2015年5月28日木曜日

カラスノエンドウ-4 「薇」 詩経注釈書 毛伝鄭箋,毛詩草木鳥獸蟲魚疏,毛詩正義,詩経集註

シロバナカラスノエンドウ Vicia angustifolia. var. segetalis f. albiflora 
2015年4月 いわき市在住の植物愛好家 トミー さんから頂いた種より育てた
シロバナカラスノエンドウ
中国の詩歌の歴史は『詩経』に始まる.『詩経』は後に儒家の経典『四書五経』の一つとなった.
孔子は『論語』の中で,「詩三百,一言にしてこれを蔽(おお)えば,曰く,思い邪(よこしま)なし.」と言って,これを学ぶ重要性を説いた.『詩経』は西周時代,当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされ,その成立からして「礼」と通ずるところがあり,孔子自身も子弟にその修養を求めているように,左伝などを見ると,当時の卿・大夫・士の必修の教養とされた.

現在まで伝わっている『詩経』のテキストは,毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である.そのため現行本に言及する場合,『毛詩』と呼ぶことも多い.

詩経には編纂者である聖人孔子の思想がそこに隠されているという考え方が強く,特に漢代には,すべての詩編には必ずその発祥のもととなった史実があり,歌詞にはそれらに対する毀誉褒貶がこめられている(美刺説),という考え方が主流となった.この思想は唐代の『五経正義』(古注)において決定的となり,徐整『毛詩譜注』,孫毓『毛詩異同評』,周續之『毛詩序義』,韋昭『毛詩答雜問』,劉芳『毛詩箋音義證』,沈重『毛詩義疏』など多くの注釈書が作られた.

これに対して宋代の朱熹 (1130 – 1200) は,各篇の成立事情に関する説とそれに伴う教訓をしりぞけ,詩そのものの内容に即して理解・鑑賞しようという『詩經集傳』を著し,詩経研究を一新した(新注).

これらの『詩経』の注釈本や参考書のいくつから,『国風,召南《草蟲》』の「喓喓草蟲,趯趯阜螽」の詩の「」の記述を取り上げて見る.

中国後漢末期の学者,鄭玄 (127 – 200) 毛伝鄭箋』「艸蟲三章章七句」の項には「 菜也」と,至極あっさりとしている(右図,NDL).

三国時代から西晋に活躍した陸機 (261-303) の『毛詩草木鳥獸蟲魚疏』には,「△言采其蕨           蕨,鱉也,山菜也,周秦曰蕨,齊魯曰鱉.初生似蒜,莖紫黑色,可食,如葵.
△言采其           亦山菜也,莖葉皆似小豆,蔓生.其味亦如小豆,藿可作羹,亦可生食.今官園種之,以供宗廟祭祀.』(藿とは,豆の若葉)と,より詳しく,小豆に似た蔓生の山菜で,(若い葉は)生でも羹でも食べられ,官園に植えられ,祭祀に使われているとある.(左図,中国哲学書計画)
 
中国・唐の太宗の勅を奉じて,孔穎達等が太宗の貞観年間640(貞観14)より高宗の永徽年間にかけて撰し,永徽4 (653) 年に公布した「周易」「尚書」「毛詩」「礼記」「春秋左氏伝」の五経の疏(五経正義)の一つ,孔穎達疏毛詩正義』には,「陟彼南山.言采其.【傳】采也.未見君子.我心傷悲【傳】嫁女之家不息火三日.思相離也【箋】云維父母思已.故已亦傷悲.亦既觀見止.亦既觀止.我心則夷【傳】夷.平也.【音】【義】.音微.草也.亦可食.離.力智反【疏】【傳】正義曰.陸機云..山菜也.莖葉皆似小豆.蔓生.其味亦如小豆.藿可作羹.亦可生食.今官園種之.以供宗廟祭祀.定本云.,草也.」と先行する毛亨傳(漢),陸機(三国時代-西晋),鄭玄箋(唐)を引用して,陸機の記述に賛成しているように見える.(右図,中国哲学書計画)

宋代の朱子(姓は朱,諱は熹,1130 - 1200)は,その『詩経』解釈の新時代を開いた『詩経集註』で,「喓喓草蟲,趯趯阜螽」の詩の「」に関して,,似蕨而差大.有芒而味苦.山閒人食之.謂之迷蕨.胡氏曰,疑莊子所謂,迷陽者.(は,蕨に似て差(ヤヤ)大なり.芒有りて味苦し.山間の人之を食ひ,之を迷蕨と謂ふ.胡氏日はく,疑ふらくは即ち『荘子』に謂ふ所の迷陽なる者ならん,と.)」と記した.(左図,松永昌易(1619-1680)編『新刻頭書詩経集注』 WUL

「カラスノエンドウ-2」に述べたように,日本においては,この記述を元に多くの学者が「」をゼンマイと考定した.

『詩経』の詩を理解する爲には,詠われている動植物が何であるかを知る必要があり,中国でも時代が下るにつれ『毛詩』中の動植物の『名』と『物』とを対応させる『毛詩名物學』とも云うべき研究が盛んになった.清の乾隆三十六年(1771)には,徐鼎(字は雪樵)が『詩経』の詩篇に詠われた鳥獣虫魚草木を選び,その考定と図 255 幅を付した『毛詩名物図説』を刊行した.この書は日本に渡り,小野蘭山によって和名が付されて復刻・刊行された.一方,日本においても,『詩経』の詩篇にある鳥獣虫魚草木が,和産の何にあたるのか,漢学者・儒家・本草家が研究考定し,多くの著作が出版された.その中には,中国で訓点などを除いて再出版された著作もあった.

2015年5月18日月曜日

ハンカチノキ (2015-2), 白ハト,雄花,両性花,細部構造,二つの中国伝説 鳩子樹 珙桐

Davidia involucrate

一昨年は 20 個,昨年は 100 個,今年は 200 個ほどの花が着いた.しかも低い枝にも花が着いたので,良く経過が観察できる.いくつかの花は切り取り,スキャナーで解像度を変えて読み取り,その微細な構造を撮影した.



中国では,鴿子樹・鳩子樹(鳩の木)ともいい,英語圏ではDove Tree と言うように,白い苞を翼に,中央の丸い花(雄蕊の集合体)を頭に,両性花の雌蘂を嘴に見立てると,花盛りのこの木は多くの白いハトが止まっているように見える.以前のブログに中国の伝説を原語で掲載したが,今回現島根大学 生物資源科学部 生物科学科 准教授 林 蘇絹さんによる和訳が見つかったので,引用する.

伝説(その1
2000年前の漢の時代、娘の婚姻によって北方の匂奴と和平を講じた皇帝がいた。漢元帝の時、当時中国四大美女の一人として誉めたたえられていた王昭君は、匂奴の呼韓耶単干に嫁がされ、胡の地へ赴いた。王昭君は、日夜故郷のことを思い続け、毎朝胡の地から南方(故郷の方向)に向かって礼拝をしていた。そのため、王昭君と一緒に行った鳩たちも、いつしか南に向ってお辞儀をするようになった。ある年の春、昭君は望郷の想いにかられ、故郷に宛てた一通の手紙を白い鳩たちに託した。鳩たちは故郷に向かって飛び立つと、雲を飛び越え、霧を突き抜け、嵐を打ち破り、九十九の山を越え、九十九の川を渡り、九十九夜を経てついに昭君の故郷成都(現在の四川省興山)に帰りついた。疲れきった鳩たちが鳩篭の様な珙桐の木に止まり、身を休めたところ、そのまま、飛び立とうとする鳩の姿をした真っ白な花になってしまった。それから毎年春になると、王昭君の代りに故郷の人々に「よろしく」と伝えるかのように、鳩の花が咲くようになった。そこで、この木は鳩子樹(鳩の樹)と名付けられたという。

伝説(その2
昔、ある皇帝に白鳩という一人娘がいた。彼女は飛び抜けて才があり、しかも天女の様に美しかったので、皇帝はこの娘を掌の上の珠の様に可愛がり、何処に行くにも連れて行った。ある日、皇帝は遊山の折りに、とある村で休憩をとった。そこで珙桐という名の一人の農家の青年と出会った。珙桐は衣装こそ粗末だが実にハンサムな美青年であった。白鳩は珙桐に一目惚れしてしまい、父王に気づかれないうちに、髪に飾っていた翡翠の簪を二つに割って、その半分を一生の誓いの証として珙桐に渡した。しかし間もなく、このことが皇帝に知れた。皇帝は、このようなことは王家の尊厳を苦しく傷つけるものとして、さっそく新しい婿を選び娘の結婚を決めてしまった。さらに、家臣に命じ珙桐を山深くに連れ出し、殺害させてしまった。この事を知った白鳩は着の身着のままで王宮から逃げ、王共桐が殺された場所にたどりつくと、亡骸を抱きしめ号泣した。すると彼女のあまりの傷心が天に届いたのか、珙桐の亡骸は、二つに割った簪の形をした一本の木となり、見る見るうちに上に伸びはじめた。これを見た白鳩は驚喜しながら両の袂を広げて樹冠に向かうと、たちまち無数の白い花となって枝先に舞い上がった。そこで、この木は珙桐(コントン)と名付けられたという。

(林 蘇絹)東京大学大学院理学系研究科附属植物園社会教育企画専門委員会『ハンカチノキ』 (2000) 

2015年5月13日水曜日

ハンカチノキ (2015-1), 新芽・蕾・開花・落花・展葉

Davidia involucrate

我が家のハンカチノキに,今年は 200 個ほどの花が着いた.新芽が付いてから,花が落ちるまでの経過を画像で追ってみる.


四月下旬に,枝に新芽が付き始め,その芽が開いて葉らしくなるが,その中には白い苞になる芽が見える.特有の香りがしてくる.
緑色がかった苞が開くと,だんだんと真っ白になって,その中から丸い花が姿を現す.


五月上旬には雄花・両性花とも苞が展開して,目立つようになるが,今年は暖かかったためか,葉の展開も速く,その中に見え隠れするようになった.


五月上旬から,まず雄花の花と苞が,その後,受粉した両性花の苞がばらばらと落ちて,地面に散り敷く.小さな丸い果実がぶら下がるが,葉の影で目立たない.

今年はポスターを描いて,開花のお知らせをしたが,どのくらい皆様に見てもらえたか,不明.大きな木のわりには鑑賞時期が短い.寒い環境の方が花が葉に隠れず,白い苞が目だって見るにはよろしいようだ.