2025年9月10日水曜日

モミジアオイ(7)和文學-3 小宮豊隆『漱石 寅彦 三重吉, 修善寺日記』,夏目漱石『思ひ出す事など』蜀紅葵

Hibiscus coccineus

 明治文学の巨匠,夏目漱石(1867 - 1916)は,いわゆる明治四十三年(1910年)の「修善寺大患*1-1」時に,弟子たちが摘んできた野山の花に病床を慰められた.(821日「森成麟造*1-2 と坂本雪鳥*1-3,裏の山で秋の七草を摘んで來る.」,831日「安倍能成*1-4と小宮豊隆*1-5,山から桔梗や女郎花(おみなえし)を取ってきて,瓶(へい)に挿す.」,103日「東新*1-6の取ってきたコスモスや菊などを活ける」(524)等が漱石や雪鳥の日記に残る).その草花の中に漱石が初めて見たモミジアオイがあり,彼に強烈な印象を残した.
 1-1*:明治四十三年の盛夏,漱石は保養先の修善寺温泉で,胃潰瘍の悪化から「大きな動物の肝の如き」血塊を吐いて人事不省におちいった.一時は危篤とされ,家族や多くの弟子たちが集まったが,小康を得て菊屋旅館にて静養し,秋には帰京するまで回復した.
 1-2*:森成麟造(1884- 1955)漱石が転地療養先の伊豆・修善寺で大量吐血して意識不明となった際,長与胃腸病院が送った医者.当時26歳.24日の危篤時には終夜漱石の手を握ったとある.漱石退院後の19114月,新潟県高田市(現上越市)に帰郷し開業.漱石は12日に自宅で送別会を開いた.漱石は感謝の意として「朝寒も夜寒も人の情けかな」という句が彫られた銀製シガレットケースを森成に贈っている.
 1-3*:坂元雪鳥(1879 - 1938 能楽評論家,国文学者.福岡県出身.本名三郎.東京帝国大学卒.朝日新聞に「天邪鬼」の筆名で能評を担当.日本大学教授
 1-4*:安倍能成(あべ よししげ,1883 - 1966)評論家,哲学者,教育家.愛媛県出身.夏目漱石門下.京城帝国大学教授.一高校長.第二次大戦後,文相,学習院院長を歴任
 1-5*:小宮豊隆(1884 - 1966)独文学者・評論家.福岡県出身.東北大学名誉教授.日本学士院会員,夏目漱石門下として,「漱石全集」を編集
 1-6*:東新(ひがし あらた,生没年未確認),漱石の弟子.「*8 コスモスは干菓子に似てゐる」参照

 ★小宮豊隆『漱石 寅彦 三重吉』(1942)には,漱石の弟子たち,豊隆と野間真綱(1878 - 1945),鈴木三重吉(1882 - 1936)との三人が近隣に花を捜しに行き,モミジアオイを貰って来た際のエピソードが記されている.
 一方,19101029日から1911220日の間に間欠的に朝日新聞に掲載された★夏目漱石『思ひ出す事など』には上記のエピソードが(記憶違いのせいか),モディファイされた形で印象深く語られている.
   和文献画像はNDLの公開デジタル画像の部分引用


★小宮豊隆(1884 - 1966)『漱石・寅彦・三重吉』岩波書店(1942)は,夏目漱石,寺田寅彦,鈴木三重吉の3人に関連するエピソードや人物像を記述した評論集だが,師夏目漱石の明治四十三年(1910年)修善寺大患後の療養生活の記録「修善寺日記」には,
「九月三日〔土〕

先生のそばの看護婦の日記をあけて見る.近頃は體温が平調で,變化が劇しくない.醫者に
言つたら,經過は大變良好だと言つてゐた.
  (中略)
 晝飯後野間さんと花を探しに行く.女郎花や萩は,もう單調である.コスモスかダーリアの
やうなものでもないだらうかと,野間さんと三重吉の所へ寄つてみる.然し三重吉の言ふ所に
よると,三重吉は今朝そこいらを探して見たが,見つからなかつた
探して見ようといふので,見晴らしの方へ行つて見る. 

ホウセンカ,花魁草(フロックス),紅蜀葵(モミジアオイ)
 途中に小さな家があつて,若い女が機を織つてゐる.その裏の畑に,赤や白の鳳仙花や花魁
草の咲いているのが,目にとまつたので,あの花を少し譲つて下さいといふと,女は機から下
りて,勝手へ行き,薄刃庖丁を持つて來てくれた.裏の方へ廻つて見ると,鳳仙花や花魁草の
外に,葵の花を大きくした眞つ赤な花が咲いてゐる.それも一緒にもらふ事にして,金を五
錢つけて庖丁を返したら,その女は,私は留守番なんだから,そんなものは頂けませんと,わ
ざわざ機を下りて返しに來た.
 それを先生に部屋に活けて,この赤い花は刺激が強すぎやしませかんと訊いたら,いいえと
言はれた.花の名前を訊かれたから,紅蜀葵といふのださうですと,三重吉から教はつた通りを
教へた.何所にあつたかと言はれるから,さつきの一什始終を話したら,女が機を下りて金を返
しに來た所になつて,急に微笑された.」
とあり,花を呉れた女性は「若い女」で,「留守番なのでお金は頂けません」と一旦上げたお金を返してきたとある.

 このエピソードは漱石に印象深かったようで,彼の『思ひ出す事など』に,モディファイされた形で記載されている.
 初出は,朝日新聞で,第1回から32回までは19101029日から1911220日の間に間欠的に,最後の33回目は1911413日に「病院の春」と題して掲載された.
 


下記テキストの底本は,初版とされる★夏目漱石『切抜帖より』春陽堂(1911)である.この書の「思ひ出す事など」の三十段には,彼の花への思いと,上記エピソードが記されているので,全文を以下に記す.原本は総ルビだが,煩わしいので一部のルビは除いた.
漱石の云ふ白百合 ヤマユリ
 「   (
三十
  山を分けて谷一面の百合*2(ゆり)を飽(あ)くまで眺めやうと心にきめた翌日(あくるひ)から床の
上(うへ)に仆(たふ)れた。想像(さうざう)は其(その)時限りなく咲き續く白い花を碁石(ごいし)の様(やう)に點々と見
た。それを小暗(おぐら)く包まうとする緑の奥には、重い香(か)が沈(しづ)んで、風に揺ら
れる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合つた。――此間(このあひだ)宿の客が山
から取つて來て瓶(へい)に挿(さ)した一輪の白さと大きさと香(かをり)から推して、余は有(あ)
るまじき廣々とした畫(え)を頭の中に描(ゑが)いた。
 

檜扇: Iris domestica: CBM vol.5, t. 171 (1792),唐菖蒲:Gladiolus communis: Fl. Graec. vol. 1, t. 37 (1805),唐菖蒲: Gladiolus communis: CBM vol. 22, t. 874 (1805) ,コスモス: Cosmos bipinnatus: CBM vol.5 t. 1535 (1823)


聖書にある野の百合
*3とは今云ふ唐菖蒲(からしやうぶ)*4の事だと、その唐菖蒲を床に活(いけ)て
置いた時、始めて芥舟君(かいしうくん)*5から教(をそ)はつて、夫(それ)では丸で野の百合の感じが違
ふ様(やふ)だがと話し合つた一月前(ひとつきまへ)も思ひ出された。聖書と關係(くわんけい)の薄い余にさ
へ、檜扇(ひあふぎ)*6を熱帯的に派出(はで)に仕立てた様(やう)な唐菖蒲は、深い沈んだ趣(おもむき)を表
はすには餘り強過ぎるとしか思はれなかつた。唐菖蒲は何(ど)うでも可(よ)い。
余が想像(さうざう)に描(ゑが)いた幽(かす)かな花は、一輪も見る機會(きくわい)のないうちに立秋に入(い)つ
た。百合は露(つゆ)と共に摧(くだ)けた。
 人は病むものゝ爲に裏の山に入(い)つて、此處(ここ)彼處(かしこ)から手の届く幾莖(いくくき)の草
花を折つて來た。裏の山は余の室(へや)から廊下傳(づた)ひにすぐ上(のぼ)る便(たより)のある位(くらゐ)近
かつた。障子(しやうじ)さへ明けて置けば、寝ながら縁側(えんがは)と欄間(らんま)の間(あひだ)を埋(うづ)める一部
分を鼻の先に眺(なが)める事も出來た。其一部分は岩(いは)と草と、岩の裾(すそ)を縫ふて
迂囘(うくわい)して上(のぼ)る小徑(こみち)とから成り立つてゐた。余は余の爲(ため)に山に上(のぼ)るものゝ
姿が、縁の高さを辭(じ)して欄間の高さに達する迄に、一遍影を隠して、叉
反對の位地(ゐち)から現(あらは)れて、遂に余の視線の外(ほか)に没(ぼつ)して仕舞ふのを大(おほい)いなる變(へん)
化(くわ)の如くに眺めた。さうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して
下(くだ)つて來るのを疎(うと)い眼で眺めた。彼らは必ず粗(あら)い縞(しま)の貸浴衣(かしゆかた)を着て、日
の照る時は手拭(てぬぐひ)で頬冠(ほゝかむ)りをしてゐた。岨道(そばみち)を行くべきものとも思はれな
い其姿が、花を抱(かか)へて岩の傍(そば)にぬつと現はれると、一種芝居にでも有り
さうな感じを病人に與(あた)へる位(くらゐ)釣合(つりあい)が可笑(おか)しかつた。
 彼等の採(と)つて來て呉れるものは色彩の極(きは)めて乏しい野生の秋草であつ
た。
 或日(あるひ)しんとした眞晝(まひる)に、長い薄(すすき)が疊に伏(ふ)さる様(やう)に活(いけ)てあつたら、何時(いつ)
何處(どこ)から來たとも知れない蟋蟀(きりぎりす)がたつた一つ、大人しく中程に宿(とま)つてゐ
た。其時薄は蟲の重みで撓(しな)ひさうに見えた。さうして袋戸(ふくろで)に張つた新(あたら)し
い銀の上に映る幾分かの緑が、暈(ぼか)した様(やう)に淡(あは)くかつ不分明(ふぶんみやう)に、眸(ひとみ)を誘ふ
ので、猶更運動の感覺を刺戟(しげき)した。
 
ススキ, オミナエシ,コスモス
薄は大概すぐ縮(ちゞ)れた。比較的長く持つ女郎花(おみなへし)さへ眺めるには餘(あま)り色素

が足りなかつた。漸(やうや)秋草の淋(さびしさ)を物憂(ものう)く思い出した時、始めて蜀紅(しよくこう)
(あふひ)*7とか云ふ燃える様(やう)な赤い花辧(はなびら)を見た。留守居(るすゐ)の婆さんに銭(ぜに)を遣(や)つて、
もつと折らせろと云つたら、銭は要(い)りません、花は預(あづ)かり物だから上げら
れませんと斷(ことわ)つたさうである。余は其話を聞いて、何(ど)んな所に花が咲い
てゐて、何(ど)んな婆さんが何(ど)んな顔(かほ)をして花の番をしてゐるか、見たくて
堪(た)まらなかつた。蜀紅葵(しよくこうあふい)花辧(はなびら)は燃えながら、翌日(あくるひ)散つて仕舞つた。
 桂川(かつらがは)の岸傳ひに行くといくらでも咲いてゐると云うコスモスも時々病
室を照らした。コスモスは凡(すべ)ての中(うち)で最も單簡(たんかん)で且(かつ)長く持つた。余は其
薄くて規則正しい花片(はなびら)と、空(くう)に浮んだ様(やう)に超然(てうぜん)と取合(とりあ)はぬ咲き具合(ぐあひ)とを見
て、コスモスは干菓子(ひぐわし)に似てゐると評(ひやう)した*8。何故(なぜ)ですかと聞いたものが
あつた。範頼(のりより)*9の墓守(はかもり)*9の作つたと云う菊を分けて貰つて來たのは夫(それ)から餘(よ)
程(ほど)後(のち)の事である。墓守は鉢に植ゑた菊を貸して上げやうかと云つたさう
である。此墓守の顔も見たかつた。仕舞(しまひ)には畠山(はたけやま)*10の城址(しろあと)からあけび*11と云
ふものを取つて來て瓶(へい)に挿(はさ)んだ。夫(それ)は色の褪(さ)めた茄子(なす)の色をしてゐた。
さうして其一つを鳥が啄(つゝ)いて空洞(うろ)にしてゐた。――瓶(へい)に挿(さ)す草と花が
次第に變(かは)るうちに気節(きせつ)は漸(やうや)く深い秋に入(い)つた。
   日似三春永。 心随野水空。 牀頭花一片。 閑落小眠中*11

2* 谷一面の百合:花の時期,分布,香りなどからヤマユリ(Lilium auratum)である.花被は純白ではなく,中央に黄色の線,全体に細かい臙脂色の斑点があるが,漱石は「それから」「行人」などの著作でも,ヤマユリを白百合と記述.詳しくは,塚谷裕一『漱石の白くない白百合』文藝春秋(1993).また漱石の「夢十夜」の「第一夜」で女の墓から咲きだした「真っ白な百合」も,草丈や香りの強さからヤマユリと思われる.

 3* 野の百合:聖書の「百合」は,白い花をつける百合と誤解されて,清純なものの象徴というふうに受け取られてきた.『新約聖書』マタイ伝第六章第二十八節に,「又(また)なにゆゑ衣(ころも)のことを思(おも)ひ煩(わづらふ)や.野(の)の百合(ゆり)は如何(いか)にして育つかを思(おも)へ,労(らう)せず,紡(つむ)がざるなり」(『旧新約聖書』日本聖書協会刊).とある.『口語聖書』では,「野花」,パルバロ=デル・コル『口語訳旧約新約聖書』では,「野のゆり」となっている.明治と大正を通じて,「野の百合」はそのまま受け取られてきた.現在では多くの専門家が,「野の百合(lily of the field)」はポピー・アネモネ(Poppy Anemone)即ち Anemone coronaria (左図)であると考えている.ヨーロッパの南部・地中海沿岸が自生地で,特にパレスチナでは真紅の花が至る所に咲いている.(左図:Anemone coronaria. Redouté, Choix Plus Belles Fleurs, 107 (1833))

 4* 唐菖蒲(からしやうぶ):いわゆるグラジオラス.漱石の胃腸病院に入院中の明治四十三年七月二十一日の日記に,「○朝原稿をかいてゐると芥舟がくる」とあり,翌日の日記に,「○昨日芥舟が来て床の花を見て,あれは唐菖蒲といふものだと教へた.バイブルにある野の百合といふのはあの事だと云つた」とある.

 5* 芥舟君:畔柳 芥舟(くろやなぎ かいしゅう,1871 - 1923)は,山形県生まれの英語学者.本名・都太郎(くにたろう).東京帝国大学英文科卒.1898年第一高等学校教授.戯号は牛涎子(ぎゅうせんし).芥川龍之介,久米正雄らを教えた.比較文学的著作『文談花談』(明治四十年七月十五日,春陽堂刊)がある.各国の文学作品に現われた動物と植物のことを調べたもの.明治四十三年四月十二日付芥舟宛書簡に,「大兄の御得意の鳥獣草木も是非〔『東京朝日新聞』の文芸欄に〕御紹介を願慶候」とある.

 *6 檜扇(ひあふぎ):あやめ科の多年生草.広い剣状の葉の密に互生するさまが檜扇(櫓の薄板を要のところで白絹をもって綴り連ねた扇)を開いた形に似るところからこの名がある.山野に自生し,高さは一メートル内外,夏季に濃紫の斑点のある花が開く.学名Iris domestica.別名ヒオウギアヤメ.カラスオウギ.この実は真っ黒で射干玉(ぬばたま)という.

 *7 蜀紅葵(しよくこうあふい):紅蜀葵(こうしょっき)すなわちモミジアオイのことであるが,漱石以外この用語の使用は確認できなかった.漱石の記憶違いであろうか.

 *8 コスモスは干菓子に似てゐる:明治四十三年十月九日の漱石の日記に,「○コスモスを活けて東が持って来る.コスモスは干菓子に似てゐると云つたら東は何故ですかと聞いた.何故と聞いちや仕方がないと答へた」とある.「干菓子」を「東」にかけて,洒落を言ったのである.
 「東」とは門弟の東新(ひがし・あらた,生没年未確認)長崎県生まれ.明治四十二年東京帝国大学文科大学哲学科卒業.のち,内務省に入り,さらに法政大学教授となった(未確認).漱石の第五高等学校教授時代の教え子と思われ,漱石の病中,看護や留守宅の家事の手伝い,病院と留守宅との連絡などにあたっていた.漱石の修善寺での吐血の報を松根東洋城(豊次郎,1878 - 1964)から留守宅でうけ,当時子供たちが避暑していた茅ヶ崎にいた漱石の妻鏡子(1877 - 1963)にその電報を転送する形で「修善寺へ急行せよ」と連絡した(817日).鏡子は19日に修善寺菊屋旅館に到着.
 東は,漱石の主治医,長與胃腸病院長,長與称吉(ながよ・しょうきち,1866 - 1910)の葬儀(95日)には,夏目一家の代理として出席.

 *9 範頼(のりより)の墓守:建久四年(1193).兄頼朝の猜疑を蒙って修善寺に殺された源範頼(義朝の六男,1150 - 1193)の墓は.修善寺の街の西北のはずれ.戸田街道に面する小山の林中にあるが.所在の解らなかったものが明治になってから土地の小山清三という人によって発見されたといわれる.その墓の番人の意で.小山清三か.その血縁者であろう.漱石の明治四十三年九月二十三日の日記に.「○昨雨を聞く.夜もやまず./範頼の墓濡るゝらん秋の雨」とあり.二十七日の日記に夫人と森成医師・東新の三人が散歩に出て観音堂から菊をもらってきたことを記したあとに.「○範頼の墓守も花を作るから今度はあすこで貰ってくるといふ./秋草を仕立てつ墓を守る身かな」とある.

 *10 畠山の城址:畠山入道道誓(畠山国清,南北朝時代 - 室町時代. 生誕, 不詳. – 1364?,伊豆国守護も務めた)とその一門の構えた修善寺城の旧跡。菊屋旅館のすぐ近くの裏山にあった。現在はその山が「城山」と呼ばれている。明治四十三年十月六日の日記に,「○昨日森成さん畠山入道とかの城跡へ行って歸りにあけびといふものを取ってくる.ぼけ茄子の小さいのが葡萄のつるになってゐる様也うまいよし.(中略)/鳥つゝいて半うつろのあけび哉」とある.

 *11 日似三春永 詩の読み下しと大意は次の通り:「日は三春(さんしゆん)に似て永く,心は野水(やすゐ)に随つて空(むな)し,牀頭花一片(しやうとうはないつぺん),閑(かん)に落つ小眼の中(うち)」.
 日は春のように永く感ぜられ,心は野の流れに随って空虚である.ベッドの上の一ひらの花が,しばしのまどろみの間に静かに落ちる.明治四十三年十月一日の日記に記されている.字句の異同はない.
(参考資料:『漱石文学全集 第十巻 小品・短篇・紀行』 (編者 伊藤整,荒正人)集英社(1973))


森成麟造の帰郷送別会記念:牛込区(現新宿区)早稲田南町 夏目漱石自宅,明治四十四(1911)年412日,
 前列右から野村伝四,坂元雪鳥,小宮豊隆,三女栄子,長女筆子,四女愛子,長男純一,鏡子夫人,次女恒子.
 後列右から安倍能成,野上豊一郎,夏目漱石,東新,森成麟造,松根東洋城。円内は右から森田草平,鈴木三重吉
 (県立神奈川近代文学館蔵)

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