2017年11月30日木曜日

タラヨウ(9)はしかの名の由来(2-2)日本での流行(平安時代)小右記,藤原摂関時代の終焉の始まり

Ilex latifolia

後一条天皇の治世,万寿二年 (1025) に麻疹は大流行し,天皇を初め,多数の殿上人やその妻子が罹病し,亡くなった人も多い.(前記事参照

右大臣藤原実資 (さねすけ,957-1046)が小野宮右大臣 (右府) と呼ばれたことから『小右記(しょうゆうき)(野宮大臣家の略)』と記名される彼の日記は,藤原道長,頼通父子という藤原氏の最も栄えた時代を背景に,実資自身,博識で教養に富み几帳面であったため,宮廷の政務儀式を中心に,公私両面広範囲に渡り,平安時代の日記の白眉とされている.

この書の「後一条天皇 萬壽二年 秋 七月 八月」の記事には,「赤斑瘡」が,京都で大流行して,後一条天皇はじめ、中宮威子、皇太子妃嬉子,皇子親仁,藤原經任,藤原資高,資平の子女等,多くの宮中人やその子女が赤裳瘡に罷ったことが残されている.この年,後一条天皇は十八歳、中宮威子(藤原道長の娘)は二十六歳、東宮は十七歳、東宮妃嬉子(きし/よしこ,藤原道長の娘)は十九歳であった.後一条天皇,中宮威子は回復したが,東宮妃嬉子は83日、皇子親仁(後冷泉天皇)を出産するが,出産直前に罷った麻疹でわずか2日後に死去した.後冷泉天皇には世継ぎがなかったので,結果的には麻疹が藤原摂関政治に幕を下ろしたとも言えよう.

「萬壽二年 秋
七月
藤原經任赤斑瘡ヲ病ム
赤斑瘡廿七日、丁未、四位侍從經任煩赤斑瘡、已經兩三日、不聞其由、宰相示他事使便苦此承、仍乍驚間遣之、
赤斑瘡流行ス 諸國嬉子出産ヲ憚リテ旱魃ノ愁ヲ申サズ
雲上侍臣年少之輩多煩云々、件疾遍満京洛、誠是可謂凶年、國々司尚侍産事不上旱損之愁、(以下略)

嬉子赤斑瘡ヲ病ム
廿九日、己酉、(中略)藤宰相廣業來謝夜前不來之事、又云、
尚侍赤斑瘡ヲ病ム
從咋尚侍赤班瘡序病、今日瘡出、仍止修法加持、義光朝臣云、尚侍瘡出、即瘡出即熱氣散、仍今日修法彼加持者、陪從女房戲咲無極、今思慮、加持早之欤、

八月
三日、壬生壬子、(中略)
藤原威子赤斑瘡ヲ病ム
中宮御赤瘡事 使義光朝臣訪秦通、中宮(藤原威子)給惱給赤瘡云々。
藤原嬉子皇太弟敦良親王王子親仁ヲ生ム

四日、芖丑癸丑、(中略)

五日、甲寅、(中略)
関白權随身府生保重馳來云、
尚侍薨事
尚侍不覺、仍分手修諷誦、諸僧加持、亦観世衝兩三度、只今無音、非常坐欤者、宰相歸來云、從未時許
嬉子薨ズ
加人鬼籙、遂以入滅、諸僧分散云々、連月有事如何、
道長嬉子ヲ加持ス
尚侍煩赤班瘡之間有産氣、可有加持哉否事持疑云々、仍有被占、吉平云、不冝、守道云、吉也、禪閤存可加持心被勘當吉平、然而諸僧不能加持、依怖神氣云々、禪閤先加持、其後諸僧加持、調伏邪氣、禪閤放詞云々、加持不快事也

八日
藤原資高赤斑瘡ヲ病ム、症状
赤班瘡 資高赤班瘡今日當七个日、瘡気漸消云々、心神無減、飲食不受、痢病發動亦爲云々、諸人相同、此病自胸・鼻血及赤・白等痢相加云、先年如此、

藤原經任ノ痢病ヲ見舞フ
九日、戌午、四位侍從經任日來煩赤班瘡平愈、彼痢病重發云々(中略)
威子平癒ス 親仁病ム
中宮日來惱給赤班瘡已以平復給、又云、故尚侍降誕兒從今日身」熱有惱氣、叉乳母煩此瘡退出、禪
閣云、兒不過七个日受取此疾、極悲事云々、(以下略)

親仁ノ病ハ赤斑瘡ナリ
十日、己未、宰相來、即退去、臨夜亦來云、東宮小宮 故尚侍誕兒從一昨煩赤班瘡、一昨不知案内沐浴、(以下略)

天皇赤班瘡ヲ病ム
主上御赤班瘡 十二日、辛酉、〇相兩度來、右兵衛督來、両人清談、臨夜漏、主上惱御赤班瘡云々、未及披露、御傍親卿相皆觸穢、「獨身馳参左右有憚、亦有展轉觸穢疑、思慮多端、新中」納言長家、右三位中將師房重煩此病云々、(以下略)

十三日、壬戌
主上御赤班瘡
左中弁經頼消息云、主上自昨惱御赤班瘡、々所々、出御:惱體不重者、世間觸穢交來、乙丙間未決定、大略乙欤、仍不能參内、可披露由示遣了、(以下略)

十四日、癸亥、早朝資頼從内退出云、去夕候宿、御赤班瘡多出給、御惱不軽、依觸穢不得参入、(中略)
左頭中將公成近曾煩赤班瘡云々、大虛言欤、近日重煩赤瘡云々、(以下略)

御惱平癒
十六日、乙丑、資頼云、主上御惱令平復給、赤班瘡只五个日許令労勞給者、宰相來云、資房熱氣未散、叉女子・小兒等三人煩、二人者瘡出者、(以下略)

十七日、丙寅 (中略)
上達部無故障悉向前借凶事、年不及三十上達部煩赤班瘡、不到彼處云々(以下略)

資平ノ子女悉ク赤斑瘡ヲ病ム
十八日、丁卯、宰相云、資房瘡頗宜、未全平愈也、女子・小兒合三人威惱、(以下略)

資房痢病重し
廿一日、庚午、宰相示遂云、資房從夜部重煩痢病、己無爲術、(中略)宰相來云、資房病腹無極、去夜痢廿餘度、臨昏宰相以兼成朝臣言送云、資房病腹不休、欲令服韮、
赤班瘡後服藥事
今日坎日、明日服藥不宜、爲之如何、答云、咋熱氣散、今日服韮若可率乎、間兩三陰陽師隨占可服、
多是時疫之所致也、暫愼過何如、

廿七日、丙子、(中略)云、新中納言妻大納言齋信女爲故左衛門督霊?連日被取入不覺、就中煩赤瘡、仍不能加持云(々)

廿八日、丁丑、早旦大外記頼隆云、(中略)叉云、去夜新中納言長家、妻大納言齋信女、平産、七月云々、而兒亡、」母不覺、爲邪氣被取入、産婦母忽爲
人々病事
尼、其後産婦僅蘇生、猶不可馮、父母悲泣者、侍從経任從大納言許來云、去夜丑時産、不幾見兒死、即産婦女已立種々、大納言誓云、一生間不食魚鳥、亦母爲尼、此間蘇生、日來煩赤班瘡、飲食不受、痢病發動、干今不休、産後無力尤甚、似可難存、醫侍忠明宿祢可、醫癒無術、可祈申仏神者、(以下略)

使者ヲ以テ齋信并に長家ヲ見舞フ
長家卿室病事
廿九日、戊寅、呼四位侍從經任、訪大納言齋信・新中納言長家、大納言報云、中納言室家重煩赤班瘡、僅平愈、不經幾日未及其期七月、産、臥赤瘡疾之以來、水漿不通、日夜爲邪氣被取入、不可敢存、悲嘆之間、今有此消息者、經任云、痢病不止、万死一生、(中略)
秉燭後人々云、新中納言室亡(云)々(以下略)」

住宅環境や栄養状態もよく,医師からの治療も受けられた貴族階級の人々も多く罹患し,特に出産時の女性が多く亡くなっていた.ましてや,「件疾遍満京洛」としか記録されていない庶民たちの苦難は如何ばかりかと思われる.

出典:東京大学史料編纂所/編纂『大日本古記録 小右記 7 自万寿元年至万寿四年』岩波書店 (1987)

2017年11月19日日曜日

タラヨウ(8)はしかの名の由来(2-1)日本での流行(平安時代),藤原摂関時代の終焉の始まり.扶桑略記,日本紀略,百錬抄,栄花物語,左經記,小右記

Ilex latifolia
ハシカ除けの咒としてタラヨウの葉に書く「麥殿の哥」の,麥殿とは「麥殿大明神」とも言われる麻疹除けの民間信仰の神であるが,その由来は麻疹の和名「ハシカ」と関係がある.即ち「はしか」とは,麦や稲の穂の芒(のぎ)が肌をチクチクと刺戟する様を,西国では「はしか(い)」という事から,麻疹に罹患すると喉や肌が痒くなる様を例えて,鎌倉時代以降に麻疹を「はしか」ともいうになった.

麻疹は,日本には中国経由で渡来したと考えられ,平安時代以後度々文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ(赤斑瘡・赤瘡)」が,今日の「麻疹」に該当するという考えが通説である.

京都で長徳四年(998)に「あかもがさ」が大流行したという記事は,★『扶桑略記 一条天皇 長徳四年』のこの年の項に
「自夏至冬。疫瘡遍発。六七月間。京師男女死者甚多。下人不死。四位巳上人妻最(寂?)甚。外國不死。世謂赤斑瘡。始天皇。至于庶人。貴賎老少。緇素男女。無一免此瘡。但前信濃守公行。獨不之。
長保元 長徳五年正月十三日。改爲長保元年。依去年赤斑瘡也。」とあり,一条天皇までが罹患し,多数の人が亡くなったので,長保に改元までしたとある.

また,★『日本紀略 後篇十,長徳四年』には,
「七月、◎今月天下衆庶、煩疱瘡,世號稲目瘡,又号赤疱瘡,天下無此病之者,但前信濃守佐伯公行、不此病。」とあり,また「◎今年天下自夏至レ冬。疫瘡遍發。六七月間。京帥男女死者甚多。下人不死。四位以下人妻最甚。謂之赤斑瘡。始主上于庶人。上下老少無此瘡。只前信濃守[佐伯]公行不患。」とある.

★『百錬抄 第四 一條院』には,
「今年。自夏至冬、斑瘡流行、死亡者多、古老未今年」とある.

さらに,藤原一族の興亡を描いた★『栄花物語 浦々の別の巻』には,
「今年、例の裳瘡にはあらず、いと赤き瘡のこまかなる出で来て、老いたる若き、上下分かずこれを病みののしりて、やがていたづらになるたぐひもあるべし。これを公、私今のもの嘆きにして、静心なし。されど、この召返しの宣旨下りぬれば、宮の御前世にうれしきことに思さるべし。夜を昼になして、公の御使をも知らず、まづ宮の御使ども参る。これにつけても、若宮の御徳と、世の人めでののしろ。京には、賀茂祭、何くれの事ども過ぎて、つごもりになりぬ。」
また,「二位*もこのごろ赤瘡にていと不覚にて、ほとほとしく聞ゆれば、あはれに思さる。今は、帥殿**(そちどの)見たてまつりて死なむとそ、願ひきこゆれど、いかがと見えたり。」ともある.
*二位:高階成忠(延長元年(923- 長徳四年七月七日(99881日))
**帥殿:叔父道長と権勢を争い,敗れて大宰権帥として筑紫に追われていた藤原伊周(9741010
まさに命定めの疫病であった.

その二十七年後の万寿二年(1025) にも,麻疹は大流行した.諸書から,後一条天皇、威子、嬉子が赤裳瘡に罷ったことが知られる。この年,後一条天皇は十八歳、中宮威子(藤原道長の娘)は二十六歳、東宮は十七歳、東宮妃嬉子は十九歳であった.東宮妃嬉子(きし/よしこ,藤原道長の娘)は83、皇子親仁(後冷泉天皇)を出産するが,出産直前に罷った麻疹でわずか2日後に死去した.後冷泉天皇には世継ぎがなかったので,結果的には麻疹が藤原摂関政治に幕を下ろしたとも言えよう.

この年の流行について,★『栄花物語 巻第二十五 みねの月』には,
「かくいふ程に,今年はあかもがさといふもの出できて、上中下わかず病みのヽしるに、初めのたび病まぬ人のこのたび病むなりけり。内(うち)、東宮も中宮も、督(かむ)の殿*など、皆病ませたまふべき御年どもにておはしませば、いと恐ろしういかにいかにと思しめさる。
よろづよりも、督の殿、この赤裳瘡出でさせたまひて、いと苦しう思しめしたりとて、殿にはののしりたちて、いみじく思しあわてさせたまふ。
督の殿の御瘡かれさせたまひつれど、御物の怪の気色のいと恐ろしくて、まだ御湯もなし。」
 *督(かむ)の殿:尚侍殿,嬉子
さらに,★『栄花物語 巻第二十六 楚王のゆめ』には,
「日ごろ赤瘡(あかがさ)よりしてうちつづき御物の怪のゆゆしかりつれば、いみじう弱らせたまへるに、物もつゆきこしめさず。御物の怪その後音なく、皆人たゆみたり。かつは恐ろしと思(おぼ)しめしながら、いとかばかりの御宿世(すくせ)なれば、誰もたけう心やすく思されたり。日ごろ御湯殿もなかりつれば、明日ぞ御湯殿あるべければ、「明日にとくなれかし。湯浴みてさはやかにならん」とのたまはす。」とあり,一旦は回復の兆しを見せた嬉子ではあるが,八月五日には亡くなった.
注目すべきは,罹患中や恢復直後の入浴が禁じられていたとみられることで,この禁忌は江戸時代にもあって,麻疹の流行時には湯屋の営業が大打撃をうけたとある.

★『扶桑略記 後篇 十三 御一条 萬壽二年乙丑』には,
「○八月 ○三日壬子,東宮妃尚侍藤原嬉子産男子(略)
○五日甲寅,尚侍従三位藤原嬉子.年十九.
○九月 ◎自夏及患皰瘡」.とあるが,嬉子の死因については記載がない.

★『左經記』には,「七月廿二日 晴,始自今日,以五口僧,於承香殿,五十箇日、被轉讀大般若經,余爲行此事參入.事了退出,近來天下道俗男女、不論老少,悩赤裳瘡之由、云々、仍所被行也.」とある.

★『小右記』には,「八月十三日,主上,自昨悩御赤斑瘡,瘡所々出御,御悩体不重者,云去.十四日,左頭中将公成近曾煩赤斑瘡,云云,大虛言歟,近日重煩赤瘡,云々.二十九日,中納言室家,重煩赤斑瘡,僅平癒,不経二幾日,未其期(七月)産臥,赤瘡疾之以来,水漿不道,日夜為初気取入,云云.」とある.

正に麻疹は,命定めの病であったが,この時代の人々のあいだで,この病が重態化した原因の一つは,それまで麻疹罹患の経験がなく,十分な免疫が獲得できていなかったためであろうし,遺伝的に麻疹のウイルスに弱い人たちが淘汰されていなかったためであろう.そのうえ,大人の麻疹は一般に小児よりも重症化する傾向がある.

近代においても,ハワイ王国のカメハメハ世(カメハメハ大王の子,Kamehameha II, 1797 - 1824)とカママルKamamalu王妃(1802–1824) がイギリスとの同盟関係の交渉を行うため1823年ロンドンへ向かったが,英国で王妃とともに麻疹にかかりジョージ4世(17621830)との会見を果たす前に,1824年二人とも英国で亡くなっている.

引用部出典:
肘後備急方:中國哲學書電子化計劃,http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=267669
扶桑略記:経済雑誌社編刊『国史大系. 第六巻 日本逸史』(1897-1901)
日本紀略:黒板勝美『新訂増補国史大系. 第十一巻』 (2004) 吉川弘文館
百錬抄:経済雑誌社編『国史大系. 第十四巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 (1897-1901),黒板勝美『新訂増補国史大系. 第十一巻』(2004) 吉川弘文館
栄花物語:山中祐ら,『栄花物語①』新編古典文学全集31 (1995) 小学館
左經記:日本史籍保存会編刊『史料通覧. 第四巻 左経記』(T4
小右記:富士川『日本疾病史』東洋文庫133 (1969) 平凡社の引用部 及び次記事

このように,中世日本においては,「はしか」は疱瘡との比較で,「赤斑瘡,赤疱瘡,斑瘡,アカモガザ,稲目瘡,麻子瘡,赤痘瘡,疹,膚疹,赤疹」等と呼ばれていたが,中国の医書の影響で「麻疹」と書かれるようになったのは,室町時代以降である.従って「はしか」の方が「麻疹」よりも古い.

2017年11月18日土曜日

タラヨウ(7) はしかの名の由来(1) 麻疹ウイルスの発生,中国での流行,肘後備急方(晋)虜瘡,古今医鑑(明)麻疹

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ハシカ除けの咒としてタラヨウの葉に書く「麥殿の哥」の,麥殿とは「麥殿大明神」とも言われる麻疹除けの民間信仰の神であるが,その由来は麻疹の和名「ハシカ」と関係がある.即ち「はしか」とは,麦や稲の穂の芒(のぎ)が肌をチクチクと刺戟する様を,西国では「はしか(い)」という事から,麻疹に罹患すると喉や肌が痒くなる様を例えて,鎌倉時代以降に麻疹を「はしか」ともいうになった.この疫病の発生から,中国及び日本における名称の変遷を辿ってみる.

麻疹ウイルスは,ヒトが昔,牛を家畜化する過程で,現在の牛疫ウイルスの祖先ウイルスの中にヒトのレセプター(受容体)を利用できるものが現れ,ヒト麻疹ウイルスへ進化したと考えられる.ウシの家畜化が始まったのは,1万年ぐらい前といわれている.しかし,麻疹のある程度の流行が起きるためには人口が25万人程度は必要とされるので,B. C. 3000年の中近東地域が流行の最初の地ではないかと考えられている.(加藤茂孝「麻疹(はしか)-天然痘と並ぶ2大感染症だった」モダンメディア第567号(2010))
一方,最近の東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 押谷仁教授らの遺伝子分岐の研究では,現在の麻疹ウイルスは,the 11th to 12th centuries” に牛疫ウイルスから分岐したとしている.
但し,その中で, Linguistic evidence suggests that the disease was recognized before the Germanic migrations but after the fragmentation of the Roman Empire, i.e. between 5th and 7th centuries. This age is still within 95% credible intervals of our results. Alternatively, a common ancestor of MeV and RPV may have caused zoonosis in the past; the archaeovirus can infect both humans and cattle. Even if the earliest urban civilizations in ancient Middle Eastern river valleys (around 3000 to 2500 BCE) were infected by an ancestor of the current MeV, the virus probably had different characteristics from the current MeV.” とも記し,紀元前3000年頃の中近東地域で,また5世紀ごろに欧州で,麻疹(或は現在とはタイプの違う麻疹)が流行していた可能性も否定していない.(Yuki Furuse, et. al., “Origin of measles virus: divergence from rinderpest virus between the 11th and 12th centuries” Virol J. 7, 52 (2010)

中東で発生したと考えられるこの疫病は,ペルシャの医学者アブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリヤー・ラーズィー(ラーゼス,860–932)によって記録されているが,西方及び南方の交易ルートを通じて中国に伝播し,やがて日本にも伝わったと考えられる.

中国で現存最古の麻疹(と考えられる疫病)の流行に関する記述は,晋時代の葛洪281?-341)原著(340),南北朝時代の陶弘景456-536)改訂(~500)の『肘後備急方』にあり,その「卷二 治傷寒時氣溫病方第十三」には,
「比有病時行。仍發瘡頭面及身,須臾周匝,狀如火瘡,皆戴白漿,隨決隨生,不即治,劇者多死。治得瘥後,瘡瘢紫黑,彌方減,此惡毒之氣。世人云,永徽*四年,此瘡從西東流,遍於海中,煮葵菜,以蒜齏啖之,即止。
初患急食之,少飯下菜亦得,以建武**中於南陽擊虜所得,仍呼為虜瘡,諸醫參詳作治,用之有效方。
取好蜜通身上摩,亦可以蜜煎升麻,并數數食。
又方,以水濃煮升麻,綿沾洗之,苦酒漬彌好,但痛難忍。
其餘治猶根據傷寒法。但每多作毒意防之。用地黃黑膏亦好。
治時行病發黃方,茵陳六兩,大黃二兩,梔子十二枚,以水一斗,先洗茵陳,取五升,去滓,納二物。又煮取三升,分四服。亦可兼取黃膽中雜治法差。」とあり,赤い発疹が出て,その先端には膿がある事や,升麻を主たる治療薬としている.これが麻疹であるとすると,初め西方から,後に南方から来たという事になる.(画像:電子化計劃,http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=267669
*永徽:唐の高宗李治の治世に行われた最初の元号:650 - 655年であるが,著作年と合わず.
**建武:齊明帝(南朝斉(南斉)の第5代皇帝明帝 蕭鸞,在位期間:494 - 498 )治世下の年号か

宋以来,中国でこの疾病は小さな赤い発疹が全身出でる事から,麻,麻子,赤瘡子,疹子,膚疹,膚瘡,麩瘡,疹,沙子,酷子,赤瘡,疹子,瘄,痧,蕁疹子,正疹子,瘄子,糠瘡,温疹,騒疹などと呼ばれていたが,麻疹と呼ばれるようになったのは,明の龔信『古今医鑑』(万暦4年(1576)成立)が始まりで,以降『済世全書』,『張氏医道』,『馮氏錦嚢秘録』などにその名で記載され,日本でも鎌倉時代には,使われるようになったとされる.(富士川『日本疾病史』東洋文庫133 (1969) 平凡社)

★『古今医鑑』は明朝の最高医療機関・太医院の医官龔廷賢が父の龔信より譲り受けた資料に自己の研究を加えて編集した医術書で,当時の医学13分科を網羅する.万暦4年(1576)成立.同5年に金陵(南京)で初版刊行後,冠称を換えながら清代まで幾度も刊行され,流布した.挿図の版は元和年間(1615-23)木活字印古活字版.明の初版本系テキストの翻印本.テキストには,適宜句読点やスペースを挿入した.(画像:NDLの公開デジタル画像より部分引用).
肘後備急方』より10世紀以上後のこの書には,その間何度もあっただろう麻疹の流行に医術が対応してきた軌跡が伺われる.即ち,病態の進展を細かく段階に分類し,その段階に適した養生法や方剤が記され,また,避けるべき食物や薬物が「忌」や「不可」として細かく指定されている.

《卷之十四 麻疹
麻疹證治例
按麻疹出自六腑,先動陽分,而後歸於陰經,故標屬陰,而本屬陽.其發熱必大,與血分煎熬,故血多虛耗,首尾當滋陰補血為主,不可一毫動氣,當從緩治,所以人參,白朮,半夏燥悍之劑,升陽升動,陽氣上衝,皆不可用也.又必多實熱,故四物湯加黃連,防風,連翹以涼其中,而退其陽也.

一,發熱憎寒壯熱,鼻流清涕,身體疼痛,嘔吐洩瀉,證候未明是否,便服蘇葛湯去砂仁,陳皮,腹痛亦用厚蓋表之汗,自頭至足,方散漸減,去衣被,則皮膚通暢,腠理開豁,而麻疹出矣 縱不出,亦不可再汗,恐致亡陽之變,只宜常以蔥白湯飲之,其麻自出,服此自無發搐之證.
一,發熱之時,既表之後,切戒風寒,冷水,瓜桃生果之類,如一犯之,則皮毛閉塞,毒氣難洩,遂變紫黑而死矣.如極渴飲水,只宜少許,蔥白湯以滋其渴耳.必須使毛竅中常微汗,潤澤可也,又忌梅,李,魚,酒,蜂蜜香鮮之類,恐惹疳蟲上行.
一,麻疹既出之時,如色紅紫,乾燥暗晦,乃火盛毒熾,急用六一散解之,或四物湯去地黃,加紅花,炒黃芩進之.
一,麻疹既出,已過三日,不能沒者,乃有實熱,宜用四物湯進之.如失血之證,加犀角汁解之.
一,麻疹前後,有燒熱不退等證,並屬血虛,血熱,只宜四物湯按證照常法加減,渴加麥門冬,犀角汁,嗽加栝蔞霜,有痰加貝母,去白陳皮.切忌人參,白朮,半夏之類,如倘誤用,為害不小,戒之戒之,蓋麻疹屬陽,血多虛耗,今滋陰補血,其熱自除,所謂養陰退陽之義.
一,麻疹退後,若牙齦腐爛,鼻血橫行,並為失血之證,急宜服四物湯加茵陳,木通,生犀角之類,以利小便,使熱下行.如疳瘡色白者,為胃爛,此不治之證也.
一,麻疹洩瀉,須分新久,寒熱.新瀉,熱瀉者,宜服四苓散加木通服 寒瀉者,十中無一,如有傷食寒冷不得已,以理中湯一服而止 久瀉者,只宜豆丸,或五倍子,粟殼燒灰調下澀之.
一,麻退之後,須避風寒,戒水濕,如或不謹,遂致終身咳嗽患瘡,無有愈日.
一,麻疹前後,大忌豬肉,魚,酒,雞子之類,恐惹終身之咳,只宜用老雞精,火肉煮食,少助滋味可也.
一,麻疹正出之時,雖不進飲食者,但得麻疹淡紅潤澤,真正不為害也,蓋熱毒未解,蘊實熱,自不必食也.退後若不食,當隨用四物湯加神曲,砂仁一二帖,決能食矣.如胃氣弱者,忌少下地黃.
一,麻疹既出一日,而有沒者,乃為風寒所衝,麻毒攻,若不治,胃爛而死,可用消毒飲一帖,熱服遂安 如麻見三日退,若有被風之證,亦用消毒飲,妙.
愚驗麻疹始出,類傷風寒頭痛,咳嗽熱盛,目赤頰紅,一二日,即出者輕,必須解表,忌見風寒,腥暈濃味,如犯之,恐生痰嗽,變成驚搐,不可治矣.初起吐瀉交作者,順 乾霍亂者,逆 欲出不出,危亡立待.

麻疹方藥例
方 蘇葛湯 初熱未見點,發表之藥,暫用分兩,量兒大小服之。紫蘇二錢 葛根二錢 甘草二錢 白芍藥一錢半 陳皮五分 砂仁五分 右銼,蔥白,生薑煎熱服.
加味升麻湯 治小兒麻疹表藥,或鄰家已有疹證,預服.升麻五錢 玄參五錢 柴胡五錢 黃芩五錢 乾葛四錢 赤芍四錢 獨活一錢 甘草二錢 每銼三四錢,水煎服.
一,小兒治疹後咳嗽喘急,煩躁腹脹,洩瀉聲啞,唇口青黑。黃連 黃芩 連翹 玄參 知母 桔梗 白芍 杏仁 麻黃 乾葛 陳皮 厚朴甘草 牛蒡子,水煎服.
一,小兒疹後赤白痢疾.黃連 杏仁 桔梗 厚朴 木通 澤瀉 甘草 右銼,燈草水煎服.如下墜,加枳殼.」


これ等の養生法や忌避食物は日本でも継承され,拡大されて,麻疹流行時,江戸市民の生活に大きな影響を与えた.