2011年9月26日月曜日

番外編 ペリー「下田 公衆浴場の図」 Public Bath at Simoda

「ペリー提督日本遠征記」第一巻
“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”  vol. 1 (1856)

ペリーは帰国後,知人のホークス師に公文書,航海日記,個人的な日誌,乗組員のノートなどを提供して,政府から求められていた報告書の作成を依頼し,1856年には完成した.これが,“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”『ペリー日本遠征記』である.
この書籍の書誌には不明のところが多いが,いくつかの版があり,その発行部数も相当多い.公式な報告書(議会版)は 16,000 セット余印刷され,そのうち 1,000 セットはペリーに贈られた.したがって,この報告書に添付された図譜は,現在でも比較的安価で購入できる.唯一つの例外が,この「下田 公衆浴場の図」で,非常に希少とされている.最初に議会版が少数印刷された際に,この図が「混浴の情景は風紀を乱す」という理由で,それ以降削除され,約十分の一のセットにしか収載されていないといわれている(http://kyotoobserver.wordpress.com/2008/11/10/shimoda-public-bath-1854/).上に掲げた図譜は 2011 年 6 月に e-Bay のオークションで落札したもの.

Gregory James Smits, “East Asian History Textbooks” Pennsylvania State University
"The "Banned" Lithograph. A very limited number of editions were published with a "nude bathing" (Public Bath at Simoda) lithograph. This lithograph was quickly deleted from Government published volumes due to public indignation at the nude figures in the scene. The scene was the inside of a public bath house in Japan where males, females and children have bathed together in the nude for centuries without concern. The lithograph is sometimes found unbound/extracted. When found in a bound volume 1, the print is generally found facing page 408. Either bound or unbound, this lithograph is scarce. "

「私達は昭和十年に初めて、本紀の全訳を弘文苑から上下二巻として刊行した。彩色版、凸版も、原書のまゝ全部挿入し、最も珍奇とされてゐる「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も挿入した。」(ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948) )

「また,挿入画の中で最も珍奇とされている「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も本書に収載することができた。」(『ペリー日本遠征記図譜』 伊豆下田郷土資料館編 京都書院 1992)

「第1巻には、マデイラ諸島、セントヘレナ島、セイロン、香港、広東、琉球(那覇・中城など)、小笠原、江戸(浦賀・横浜など)、下田、函館など様子を描いた石版画(リトグラフ)が90枚、木版画が78枚(下記リストにないものを含めると100枚以上)収められています。石版画の中には、原文書でも除かれていることが多い『下田の公衆浴場』も収録されています。」(完全復刻版『ペリー日本遠征記』株式会社 Nansei)

とこの図譜は流通している数が少ない.また,いくつかOn-lineで読める遠征記でもこの図のない版が多い.

書誌ノート議会版には,少数の仮綴じ版,多数の上院版と下院版の三つ.市販版として,ニューヨークのアップルトン(Appleton)社から出された,一巻ものが二つの版(1856, 624 pages & 1857~9, 514 pages)あるようだ.但し,市販版は版が小さく(オクタボ 18.5 x 26 cm),全頁大の挿絵が少数(9枚)で単色鋼板画である点が,議会版がフォリオサイズ(23+/-cm x 29 cm)で,全頁大の挿絵(90枚以上)の多くが色刷り石版であることと大きく異なる.

議会版の印刷部数だが,一部20ドルの印刷の全費用が$360,000であったことから,18,000 sets と考えるのが妥当だろうと考えられる.各院からそれぞれ500 部,合計1,000 部がペリーに贈呈されたほか,議員には50部ずつが配布されたが,どうも殆どが直ぐに本屋に直行したらしく,これを批判する声が上がったと記されている(『航海記』出版と同年の1856年の Putnam's Monthly Magazine,左下図)

資料ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948)
「この記録は合衆国の約三十三議会第二開期中に特殊刊行物第九十七として、一八五六年春に印刷にとりかゝり、合衆国印刷局に於て数十冊を紙表紙仮綴四巻として出版したが、その後、ワシントンの一印刷業者によって刊行されることになった。結局元老院 Senata 版と衆議院 House of Representative 版との二種があり、前者には更に水路図を別冊とする四冊本と、これを別冊とせず、第二巻に合綴した三冊本との二種あり、後者は殆んどすべて三冊本であると云ふ結論に達した。」

『伝記ペリー提督の日本開国』サミュエル・エリオット・モリソン著 座本勝之訳 双葉社 (2000)
原著:Samuel Eliot Morison著 "Old Bruin": Commodore Matthew C. Perry, 1794-1858 (1967)
「政府の刊行物であるこの『遠征記』は一般の市販ルートでは発刊されないため、1856年、ペリーはその『第1巻』だけをニューヨークのアップルトン社からも発刊することにした。この市販の『遠征記』は、政府の公式記録と比べ、多くの石版画が削除されていたが、熱狂的な評判を呼んだ。
このような背景の中で、議会は後に40万ドルの予算を計上し、全3巻、3万4000部が印刷された。そのうちの半数以上が議員と政府高官に贈られ、残りの2000部が海軍省、1000部がペリーのものとなった。ペリーはこの中の半数を、ホークス師と『遠征記』の寄稿者たちに贈呈している。」

『ペリー提督『日本遠征記』ともうひとつの遠征記録』 山下 洋一 金沢大学附属図書館報 (2003)
「当時の議会上院の印刷所として,Beverley Tucker,下院にはA.O.P. Nicholson があり,刊行部数は,上院が5000 部の印刷(後に海軍用として500 部追加が認められている。),下院が10500 部の印刷が承認され,各院からそれぞれ500 部,合計1000 部がペリーに贈呈されています。(*計 16,000 部)」

『ペリー提督が見た日本』 海上自衛隊 元幹部学校長 田村 力 (2008)
「議会版3巻本が34000部、ニューヨークのアップルトン(Appleton)社からも第1巻の簡略版が出版された。」


Baxley Books ~~ Bibliography
"Putnam's Monthly Magazine" (Volume VIII, Issue 44, page 218, American Literature and Reprints: Commodore Perry's Japan pp. 217-218, 1856)
An 1856 article asserted that 18,000 sets were produced at a cost of $20.00 each. The article also alleged that each Congressman was allocated 50 copies and most of them were sold to booksellers. Obviously, the lavish Narrative was not free of criticism. It can be confirmed that the House of Representatives passed a resolution ordering 10,000 copies be produced with and additional 500 for presentation to Commodore Perry. (左図)

2011年9月20日火曜日

リシリヒナゲシ モドキ

Papaver miyabeanum2003年6月に「利尻島・礼文島」の花旅ツアーで一泊した利尻島.朝,海岸を散歩すると.人家の近くには淡黄色の花をつけたケシ属の植物が栽培されていた.日本原産の唯一のケシ属で,利尻山の高山帯岩礫地にのみ自生する,利尻島の固有種リシリヒナゲシ( Papaver fauriei )ではないか,と興奮した.さすが,緯度の高い北の利尻島では高山の植物まで海岸でも栽培できるのだと感心して写真を何枚か撮った.

しかし,帰宅後冷静に考えると、環境省のレッドリスト(2007)で絶滅危惧IB類(EN)に,北海道のレッドデータブック(2001)では絶滅危急種(Vu)にそれぞれ指定されている希少で脆い植物が,市街地で栽培されていることに違和感を覚え,また定評のある植物図鑑のリシリヒナゲシの写真に比べると,花の色が薄いことも気にかかった.

その後,ネットで調べると,利尻島の平地で栽培されているこのケシ属の植物は,リシリヒナゲシとは異なるリシリヒナゲシモドキとも云うべき植物であろうということが分かり(http://48986288.at.webry.info/201001/article_6.html),さらに,「これ何?」サイトに投稿したところ,交雑種というより,海外からの移入された園芸種の可能性が高いということを教えてもらった.
この問題については,北海道大学農学部の山岸研究室でも多大の関心を払っており,2008年にはリシリヒナゲシとリシリヒナゲシモドキの葉緑体DNA上のtrnL-Fおよび核リボソームDNA上のITS領域の塩基配列を解析し,その結果,リシリヒナゲシとリシリヒナゲシモドキは別種であることを確認し,またリシリヒナゲシモドキが,播種によって自生地にも定着していることも明らかにした.

更に2009年には遺伝子解析の結果から,このリシリヒナゲシモドキは,欧州で園芸植物として広く栽培されている P. miyabeanum であろうと報告している(http://www.springerlink.com/content/1021712008317k55/).しらべると,このP. miyabeanum は比較的高温にも耐える非常に栽培しやすい種であり,本州でも栽培に困難は無く,欧州では広く帰化していることが分かった(右).

このように,利尻島市街地で栽培されるケシはリシリヒナゲシは異なっていることが証明されているにも関わらず,現在でも自然観察ツアーを催行している旅行会社のブログで,「リシリヒナゲシは利尻山の山頂部でしか見られないと思いきや、何と平地でも見ることが出来る。これは利尻島をリシリヒナゲシの里にしようと島民の方々が植えたもので、島を廻ると民家の玄関先や昆布を干す「無砂干場」に見られる。」と掲載するなど,誤解を招く情報が氾濫している.

情報不足のために,「善意」が原生地を破壊し,また遺伝子攪乱で貴重な植物を絶滅させることのないよう,利尻に住む人,利尻の花を見に訪れる人に,教育も含めて色々な媒体で十分な情報を与えることが必要では.

2011年9月12日月曜日

ジョロウグモ ジョロウグモトキシン 画図百鬼夜行 和漢三才図会 本草綱目啓蒙

Nephila clavata北海道を除く日本,朝鮮,台湾,中国に分布する大型の美しい蜘蛛.メスの方が大きく,オスはメスの巣の隅に居候しているように見える.メスの大きな腹部には幅広い黄色と緑青色の横しま模様があり,下面には紅色の紋がある.オスはずっと痩せ型で,褐色がかった黄色で濃色の縦じま模様がある.網は大きく、直径1mくらいのものもあるが,横糸が黄色いので光が当たると金色に光って見える.このクモは興奮性神経の伝達を司るグルタミン酸受容体を阻害する毒をもっていて,この毒を獲物の昆虫に打ち込んでその行動の自由をうばう.このジョロウグモトキシン (Joro Spider Toxin (JSTX-3) 下図) は日本の生理学者川合述史によって発見された(Kawai, N., et al. 1982. Brain Res. 247: 169-171).ただ,一匹がもつ毒の量は微量で,たとえ人が噛まれたとしても機械的障害はない場合がほとんどだそうだ.

蜘蛛の類は稲や農作物の害虫を捕食することから,古くから敬されていたが,特にジョロウグモは,その獰猛さと美しさのギャップからか,恐れをも持って見られていた.そのため,妖怪の一種,美しい女「絡新婦」の姿に化けることが出来るとされていて,鳥山石燕の「画図百鬼夜行」(最下図)では,火を吹く子蜘蛛達を操る蜘蛛女の姿で描かれている.

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)
絡新婦 斑蜘蛛(まだらぐも)[俗に女郎蜘蛛という〕
『本草綱目』(虫部、卵生類、蜘蛛〔集解〕)に次のようにいう。赤斑色の蜘蛛を絡新婦という。昔、張延賞という人があり、斑蜘妹に頭の上を咬まれた。一晩すると二つの赤脈が項の下を繰り心臓の前まではい、頭面は数斗ほどに腫れ、ほとんど救いようのない様子であった。ある人が大藍汁に麝香・雄黄を入れ、そこへ一匹の蜘蛛を取って投げ入れると、化して水となった。これを咬まれた処に点じると、二日して悉く愈えた。また、蜘蛛に咬まれて全身に瘡ができた場合は、好い酒を飲み、酔がまわると、虫は肉中で小米のようになって自ら出てくる、という。
△思うに、絡新婦とは俗に女郎蜘妹と称するものである。黄・黒・緑・赤の斑が美しいが・かえって醜い。毒が最も甚だしいせいである。形は蜘蛛より長く、細い腰、尖った尻に手足は長くて黒い。糸は黐(トリモチ)のように粘くて黄色を帯びており、樹枝や家の檐(のき)に網をはる。人が捕らえて打つと脆(もろ)くつぶれて血を出して死ぬ。他の蜘蛛は血を持っていない。尻は尖りその二カ所は動揺するにつれてぴかぴかと光る。けれども螢火のように鮮やかではない。老いたものはよく火を生じる。闇夜、あるいは微雨の中でたまたまこれを見ることがあるが、大きさは小さい碗ぐらいで、円くて徽青色を帯び、ゆっくりと動き、それほど遠くまで行かず、また家の檐よりも高いところへは行かない。鵁鶄(ゴイサギ)の火は遅速高低さまざまで、この点が鳥と虫とのちがいである。『西陽雑姐』(巻十四諾皐記上)に、深山に車輪ぐらいの大きさの蜘蛛がいて、よく人や動物を食べる、とある。(現代語訳 島田・竹島・樋口)


小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806)  巻之三十六 虫之二 卵生類 下
蜘蛛 〔集解〕絡新婦ハ、ジヨロウグモ(京) ジヤウログモ(同上) ジヤウラグモ(筑後) テラグモ(和州) ハタオリグモ(予州) コガネグモ(琉球) 此蛛ハ身瘠長ク一寸許、黄色ニシテ黒青赤斑アリテ美ハシ。足ニモ黒黄斑アリ。庭樹ノ間二巣ヲハリ、昼夜ムシヲ取食フ。其糸黄色ニシテ甚ツヨシ。

中国では「棒络新妇(=婦)」又「络新妇」或いは「橫帶人面蜘蛛」と呼ばれ「身体颜色美丽(=麗)」とされている.ただ,『维基百科』における記事は多くない







2011年9月8日木曜日

センニチコウ バイカラーローズ

Gomphrena globosa cv. "Bicolor-rose"去年育てたセンチニコウ ローズネオンの評判が良かったので,今年も育ててみた.同じ色では芸がないと思い,”明るい桃紫色に中心が白で、コントラストが美しい”という品種”バイカラーローズ”を育ててみた.強健で,キキョウやハナショウブの葉を食い荒らすウリムシにもたかられず,大きく育ち,多くの花をつけている.ただ,色のインパクトが小さく,群生させるには今一.また,風に弱く根元から倒れるのが欠点.肥料のやり過ぎかも.訪れるチョウやハチも多いが,花にあわせて小型のものが多い.

中南米原産のヒユ科(ケイトウ,ハゲイトウなどの仲間)の植物で英名は Globe Amaranth (球形のヒユ) 或いは Bachelor Button (独り者の釦,但しこの名で呼ばれるのはヤグルマギク,マツムシソウ,八重のウマノアシガタなど20種以上も).

寛文4年(1664)稿の『花壇綱目』草稿本にも「千日紅」として,センジュギクやダンドクと共に記載される.
江戸時代の園芸書や百科事典には,以前記したほかに,以下の様に書かれていて,広く栽培・愛玩されていた事がわかる.
伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』 (1699)
〇千日向(せんにちこう)
花形さながら覆盆子(いちご)のごとく、色はこいむらさき、七八月にさく、此花九十月の時分枝ともにかり、かげほしにして、冬立花の下草につかふ。色かわらずして重宝なる物。(左図,右側)

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)
千日紅
△ 思うに、千日紅(ヒユ科)は高さ二、三尺。茎は秋海棠に似ていて淡紫色。葉は鶏頭草に似て大きく、表面に毛茸(うぶげ)がある。八、九月に花を開くが深紫色。千葉(やえ)で円く、形は揚梅(やまもも)に似ている。その盛りは百日ほども続く。樹に昔日紅(灌木類サルスべリ)という名のものがあるが、これに勝っているので千日紅という。実は成らず、ただ花を収集し、二月に揉み砕き、これを蒔き種えて育てる。あるいは枝を挿しても生育する。大体、菊花のような実のないものについては、近年になって花を蒔けばよいことが知られるようになった。(現代語訳 島田・竹島・樋口)

橘保国『絵本野山草』 (1755)千日紅(せんにちこう)六月,花有葉あつく、茎、むらさきのうつり有。葉の末に、花一りんづゝさく。かたち丸く、いろ、紅紫。至極見事也。日をかさね、花のいろかはらず・千日紅の名有。白花有。花葉、共に同し。(上図,左側)

2011年9月2日金曜日

ベニスズメ

Deilephila elpenor北欧州,ロシア,中国,インド亜大陸の北部,日本,韓国に分布する大型のガ.日本では最も美しい蛾の一つとされている.主に夜に活動してペチュニア,スイカズラなどの花の蜜を吸う.幼虫は見栄えのよくない「いもむし」で,通常は「象の鼻」を思わせる(これから英名は “Elephant Hawk-moth” )が,驚かされると頭部が膨らみ,目のような斑点がはっきりとして「蛇の頭」のようになる.鳥は,獲物にしようとした時にこの変容に会うと,摂食を中止することが観察されるが,これは蛇と誤認したのか,変貌にびっくりしたことが原因かは分からないとのこと( Wiki English ).

成虫は暗視能力が高く,ヒトが色を全く弁別できない星明かり程度しかない光環境( 10^(-14)cdm^(-2) )でも,青色や黄色を灰色と完全に弁別できることが実験的に明らかにされた.それらの夜行性昆虫は,巨大な複眼をもち,重複像眼と呼ばれるレンズ系による集光構造や個眼内の光受容部位を拡大するなどの工夫によって感度を上げ,さらには神経加重(neural summation)といった神経情報処理によって微弱光の検出を可能にしている.(弘中 満太郎, 針山 孝彦 “昆虫の視覚定位行動とその人工光による変化” 応動昆 Vol. 53, pp.135-145 (2009))
また,最大感度波長の異なるいくつかの単眼をもっていて,そのうちの一つは紫外線を感知できるかららしい.

日本では蝶に比べて蛾は嫌われているが,欧州では必ずしもそうではない様で,このガは,フィンランド,アイルランド,マン島,またブータンで切手の図柄とされている.
イギリス海峡にあるチャンネル諸島のイギリス直轄領の小さな島 オルダニー島 の切手には,スズメガ科のガが 6 種類も描かれている(右図).額面 36 p がベニスズメ.
画像のは庭に落ちていた個体.
なお中国名は「紅天蛾」.