2018年7月17日火曜日

オオボオシバナ(1)万葉集,延喜式,名語記,日葡辞書,菊池理予「友禅染と青花紙の関わりに関する一試論」


Commelina communis var. hortensis
2017年8月 茨城県南部
暑い夏の日の朝,オオボオシバナの碧い花が一時の涼しさをもたらす.
オオボオシバナは名前の通り,どこにでもあるツユクサ(帽子花)が大型化した変種で,江戸時代には近江地方で花辧から色素を採取するために栽培されていた.

本種の基本種,ツユクサ(Commelina communis var. communis)の花は,奈良時代から衣料を青く染めるのに用いられていた.この青色は耐久性が低く,水にぬれると流されてしまうため,主に下級の役人の衣服に用いられたらしい(本居宣長『古事記伝』1764).

★『万葉集』にはツユクサ(当時の呼び名 つきくさ 月草)を詠った歌が九つあり,この花が早朝しか開花しないことや,衣に付けた青い色が長持ちしないことを,恋のはかなさに重ね合わせている歌も多い.
月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ(0583
月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ(1339
ツキクサの名は花の色が衣服に付くので「付草」,或は色液を取るため器の中で搗いた「搗草」由来という説もある.

「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典★『延喜式』(927編纂開始,967に施行)の「巻十五 内蔵寮」の章には
「(中略)
奉諸陵幣
錦綾各二丈八尺/別各二/尺八寸∥兩面二丈/別二/尺∥夾纈﨟纈帛各二疋二丈/別各一/丈四尺∥中緑浅緑帛各一疋四丈/別各/一丈∥白絹五丈五尺/別五尺/五寸∥生絹三疋二丈/別二/丈∥〓五丈/別五/尺∥蘇芳緂紫緂支子緂紅花緂白橡緂帛各一疋五丈/別各一/丈一尺∥緑緂紅花緂蘇芳緂紫緂糸白糸各四絇二兩/別各/五兩∥橡「緂」糸皀糸生糸各一絇八兩/別各/二兩∥蘇芳緂紫緂紅花緂支子緂縹緂綿各三屯四兩/別各/四兩∥雑色緂木綿大三斤二兩/別五/兩∥細屯綿十屯/別一/屯∥三嶋木綿卌(四十)枚/別四/枚鴨頭草木綿廿枚/別二/枚∥色紙百五十枚/別十/五枚∥細布二端二丈五尺/別一丈/五寸∥曝布二端二丈五尺/別一丈/五寸
(中略)
已上陵十所雑給料
錦綾各一丈九尺六寸/別各二/尺八寸∥兩面一丈四尺/別二/尺∥夾纈﨟纈帛各一疋三丈八尺/別各一/丈四尺∥中緑浅緑帛各一疋一丈/別各/一丈∥白絹三丈八尺五寸/別五尺/五寸∥生絹二疋二丈/別二/丈∥絁*三丈五尺/別五/尺∥蘇芳緂**緂紫緂支子緂紅花緂白橡
緂帛各一疋一丈七尺/別各一/丈一尺∥緑緂蘇芳緂紫緂紅花緂糸白糸各二絇十一兩/別各/五兩∥橡糸皀糸生糸各一絇二兩/別各/二兩∥蘇芳緂紅花緂紫緂支子緂縹緂等綿各二屯四兩/別各/四兩∥雑色緂木綿・二斤三兩/別五/兩∥細屯綿七屯/別一/屯∥三嶋木綿廿八枚/別四/枚∥細布一端三丈三尺五寸/別一丈/五寸∥色紙百五枚/別十/五枚鴨頭草(ツユクサノ)木綿十四枚/別二/枚∥曝布一端三丈三尺五寸/別一丈/五寸
(後略)」
と,ツユクサで染めた木綿が支給されると記載されている.(左上図,經濟雜誌社集『國史大系 第十三巻 延暦交替式 貞観交替式 延喜交替式 弘仁式 延喜式』(1900)「延喜式 内蔵寮」NDL)
  絇:すが縒よってある糸を数えるのに用いる助数詞。
  *絁:あしぎぬ,
  **だん【緂】
  だんだらに染めた糸を用いて組んだり織ったりして白地に横の縞模様を表したもの.地色とのさかいはぼけて絣かすりのようになる.平緒(ひらお),鎧(よろい)の縅おどしの糸,馬の手綱などに用いられる.
  白から次第に濃い色になるようにした色の組み合わせ.
内蔵寮(くらりょう,うちのくらのつかさ):律令制で,中務省に属し,宮中の御料を司った役所.職掌は大蔵省より毎年宮廷運営のために送付された金・銀・絹などをはじめとする皇室の財産管理・宝物の保管,天皇,皇后の装束や祭祀の奉幣・官人への下賜・調達など皇室関係の出納事務.

この時代には,衣類や反物に直接花辧を,或は袋に集めた花辧をこすりつけて,青色に染めたと考えられている.従って朝にしか開かないツユクサの小さい花から,大量の花辧を集めるのは,大変な作業であったろうと思われる.

13世紀になると,ツユクサ或はオオボオシバナの花の搾り汁を紙にしみこませた「青花紙」が使われるようになった事が記録に残る.

菊池理予「友禅染と青花紙の関わりに関する一試論」無形文化遺産研究報告Vol.12 (2018) には,「鎌倉時代の『名語記』(経尊、文永111274〉年)の「ハナ」の項には「ソメタルヲアヲハナ(中略)ホヲ花は鴨頭草 ツキクサノ花ヲ紙ニソメナリ(129~130頁)」、また「ツ」の項目には「草ノ名ニツキクサ如何コレハアヲ花ニソムル ツユクサノ同事ニヤ(1224~1225頁)」という記述が見られる。」とあり,鎌倉時代には.ツユクサ(オオボオシバナ)の花の花弁から絞り出した液を紙に浸み込ませて運搬・保存に利するものを得る技術が確立していたのであろう.

さらに,同論文には「その後,江戸時代初期の『日葡辞書』(葡: Vocabulário da Língua do Japão )(1603~1604年)にも『名語記』同様の記述が見られる。『日葡辞書』の「Auobana」の項には「下(Ximo)では縹(Fanada)と言う。青く染めた紙の一種。(39頁参照)」という記載が見られる。また、「Fanada」には「fanagara (花がら)と呼ばれる花で、藍色に染めた紙。上(cami)ではAuobana (青花)という。」とある。また、同書には「例、Cami ximo .(上下)上層のものと下層のものと、高貴の人と下賤の者と。(767頁)」という記述も見られるため、cami は上流階級、ximo は下流階級を示すと考えられる。
 これらの記述を整理すると、①青く染めた紙を上流階級では「アオバナ」下流階級では「ハナダ」と称したこと。②「ハナダ」とは「ハナガラ」の藍色の花の汁を紙に浸み込ませたものであることが理解できる。「ハナダ」が藍色の花の汁ということから推察すると、「アオバナ」も現在の青花紙のようなものを示していたのではないかと推測できる。」とあり,「また、『日葡辞書』が刊行された長崎で刊行されたことを考えれば、「ハナガラ」が九州近辺での呼称であったこととも関連が推測される。」ともある.(出典『邦訳 日葡辞書』土井 忠生 (編集, 翻訳), 森田 (編集, 翻訳), 長南 (編集, 翻訳) 1995 岩波書店)
更にこの『邦訳 日葡辞書』には,「Fanagara ヘナガラ (はながら 藍色の花の咲く。このように呼ばれる草」とある.
なお,『日本植物方言辞典』によれば,ツユクサの方言として「はながら」は本州中部より西で広く記録され,九州では「福岡(田川),長崎(対馬・下県),熊本,熊本(玉名・八代・球磨・芦北),大分(直入・速見),鹿児島(薩摩・大島・甑島・硫黄島)」とほぼ九州一圓である.

この染色に用いられた紙「青花紙」がツユクサの花弁からか,オオボオシバナの花弁からか,得られたのかは明確ではないが,遅くとも江戸時代初期にはこれらの花の花弁から絞り出した液を紙に浸み込ませたものが商品として流通していたことが推察される.


2018年7月16日月曜日

ツグミ(16/16) 仮 狩猟鳥獣からの除外(S-22),かすみ網猟の禁止(S-25)


 大正時代以降,秋に渡りで南下してくるツグミを対象にかすみ網猟が大規模に行われるようになり,多くの野鳥が乱獲された.
ふるさと坂下-鳥屋(www.takenet.or.jp/~ryuuji/saka/furusato/103.html

 加えて,戦中・戦後の国土の荒廃によって野鳥の数は著しく減少した.このため,1947(昭和22)年にGHQ(連合軍総司令部)の勧告によって,当時の狩猟法施行規則が改正され,かすみ網猟の対象鳥であるツグミ,アトリ,カシラグカ等が非狩猟鳥とされた.これによって,事実上かすみ網猟はできなくなった.
 さらに,1950(昭和25)年には,狩猟法施行規則改正でかすみ網猟が禁止猟法とされた.しかし,霞網の製造・販売・輸入は禁止されていないので,現在でも密猟は存在すると言われている.

Dr. Austin, cica. 1947, 1973
 昭和二十一年にGHQ 天然資源局野外生物科長として来日した米国の鳥類学者オースチン博士Oliver L. Austin, Jr. 1903-1988)が鳥屋を見てまわり,その残虐性(網にかかった小鳥達の首を折っては収穫する)*と無節制な大量捕殺に心を痛め,かすみ網猟を禁ずるために,ツグミ・カシラダカなどを非狩猟鳥にすることを勧告(1947. Mist Netting for Birds in Japan. Natural Resources Section, Report No. 88, GHQ, SCAP, Tokyo, pp. 1-24.)(未確認)した.これに基づき1947(昭和22)年 99 『狩獵法施行規則』が一部改訂されて,狩猟鳥種の数が減らされ,ツグミは非狩猟鳥となった
*伊藤 桂一(1917 - 2016)『鶫』(伊藤桂一時代小説自選集 第二巻「藤棚の下」収載)

しかし,かすみ網猟が禁止された訳ではないので,ツグミの密猟は絶えず,半ば公然と鶫料理を提供する店や,季節の味として賞味する客が絶えることはなかった(遠藤 公男『ツグミたちの荒野』1983).

1950(昭和25)年 930日の狩猟法施行規則改正で,かすみ網猟が禁止猟法とされた

★官報 昭和2299日(火曜日)の「省令」(右図,NDL) には
「農林省令第七十二号
狩獵法施行規則の一部を次のように改正する
昭和二十二年九月九日
農林大臣 平野力三
第一條     狩獵鳥獸の種類左の如し(以下略)」
とあり,狩猟鳥類として,アイサ類, ウズラ, エゾライチョウ, オオバン, カモ, カラス(ホシガラスを除く), キジ, キジバト, クイナ, コジュケイ, ジシギ, スズメ, タシギ, タマシギ, ニュウナイスズメ, バン, ヒクイナ, ヒシクイ, マガン, ヤマシギ, ヤマドリが定められた.
 これを大正七年の狩猟鳥類と比較すると
アトリ,アホウドリ,アオサギ,アオジ,イカル,イスカ,ウ,ウソ,カケス(ルリカケスを除く),カシラグカ,カワラヒワ,クマタカ,クロジ,ケリ,ゴイサギ,シギ,シメ,シロハラ,ダイゼン,チドリ,ツグミ(トラツグミおよびクロツグミを除く),ノジコ,ハクチョウ,ハト,ハヤブサ,ヒヨドリ,ヒワ,ホオジロ,マシコ,マミチャジナイ,ミサゴ,ミヤマホオジロ,ムナグロ,ワシ,ヲシドリ
の三十五種の鳥類の狩獵が禁止された事となる.中でも,ツグミ,マミチャジナイ,カシラダカなど,それまでかすみ網で捕獲されていた鳥類の狩獵が禁止されたことにより,実質的にかすみ網猟はできなくなった.

更に,★官報(号外) 昭和25930 土曜日 第122号の「省令」(左図,NDL) には
「◎農林省令第百八号
狩猟法(大正七年法律第三十二号)を実施するため,及び同法に基づき狩獵法施行規則を次のように定める.
昭和二十五年九月三十日
農林大臣 広川弘禪
(狩猟鳥獸の種類)
第一條 狩猟法(以下「法」という.)第一條第二項の狩猟鳥獸の種類は,次の通りとする」(中略)
とあり,狩猟鳥類として,ウズラ,ウミアイサ,エゾライチョウ,オオバン,カモ類(オシドリを除く),カワアイサ,キジ,キジバト,ゴイサギ,コウライキジ,コジュケイ,ジシギ,スズメ,タシギ,ニュウナイスズメ、ハシブトガラス,ハシボソガラス,バン,ヒシクイマガン,ミコアイサ,ミヤマガラス,ヤマシギ,ヤマドリ,ワタリガラス
の二十四種の鳥類が挙げられた.更に,
「第三條 狩猟鳥獸は,左の各号に一に該当する猟法を用いて捕獲してはならない.
一 かすみ網を使用する方法
二 飛行中の飛行機及び運行中の自動車並びに五ノット以上の速力で航行中のモーターボートの上から銃器を使用する方法
三 はご(千本はごを含む),つりばり又はもちなわを使用する方法
四 キジ笛を使用する方法
2 狩猟鳥類は,わなを使用する方法を用いて捕獲してはならない.
(以下略)」
とされ,霞網猟が禁止され,この省令は現在でも有効である.

現在(平成307月)現在では,
エゾライチョウ,オナガガモ,カルガモ,カワウ,キジ,キジバト,キンクロハジロ,クロガモ,ゴイサギ,コガモ,コジュケイ,スズガモ,スズメ,タシギ,ニュウナイスズメ,ハシビロガモ,ハシブトガラス,ハシボソガラス,バン,ヒドリガモ,ヒヨドリ,ホシハジロ,マガモ,ミヤマガラス,ムクドリ,ヤマシギ,ヤマドリ(コシジロヤマドリを除く),ヨシガモ
の二十八種の鳥類が狩猟鳥として選定されている.(https://www.env.go.jp/nature/choju/hunt/hunt2.html)
(了)

2018年6月30日土曜日

ツグミ(15) 漱石の死期を早めたのは,ツグミか,ピーナッツか


夏目漱石(1867 – 1916)は,若い時から胃弱で悩まされ,「明暗」の連載途中に享年50歳で胃潰瘍で永眠した.ツグミの粕漬が胃潰瘍を悪化させ,死を早めたとの説がある.

★高浜虚子『漱石氏と私』には,漱石への紹介の労をとった事のある渡邉義雄氏から虚子へ「この冬休暇に帰って猟をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御礼の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食って下さいませ。」との書状が送られたとある.虚子は「山鳥は早速調理して食った。旨(うま)かった。ツグミ云々(うんぬん)とあるのは漱石氏が胃潰癰(いかいよう)を再発して死を早めたのはツグミの焼鳥を食ったためだとかいう話があったのによるのであろう。」とある(初出:「ホトトギス」1917年).

大正五年十二月九日に亡くなった漱石の遺体は,主治医の一人であった長與又郎博士によって解剖され,その剖検所見が発表されたが,それには,十二月九日の死に至った病状の「發端ハ十一月ノ十六日ニ糟漬ノ鶫ヲ晩ニ食ベラレタノニ始マツタラシイノデアリマス、」とある.

一方,夫人の★夏目鏡子述,松岡譲録『漱石の思ひ出』には,十一月二十一日に辰野隆*の結婚披露宴が築地の精養軒で行われ,列席した漱石が消化に悪いとは知りながら,大好物の南京豆を食べてしまったことにあると思っていたような記述がある.
*辰野隆(1888 - 1964):フランス文学者,随筆家,3148年東京大学教授,48年日本芸術院会員,62年文化功労者

江戸時代から病人の保養食として栄養価が高く消化し易いとされていたツグミも,「漱石の死期を早めたツグミの糟漬」と,とんだ悪評を被っている.

★夏目鏡子述,松岡譲録『漱石の思ひ出』岩波書店 (第一刷1929,第十二刷 1982
六〇 死の床
十一月二十日前のことでした。山田三良さんの奥さんがお見えになつて、その二十一日に御自分のお嬢さんが辰野隆さんと結婚され、その披露が築地の精養軒であるから、是非出席して戴きたい、辰野の方でも是非にと望んで居りますからといふお頼みなのですが、相變らず夏目の方では、自分はのつぴきならない義理のある所の外はどこへも出ないことにして居るし、叉そんな席へ出るのが實に億劫だといつてお斷わりして居ります。奥さんは奥さんで、さうでもありませうが、折角私がかうやつて上がつて、こんなにもお願ひするのですから、そんな因業なことを仰言らずに來て戴きたいと涙を流しでのお頼みです。夏目もそれに動かされて、私を呼びまして、どうだいと申します。そこで私も奥さんの身になつても孝へて上げると、さう迄仰言つて下さるのにと存じまして、折角なんですから参りましてはとすゝめました。が、ふと孝へてどうしてもおいやなのですかと念を押しますと、いや、どうしてもといふわけではないが、どうも面倒臭いのだといふ例のとほりの曖昧な返事です。ではとにかく其時になつて行けないやうだつたら其時の事として、一旦おうけしておいたがよからうといふので、奥さんも大層お喜びになつておかへりになりました。
(中略)
さて當日の二十一日になりますと、心配して居た紋付もいい具合に間に合ひました。看て見て気のついたことですが、下着から帯から何から何迄すつかり新らしものづくめなのです。變なことになつたものだなと又も気になりよしたが、ともかく出かける時刻も迫まつたので書齋に參りますと、胃が痛いといつて、面白くない顔をしてぼんやりして居ります。無理に連れ出しても悪いし、後で又床につかれるやうなことがあつてはと存じまして、そんならどうなさいます、おやめにしませうかと訊ねますと、行けないことはないから、ともかく行かうと申しまして、それから大儀さうにして支度をしました。

精養軒へ行つて見ますと、どういふのか食堂の席が、男女別々になつて居ります。出がけ胃が痛いといつてゐたので内々心配して居りますと、食卓には南京豆が出て居ります。悪いものが出てる、自分が側に居たらとめるのだが、ひょつとしたら誰も小言をいふものが居ないのをいいことに喰べてるかも知れない、と心配しましたのは、夏目が叉この南京豆が大の好物で、散歩をしたりしますと、どこで見附けるものやら、砂糖のついた南京豆を一袋買つて參りまして、机のわきにおいて一人でぼり/\たべたり、時には子供達にもいいものをやらうなどといつて一緒に喰べたりするのですので、なるべくそんなものは胃の爲めに喰べてくれない方がいいにと思つて、見ると没収したりして居たものなのです。どうも比の日は遙かに様子を見てるとつまんで居るらしいので、後でやられなければいいがと案じて居たものなのです。それで気になつてゐたので、かへりに一緒になつた時、貴方、豆をたべましたかと尋ねますと、喰べたと申します。胃が痛いなんかといつてて、いやな人ねと言ひますと、なあに、もうすつかりなほつたよと、来た時とは違つて大分気分もよろしいらしく平気で言つて居りました。其晩は何事もなく安眠致しました。

(その後 症状悪化)(中略)(十二月九日)

大阪朝日新聞に掲載された
夏目漱石の臨終を描いた
小川千甕のスケッチ(「新聞集録大正史」より)
この暮れ方,非常に苦しがりまして,私がちょっと座を外づしましたうちに,胸をあけてこヽに水をかけてくれと申しますので、看護婦が霧を吹きかけてやりますと、「死ぬと困るから。」とか。何とか言つたと思ふと、そのまゝ目を白くして了つて、全く意識を失って了ひました。急を聞いて私もすぐにかけつけます。茶の間や離れに集まつておられた方々もつづいてかけつけられます。もう全く死の状態です。

私は水筆を取つて、次々にわかれを惜しむ方々へお渡しました。
今度は白い布で目をつぶらせるやうにして上から撫でました。かうしてたうとう日が暮れて間もなく息を引き取りました。大正五年十二月九日の六時一寸前のことでございました。
(後略)」

六二 解剖
さて翌日はいよく解剖といふので、澤山のお弔問客の間を寝臺車にのせられて醫科大學に参りました。
立會人には私の代理として弟の中根倫、矢來の兄さんの代理として長男の小一郎、それから門下の総代として小宮さん,この三人が参りました。主治醫の眞鍋さんがいらしたことは勿論でございます。杉本博士も御一緒のやうでした.
そのうちに思つたより早く又も寝臺車で送られてかへつて參りましたが、其時眞鍋さんが大層この解剖のこと喜ばれまして御禮を仰言いました。脳と胃とはおすゝめにより大學の方へ寄附いたしました。
この解剖については其後一週間ばかりしてから、當の執刀者長與博士の御講演がありまして,私なども拝聽に出ないかとすゝめられたものでしたが,たうとう參りませんでした。今其時の御講演の筆記が「日本消化器病學會雜誌」の別冊として出て居りますから、それをこゝへ拝借することに致します。病気の經過なども詳しく専門的にお話しになって居るので,其點でも大變御參考にならうかと存じます。

夏目漱石氏剖檢(標本供覧) 長與又郎博士述

漱石夏目金之助先生御遺族ノ特恵ニ依リマシテ、今月ノ十日に大學ノ病理學教室ニ於テ、私ハ夏目先生を解剖致シマしタ。此解剖ノ目的ハ,夏目サンノ脳ヲ研究スルコト、モウ一ツハ先生ノ最モ悩マサレテ、サウシテ同時ニ死ノ原因ニナツタトコロノ先生ノ消化系統ヲ調ベルノニ在ツタノデアリマシタカラ、従ツ
テ解剖ハ脳ト腹部ダケニ限ラレマシテ、胸部其他ノ所ヘハ及バナカツタノデアリマス。
(脳の解剖所見 中略)

次ニ今度ノ現症ノ發端ヲ御話シマス、今度ノ出来事ハ總テ胃ノ症状デアリマス、發端ハ十一月ノ十六日ニ糟漬ノ鶫ヲ晩ニ食ベラレタノニ始マツタラシイノデアリマス、其晩カラ胃ニ膨滿ノ感ガアリ又疼症ガアツタ、ドウモ胃ノ狀態ガ面白クナカツタ,二十一日ニ或人ノ結婚披露ニ列席シテ其時ニ洋食ラ試ミタ.其晩カラ胃ノ具合ガ段々面白クナク、翌二十二日ニ益々悪クナリマシテ、其晩ニ少シ嘔吐ガアつた.此時ノ嘔吐ハ唯ダ食ベタ物ヲ吐イタノデアリマシテ、血液ハ少シモ出ナカツタ,
(治療の経過 中略)
然ル七日ニナリマスト,心臓ノ力ガ弱クナツテ來マシテ,脈ノ状態ガ悪クナル、細且頻ニナツテ八日ニナリマシテハ益々脈ノ状態ガ面白クナイ.屡々『カンフル』ノ注射ナドラ試ミテモ餘リ反應ガナイヤウデアル.九日ノ朝ニナリマシテハ全ク『カンフル』モ無効トナリ形勢ハ愈々悪クナツテ來タ、脈博ハ百二十體溫ハ三十五度位デ、腹部ハ膨滿シテ太鼓狀ニナル.ソノ日ノ午後六時脱血死ノ狀態ノ下ニ終ニ死ナレタノデアリマス.(中略)以上ノ臨床ノ経過カラ考ヘマスルト

イふト,夏目サンハ二ツノ重大ナ疾病ヲ持ツテ居ラレタ.一ツハ糖尿病デアリマシテコレハ可ナリ前カラノ病デ,ソレガ近來ニナツテ益々増悪シタ、モウ一ツハ胃ノ症状デアリマシテ,ソレハ恐ラク胃潰瘍デアラウトイフ二ツノ大キナ病ヲ持ツテ居ラレク、併ナガラ先月ノ二十八日ノ大出血及本月二日ノ大出血共ニ一囘モ口カラハ血チ吐イテ居ラレナイノデアリマス、前ニ修善寺ノ潰瘍出血時ハ口カラ吐カレクノデアリマスガ,今度ハ皆便ノ方二出タノミデアリマス、此關係カラシテ十二指腸ノ潰瘍デハナカラウカトイフ疑ヒガ醫師ノ間ニアツタノデアリマス、
而シテ死ノ直接原因ハ二回ノ大出血ニヨルコトハ疑ヒナイノデアリマス。

 夏目サンハ消化器系統コトニ胃ヲ病ンデソノタメニ少ナカラズ悩マサレ終ニコレガ死病トナッタノデアル。「猫」ニオケルソノ主人公ハ大変胃ノ弱イ人デアッタ。マタ、「思ヒ出スコトナド」ノ中ニモ修善寺ニオケル胃潰瘍ノコトガ書イテアル。夏目サンガ天下ニソノ名ヲ知ラレタ「猫」ガ出ル前カラスデニ胃ハ健全デナカッタ。夏目サンノ多クノナサレタ仕事ハ始終コノ胃ニ悩ンデオラレルソノ間ニ出来上ガッタトコロノ産物デアリマス。
腦ニ關スル研究ハ今日マダシテ居リマセヌデ,是ハ何ヅレ詳シク調ベタ上デ適当ナ方面ニ於テ報告スル積リデアリマスガ,夏目サンハ消化器系統コトニ胃ヲ病ンデソノタメニ少ナカラズ惱マサレ終ニコレガ死病トナツタノデアル。『猫』ニ於ケル其主人公ハ大變胃ノ弱イ人デアツタ.マタ、『思ヒ出スコトナド』ノ中ニモ修善寺ニオケル胃潰瘍ノコトガ書イテアル。夏目サンガ天下ニ其名ヲ知ラレタ『猫』」ガ出ル前カラスデニ胃ハ健全デナカツタ。夏目サンノ多クノ成サレタ仕事ハ始終コノ胃ニ悩ンデ居ラレル其間ニ出來上ガツタトコロノ産物デアリマス。夏目サンハ消化機病トハ餘程深イ因縁ガアルノデアリマシテ一代ノ文豪デアルトコロノ夏目サンノ消化機ニ關スル臨床的觀察ト同時ニ,特志ニ因リマシテ行ハレタル解剖ノ所見ヲ,消化機病雑誌ニ既述シテ置クトイフコトハ夏目サンノ個人ノ歸史トシテモ不要ナコトデハナイ、叉醫學ノ方面カラ考ヘテモ種々吾人ノ參考に(まゝ)價スルモノガアリマスカラ意義アルコトヽ信ジマス。叉我々トシテハ科學ニ對シテモ興味ト同情トヲ常ニ持ツテ居ラレク不朽ノ文豪ニ對シテ、平素抱キツヽアツタ敬意ト共ニ,其遠逝ニ向ツテ深厚ナル弔意ヲモ併セ表シタイノデアリマシテ,旁々所見ノ大要ヲ報告シ標本ヲ供覧センガ爲メ此席ニ出マシタ譯デアリマス。(大正五年十二月十六日講演)」

日本消化器病学会雑誌 第十六巻第二号 別刷 夏目漱石氏剖検 1917(大正6)330 長与又郎 

一方,小説家德田秋聲 (1872 – 1943) は自然主義文学者としての『黴』や『あらくれ』で有名だが,随筆家としても多くの著述をのこした.その中には,郷土の味 鶇 を題材にした作品がある.
母親の葬儀のあとの情景を描いた『鶫の羹』(1918)と,『灰皿: 随筆集』 (砂子屋書房, 1938)の中の「鶫・鰒・鴨など」で,彼は(鶫の羹ほど)「食べものゝうちでは、これほど細(こまや)かな味をもつてゐるものを他にもとめることができないと信じている。」などと言っている.