2017年3月31日金曜日

オシロイバナ-15-2 ツンベルク-1-2 喜望峰地方で昇汞水を犀角杯の解毒・毒検出の実験に

London Zoo 1979-5  シロサイ Ceratotherium simum
ケンペルはオランダから昇汞mercurius sublimatus corrosivus)を携えて,アフリカ・アジアへの旅に出発した.これを梅毒の特効薬として日本で売って,旅費の一部にしようと考えていたのであろう* 鎖国下の日本へ行くにはオランダ人になりきる必要があったので、ツンベルクは1772年から三年間、オランダのケープ植民地(現在の南アフリカ連邦の南部)で生活し,オランダ語に習熟した.ケープ地方に滞在していた 1773 年に,彼は犀の角から作られた「犀角杯」が,当地ではその中に注がれた液体が有毒な場合には,検出し,さらにその毒性を消すと聞いて,昇汞水や他の有毒な液性薬物で実験したが,「犀角杯」にはそのような作用はないと結論付けた.

Thunberg, Carl Peter 『一七七○〜一七七九年にわたるヨ-ロッパ、アフリカ、アジア紀行 “Resa uti Europa, Africa, Asia, förrättad åren 1770-1779 - - “J. Edman (1791),  p275
Cap 1773
Enhorningshorn (Rhinoceros) ågdesoch förvarades af någre både på landetoch i staden, fåfom en raritet och såfom et godt medel, både uä (jukdomaroch at uptåcka förgift. Fint Ikafvit ochingifvit trodde de det bota convulfionerocli ryckningar hos barn. At bågare,håraf svarfvade, skulle uptåcka gift i dendryck, fom flögs deruti och göra, aten fådan förgiftad dryck (kulle aldelesgåfa ut öfver kärilet, trocides almint. De horn, som tagas af en ung kalf, fom Snnu ej parats, fadés vara de båfte och fåkrafte. Af fådane fvarfvasbägare, fom infattas i guld eller filfver,och bortlkånkas åt Potentater, Magnater och vånner, eller fåljas dyrt, ftundom til 50 R:sd. Hornet är conilkt, tjockt nedtfl och trubbigt uptil, hosgamle Enhörningar ofta af en fots högd,fittande framtil på nosen. Två eller tretum ifrån detta horn fitter på den Africanike tvåhömingen et annat mindreoch kortare horn. Til färgen liknar detmåft oxhorn. Då jag förfökte desfehornen , både rå och svarfvade til bågrar,både unge och gamle , med flere fortersvagare och starkare förgifter, fant jagderaf ingen rörelfe eller gåsning; utandå solution af mercurius sublimatus corrosivus, aqva phagaedenica eller andre slogos uti et sådant horn, upstego endaft någre vatn-blådror, fom forosaka des af den luft, som var innesluten i hornets porer och nu skilde fig derifrån.”

"Travels in Europe, Africa, and Asia, Made Between the Years 1770 and 1779; in Four Volumes: Containing travels in the empire of Japan, and in the islands of Java and Ceylon, together with the voyage home” Volume 1. F. and C. Rivington, (1795)
The horns of rhinoceros were kept by some people both in town and country, not only as rarities, but also as useful in diseases, and for the purpose of detection poison. As to the former of these intentions, the fine shaving of the horns taken internally, were supposed to cure convulsions and spasms in children. With respect to the latter, it was generally believed, that goblets made of these horns in a turner’s lathe, would discover a poisonous draught that was put into them, by making the liquor ferment till it ran quite out of the goblet. Such horns as were taken from a young rhinoceros calf that had not yet copulated, were said to be the best, and the most to be depended upon. Of these, goblets are made, which are set in the gold and silver, and made presents of to kings, peoples of distinction and particular friends, or else sold as a high price, sometimes at the rate of 50 rix-dollars a goblet.
The horn is of a conical form, thick at the bottom, and blunt at the top, a foot long, frequently in old rhinoceroses, and is placed forward on their snout. Two or three inches from this, the African two-horned rhinoceros has another smaller and shorter horn. In colour, it most resembles the horn of a bullock.
When I tried these horns, both wrought into goblets, and unwrought, both old and young horns, with several sorts of poisons, weak as well as strong, I observed not the least motion of effervescence; but when a solution of corrosive sublimate; aqua phagaedenica, or other similar substances, were poured into one of these horns, there arose only a few bubbles, produced by the air, which had been inclosed in the pores of the horn, and which was now disengages from it.”

犀の角は珍奇な物としてだけではなく,治療薬として,また毒物を検出する目的で,都会や田舎双方の人が所持している.前者の意図に関しては,角の細粉を服用すると子供の痙攣や引き付け(攣縮)を治療すると考えられていた.後者に関しては,犀の角から旋盤加工で作られた杯は,その中に注がれた有毒な液性の薬物を,液が杯から溢れ出すまで泡立たせることによって検出すると一般的に信じられていた.このような角は交接しない若い犀から取られた角が最上であり,(その性能は)もっぱら,これに依ると言われていた.この種の杯は,金や銀で飾られ,王や高位な人々,また特別な友人に贈り物として作られ,また,時には一つの杯が50 rix-dollars もの高価格で売られていた.
(犀の)角は,一フィートほどの長さで,底は太く上は鈍い円錐形で,老齢の犀の場合はしばしば,口吻から突き出している.アフリカ産の二つの角を持つ犀では,もう一つ,より小さく短い角が,2から3インチ離れた場所に出ている.色は,若い牡牛の角に最もよく似ている.
私が,精巧な細工した角杯,加工していない角杯,若い犀の角杯,老いた犀の角杯,弱い或は強い毒物で試したところ,いずれの組み合わせでも全く発泡の兆候は認められなかった.しかし,昇汞及び aqua phagaedenica 或は類似の薬物の溶液を,これらの盃の一つに注いだ時に,空気によってつくられた少数の泡が発生したのみであったが,これは角の細孔に入っていた空気が細孔から遊離した物である.」(英訳よりの私訳)
と,いかにも科学者らしい検証実験を行い,犀角杯の迷信を否定した.

犀角粉の薬効や,犀角杯の毒消しや毒物感知の効果は,欧州では知られていなかったようだが,ケープ植民地で,犀角が貴重品として高値で売買されていたのは,中国本草の影響と考えられる.

三才図会 + 和漢三才図会(NDL) 獸類 犀
明代の1596年に李時珍が著わした『本草綱目』には,「(《本經》中品.【釋名】兕 (中略) 【主治】あらゆる毒,鬼疰(きしゅ),邪鬼,瘴氣,鉤吻(こうふん)、鴆羽(ちんう)、蛇毒を殺し,邪を除き,迷惑,魘寐(えんみ)せず.久しく服すれば身を輕くする《本經》.傷寒溫疫,頭痛寒熱,諸毒氣。令人をして駿健ならしむる《別録》.中惡毒氣を辟け,心神を鎮(しず)め,大熱を解し,風毒を散じ,發背癰疽,瘡腫を治し,膿を化して水にし,時疾で熱で火の如く,煩毒が心に入つて狂言し,妄語するのを療ず《藥性》.心煩を治し,驚を止め,肝を鎮め,目を明にし,五臓を安じ,虚労を補し,熱を退け,山瘴,溪毒を解す《日華》.風毒が心を攻めて,毷氉(ぼうさう)として熱悶するもの,赤痢,小兒の麩豆(ふとう),風熱,驚癇に主効がある《海藥》」(『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929))と,猛毒類の解毒や子供の驚癇に効き目があるとしているのと,部分的に合致する.

日本でもこの薬効は信じられ,天平勝宝8歳(756年)621日に,光明皇后が60種の薬物を東大寺大仏に献納した際の目録『盧舎那仏に奉る種々薬』,一般に『種々薬帳』と呼ばれる文書に,「第一櫃(中略)犀角三箇 一重二斤十二両一分 一重一斤九両二分/一重一斤十四両/犀角一帒重六斤十三両并帒」とあり,これらは,全て使用されてしまったからか,現存しないが,「犀角器一口 重九両三分」との記録もあり(http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/shiryoukan/me091.html),美しい甲乙二つの「犀角杯  (さいかくのつき)」が現在まで伝えられている.(http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010040,http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010041 
この信仰は長く続き,江戸時代の寺島良安著『和漢三才図会』(1713頃)の「犀」の項にも「犀角〔苦酸鹹、寒〕 足の陽明の薬で,よく一切の諸毒を解する」とある.

*ツンベルクは日本で「一角」が高価で取引されているのを聞いて,バタビアで,当地の有力者ボエル氏より冒険貸借 (Bottomry) で借り入れた 1000 rix-dollar で購入した37カッチェ4テール6マース(およそ21kg)の一角を出島に持ってきた.その日本での売却値は 5071テール1マース (= c.a. 507両,1200万円くらい)で,「これまでの借金を返済できるようになったし,その上,1200レイクスダールを日本で好きな学問に費やすことが出来た」(CP・ツュンベリー『江戸参府随行記』高橋文訳 東洋文庫 5831994),pp.5960)1200 rix-dollar は 200両とすると,500万円弱.ツンベルクは「日本人はその医学的効能・効果を,寿命を延ばし,精力をつけ,記憶を増進し,どんな愁訴にも効くと誇大に考えている」と言っている.

一方,オランダから持参した「昇汞」の売り込みには,成功しなかった.「私はオランダからなにがしかの昇汞(しょうこう)mercurius sublimatus corosivus〔塩化第二水銀〕を持ってきた。そして大勢の人が性病を患っていることから、私の当地滞在中に、この薬には大変な需要があるであろうことが十分に読みとれた。にもかかわらず、私はこの国の医師にわずかたりとも売ることはできなかった。」(上記訳本)

2017年3月24日金曜日

オシロイバナ-15 梅毒 日本での蔓延-4 江戸時代.ツンベルク-1 水銀水(スウィーテン水)『日本国民について』『ツンベルグ日本紀行』『日本誌』『江戸参府随行記』

ケンペルの来日から85年後の 1775 年,ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) もオランダ商館の医師として出島に赴任してきた.リンネの高弟の彼は,日本の自然史,特に植物研究が第一の目的ではあったが,当時の植物学者の習いとして医学も習得していたので,医師として,居留地長崎や江戸参府の途上,また滞在中の江戸に於いて,多くの日本人医師に面会し,患者を診察した.また,出島の通辞たちに医術を指導し,彼らの中には「紅毛医術」で一家をなした者もいた.
ツンベルク肖像 伊藤圭介訳述
『泰西本草名疏』(1829)
 口絵 NDL

ケンペルが指摘した「日本人の入浴好き」にも関わらず,当時,梅毒(黴瘡)は拡がり,多くの患者が苦しんでいた.すでに水銀系の内服薬として「軽粉」や「生々乳」が処方されていたが,その投与量が不適切だったためか,副作用が甚大で,ツンベルクの云う「血液浄化の煎じ薬」(土茯苓・山帰来あるいはサルサ根などの煎剤と思われる*)が治療薬としては主流であった.(*宗田一『図説 日本医療史』「紅毛秘事記」)

そこで彼は,当時欧州で治療実績のあった蒸留水,昇汞,適量の砂糖またはシロップからなる「水銀水スウィーテン水)」の調製法と投与法を長崎の吉雄耕牛ら通辞に教えた.この薬の劇的な治療効果により,長崎で多くの患者がその恩恵を受けたとされる.この薬品の處方は吉雄流医術の秘事とされ,弟子たちに受け継がれ,杉田玄白もこの薬品による治療を行った.ツンベルクはこの薬剤を日本に導入したことを,大きな誇りとした.

ツンベルクは,一年程しか日本には滞在しなかったが,帰欧途上の船上から,スウェーデン王室の侍医も務めた友人アブラハム・ベック(Abraham Bäck, 1713-1795)に充てた1776 12 20 日付の書状で「…現在日本では性病が非常に蔓延しております.今年,私は江戸やみやこ〔京都〕の医師ならびにオランダ商館の通詞たちに水銀を用いて治療することを一生懸命に教えました.通詞らは長崎で私の教えに従い,水銀水を使ってすでに大勢の患者を治療しました.水銀水の組成は蒸留水,昇汞,適量の砂糖またはシロップです.…」と記している(高橋文『18 世紀西洋の医学・薬学を日本へ導入したツンベルク』薬史学雑誌,48(2),99-1072013)).

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ
彼は母国スウェーデンに帰国後,1784 41歳で,ウプサラ大学医学・植物学教授となり,師リンネの後継者となった.同年,『日本植物誌 Flora Japonica』を刊行,王立科学アカデミーの会長になり,同年 11 3 日,王立科学アカデミーで「日本国民 TAL, om JAPANSKA NATIONEN)」と題する講演を行った.そのなかで日本の科学,医学の状況を報告し,更に彼が紹介した水銀水について述べている.
“TAL, OM JAPANSKA NATIONEN, HÅLLET FÖR KONGL. VETENSK. ACADEMIEN, VID PRÆSIDII NEDLÄGGANDE, DEN 3 Navemb. 1784,
AF. CARL PETER THUNBERG, MED. OCH ВOTAN. РROFESSOR.”
Medicinen hvarken har hunnit, eller lar någonsin hinna til nagon fårdeles hogd. Anatomien år aldeles okånd, och kunskapen om sjukdomarne bade ringa, invecklad och ofta fabelanktig. Botaniken och Medicamenternas kånnedom utgöra hela deras medicinskakunskap. De nyttja aldrig andra, ån enkla medel och det allmånnast uti Decocter, som drifvaurin elier svett. Componerade medicamenterveta de ej af. Deras Medici kånna vål altidpå pulsen, men ganska långe, hela fjerdedels timen, och det först på den ena och sedan, påden andra armen, liksom bloden ei skulle förastil bågge pulsarne itrån et och samma hjerta. Utom de sjukdomar, som åro gemenlamme medandra lånder, och dem japanska öаrnе åga enskildt, åro veneriska sjukdomar mycket allmânna, dem de hittils icke annorlunda, ån medblodrenande decocter vetat lindra, Salivationscuren, som deras Medici af Hollåndiske Chirurgi vål hört; omtalas, förekom dem åbde syar, atdirigera; och at genomgå; men de antogo både.med tacksamhet och glâdje den method, somjag hade det nöjet, at aldraförst undervisa demuti, nemligen, at med Aqv(u)a mercurialis cureradem. Atskillige Tolkar nyttjade denna methodredan år 1775 och 1776, samt botade dårmed fullkomligen, under min handledning, manga både uti och utom Nagasaki stad.  Och gor jag mig det ljufva hopp, at igenom denna låttare methoden hådanester flere tusende skola befrias ifrån både hals-fistlar och andra denna orena sjukans hiskeliga symptomer, som jag under resan in åt landet med gråmelle ofta fick beskåda.
「… 医師に解剖や生理についての知識はなく,また処方する薬剤についてもほとんど知らないので,その治療は確かではない.植物学と薬の知識が,彼らのもっている医学知識のすべてである.内科医は単味の薬以外は使わず,通常は利尿か発汗を促す煎じ薬を用いる.また散薬を用いることもある.薬を配合することは知らない.医師はときおり脈をはかるが,まるで血液が同じ一つの源から両方の脈管へ流れているのを知らないかのように,まず一方の腕をとりついでもう一方の腕をとって,たっぷり15分もの長い時間をかけて測る.他国と共通の病気の他に,日本で独特といえる病気は性病であり,非常に蔓延している.日本の医師はこれまで,血液を浄化する煎じ薬を用いてこの病気を抑えることしか知らなかった.流涎療法Salivationscuren)については,オランダ外科医から聞いて知っていたようだが,正しく使うことも患者に施すことも難しかった.しかし彼らは水銀水Aqua mercurialis)を用いて治療する方法を,感謝と喜びをもって受け入れた.私は幸いにもこの方法を最初に彼らに教えたのだ.すでに1775 年と 1776 年には,私の指導のもとに何人もの通詞がこの方法を用いて長崎の街内外の大勢の患者を完全に治療した.国内を旅したときに,しばしば非痛な想いで目撃せざるを得なかった何千人もの人々が,今後この簡単な方法によって,咽喉の瘻やこの不浄な疾患によるいまわしい症状から解放されるであろうという明るい希望を私は持っている.…(私訳+高橋文訳)」と,水銀水の治療法を実地に指導して効果を上げたことを誇りとしている.(画像:同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ library.doshisha.ac.jp/ir/digital/archive/tal/223/imgidx223.html より

また,ツンベルクのこの旅行記の集大成となった『一七七○〜一七七九年にわたるヨ-ロッパ、アフリカ、アジア紀行 “Resa uti Europa, Africa, Asia, förråttad åren 1770-1779 ...” J. Edman, 1791』の中でも, “Jedo 1776” の項で
The Library of the Naturforschende Gesellschaft Zürich
“Jag hade ifrån Holland medfört etpartie af mercurius subtimatus corrosivusoch under mit vistande hårstådes nogsamt sunnit, at detta medel ganska vålbehofdes, i ansende til den mångd affolk, som utaf veneriske Sjukor vorobesmittade. Icke desto mindre kundejag icke få försålja något deras til Landets Låkare, såsom aldeles okunnigeom detta fåkra, men tillika farliga medlets bruk och nytta. Om Salivation ågde de vål nåmgot begrep, men ansågoden alt for svår och farlig. De öfrigefåtten, at anvånda Mercuren, kåndede icke. Jag företog mig derfore, attil Practici, så val Doctorerne i landet,sorn Tolkarne, bortlkålika, tid ester anhan, simå partier af Sublimatet och underråttade dem tiliika, huru de skullebruka det samma upöst uti vatn, medtilsats as någon syrup; Denna solutionhytjades sedan for ganska månge uslingar, ester nodige förberedelser och medal forsigtighet under dagelige rapportertil mig och således under min handledning, til dess de på egen hand anteligen vågade hårmed bota fine antagnePatienter. De Curer, som de hårmedgjorda, ansågo de sjelfve i borjan forotrolige och snart sagt för underverk,samt ofver mig utgoto flere tacksajelseroch vålsignelser , an jag någonsin kunnat formoda for en undervisning, demjag sjelf ansåg ringa , men var for dembetydande och omsider kan blifva ethelt folkslag til ovårderlig nytta.” と記している.

山田珠樹 訳註『ツンベルグ日本紀行』奥川書房(1941)の「第八章:和蘭商館より江戸なる日本の行政皇帝(Empreur Civil)【将軍のこと】の許に派遣されたる使節の紀行.千七百七十六年三月四日より六月二十五日に至る.」の項に
「花柳病藥 : 私は和蘭から花柳病に用ふる水銀劑を持つて來た。効果は疑ないが然し同時に危險もあるこの治療法を日本の醫者は充分に使ひこなせないので、どうしても私からこの藥を授からうとしない。この藥が唾液を催させることについては、彼等もその効を認めてゐたが、然しこれは有害なことと考へてゐるので、私はその考を飜がさせるのに務めた。私はこの國の醫者及び通譯にこの藥の昇華したものを少量與へ、これを水に溶いて砂糖液と交ぜて處方すべきことを教へてやつた。彼等は非常な警戒をしながら、この溶液を數人の患者に投藥してみて、毎日その結果を私に正確に報告して呉れた。間もなく彼らは私が教へてやる必要もない位覺へてしまつた。治癒が迅速なので、彼らは驚きもしたし、叉私に厚く感謝した。彼等はこの効果をやヽもすればなにか超自然な力に歸してゐるやうに見えた。私はこの人等の信じ易い心を濫用することを慎んだ。そして地球上の他の國民と同じにこの國の人が惨害をうけてゐる、この禍の根源を除きうる方法をこの國の人に教へ得たことを、心秘そかに欣んだ。」とあり

CP・ツュンベリー『江戸参府随行記』高橋文訳 東洋文庫 5831994)の「第三章 江戸滞在 江戸(1776年)」では
「私はオランダからなにがしかの昇汞(しょうこう)mercurius sublimatus corosivus〔塩化第二水銀〕を持ってきた。そして大勢の人が性病を患っていることから、私の当地滞在中に、この薬には大変な需要があるであろうことが十分に読みとれた。にもかかわらず、私はこの国の医師にわずかたりとも売ることはできなかった。有効ではあるがまた同時に危険でもあるこの薬の使用法やその効果について、医師たちはまったく知らなかった。流涎(salivation)〔水銀の中毒症状。ヨーロッパでは性病治療の一つとして、一八 - 九世紀半ばまで流涎をもたらすまで水銀剤を投与するという方法が用いられていた。毒が流涎により排出されるという考えによる〕については何らかの理解をしていたようであるが、たいへん難しくかつ危険であると考えていた。水銀剤を使用する他の方法については知らなかった。そこで私は、この国の医師や通詞に実践させることにした。時おり少量の昇汞を彼らに与え、それを水に溶解しシロップを添加してどのように使用するかについても教えた。ついでこの溶液は必要な準備のあと、細心の注意をはらって大勢の乞食同様の人々に使われ、毎日私に報告された。そして私の指導のもとに、ついには自分の患者に、自らこの溶液を用いてみるまでの勇気を持つようになった.彼ら自身当初は、この溶液による治癒効果は信じがたいほどであり、ほとんど奇跡であると思ったようだ。そしてこの教えについて、予想していた以上に多くの感謝と喜びの言葉を私にあびせた。私にとっては些細なことが、彼らにとっては重要であり、やがては全国民に計り知れないほどの効果をもたらすようになるかも知れないのである。」とある.

このツンベルクが紹介して投与法を指導した水銀液は,その頃欧州で驅梅薬としては最も高い効力があると信頼されていた,Gerhard van Swieten (1700–1772) が開発したスウィーテン水」であり,長崎でこの薬剤の調製法と投与法を教授された通辞は吉村耕牛らである.吉村耕牛は,その後「紅毛医術」の一派を立て,家伝の『紅毛秘事記』の一項目としてこの薬剤の製法・処方を弟子たちに伝えた.その中には杉田玄白もいた.(後記事)

2017年3月15日水曜日

オシロイバナ-14-2 ケンペル『日本誌』を閲覧した江戸時代の思想家,三浦梅園『帰山録』

De beschryving van Japan (1729)
 California Digital Library

豊後出身の思想家,三浦梅園 (17231789) は長崎で,通辞吉雄耕牛 (17241800) 宅でケンペルの『日本誌 De beschryving van Japan』(オランダ語版,1729年初版出版)を見て,蘭語は読めなかっただろうが,その挿絵や特に地図の精密さや正確さに驚嘆している.一方,「草木禽獸魚鼈の如きは訓蒙圖彙如き書によつて寫したりと見えて正しからず」と,動植物類の図の出典を『訓蒙圖彙』と正しく認識している.

書誌によれば,地図や風景,文物の挿図は一点(観音像)を除いて,ケンペル自身が描いた原稿中の図を元にスローンが銅版画にした.一方動植物類の図はケンペルの原稿には含まれていなかったが,ケンペルが日本滞在中に収集した資料を基に,スローンが銅版画として付け加えて出版した.現在大英博物館に残っているスローンが購入したケンペルのコレクションに『訓蒙圖彙』(中村惕斎編,山形屋版)が残っている(http://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_1.html).

ヨーゼフ・クライナー『ケンペルの見た日本』NHK Books (1996) の「第二章 ケンペルとヨーロッパの日本観」には,「ケンペルの『廻国奇観』や『日本誌』という著作は随分早い時代から、既に長崎だけでなく江戸でも知られていたことは確かである。
三浦梅園が『帰山録』上巻に報告しているところによると、安永七年(一七七八)九月二五日に長崎の通調吉雄幸作(幸左衛門)の自宅でケンペルの『日本誌』を見ている。後にそれを購入した平戸藩主松浦静山は、感激のあまりその時の嬉しい気特を初めの頁に書き記した。そして一九世紀初めに、ロシアの使節団レザノフあるいはイギリス戦艦フェートン号などが次々と長崎に入港すると、江戸の老中松平信明が平戸藩からそのケンペルの著作を文化四年(一八〇七)と五年の二度にわたって借りていることも興味深い。」と,ケンペル『日本誌』を豊後出身の思想家三浦梅園 (17231789) が閲覧したとある.

梅園は1778(安永7)年,56歳の時に,長崎旅行(813日より1013日 一行12人)を行い,その記録『帰山録』の安永七年(一七七八)九月二五日の項に次のように記している.(三浦梅園 著『梅園全集.上巻』弘道館 (大正1), NDL Digitl Library.適宜句読点を挿入)

吉雄子の宅にして西書を覧るに其書我尾とする處彼書の開巻にして其板は銅を持ちゆ精巧言ふべからず.表紙獸皮をなめし漆にてぬる.壯夫といへども十巻を擔ふ事能はず.大冊なる者は一巻の價金四五十片に至る.天象地理の書より物産の書には天竺本草阿蘭陀本草を見たり.これを見て和漢本草の類物産の窄狭なるを覺ゆ.
諸国の志亦多しケンフルと云書は暹邏*と日本との志なり.初に日本の總圖ある (Fig-. 1) .客館中明の新安の胡宋憲所著の籌海圖**を見る一套十巻あり.日本の事を記せる書なり.明人の國圖は布置位を失する者多し (Fig. 2) .西人の圖は漸く正し.
Fig. 1 Kaempfer 日本の總圖 vs. Fig.2 籌海図編
長崎上關大坂京師江戸の圖は言ふに及ばず,西海山陽畿内東海道等の山川歴歴として見るが如し.三十三間堂には射的あり (Fig. 3) .東都の殿中には將軍家簾を垂れて紅毛人の舞を覧給ふの圖あり (Fig. 4)
Fig. 3 三十三間堂には射的あり.  Fig. 4 東都の殿中にて將軍家簾を垂れて紅毛人の舞を覧給ふの圖
草木禽獸魚鼈の如きは訓蒙圖彙如き書によつて寫したりと見えて正しからず (Fig. 5)
Fig. 5 草木禽獸魚鼈の圖(例)
神には大黒恵比須壽老人元三大師叉位牌數珠寶貨は壹歩判小判大判豆板鋋銀錢大名の諸道具定紋いろは片假名もあり.代代の帝統治亂沿革もある由也.櫻蔭***此事の譯書どもある由,耕牛語りき.」

*暹邏:シャム,現タイ國
**胡宋憲所著の籌海圖:中国,明代の日本研究書『籌海図編』全13巻.鄭若曾撰.嘉靖 41 (1562) 年成立.倭寇侵入に関し総合的に考究したもの.その史料価値は高く,後世の日本研究に与えた影響は大きい.倭寇撃退で名高い浙直総督 胡宗憲 編とされることがあるが,誤り.
***櫻蔭:不明

Fig.2:「日本国図『籌海図編』巻二」http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/chukai.htm 2013.3.20 より
その他の図:” De beschryving van Japan” (1729), California Digital Library より

江戸時代後期晩期に為政者や思想家に及ぼした『日本誌』や,『廻国奇観』の鎖国論の影響は,J.クライナー『ケンペルの見た日本』に詳しい.


三浦梅園 (17231789) は江戸中期の思想家.豊後の人.天文・医学・哲学・歴史・宗教・政治・経済など多分野に通じ,独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱えた.著「玄語」「贅語」「敢語」.

吉雄耕牛 (17241800) は江戸中期の蘭学者・蘭方医.長崎の人.名は永章.通称,幸左衛門・幸作.耕牛は号.オランダ通詞のかたわら,ツンベルクなど,和蘭商館の医師から医学を学び,吉雄流の開祖となる.前野良沢・杉田玄白らを指導し「解体新書」の序文を書いたことでも知られる.梅毒患者に水銀水治療を施した.(後述)

2017年3月5日日曜日

オシロイバナ-14 梅毒 日本での蔓延-3 江戸時代.ケンペル「博士学位論文」『廻国奇観』『日本誌』,入浴の効用

Engelbert Kämpfer Porträt
エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 – 1716, 滞日 16901692)は,1683年から1694年の十年にわたる旅で,主にペルシャ・シャム・日本の見聞を『廻国奇観』に纏めて上梓した.その中には,日本では梅毒患者が見られるが,日本人が風呂好きだからそれほど蔓延していないと,患者の存在を記録している.
風呂と梅毒の関係は,当時欧州での「発汗」による梅毒毒素排泄の治療法が念頭にあったと思われる.(左図:Engelbert Kämpfer Porträt von Emil Schulz Sorau (1955) im Engelbert Kaempfer Gymnasium Lemgo.)

ケンペルは二年間の長崎出島での医師としての勤務を終え,1692 10 31 日に日の出とともに膨大な記録と,数多くの資料を携え,長崎港を離れ帰国の途につき1693 10 6 日にオランダのアムステルダムに帰港した.
J. クライナー『ケンペルの見た日本』NHK Books (1996)
その後,学位を取得すべくライデン大学に医学・薬学に関する博士論文「外国に取材した観察記録10項目をまとめた医学博士請求論文」(Disputatio medica inauguralis exhibens decadem observationum exoticarum)を提出し,医学博士の学位を得えた.
この学位論文の項目の中には,日本の医療に関する二つの項目,鍼治療と艾灸についての記述がある.
その後,1712年に,当時欧州での共通言語であったラテン語で『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae)と題する本を出版した.この本について彼は前文の中で,「想像で書いた事は一つもない.ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している.この本の大部分はペルシアについて書かれており,日本の記述は主に植物が占めていたが,学位論文に含まれていた日本の鍼治療と艾灸は,増補改訂されて収載されていた.


Engelbert Kaempfer's doctoral thesis
 (1694)
Engelbert Kaempfer's "Amoenitates Exoticae"
(1712
ケンペル『江戸参府旅行日記』
斎藤信(1977)
私注
page
Title
OBSER-
VATIO
Title
解説
1
2
De Agno Scytica, seu fructu Borometz
I
Agnus Scythicus; s. Fructus Borometz
(一)植虫類(『廻国奇観』第3, p 505
バロメッツ,
羊の生る草
2
5
De Amaritie Caspii Maris
II
In mari Caspio, nullae voragines; ejusdem pelagl amarmes.
(二)カスピ海の苦水(第2, p 253
3
8
De Mumia Nativa Persica, Moyminahi dicta
III
Muminabi, seu Mumia nativa Persica
(三)天然のミイラ(第3, p  516
4
15
De Torpedine Sinus Persici
II
Torpedo Sinus Persici
(四)電気魚(第3, p 509
シビレエイ
5
18
De Dsjerenang, id est, Sanguine Draconis, ex fructibus Palmae Coniferae spinosae elicito
VI
Dsjernàng, i.e. Sanguis Draconis, ex fructibus Palmae coniferae spinofae elicitus
(五)蛇血(第3, p 552
竜血樹
6
22
De Dracunculo Persarum
IV
Dracunculus Persarum, in littore Sinùs Persiçi.
(六)ゴイネア虫(第3,p  524
メジナ虫
7
26
De Andrum, endemia Malabarorum Hydrocele
VII
Andrùm, sive Hydrocele, (scrotitumor) morbus regioni Malabaricae endeminus & communis'
(七)陰嚢水腫(第3,p  557
8
29
De Perical, indigena Malabaris Hypersarcosi ulcerosa Pedum
VIII
Pericàl, i.e. Hypersarcosis ulcerosa pedum; sive Pedarthrocaces, morbus Malabaris vernaculus.
(入)骨腫瘍(第3, p 561
9
31
De Curatione Colicae per Acu puncturam, Japonensibus usitata
XII
Curatio Colicea per Acupuncturam, Japonibus usitata
(九)日本の疝気療法としての鍼術(第3, p 582
10
36
De Moxa, Materia Cauteriorum apud Chinenses Iaponiosque usitata
XII
Moxa, praestantissima Cauteriorum materia, Sinensibus Japonibusq; multùm usitata.
(一〇)モグサ(第3三篇, p 588
シナおよび日本でよく行われている艾灸

『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japan)の執筆にも取り組んでいたが,1716112日,ケンペルはその出版を見ることなく死去した.

ケンペルの遺品の多くは,3代のイギリス国王(アンからジョージ2世)に仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローン卿 Sir Hans Sloane, Bt1660 - 1753)が遺族から買い取った.1727年,Heutiges Japan は,スイス人のショイヒツエル(Johann Caspar Scheuchzer, 1702 – 1729)に英訳させたスローンにより,ロンドンで出版された『日本誌』(The History of Japan)は,のちにフランス語,オランダ語にも訳された.
ドイツでは啓蒙思想家ドーム (Christian Wilhelm von Dohm, 1751 – 1820) が,甥のヨハン・ヘルマン (Johann Hermann Kaempfer, 1691 – 1736) によって写された草稿を見つけ,177779年にドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した.
この『日本誌』(The History of Japan)には,学位論文の他の八項目は日本に直接関係ないので省かれたが,鍼治療と艾灸はのこされ,他の日本に関する四項目の考察と共に収載されている.

廻国奇観』の艾灸治療の章には, 600* Amaenitatum exoticarum Fasculus III. (*600: 500 の誤り)
灸所鑑 Kju sju Kagami, i.e. Urendorum locorum Speculum.
CAPUT II.
7. Sciendum omnino ac probè, cavendum est, ut intra triduum ab instiuta inustione  balneum aquae dulcis ingredistis (hujus, & praesertim balnei vaporis dicti, Japonibus quotidianus usus eft, quo virus Venereum, credo, indies expelli, alioquin totam nationem perditurum).(左図)
艾灸の治療後,三日間は淡水での温浴はしないように,大きな注意が払われる.(日本人は蒸し風呂への入浴が好きでほとんど毎日入る。日本人にヴィーナス病(梅毒)が比較的広がっていないのはそのためで、そうでなかったら、(梅毒は)全国民に蔓延していると思う):私訳」とある.

一方『日本誌』における「艾灸」の章におけるこの項目は以下のように記述されている.

★英訳本「7 . Great care must be taken not to go into a bath of sweet water, for three days after the operation. (The Japanese are very great lovers of bathing, and use it every day. I believe that this is the reason why the pox spreads so much less, than it would be otherwise like to do in so populous a Country.)
蘭語版 De beschryving van Japan 灸所鑑 挿図
★蘭語本「7. Men moet groote zorg dragen, om in geen drie dagen na de branding te gaan in een badt van zoet water. (De Japoneesen zyn zeer groote Lief hebbers van het badt, en gebruyken het alle dag. Ik geloof dat dit de reden is waarom de pokken zich zo veel weiniger verspreyden, dan ze anders waarschynlyk zouden doen in zulken volryken Landt.)
★仏語本「7. Ou doit s'abſtenir du bain d'eau douce, pendant trois jours après l'operation (Les Japonnois aiment fort le bain & en font un uſage journalier : je croi que c'eſt pour cette raiſon que les maux veneriens ſe repandent moins qu'ils ne ſe repandroient autrement dans un pays ſi peulé.)
★スウェーデン語本「7. Det skall observeras alls och det goda, måste man vara försiktig, så att, inom tre dagar för att behöva gå in i institutet inustione bad med sötvatten (av detta, och i synnerhet av badet av ånga, Japan daglig användning är att män inte var veneriska frågor, tror jag att, från dag till dag att drivas ut, annars skulle visa förstörelsen av hela nationen).
★ドーム版「7) Man muß wohl wiſſen und beobachten, daß ein mit Moxa Gebranter drei Tage nachher kaltes Bad von ſuͤßem Waſſer gebrauchen muͤſſe. (Die Japaner bedienen ſich deſſelben und beſonders des Dampfbades faſt taͤglich, wodurch, wie ich glaube, die Venusſeuche noch etwas abgehalten wird, die ſonſt die ganze Nation ausrotten muͤſte)

この「梅毒」に相当する病名は,英訳では pox,オランダ語訳では pokkenと,フランス語訳では maux veneriens スウェーデン語訳では veneriska とされており,一方ドーム版のドイツ語版では Venusseuche となっている.(英:pox: 痘(症),《the ~》〈話〉梅毒.蘭:pokken: 天然痘,疱瘡,痘瘡,仏:maux veneriens: 性病,スウェーデン:veneriska: 性病,独(ドーム版):Venusſeuche:ヴィーナス病,梅毒).従って,この疾病は,英語版,和蘭語版では必ずしも梅毒のみとは限らないが,他の言語版,特にドーム版では,『廻国奇観』の原記載と同じく「ヴィーナス病」と記されているので,この病気は「梅毒」と解すべきであろう.
また,英語版,和蘭語版では単なる「入浴(bathing, badt)」となっているが,他の言語版では「蒸気浴(fort le bain, badet av ånga, Dampfbades)」と解される入浴法とされていて,『廻国奇観』の balnei vaporisと合致する.

なお,ケンペルの博士論文の “De Moxa, Materia Cauteriorum apud Chinenses Iaponiosque usitata” の章にこのような記述があるかは,ネットで見ることのできた画像の解像度が低くて,確認できなかった.