りん、小町桜草といふ。飛人は、しぼりさくら草、錦桜草、又
咲分さくら草といふ。長六七寸。

櫻菜(さくらな)
芲エンシグ 生エ
ンシノクマ」

★岩崎常正『武江産物志』(1824 序)
江戸とその周辺の動植物誌.野菜并果・蕈(キノコ)・薬草・遊観(花の名所)・名木・虫・海魚・河魚・介・水鳥・山鳥・獣の各類に分け,それぞれの品に漢名を記し,和名を振仮名で付け,多くは主要産地を挙げる.合計で植物約 520品,動物約 230品.『武江略図』は『武江産物志』の付録である.見にくい地図だが,中央が千駄ケ谷・代々木辺で,北は現さいたま市,南は鶴見,東は船橋,西は田無付近までを収める.当時の博物家がしばしば訪れた採集地の大半が,ほとんど挙げられている.

「遊観類
櫻草(さくらさう)紫雲英(れんげさう) 戸田原 野新田
尾久の原 れんげさう すみれあり 染井植木屋 立春より七十五日位」
と自生地だけではなく,花見に行ける染井の植木屋まで紹介している.染井までサクラソウを鑑賞・購買に行く人も多かったのであろう.


「野新田,尾久の原」でのサクラソウ観賞遊覧の様子は,当ブログ,サクラソウ(12)サクラソウ(22)に記載の六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』にも記されている.

★牧野富太郎 『植物一家言』(1954)には,
安積艮斎の櫻草の記事
安積艮斎*の『艮斎文略』を繙いて読んだら、其「東省日記」の中に
浮間白 2016年
「雨始霽、新緑如沐、平原迢曠、草櫻盛開、數里成錦繍界」の語が在る。戸田附近の原野は、此時分は櫻草が多かつたが、漸次人が採集し盡して今は無く成り、唯埼玉県浦和の附近に残つてゐる許で在る、其沢山在つた時代には偶に白花の者を見附けた、前には浮間ノ原のサクラサウは、有名な者で在つた、そして前にはサクラサウの花を束にして弄ぶ程在つた。」

*安積 艮斎(あさか ごんさい):(寛政332日(179144日) - 万延元年1121日(186111日))は,幕末の朱子学者.
江戸で私塾を開き,岩崎弥太郎,小栗忠順,栗本鋤雲,清河八郎らが学んだ他や吉田松陰にも影響を与えたとされる.
『艮斎文略』嘉永6 [1853] 出版,ネット上では,原本閲覧できず.

文献画像はNDLの公開画像より部分引用

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

2016年3月3日木曜日

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

Primula sieboldie cv. “Kozakura-genji”
2016年3月3日 小桜源氏
昨年夏に,地上部の枯れた鉢植えを,近くのホーム・センターで安価にて購入.芽が出ているのを確認して,窓辺で育成.

品種名:小桜源氏,認定番号:75,品種名仮名:こざくらげんじ,表の花色:桃色地紅斑入り,裏の花色:桃色地紅斑入り,花弁の形:記載なし,花弁先端の形:梅,花容:受け咲き,花柱形:短柱花,花の大きさ:小,作出時期:江戸中期,類似品種:なし,その他:性質強い (埼玉県花と緑の振興センター サクラソウ保存品種一覧 より)

江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻宴遊日記』(1773-1785

2008年11月 六義園 藤代峠より園内
柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき,1724 - 1792)は,江戸時代中期の大名.大和国郡山藩第二代藩主.1724年(享保9年),初代藩主柳沢吉里の次男として生まれる.1745年(延享2年)吉里死去に伴い,柳沢家を相続し,幕府の要職を歴任.1773年(安永2年)50歳で隠居後に,祖父の吉保が築いた江戸六義園に居住し,亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した.
彼は園芸と演芸を好み,歌舞伎の演目の記録は詳細を極め,その歴史資料としての価値は高い.一方,六義園では多くの観賞用植物を育て,また,ツクシ,ノビル,ヨメナ,ノカンゾウ,タンポポ,ワラビ,ゼンマイなどの山菜を側室のお隆さんと庭で摘み草しては,俳句や短歌に添えて,友人に与えている.

『宴遊日記』には,いくつかのサクラソウの記事もあり,大名の好事家の間では,江戸でも観賞に値する花であると認識されていたことが伺える.特に安永十年(1781)の春には,家中で尾久に桜草狩りに出かけた.桜草の名所としてこの地を多くの行楽客が訪れていた事がわかる.(日本庶民文化史料集成第十三巻芸能記録(二)「宴遊日記」芸能史研究会編 三一書房(1977)

□引退した安永二年(1773)の春には早くも家中の木俣氏よりサクラソウを貰ったと記録している.
「三月二十七日 快晴大暖気初て服ひとつ
木俣に櫻草貰ふ.」
□その六年後の安永八年(1779)の春四月には,
「六日 快晴昼西に浮雲爽風無程散涼夜更糠雨
お玉か池通り、油島にて桜棘・鉄仙花求め、いせやに休み、みうき団子を求め,土物たなより挑燈つけ暮過帰る」
とあり,「桜棘」が「桜艸」の書き間違い,書き起こし間違い,誤植ならば,桜草が市中で売られていた事となる.

□二年後の安永十年(1781)の春には,家中で尾久に桜草狩りに出かけた様子が,次のように記されている.(適宜,注と段落を挿入)
ノウルシ 茨城県南部
「三月十七日 花陰大雲出没日折々出七比村雨 八過より南風爽々夜四比より雨粛々
九少前よりお隆同道珠明院*善光寺如来開帳参詣、供穴沢・鞍岡・高田・木俣・相原・長尾・々沢・谷・袖岡・八代・ほの・万吉・清寿・元・何佐・富貴・りを・伊藤・木村、大雲満天南風にて出没(服一ツ單羽織)先へ出待合せ笠志前へかゝる、**に旅客駕より下り休居たり、笠志鄽外へ出交語,平塚八幡観世音拝す、利島尾久の舟甚込合ふ由ゆへ,今朝吟八方へ舟貸度由申遣ハし、又爰より尾沢を案内に遣ハす、平塚坂を下り梶原、堀内村前へ尾沢、吟八家来引連来、梶原村へ入川端薪屋次郎兵衛門へ入、八重桜数株満開、つはき色々咲乱たり、坐敷に女客・武士なと見ゆ、供部やに下部数人見ゆ、梶原淵崖上より歩みを渡し舟に乗る、歩み険にて危し、舟狭き故二度に渡る、此舟にはお隆・谷・袖岡・八代・ほの・万吉・もと・穴沢・鞍岡・相原・伊藤はかり乗る、筋違にわたす、
*現足立区小台にある,金龍山珠明院か?
**鄽:てん,みせ

1854, Lemaire, Journal Special des Serres et des Jardins,
Belgium, REINECKEA JAPAN, キチジョウソウ
尾久のわたし三町はかり先に見ゆ、向の岸は土堤にて坂険阻也、土堤の下ハ野新田に続きたる曠野、櫻草所々に開き、あちさいに似て黄なる花の草*解夏草**一面、三町はかりにて畑の間へ入、三逵の径に帋に枝折つけたれハ左折直行、程なく沼田村珠明院也、高札たてみせ物鬼娘看板有、参詣多からす、内陣にて拝す、旧年拝せし尊像とハ殊なり、初穂万金奉り迹より来る者に内陳拝の事を頼み、富貴を残し涅槃像拝す、旧年より甚小し、
*あちさいに似て黄なる花の草:ノウルシと思われる(右上)
**解夏草:キチジョウソウ(吉祥草)の別名(左圖)

帰路娵菜・野韭・忍冬を取々行、曠野少手前にて先剋次兵衛方に有し客、後家主人と見へ少女婢等五六人・武士五六人跟隋*、曠野にて櫻草を堀、向ふより婦四五人来、従者のいへる次兵衛舟崖下に得由伝語、南風颯々、高田等ハ珠明寺門前にて来り、直に如来を拝し追つく、爰より又舟に乗、同船前に同、木俣も乗、伊藤へさきの竿をさす、次兵衛坐敦に休む、庭狭く仮山水在、前剋休し人の狭箱井上家の紋なり、床脇に在、爰より又々摘草、芹もつみ、平塚坂下石橋前植樹屋を貸り奥座敷にて弁当遺ふ、庭一面八汐楓等を植、此家往来の茶屋もする故表腰かけに客在、田楽等を焼する、
*こんずい【跟随】「跟」はかかとの意,人のあとについていくこと.

平塚坂を升る頃より南風村雨降来、傘をさし笠志茶店へ行、此雨にて武士客三人鄽上へ来れハ庭通り住居へ行、雨止み無量寺*前田畝にて摘草、牡丹花や前より畑中を螢沢出、暮前帰** ○下谷より瀬崎狂気の様子にて今日下宿せし由申来る ○米魚菊堂方へ行、夜出る ○今朝鳥宿下」
"JAPAN ITS ARCHITECTURE, ART, AND
ART MANUFACTURES” BY C. Dresser (1882)
*無量寺:現北区西ヶ原 真言宗豊山派
**廬:いおり,家

□同じ月の「廿八日穀雨 雨霏々八過止夜又止
お千枝よりお隆へ文にて式部より菓子折詰貰ふ、一重成慶院へ遣ハす、即答○お隆に蜂屋柿貰ふ○熊に櫻草貰ふ」と,今度は熊(熊谷?)氏よりサクラソウを貰っているが,これは鉢植えだったと見えて,
□次の月,四月には「十日 快晴冷気
四半頃米徳来る、八半前帰る、刀番に園中見する
〇七過よりお隆同道蒲公*を取、庵へ行、黄山蘭を掘、七半過帰る、楡子・海棠を芦辺へ植る、櫻草を花壇へ移す」とこの貰ったサクラソウを地植えにしたと思われる.
*蒲公:ホコウ,タンポポの別称(右図,NDL)

□その後しばらくは桜草の記事は見つけられなかったが,天明二(1782)年の三月には,
「七日 白雲満天隙日漏昼より曇深
松崎に櫻草貰ふ」の記事があり,地植えには失敗してしまったのかとも思われる.

とにかくこの書は大冊で,活字は小さく,到底すべての年の春の部を閲覧し桜草の記事を探すことは出来なかった.


2016310日,上書より見出したサクラソウの記事 追記

巻之八 安永九年 (1780) 三月
十六日 快晴
和泉屋へ行、根岸先へ来り在、離亭にハ侍客二人在,取つき座敷にて弁当、田楽焼する、弘慶子売*来る故呼込薬を買ひお隆に見する 初め上新田にて八の鐘聞ゆ 亭主庭に植し由桜草数株貰ふ

*弘慶子(こうけいし)売,安永(17721781)のころ,朝鮮人の服装をして薬や菓子を売った行商人 左図-NDL,『蜀山人全集』より

「○弘慶子,福輪糖,与寒平膏薬  今年朝鮮の弘慶子といへる薬を売る者あり.其の様すぼき竹の笠を着て壺を二ツ肩にかけ行く.去年より流行すともいふ」(『蜀山人全集』 巻一「半日閑話 巻十三」(安永五年十二月)吉川弘文館,1907-1908)「半日閑話」は、太田南畝(蜀山人)の「街談録」(明和五年 (1768) から文政五年 (1822) まで(南畝が二十歳から七十四歳までにあたる)の五十四年間,巷でおきた雑事の見聞録.全二十二冊)を元とし,南畝の死(文政六年四月)後、編者姓氏未詳が、加筆し、全二十五巻に纏めたもの.

巻之八 安永九年 (1780) 三月
廿七日 春雨蕭々
妙三来る○溝口,野新田へ行し由桜草貰ふ

巻之十 天明二年 (1782) 三月
七日 白雲満雲隙日漏昼より曇深
松崎に桜草貰ふ

巻之十二 天明四年 (1784) 三月
朔日丙辰 一面陰雲深寒折々繊雨至八半より森々通夜沛然
ほのに桜草一所に貰ふ

サクラソウ (21) 異端紅 作出者:伊丹清氏,大乗院寺社雑事記,山科家礼記,宴遊日記,嬉遊笑覧
サクラソウ (23) 錦鶏鳥,江戸後期のサクラソウ文献.儒学者 藤森弘庵『如不及斎文鈔』,青い花,八重の花

2016年2月8日月曜日

サクラソウ (21) 異端紅 作出者:伊丹清氏,大乗院寺社雑事記,山科家礼記,宴遊日記,嬉遊笑覧

Primula sieboldie cv. “Itankou” 
2016年2月8日 異端紅
昨年の春,花見に行く途中の道の駅で購入した(¥300)サクラソウ,「異端紅」が早くも咲きだした.
年末の暖かさに誘われたか,芽が出ている幾つかの鉢を見出して,室内に入れ,午前中は東側の屋外で日光に当て,午後からは西側のガラス越しの陽を浴びさせている.

まず咲きだしたのが,異端紅.花茎の高さは三㌢ほどで,花も一輪しかついていないが,寒さがぶり返したこの冬に別れを告げる魁のように思われる.写真では表現できないがサクラソウの中で最も濃い紅と言われていて,特に日陰では黒紅色と云いたくなる花色である.

2015年4月 購入時 異端紅
「異端紅」 品種名仮名:いたんこう,表の花色:濃紅色・爪白,裏の花色:濃紅色・爪白,花弁の形:細,花弁先端の形:梅,花容:平咲き,花柱形:短柱花,花の大きさ:中,作出者:伊丹清

作出者の伊丹清氏は昭和13年生まれ.千葉大学園芸学部卒.埼玉県花植木センターで植木生産,利用の技術開発に携わり,現在は,農業を新規に始めようとする人を支援する仕事に従事している.サクラソウのコレクションは約250品種400鉢に及び,異端紅の他にも姉娘,初声,御目見得,貴妃の笑,君の微笑,小海蒔絵,心意気,零れ紅,初心,白梅(しらうめ),月天心,匂紫,はにかみ,春の海,娘心,娘盛,やすらぎ,雪見絵巻などの新品種を育生したとのこと.


サクラソウは,室町時代中期には京都で栽培されていた.
NDL

興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた,尋尊・政覚・経尋が三代に渡って記した約190冊にもなる日記★『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』の文明十年三月(1478)の項の末尾には,尋尊(一条兼良の五男)による筆記で,
「庭前ノ木草花
正月梅 椿 沈丁花  二月同 花櫻 信乃櫻 岩柳 庭櫻 櫻草 全躰(マヽ)
三月 梨(木へんに利) 海道 ス桃 桃 櫻 藤 ツツシ 山吹 木カンヒ 仙人合花 宝●(月+榻のつくり)花(宝塔花=クリンソウ) 定春 馬連 スワウ 石楠 スミレ ヒホネ 一ハツ カキツハタ カシワ」とあり,(辻善之助 編『大乗院寺社雑事記. 6 尋尊大僧正記 72-87』三教書院(1933NDLこれがサクラソウを庭で育てている最古の現存文献とされている.

原本は1450年(宝徳2年)から1527年(大永7年)までが現存しており,国立公文書館が所蔵し,重要文化財に指定されている.尋尊の書いた部分は特に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」などとも呼ばれ,応仁の乱前後の根本史料とされている.またほとんどの項に紙背文書があり,あわせて貴重な資料となっている.


地植え原種系サクラソウ 2015年5月
また,故磯野慶大教授によるリストでは,『山科家礼記』の1491年が初見とされている.本書は京都の羽林家の家格を有する公家,山科家の雑掌を代々務めた大沢家の日記で,記主は大沢重康・久守・重胤.1412 (応永19) から1492 (明応1) までが現存.内蔵寮を管轄した山科家の財政,所領経営に関する記事が多く,当該期の供御人や山科七郷の動向を知る上での基本史料として重要.

その延徳三年(1491)二月二十一日の記事には「武家(将軍足利義材 後の義稙)へ桜草ほうとうけ(注:宝幢花,クリンソウ)のたね御所望候間,進之也」と,また,同年三月十六日「禁裏花参,御学文所棚心桜草・ヲモト葉、下ニ花心,いとすヽき・桜草・シャクワ葉ハリ也,小御所押板カヘ、柱心ヤマフキ、下同葉共之」,更に延徳四年(1492)三月三十日の項には「今朝予 禁裏花ニ被召候也.参候,御學文所花棚上心キニ候水草,下サクラ草・シヤクワノ葉等也,下花心松・下ケマンケ・櫻草・キンセン花色ニ,御申次唐橋殿,御酒ヲ被下候,忝畏入存候也」とあり,種から育て,宮中でも鑑賞されていたことが分かる.

サクラソウ栽培はその後江戸にも広がり,特にアシの需要が増し,武蔵国荒川の中流域で,野焼による葦の再生が、定期的な裸地の出現をもたらし,これが桜草の自然群落の出現を助けた.流域の農民は自生のサクラソウを掘り取って,鉢に植え売り歩き,また,江戸市民の行楽の地にもなった.

NDL
江戸時代中期の大名,柳沢信鴻(1727-1792)★『宴遊日記』(安永十七日,1781)には,「土堤の下は野新田に続きたる曠野、桜草所々に開き〜」「〜曠野にて桜草を掘」とある(後の記事にてこの日の記事詳述).

その後自生種から,また栽培種から多くの変種が発見され,有力者同士の音物になったりして,「はやりもの」として育種された.

★『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』は,江戸町年寄喜多村家の次男,国学者の喜多村信節(きたむら のぶよ,17831856)が江戸時代後期の風俗習慣,歌舞音曲などについて書いた随筆.天保元年 (1830) 刊. 各巻上下2章から成る全12巻と付録が1巻.各項目を和漢古今の文献を引用して解説し,体系的に整理した百科事典的な書物で,江戸風俗を知る有益な資料として知られる.
その下巻の,「草木 草木はやり物」の項に
「安永七八年さくら草形めづらしきがはやり權家の贈りものとす數百種に及ぶこれは下谷和泉橋通りに谷七左衛門といふ大番興力あり其人の老母花を植作る事を好み櫻草を多く植作れり其花を入れたるものを見しに小介を集め入る箱のやうにこまかにしきりたる箱を多く重て内外とも黒く漆をぬり其内にかんてんをときて流し入たる格子の間ごとに櫻草の花一ツヽかんてんにさし各名を書たる札あり是を見物に行ものもありつてを其は箱をかりて見るものありもしがさまで行はれずこは享和のころなり」
とあり,大番興力 谷七左衛門の老母が種々の変種を育て,小さく区切った箱に寒天を溶かし込んでかため,そこにサクラソウの花を挿して鑑賞に供したとある.
注:安永七年(1778年),寛政13年/享和元年(1801- 享和4年/文化元年(1804),(日本随筆大成編集編,成光館書店 (1932)NDL)

サクラソウ (20) 白鷹,真如の月,笑布袋,浮間白

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

サクラソウ栽培の歴史は以前のブログにも記した.
サクラソウ(9) 駒止 江戸近辺 荒川流域での桜草群落の出現,桜草作伝法
サクラソウ (11)人丸 喜遊笑覧,サクラサウ 押花集
サクラソウ  (12) 絞龍田 宴遊日記,江戸名所圖會,白魚と桜草で,紅白の土産
サクラソウ  (13) 喰裂紙,「さくらそう作伝法」,「江都近郊名勝一覧」,「東京名所三十六花撰」