2018年9月29日土曜日

ムシャリンドウ (10/11) 学名 (5) ミクェル Dracocephalum ruyschiana,シーボルトStachys seiran 日本植物目録,シーボルトコレクション,


Dracocephalum argunense

 標本データ
木箱番号                16
標本番号                MAKS2227
台紙の記載            ムシャリンドウ セイラン
学名                        Dracocephalum argunense Fisch.
和名                        ムシャリンドウ
同定者名                N. Kato
同定日                    Feb. 2003
科学名                    LABIATAE
科名                        シソ科
解説                        標本の形式から、水谷助六作製と考えられる。
(東京都立大学牧野標本館 シーボルトコレクション,リンク先 http://ameba.i.hosei.ac.jp/sbweb/Prep/022/MAKS2227.html

ムシャリンドウの現在の標準的な学名(正名)は,Dracocephalum argunense Fisch. ex Link で,フィッシャー (Fischer, Friedrich Ernst Ludwig von, 1782-1854) がロシア極東で発見した個体を基に,1822年にリンク (J. H. F. Link, 1767-1851) によって発表された.

一方日本産のムシャリンドウに対しては,★ミクェル(フリードリヒ・アントン・ウィルヘルム,Friedrich Anton Wilhelm Miquel, 1811 - 1871)は『日本植物誌試論, Prolusio Florae Japonicae』(18651867in “A. M. B. L.-B. Annales Musei Botanici Lugduno-Batavi『ライデン植物標本館紀要』に,ムシャリンドウの記述を残し,欧州産の Dracocephalum ruyschiana と同定したが,シーボルが残した和名セイラン(青蘭)に由来する Stachys seiranというラテン名を記録している(前記事参照).このラテン名は,シーボルトが残した資料に由来すると考えられる.

p 109
DRACOCEPHALUM LINN.
Sectio Moldavica BENTH. l. c. p. 401.
1. DRACOCEPHALUM URTICAEFOLIUM MIQ. (中略)

§2. Ruyschiana BENTH. l. c. p. 402.
2. DRACOCEPHALUM RUYSCHIANA LINN. — BENTH. l. c. (DC.Prod. vol. 12) p. 402, var. japonica A. GRAY On
Bot. Jap. p. 402. Stachys seiran herb. SIEB.
An in Japonia indigenum?; schedulae adscriptum E. H. Uko." Teste SIEBOLD Seiran vel Mosi jarin dowan jap.
(Ad prom. Siriki-Saki legit WRIGHT ap. ASA GRAY l. c.).

「日本産?台紙には  E. H. Uko." とあり,シーボルトに従えば日本名はセイラン若しくはムシャリンドウ(Mosi jarin dowan)」と記載した.なお,” E. H. Uko.” は調べたが不明.

シーボルトはムシャリンドウをイヌゴマ属(Stachys)に帰属し,漢名の「青蘭」の日本語読みで,江戸時代の名称の一つであるセイラン seiran を種名としたラテン名を残した.

ミクェルは「試論」を執筆するにあたって参考にした標本・資料について,序論に次のような八種を挙げている.
 
ANNALES
MUSEI BOTANICI
LUGDUNO-BATAVI

EDIDIT
F. A. GUIL. MIQUEL,
IN UNIVERSITATE RHENO-TRAIECTINA BOTANICE8 PROFESSOR,
MUSEI BOT. L. B, DIRECTOR.

VOLUMEN SECUNDUM.

AMSTELODAMI,                            TRAIECTI AD RHENUM,
APUD                                                   APUD
C. G. VAN DER POST                   C. VAN DER POST JM.
PROSTAT LIPSIAE, APUD FRED. FLEISCHER. — LONDINI, APULD WILLIAMS ET NORGATE, DULAU ET SOCIOS.
PARISIIS, APUD FR. KLINCKSIECK. — BRUXELLIS, APUD C. MUQUARDT.
MDCCCLXV — MDCCCLXVI.


PROLUSIO FLORAE IAPONICAE
AUCTORE
F. A. GUIL. MIQUEL.

Herbarium nostrum iaponicum continet: 1°. species a THUNBERGIO cum ROYENO communicatas ; — 2°. herbarium
a cel. DE SIEBOLD collectum, in quo etiam adsunt numerosa specimina a medicis et botanicis iaponensibus
ex imperii regionibus remotioribus, quas adire Europaeis haud concessum, reportata ; — 3°. ditissimam collectionem,
quam b. Dr. BUERGER, SIEBOLDI socius, nobis reliquit ; — 4°. plantas quas praesertim in insulis Kiusiu et Nippon
collegit b. PIEROT, a societate regia ad promovendam horticulturam in Iaponiam delegatus; — 5°. herbarium
a b. TEXTOR collectum; — 6°. species ab itineratore anglico OLDHAM nuper collectas et a Museo Kewensi nobis
benevole concessas; — 7°. complura herbaria a botanicis iaponensibus in variis imperii regionibus collecta; —
8°. libros botanicos in Iaponia editos. — Stirpes sub N°. 1—5 indicatas primum enumerare constitui, De reliquis
dein seorsim agam.

「『日本植物誌試論』でミクェルが扱った標本は9種類あると前書きに断っている.
ミクェルが書いている順にその大意を記してみよう.
1)ツンベルク(Thunberg)が1777年に(日本で)採集して,ロイエン(Van Royen)に送った標本.
21823年から1829年にシーボルトが九州とニッポン(本州)で採集した標本,及び日本の植物学者と医者,伊藤圭介,水谷助六,Sonzin(大河内存真),Fusioka SjôgenKaiso(平井海藏),Keisak(二宮敬作)が採集した標本.
3)日本の植物学者による腊葉標本帳.
4)シーボルトの日本における助手,医学博士ビュルガー(H. Bürger)が1825年以降出島やその周辺で採集した標本.また,シーボルトが帰国した1830年から,本州,九州,四国で収集された標本.ビュルガーのコレクションには,医学博士で,1840年には王立植物標本館の館員で,1840年にオランダ王立園芸振興協会に移ったピエロ(Jacob Pierot)がジャワに送らせてボゴールの植物園で栽培されていた日本植物の標本が含まれる.
51842年に王立園芸振興協会によって日本に派遣され長崎周辺で採集したテクストール(C. I. Textor)の標本.
6)医学博士モーニケ(O. G. I. Mohnike)が1848年から1852年に日本で採集し,ボゴール植物園から送られてきた標本.
7)アメリカの植物学者ウィリアムズ(Williams)とモロー(Morrow)及び1855年にチャールズ・ライト(Charles Wright)とスモール(I. Small)が日本の各地及び蝦夷で採集し,エーサ・グレイが送ってくれた標本.
8)キュー植物園(原綴りはキュー博物館を意味するMuseo Kewensisとなっている)の使節として1862年と63年に長崎周辺と朝鮮半島でオルダム(Richard Oldham)が採集した標本.
9)マキシモヴィッチが3年間にわたって日本で採集した標本の中から,サンクト・ペテルブルク植物園により送っていただいた標本.」と記した.

大場の文では,原文より一条多く,またより内容が詳しい.これはこの書の内容を詳しく分析した結果と思われるが,一応原文との対応をしておくと,1) = 1°, 2) = 2°, 3) = 8°, 4) = 3°, 4° , 5) = 5°, 6) = ? , 7) = 7°, 8) = 6°, 9) = 7° と思われる.なお,原文の 8°. libros botanicos in Iaponia editos. 8 ° 植物関係の和書)は大場の文にはない.

ミクェルが「試論」の中でムシャリンドウのラテン名としてシーボルトの Stachys seiran を知った資料としては,シーボルトの草稿『日本植物目録』(Siebold, Plantarum japonicarum nomina indigena. ルール大学ボーフム東アジア学部付属図書室所蔵,1.173.000)の可能性がある.
この資料の筆写写本を神田外語大学が所蔵し,その内容を遠藤正治らが,『神田外語大学附属図書館所蔵 シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について』として大学の紀要に発表している.
それには,「シーボルトは、伊藤圭介の助けを借り、圭介がもたらした腊葉標本などをもとに、日本の植物約一六〇〇種を、リンネの分類法ではなく、ドイツの植物学者クルト・シュプレンゲルの百科自然分類法にしたがって分類し」作成した「「日本植物目録」草稿 “Plantarum japonicarum nomina indigena” (現ルール大学ボーフム東アジア学部付属図書室所蔵、1.173.000)」の写本を「伊藤圭介が賀来佐之あてに天保二年(一八三一)五月十一日付けで、この写本を贈呈した」とある.この報告には写本にある植物のリストが掲載され,その「(43 Labiatae) (第43 シソ科)」の項には,
627 Stachys seiran Jap. ムシヤリンドウ、セイラン
628 ―――inoegoma Jap. イヌゴマ」とある.

また,シーボルトが収集した資料には,日本語で「セイラン」と書かれた腊葉と種子が存在する.

東京都立大学牧野標本館には,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から交換標本として送られてきた所謂★“シーボルトコレクション”がある.このコレクションの大部分はシーボルトが滞日した 1823 - 1829年および 1859 - 1862年に収集した植物標本であり,その中には,シーボルトと交流のあった尾張藩士水谷助六 (1779 – 1833) 作製と考えられるムシャリンドウの腊葉標本もある.(冒頭図)

さらに★石山禎一編『新・シーボルト研究 I 自然科学・医学篇(2003) 八坂書房の,和田浩志「シーボルトが日本で集めた種子・果実について」 の章には
「シーボルトが日本からオランダに持ち帰った膨大な植物標本の多くがオランダ・ライデン市にある国立植物標本館に収められ、特に腊葉標本、液浸標本、樹木の材標本に関しては山口隆男氏、加藤借重民らの現地での精力的な調査によりその全貌が明らかになってきた。種子・果実標本も同標本館に多数収められていることはわかっていたが、その詳細はこれまであまり知られていなかった。シーボルトが日本で集めた種子・果実の全てを把握することはなかなか困難であるが、少なくともこの標本館に収められている標本からその概略を知ることができる。」とあり,その中に「「セイラン」という紙片が添付されたムシャリンドウの果実」があり,また,収集した種子には「〔シソ科〕 アキギリ、キセワタ、ムシャリンドウ、メボウキ」があると記されている.

これら,資料から,ミクェルはムシャリンドウの和名セイランを基にした Stachys seiran というシーボルトが命名したラテン名を知ったと思われる.

なお,東京都立大学牧野標本館のホームページ「“シーボルトコレクション”」には,上記以外二個の「標本データ 学名 Dracocephalum argunense,和名 ムシャリンドウ」とされている標本(MAKS2229, MAKS2228,上図があるが,「ラショウモンカズラ」の腊葉とその畳紙であり,「ムシャリンドウ」ではない.

2018年9月24日月曜日

ムシャリンドウ (9) 学名 (4) ミクェル,サバティエとフランシェ Dracocephalum ruyschiana,シーボルトStachys seiran

Dracocephalum argunense

ムシャリンドウの現在の標準的な学名(正名)は,Dracocephalum argunense Fisch. ex Link で,フィッシャー (Fischer, Friedrich Ernst Ludwig von, 1782-1854) がロシア極東で発見した個体を基に,1822年にリンク (J. H. F. Link , 1767-1851) によって発表された.

一方日本産のムシャリンドウに対しては,ロジャー提督率いる艦隊(1853-1856)が青森県の尻屋崎で採取した標本を基に,米国の A. Gray が欧州産の Dracocephalum ruyschiana の変種として D. ruyschiana var. japonicum と名づけ (1859) た.(前記事

この学名は現在では正名のシノニムとされているが,ミクェル (F. A. W. Miquel) 及び サバティエとフランシェ (P. A. L. Savatier & A. R. Franchet) によってそれぞれの著作に引用されている.前者は,シーボルト藏の腊葉標本及び彼の『「日本植物目録」草稿』に記されている “Seiran(青蘭)という和名も記録している.

ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel, 18111871)は,現在はオランダに属するフローニンゲンの大学で医学を学び,ロッテルダム大学で医学を教え,ユトレヒト大学の植物学教授(18591871)となり,1862年ブルーメ(C.L. von Blume)の後継者として,オランダ,ライデンの王立植物標本館の館長となった.
ミクェルは,ツッカリーニがシーボルトと共著していた Flora Japonica” の執筆中に逝去したので その第2巻を分担した.オランダ領インドを中心としたマレーシアの植物研究をして『蘭領インド植物誌』(1855 - 1860)を刊行し,アジアの熱帯植物について深い造詣を有していたので,彼の日本植物研究では西南日本産の暖帯・亜熱帯植物の研究に彼の資質が発揮されたといえる.彼はツンベルクやシーボルトとその継承者達による,当時の世界では最大の日本植物の標本コレクションに大きな関心を寄せ,その重要性に鑑み一般の標本から分けて別室に保管した.これがHelbarium Japonicum Generale と呼ばれる植物標本のコレクションである.
ミクェルは来日していないが,ツユンベルク・シーボルト・ビュルガ一・ピエロ(J. Pierot18121841)・テクストール(C. I. Textor, 1816-?)らの東インド会社の採集品,および伊藤圭介・水谷豊文(助六)・二宮敬作ら日本人植物学者による標本・資料により,日本の植物,主に関東以西の植物相と熱帯の植物との比較検討を行い,分類学的研究を推進して,『日本植物誌試論』の中で日本植物562点を記載している.

★ミクェルは『日本植物誌試論Prolusio Florae Japonicæ, 1865 - 67)』in “A. M. B. L.-B. Ann. Mus. Bot. Lugduno-Batavi” で,ムシャリンドウに Dracocephalum ruyschiana を採用しているが,グレイの附けた学名と,シーボルが残したラテン名を記録している.

p 109
DRACOCEPHALUM LINN.
Sectio Moldavica BENTH. l. c. p. 401.
1. DRACOCEPHALUM URTICAEFOLIUM MIQ. (中略)

§2. Ruyschiana BENTH. l. c. p. 402.
2. DRACOCEPHALUM RUYSCHIANA LINN. — BENTH. l. c. (DC.Prod. vol. 12) p. 402, var. iaponica A. GRAY On
Bot. Jap. p. 402. Stachys seiran herb. SIEB.
An in Japonia indigenum?; schedulae adscriptum E. H. Uko." Teste SIEBOLD Seiran vel Mosi jarin dowan jap.
(Ad prom. Siriki-Saki legit WRIGHT ap. ASA GRAY l. c.).
と欧州産の Dracocephalum ruyschiana と同定しながら,グレイの文献を参照して var. iaponica シーボルトの腊葉標本からの Stachys seiranも示している.また,「日本産か?台紙には  E. H. Uko." とあり,シーボルトに従えば日本名はセイラン若しくはムシャリンドウMosi jarin dowan)」と記載した.なお,” E. H. Uko.” は調べたが不明.
シーボルトはムシャリンドウをイヌゴマ属(Stachys)に帰属し,漢名の「青蘭」の日本語読みで,江戸時代の名称の一つであるセイラン seiran を種名としたラテン名を残した.
シーボルトの残した資料中のムシャリンドウについては次記事

一方,★サバティエとフランシェの『日本植物目録(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium, 1875-79.) には,Dracocephalum ruyschiana が採用されている.
サバティエ     フランシェ

サバティエ(ポール・アメデ・ルドヴィク,Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830 1891)はフランス人の医師・植物学者で,お雇い外国人医師として横須賀造船所に1866年から1871年まで日本に滞在し,また1873年から1876年に再度滞日した.自ら横須賀や伊豆半島で植物採集を行った他,伊藤譲(18511883,伊藤圭介の三男)・田中芳男(1838 - 1916)・田代安定(1857 - 1928)・小野職愨(おの もとよし,1838 - 1890,小野蘭山の曾孫)等の,日本の植物学者と親交を深め,学名などの校訂依頼に力を貸し,また彼等から標本を入手した.
帰国後,フランシェ(アドリアンAdrien Franchet, 1834 - 1900)との共著で『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) 1873-1879年に出版した.サバティエが集めた標本は,パリ自然史博物館などに収められている.

フランシェ(アドリアン・ルネ Adrien René Franchet1834 - 1900)は,フランス人の医師・植物学者で,父親を早く失うが,植物学への情熱を持ち,植物学の研究に必須だったラテン語をモンティ(Montils)の司祭から学んだ.1857年にシュヴェルニー城の所有者,ヴィブレイ侯爵に雇われ,城の考古学,地質学コレクションの学芸員となり,1880年にヴィブレイ侯爵が没するまでその仕事を続けた.1881年からフランス国立自然史博物館の標本館などで働き,中国や日本などの植物の専門家となった.パンダを発見したダヴイッド(A. David18261900)神父採集の植物や,デラヴェ(A. J. M. Delavay, 18341895)神父が中国西南部(雲南奥地)で収集した標本による分類などの研究論文・著書を数多く残し,またマキシモヴイツチとの交流も深かった.
サバティエが日本から帰国後,彼が収集した標本や,持ち帰った本草書*などを基に,共著で『日本植物目録』を出版した.これはThunbergの『日本植物誌』と並ぶ重要な文献で 日本の種子植物2,743種とシダ植物198種が分類・記載され,多数の新種とその自生地が載っており,その後の日本産植物の研究者に便宜を与え,外国人によって出版されてきた日本の植物誌の最後を飾るのにふさわしい著作である.
*サバティエが持ち帰った本草書:飯沼慾斎の『草木圖説』,岩崎灌園の『本草図譜』,島田充房・小野蘭山共著の『花彙』など.

ENUMERATIO PLAMARUM JAPONICARUM 375

DRACOCEPHALUM L.
1350. Urticæfolium Miq. Prol , p. 41
(中略)

1351. Ruyschiana L. sp. 830. — Miq. Prol., p. 41.
Hab. in Japonià boreali, circa Hakodate insulæ Yeso (Maxim.);
ad promontorium Siriki saki (Wright, var. Japonicum A. Gray,
a typo non diversum). Ex urbe Yedo cultum habuit Dr Savatier
n. 961.
JAPONICE. — Mousja rindô (Tanaka).
ICON. JAP. — Sô mokou Zoussetz, vol. 11, fol. 49, sub :
Mousha rindô, Seiran.

と日本の北地,北海道の函館(マキシモヴィッチ*),尻屋崎(ライト)で観察された草本で,サヴァチェは江戸での栽培品(の腊葉を)持っている.日本名は植物学者田中芳男によれば「Mousja rindô(ムシャリンドウ)」,『草木図説』の11巻第49に載り,名称は「Mousha rindô(ムシャリンドウ)」「Seiran(セイラン)」とある.
*マキシモヴィッチ: ロシア人:CJMaximowicz18271891