2013年8月29日木曜日

ラショウモンカズラ 羅生門,瑠璃蝶草(「瑠璃鳥草」は誤り),和漢三才図会,地錦抄附録,草木弄葩抄,画本野山草,物品識名,日光山草木圖,梅園草木花譜,学名 ミクェル,牧野富太郎

Meehania urticifolia (Miq.) Makino
2004年5月 仙台野草園
牧野富太郎博士はこの植物の名前について,「和名羅生門蔓 (らしょうもんかずら) は花冠を渡辺綱 (わたなべのつな) が羅生門で切り落とした鬼の腕に見立てた。(CD-ROM 原色牧野植物大図鑑 北隆館)」と,和名の由来を言ったが,江戸の文献には見つけられなかった.

江戸時代の名称の一つの「ルリテフ(ウ)サウ=ルリチョウソウ」が「瑠璃鳥草」ではなく,「瑠璃蝶草」であることは,『地錦抄附録』で明らかである.また,現在では「蝶」も「鳥」も「チョウ」と振り仮名をするが,江戸時代は,「蝶」は「テフ,テウ」であり「鳥」は「チャウ」であった.従って「ラショウモンカズラ」の古名・江戸の方言「るりちょーそー」を「瑠璃鳥草」とするのは誤りで,「瑠璃蝶草」とすべきである.

★寺島良安『和漢三才図会 巻第九十六 蔓草類』(1713頃)(左図),現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫,には
羅生門 俗称〔本名は未詳〕
△思うに、羅生門(シソ科ラショウモンカズラ)とは蔓草である。葉は胡麻の葉に似ていて短い。三月に葉の間に小花を開く。深青色〔俗に紺色という〕である。」とあるが,茎は直立していて「つるくさ」ではなく,花後出す地上を這う走出枝を「かずら」と見た.

★四世伊藤伊兵衛『地錦抄附録 巻之一 草花の部』(1733)には,
瑠璃蝶草(るりてふさう) 
花形蝶(てふ)の飛形(とぶかたち)なり花濃紫(こむらさき)るり色よく蝶の羽ごとくに紋のあやあり草はほそくのびたちて葉両対(たい)に付(つき)葉の間々に段々花三月上旬頃さく花に香気(こうき)あり梅花のごとくに薫(くん)ず」と庭園での栽培・観賞が行われていたことを覗わせる.(右図,NDL)

なお,『日本国語大辞典.』で「るりちょうそう[ルリテフサウ]【瑠璃蝶草】- 〔名〕植物「るりみぞかくし(瑠璃溝隠)*の異名」として,この地錦抄附録の記述文を引用しているが,原資料に添付の図(右図)からして,引用は誤りである.*いわゆる「ロベリア」

★菊池成胤?『草木弄葩抄* 上巻』(1735)には
羅生門
はな、るり色。とりかぶとのはなのごとし。葉、おどり草のはにしてすこしながくうすし。茎、蔓生ず。くきをふせ、ふしより根ををろし、はびこる。」(下図左端,NDL)
*草木弄葩抄(ソウモク ロウハショウ). 上巻,享保20 [1735] 序
知名度は低いが、先行する『花壇綱目』や『花壇地錦抄』より記載がはるかに詳しい園芸書で、草類だけを載せる。著者名は明記されていないが、序文の筆者菊池成胤(浪華の人)と思われる。
現存本は上巻であり、これには図が一つも無い。凡例によれば図集を下巻として出版するとあるが、刊行された形跡は認められない。上巻もこの国立国会図書館本以外に知られていないようである。見出し数は209だが、同一項に類品を挙げる場合が少なくないので、総品数はこれよりかなり多い。 (中略)
新出品はあけぼの草・いわかがみ草・うらしま草・君かげ草(現スズラン)・なるこゆり・水芭蕉(すべて原記載名)など、15品ほど。(中略)
『絵本野山草』(宝暦5年=1755刊)は全163項目だが、うち半数の82項が本書の記文の全部あるいは一部の転写である。(磯野直秀)

★橘保国『画本野山草』(1755)には
羅生門 はな、三月
はな、るり色。とりかぶとのはなのごとし。葉、おどり草のはにして、すこしながく,うすし。茎、蔓生ず。くきをふせ、ふしより根ををろし、はびこる。」とある.(記事は『草木弄葩抄』の剽窃)(左図,中央,NDL)

★岡林清達・水谷豊文『物品識名』(1809 跋)
ラシヨウモンカヅラ ルリテウサウ 江戸」(左図,右端,NDL)

★夏井操『牧野植物園便り Makino Botanical Garden News,No.33 ラショウモンカズラ,大きな花を重そうに連ねる小さな草,愛媛県の赤星山で出会う』には
「・・・牧野博士と同世代で東京帝国大学の植物病理学教授であった白井光太郎博士は、水谷豊文の『木曾採薬記』*1(1810年)のなかでルリチョウソウという名前を見つけており、昭和2年植物研究雑誌*2で「ラショウモンカズラの一名」と記しています。岩崎灌園の『綱救外編』*3(1825年)に出ていたとあったので、牧野文庫で調べてみると、「ラセウモン ルリ蝶サウ」との記述がありました。
日光山草木圖 五 NDL
  また、『備中植物誌』を著した吉野善介は、昭和7年の同誌で、鬼の腕の説を牧野博士の説と断ったうえで、「(ラショウモンカズラは)ルリチョウソウという一名もあるらしい。
  岩崎灌園(江戸後期の本草学者)の描いた『日光山草木圖』*4に出ているが、あるいは日光地方の方言かもしれない。その花の色や形から瑠璃鳥に見立てたものであろうが、この名の方がはるかに雅馴でラショウモンカズラのような怪奇的な名はこの優麗な草花を現すにふさわしくないようである」と遠慮しながら述べています。」とある.

残念ながらここに引用されている文献1*水谷豊文の『木曾採薬記』(NDL)には「ラシヤウモンカヅラ」はあったが,「ルリチョウソウ」という名前は見つけ出せず,また *2,*3 は NET では該当する部分は見つけられなかった.
一方 *4 岩崎灌園『日光山草木圖 五』(1824,文政7年)には,「るりてうさう」として,ラショウモンカズラが描かれている(右図, NDL).「る里てうさう」なので,これは「瑠璃草」と解すべきである.
増補花壇大全 NDL

★松本新助ら『増補花壇大全』(1813) の第四巻には「瑠璃艸 るりてふさう」の名で,良く特徴を捉えたラショウモンカズラが描かれている.残念ながら記述文は見いだせなかったが,ルリチョウソウのチョウは鳥ではなく蝶であることが分かる.
この図は四世伊藤伊兵衛『地錦抄附録』(1733)とほぼ同じで,剽窃であろう.

梅園草木花譜 NDL
★毛利梅園(1798–1851)『梅園草木花譜 春三』(1825 序,描図 1820 - 1849)には、
「続断* ハミ
或人曰 紫雲菜(ルリテウサウ,又曰ヒキヲコシ)ト云 可考 ラショウモントモ
救荒本草ニ出 青考紫雲菜ハ立浪艸ニ云ル続断ニ非ラス
続断数種アリ此者宿根苗ヲ生シ地ニ搨テ莭々ヨリ根ヲ生ス
葉ハ沙参又杏葉沙参葉ニ彷彿リ少シ皺文アリ
其地ニ搨莭ニハ花ヲ生セス一茎又宿根ヨリ生シテ花ヲ著ハス
躍子草ニ似(イ+巨)テ其花横ニ連ル
躍子草一名編笠艸ヲモ続断ニ充者アリ
続断藤ハ地ニ摺ク茎ノ名也続断本草蔓草ニ非ラス」とあり,写生に基づく美しい絵がある(左図).
* マツムシソウ科のナベナやトウナベナ


ラショウモンカズラに最初に学名をつけたのは,ミクェル(F. A. W. Miquel, 1811-1871)で,伊藤圭介が採取し,シーボルトへ在日中に提供した標本に基き,ムシャリンドウ属に属するとして Dracocephalum urticaefolium とした(Prolusio Florae Japonicae 『日本植物誌試論』, 2: 109 (1865). Type: Japonia, s.l.s. (Keiske, L) in Annales Musei Botanici Lugduno-Batavi (王立植物標本館紀要)右下図).

Dracocephalum : ギリシャ語の dracon(龍)+cephale(頭), urticifolia : イラクサ属(Urtica)の ような葉の

しかし,1899年に牧野富太郎がラショウモンカズラ属に属すると発表し,現行の学名 Meehania urticifolia となった (Botanical Magazine Tokyo 13: (159) (1899)).
「日本植物調査報知第十五回 牧野富太郎
○六十六 らしゃうもんかづら ノ學名私考…
らしゃうんかづらハ唇形科ノ一草ナリ予ハ今其學名ヲ新訂スルコト左ノ如シ
Meehania urticifolia (Miq.) Makino nom. nov. = Dracocephalum urticaefolium Miq. (以下略)」

Meehania は,19世紀のアメリカで活躍した英国人の植物学者 Thomas Meehan  (1826-1901) の名にちなむ.

2013年8月27日火曜日

サンカヨウ (2/3) シーボルト, ミショウ,チャールズ・ライト,J.スモール,エイサ・グレイ「東アジア・北米隔離分布」, F. シュミット,

Diphylleia grayi
2007年6月 尾瀬ヶ原
シーボルトは、1823-1824年にかけて出島の面積の1/4近くを占める植物園を再建した.彼の書簡(1825年)によるとその植物園には、日本の 1,000 種以上の植物が移植されていて,1828年の出島の植物のリストとされるものには,約 370 種の名前がカタカナと一部漢字で記載されている.その中にはケシ,ナデシコ,アサガホ,キキャウ,クララ,ソテツ,ワタ,チゴザサ,イシカグマ,ハシリドコロ,クロムメモドキ,バイケイサウなど共に,サンカヨウが植えられていたと記録されている(http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp1/dejima_p.html).

また,東京都立大学牧野標本館所蔵のシーボルトコレクション*には,2点のサンカヨウの腊葉標本が保存されている(左図).いずれにも果序の墨絵があるが,一つには「ヤマボタン 下野湯本産」と記載があり(MAKS0115),もう一つは水谷助六作成の標本と考えられている(MAKS0114).しかし,シーボルトはサンカヨウアメリカサンカヨウ (D. cymosa Mich.) と同一種と考えていたようで,彼の著作には,サンカヨウに関する記述はない.

*ロシア,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から交換標本として送られてきた“シーボルトコレクション”の大部分はシーボルトが滞日した1823-1829年および1859-1862年に収集した植物標本である.シーボルトがミュンヘンで亡くなった後に,ロシア人の植物分類学者マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz, 1827-1891)が未亡人より購入したもので,約100年ぶりに日本に帰ってきた.

Flora Boreali-Americana (Michaux), 1: tt. 19-20
アメリカサンカヨウ (D. cymosa Mich.) は André Michaux (1746-1803) によって 1803年に学名を与えられた北米山間部に希に産するメギ科の植物で(Flora Boreali-Americana (Michaux), 1: 203 (tt. 19-20). 1803 [19 Mar 1803]),彼はこの植物をもって Diphylleia  属を新たに立てた.この植物は Native American 達が古くから薬草として用いていて,初期の移住者たちも利用していた.右に原記載文献からの図を示すが,花被がやや細長いように思われるほかは,サンカヨウと形状的には良く似ている.

日本産のサンカヨウを米国産のそれと同一とする誤りは長く続いた.

“Bathing Scene in Japan “ 
日本開国のきっかけとなったペリー艦隊と同時期(1853-1856)に,北東アジア沿岸を探索した米海軍ロジャー提督 (Captain John Rodgers) の艦隊に同行した植物採集家のチャールズ・ライト(Charles Wright , 1811~1885),J.スモール(J. Small, dates unknown)は,寄港地毎に多くの博物標本を採取し持ち帰った(左図,A. W. Habersham ”The North Pacific surveying and exploring expedition : or, My last cruise,---” より).

その腊葉を研究したのが,ハーバード大学のエイサ・グレイ教授であったが,その標本の中にJ.スモールが,北海道の宗谷岬付近で採集したサンカヨウがあった.
グレイ教授はこのサンカヨウを,北米に自生しているアメリカサンカヨウと同一種と考え,函館で採取されたメギ科のルイヨウボタン(Caulophyllum robustum)(これも北米原産の Caulophyllum thalictroides  とした)と共に,彼が発見した「東アジア・北米隔離分布」説の有力な証拠とした( Mem. Amer. Acad. Arts Sci. (Boston) n. s. 6 379, 1859).

IX. Diagnostic Characters of New Species of Phaenogamous Plants, collected in Japan by Charles Wright, Botanist of the U. S. North Pacific Exploring Expedition. (Published by Request of Captain John Rodgers, Commander of the Expedition.) With Observations upon the Relations of the Japanese Flora to that of North America, and of other Parts of the Northern Temperate Zone.
By ASA GRAY, M. D. (Read December 14, 1858, and January 11, 1859.)

Berberidacae . We have both the true Berberis vulgaris and B. Thunbergii, DC, thelatter very near B. Cretica, and accordingly hardly distinguishable from our own Alleghanian B. Canadensis. The Japan Mahonia, a link between the Western American and Himalayan species, I have not seen. Nor was a single Epimedium collected, although Japan is apparently the focus of the genus. But perhaps the most interesting and most unexpected discovery of the expedition is that of two strictly Eastern North American species of this order, -  each the sole representative of their genus, - viz. Caulophyllum thalictroides, and Diphylleia cymosa, of Michaux. The former was gathered near Hakodadi, and also on the northern end of Nippon, - out of blossom, indeed, but with the ovaries just bursting, and the later specimens with the peculiar seed well formed. The latter, J. Small found at Cape Soya, the northeastern extremity of Japan, in fruit only. So that flowers are wanted to confirm the identity, of which, however, I have scarce a doubt.
CBM Diphylleia cymosa (1814)
Caulophyllum inhabits rich woods, from Canada to the mountains of Carolina and northwest to Minnesota ; Diphylleia was known only in the Alleghany Mountains between Virginia and Georgia.
Supposing these two plants to be satisfactorily identified as to species, are we to regard them as the descendants of a common stock, though now separated by one hundred and forty degrees of longitude ? Or are we to suppose them independently originated in two such widely distant regions? The collocation of a larger body of such facts may lead to a satisfactory answer to these questions.
(中略)
The geographical range of this species, as now extended, is instructive. This, and the numerous similar instances already mentioned, or to be mentioned, are particularly recommended to the consideration of those (such as De Candolle the younger) who,although convinced that species in general have had a single, local origin, are yet con-strained to adopt the hypothesis of a double origin in the special case of certain species known to occur only in two widely dissevered regions ; - e. g. Phryma leptostachia in Nepaul, as well as in North America east of the Mississippi ; or our own Diphylleia and Caulophyllum, occurring only here and in Japan. The number of instances, 1. of species strictly divided between Eastern North America and some part of Northern Asia ; and 2. of those which are known to occur at one, two, or several intermediate stations, -  is already so increased, that they can no longer be regarded as exceptional or casual, but must evidently receive a common explanation. And what that explanation is begins to be clear.

グレイ教授の見た標本はいずれも花のない個体であったので,日本産品を米国産品と分別できなかったのであろうが,彼の提唱した「東アジア・北米隔離分布」説を損なうものではない.この説はそのほか多くの植物でも確認され,地質学的な古代に,北米大陸とユーラシア大陸が北部で陸続きであった事の強力な生物学的証拠と認められている.

後にサンカヨウ F. シュミット(Schmidt, Friedrich (Karl) (Fedor Bogdanovich), 1832-1908) によって,米国産とは別種であることが確認され,グレイ教授に献呈され,D. grayi と命名された (Reis. Amur-Land., Bot. 109. 1868,左 図).

また,主に中国北部に分布する同属の山荷葉は Hui Lin Li (1911-2002) によって D. sinensis の学名がつけられた(J. Arnold Arbor. xxviii. 443. 1947).

現在確認されているサンカヨウ属の植物はこの三種のみであり,「東アジア・北米隔離分布」説にとって重要な植物である.

サンカヨウ(1/3) 草木図説・中国の山荷葉(D. sinensis,Astilboides tabularis ),薬効
サンカヨウ(3/3) 鬼臼 新修本草・本草和名・延喜式・本草綱目・和漢三才図会・本草綱目啓蒙・梅園草木花譜,増補古方薬品考

2013年8月24日土曜日

サンカヨウ(1/3) 草木図説,中国の山荷葉(Diphylleia sinensis,Astilboides tabularis ),薬効

Diphylleia grayi
2007年6月 尾瀬が原
深山に咲く美しく可憐な花であり(但し,白色の花弁状にみえるのは6個ある内萼片で,花弁は無い),平地での栽培は難しく,会うにはこちらから伺うしかない.そのためか,江戸時代の園芸書・本草書には殆んど記載がなく*,見つけることが出来たのは,幕末の『草木図説前編』で,これには雄渾な図と詳しい記述があった.

* その後,毛利梅園の『梅園草木花譜』(1825 序)と内藤尚賢の『増補古方薬品考』(1842)にサンカヨウの記事を見つけたので,別項「サンカヨウ(3/3)」で紹介する.

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』(成稿 1852年(嘉永5)ごろ,出版 1856年(安政3)から62年(文久2))
「山荷葉 通名
草木図説 第七巻ニ十五葉 NDL
深山幽谷ニ生シ.一根一茎.老根ニアツテハ高一二尺.分岐二トナリ各頭一葉.大サ七八寸.形扁円ニシテ二ノ大欠刻相対シ.邊縁不斎ノ大尖頭起ヲナン.惣テ尖細ノ不斎歯ヲ具ス.靣緑色背稍淡シテ微軟毛アリ.蒂葉心ニツム.一岐更ニ枝ヲ分チ一小葉ヲツク.ソノ葉ニアツテハ一欫刻深ク蒂(へた)ノ処至リ.ソノ処ヨリ一寸許ノ花茎一二ヲ出シ数亜ニ分レ毎頭一花ヲ放ク 草木大者ハ一岐ハ大葉一岐ハ小葉ニシテ●ニ花ヲツク 萼三葉花五弁.共ニ卵円白色形如梅花ニシテ稍小.実礎楕円ニシテ尖.結頚瘖●アリ.雄蕊六ニシテ長葯双角アツテ黄粉ヲ吐ク.実桃葉珊瑚(オヲキバ*)ノ実ニ似テ小.熟シテ黒色.内ニ四子アリ.根形黄精ノ如クニシテ小.累々旧ヲ連綴横延シ.毎年一旧ヲ生ス 附 両蕊郭大図  所属未考」 *アオキ ●解読不能文字

このサンカヨウ属の植物は,全世界でわずか三種が知られている.本種,中国に分布する Diphylleia sinensis,そして米国に少数が生育する D. cymosa である.ハーバード大学のグレイ教授は,この分布が彼が唱えた「東アジア・北米隔離分布」学説の有力な証拠とした(但し,グレイ教授は日本産のサンカヨウを米国産の D. cymosa と同一と誤って同定した.サンカヨウ(2/2)に記述).

A. tabularis
サンカヨウ(山荷葉,山に生えるハスに似た葉)の名称について牧野富太郎博士は,「和名は漢名山荷葉に基づくが本種の漢名ではない。」と云った.現代中国では山荷叶(叶は葉の簡字体)は二種の植物を言い,一つは D. sinensis (別名:阿儿七,窝儿七,旱荷,一碗水),もう一つはユキノシタ科の Astilboides tabularis (別名:大叶子,大脖梗子,右図)で,いずれもハスの葉に似た大きな丸い葉を持つ.

米国産の近縁種も,中国産の近縁種も,それぞれ根茎は民間薬として使われていて,前者はCherokee Indians are reported to have used D. cymosa to treat a variety of ailments((通例軽いまたは慢性の)病気,不快)and as a disinfectant(殺菌[消毒]剤) (D. E. Moerman 1986) とあり,後者の薬効は「活血化瘀,解毒消肿。用于跌打损伤,风湿筋骨痛,月经不调,小腹疼痛;外用治毒蛇咬伤,痈疖肿毒」であるとされている.

2008年7月八幡平
当然,日本産のサンカヨウにも薬効があってもしかるべきと思うが,実(左図)を食べると甘いとの情報はあるが,実や根茎を民間薬として用いたとの話はなく,またアイヌの人たちも薬としては用いていなかったようだ(アイヌ民族の有用植物 ).

サンカヨウの根茎に podophillotoxin. pieropodophylin, beta-apopicropodophyllin, kaempferol, quercetin, diphyllin 等が含まれている事は確認されており (Murakami. T., & A. Matsushima. 1961. Studies on the constituents of Japanese Podophyllanceae plants (In Japanese), J. Pharm Soc. Japan 81:1596-1600),抗がん作用が期待できるとのこと.

なお,米国産・漢産・和産,三種の違いについては,S Terabayashi, D E Wofford and T S Ying. "A monograph of Diphylleia (Berberidaceae)," Journal of the Arnold Arboretum 65:57-94 (1984) (http://biostor.org/reference/62083) に詳しい.

サンカヨウ (2/2) シーボルト, ミショウ,チャールズ・ライト,J.スモール,エイサ・グレイ「東アジア・北米隔離分布」, F. シュミット
サンカヨウ(3/3) 鬼臼 新修本草・本草和名・延喜式・本草綱目・和漢三才図会・本草綱目啓蒙・梅園草木花譜,増補古方薬品考

2013年8月17日土曜日

シラネアオイ (2/2) シーボルト.ペリー,A.グレイ,ミクェル,サバティエ,クラーク博士,フス,ガーデンメリット賞

Glaucidium palmatum

この日本特産のシラネアオイがキンポウゲ科の新しい属の植物である事を見出し,学名をつけたのは,シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)で,1845 年にツッカリーニと共著の “Abhandlungen der Mathematisch-Physikalischen Classe der Königlich Bayerischen Akademie der Wissenschaften. Munich (バイエルンの自然科学学会紀要)”の 4 (2): 184, にテキストを, t. 1 Bに図を提示した(左下図).属名の Glaucidium とは,ケシ科の属名 Glaucium ツノゲシ属の縮小形で,花の外観が多少似るため,種小名 palmatum は,「掌状の」の意味で葉の形を表す.

基づいた標本は日本の本草家から得た蝦夷(北海道)産の植物であると記されている.ただ,その標本は完全なものではなかったが,蕾を精査することにより,キンポウゲ科に新しいシラネアオイ属を建てることが出来たようだ.
Die wenigen uns vorliegenden und von japanischen Botanikern auf Jesso gesammelten Exemplare sind leider unvollstaendig
Alle Bluethen sind geöffnet und an keiner eine Spur des abgefalleunen Kelches zu sehen. Doch koennte nur die Ansicht der Knospe entscheiden, ob der jetzt als Blumenkroue  angesprochene Kreis nicht ein gefaerbter Kelch ist und die Corolla fehlt.
(The few we received and collected by Japanese botanists to Jesso specimens are unfortunately incomplete.
Then all Blue are open and see no trace of the abgefalleunen chalice. But only the view of the bud could decide whether the circuit is referred to now as Blumenkroue not a colored calyx and the corolla is missing..)(独→英は Google 自動翻訳)

シーボルトにシラネアオイの標本を与えた,日本の本草家の名前は記されていないが,東京都立大学牧野標本館所蔵のシーボルトコレクション*に,水谷豊文(助六, 1779 - 1833)がシーボルトに提供した蝦夷産の「シラ子アフヒ 山ボタン 日光方言シラ子葵」と書かれた付箋のついたシラネアオイの腊葉標本(MAKS0223,右図)が保存されているので,水谷豊文なのかも知れない.

*ロシア,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から交換標本として送られてきた“シーボルトコレクション”の大部分はシーボルトが滞日した1823-1829年および1859-1862年に収集した植物標本である.シーボルトがミュンヘンで亡くなった後に,ロシア人の植物分類学者マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz, 1827-1891)が未亡人より購入したもので,約100年ぶりに日本に帰ってきた.

このわが国の固有種は多くの外国人ボタニストの興味をそそり,数多くの記述が見られる.

Dr. Morrow & 箱館風景
(ペリー航海記第一巻)
江戸幕府に開国を迫るために来た米国のペリー提督は,寄港地毎に植物や鳥類,魚介類を採取し,後に米国議会に提出した報告書(『ペリー提督 日本遠征記』)の第二巻には,そのリストを添付した.
植物に関しての検討は,ハーバード大学のエーサ・グレイ教授(Asa Gray )が担当した(Vol. 2, “ACCOUNT OF BOTANICAL SPECIMENS.LIST OF DRIED PLANTS COLLECTED IN JAPAN”).

その中には,ペリーの一行に同行した農学者のモロー博士(James Morrow, 1820-1865)らが1854年(安政元年)5月17日~6月3日に滞在した函館で採集したシラネアオイの腊葉(左図)に基づいた記述があり,より詳しい検討結果が "Mem. Amer. Acad. Arts Sci. (Boston) n. s. 6: 379 (1859)" に記載された.

NY Botanical Garden Herbarium
”Our collection contains specimens of Glaucidium palmatum, Sieb. & Zuce, with young fruit, and so affords the means for nearly completing the characters of this remarkable genus. The floral envelopes (lilac or pinkish) are evidently simple, calycine, and early deciduous ; the anthers of the normal sort.
But the remarkable point now brought to light is, that there are often two or three pistils, more or less connate at their bases, apparently follicular and above widely divergent in fruit, and containing numerous seeds in several ranks.
Mem. Amer. Acad. Arts Sci. (Boston) n. s. 6: 379 (1859)
The immature seeds are oval, fiat, thin, and broadly winged except at the hilum.
The number of pistils, as now revealed, excludes the idea of a relationship with Podophyllum* and Diphylleia**, which the foliage suggests. Zuccarini has rightly referred the genus to the Ranunculace . It belongs, however, not to the tribe Paeonie , but to the Cimicifugae, and in my opinion its nearest relative is the Alleghanian genus Hydrastis.”

すなわち,「ペリーの航海で得られた標本の若い果実を調べた結果,基部で2~3本の雌蘂が合着しているのが,この種の特徴であることが明確になり,葉の形状が似ている Podophyllum* か Diphylleia** と近縁であるとの見解は否定できる.
キンポウゲ科としたツッカリーニは正しいが,ボタン属ではなく,Cimicifugae*** であり,私はHydrastis****に近いのではないかと思う.」とある.

 *Podophyllum メギ科 ミヤオソウ属 ポドフィルム,アメリカハッカクレン
 **Diphylleia メギ科  サンカヨウ属(左図左,CBM Diphylleia cymosa 1814 銅版手彩色)
 ***Cimicifugae キンポウゲ科 サラシナショウマ属(左図右,CBM, Cimicifuga palmata, 1814 銅版手彩色)
****Hydrastis キンポウゲ科ヒドラスチス

確かに葉の形状は全てシラネアオイによく似ている.

ミクェル (Friedrich Anton Wilhelm Miquel, 1811 - 1871) は,シーボルトらのコレクションを科ごとに整理したカタログの色彩が強い『日本植物誌試論』(Prolusio florae iaponicae,in Ann. Mus. Bot. Lugduno-Batavi, ライデン植物園年報,1867) に,シーボルトの記述を引用してシラネアオイを紹介し,グレイの文献もリファーした(右図).

1866年から1871年まで横須賀造船所の医師として日本に滞在し,1873年から1876年に再度滞日したサバティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830–1891)がフランシェ (Adrien René Franchet, 1834-1900) と共著で著した『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium 1: 9 (1873))にも左図のように,この植物の記述がある.

The University of Massachusetts Herbarium
“Boys be ambitious” の惜別の辞でよく知られるクラーク博士(William Smith Clark, 1826-1886) は,日本政府の熱心な招請をうけて,学長を勤めていたマサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとって,1876年(明治9年)7月に,札幌農学校に教頭として赴任した.
クラークの立場は教頭で,名目上は別に校長がいたが,クラークの職名は英語では President と表記することが開拓使によって許可され,殆ど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた.

専門の植物学だけでなく,自然科学一般を英語で教えた.翌年の1877年5月に離日したが,8ヶ月の札幌滞在の間,学生を連れての札幌近郊を野外授業において植物を採集し,少なくとも 166 種の腊葉を米国に持ち帰った.これらを同定したのはハーバード大学のエーサ・グレイであり,その腊葉標本はマサチューセッツ大学植物標本庫(The University of Massachusetts Herbarium)に現在も保管されていて,その中には 1876年の7月にクラークがサッポロで採集したとのラベルのあるシラネアオイの標本もある(左図).

また,2012年3月3日~5月6日,北海道大学総合博物館において,「W. S. クラーク博士来札・札幌農学校開校135年記念,クラーク博士と札幌の植物」という展示会が催されたが,ここでは,クラーク博士らが札幌周辺で採集した,このシラネアオイを含む植物標本30枚(カツラ,イネ,シロツメクサ,カタクリ,ヤドリギなど)が里帰り展示された. 

フス (Ernst Huth, 1845 – 1897) は日本産のキンポウゲ科の植物をまとめた “Bulletin de l'Herbier Boissier. 5: 1084 (1897)” の中で,シーボルトはじめ,それまでのシラネアオイの文献をリファーした(右図).

シラネアオイは観賞用の園芸植物としても高く評価され, 1993 年,英国全土で栽培でき,ロックガーデンやアルパインハウスに適しているとして,英国王立園芸協会(RHS)の栄えある Award of Garden Merit (AGM) を受賞した.
なお英語での一般名は Japanese Wood Poppy.

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2013年8月6日火曜日

ヤブガラシ(3/3) 泉鏡花,雀,ごんごんごま,唐独楽・鳴り独楽

Cayratiae japonica
蝋燭のような,鳴り独楽のような,花盤が目立つ花後の茎
泉鏡花の随筆に『二三羽---十二三羽』という,一寸変わった味の作品があり(大正13年4月初出),その中に「ごんごんごま」という野草が出てくる.

庭を訪れる雀たちと鏡花夫婦との交流の話の後に,スズメつながりで,鏡花は「スヾメの蝋燭」と称してひそかに贔屓にしている蔓草ごんごんごまを近所に探した.これは彼が子供の頃盂蘭盆で墓参りの道で摘んだ「珊瑚を木乃伊(みいら)にしたやうな」「むかう裏から這って、茂って、またたとへば、瑪瑙(めなう)で刻んだ、さゝ蟹のやうな」植物である.

炎天下,近所を探し回って,この草をようやく見つけたのは,とある坂の空溝の向こうの葎.がさがさと探っていると,その家の主人,薄暗い谷戸に居を構えた笙を教授する肥大漢に「丁ど午睡時(ひるねどき)、徒然(とぜん)で居ります。」と招かれ,座敷に上げられた.そこには,この主人の。娘か、若い妻か、或は 妾(おもいもの)か。」の「島田髷(しまだまげ)の艶々しい、きゃしゃな、色白な女」もいて,茶をたててくれる.

作家の随想3 泉 鏡花
日本図書センター 1996
ここまではまあ尋常なのだが,主人公の「浴衣だが、うしろの縫めが、しかも、したゝか綻びて居たの」を見つけた主人が,女に繕わせようとしてが,着たままでは縫いにくいのをみて,

「こう三人と言うもの附着いたのでは、第一私わしがこの肥体(ずうたい)じゃ。お暑さが堪たまらんわい。衣服(きもの)をお脱ぎなさって。……ささ、それが早い。――御遠慮があってはならぬ――が、お身に合いそうな着替はなしじゃ。……これは、一つ、亭主が素裸(すはだか)に相成あいなりましょう。それならばお心安い。」
(中略)
「おお、これ、あんた、あんたも衣を脱ぎなさい。みな裸体(はだか)じゃ。然うすればお客人の遠慮がのうなる。……ははははは、それが何より。さ、脱ぎなさい脱ぎなさい。」

 串戯(じょうだん)にしてもと、私は吃驚して、言(ことば)も出ぬのに、女はすぐに幅狭(はばぜま)な帯を解いた。膝へ手繰たぐると、袖を両方へ引落して、雪を分けるように、するりと脱ぐ。……膚(はだ)は蔽うたよりふっくりと肉を置いて、脊筋をすんなりと、撫肩して、白い脇を乳が覗のぞいた。それでも、脱ぎかけた浴衣をなお膝に半ば挟さんだのを、おつ、と這ふと、あれ、と言ふ間に、亭主がずるずると引いて取った。
「はははは。」
 と笑いながら。
 既にして、朱鷺色(ときいろ)の布一重である。

 私も脱いだ。汗は垂々(たらたら)と落ちた。が、憚(はばかり)ながら褌(ふんどし)は白い。一輪の桔梗の紫の影に映はえて、女はうるおえる玉のやうであった。
 その手が糸を曳ひいて、針をあやつったのである。」
(中略)
と,鏡花の世界に誘い込まれる.

縫い終わりあわてて別れを告げた主人公が道に飛び出すと,「時に――目の下の森につつまれた谷の中から、一(いつ)セイして、高らかに簫(せう)の笛が雲の峯に響いた。」のであった.
(中略)
「奇人だ。」
「いや、……崖下のあの谷には、魔窟があると言う。……その種々いろいろの意味で。……何しろ十年ばかり前には、暴風雨(あらし)に崖くずれがあって、大分、人が死んだ処だから。」――
 と或ある友だちは私に言った。
 炎暑、極熱(ごくねつ)のための疲労には、みめよき女房の面が赤馬の顔に見えたと言う、むかし武士(さむらひ)の話がある。……霜が枝に咲くように、汗――が幻を描いたのかも知れない。が、何故なぜか、私は、……実を言えば、雀の宿にともなわれたような思いがするのである。
 かさねてと思う、日をかさねて一月にたらず、九月一日のあの大地震*であった。
「雀たちは……雀たちは……」

 火を避けて野宿しつつ、炎の中に飛ぶ炎の、小鳥の形を、真夜半(まよなか)かけて案じたが、家に帰ると、転げ落ちたまま底に水を残して、南天の根に、ひびも入いらずに残った手水鉢のふちに、一羽、ちょんと伝っていて、顔を見て、チイと鳴いた。
雀の宿 山東京伝著「桃太郎発端話説」 北斎画より  WUL
後に、密と、谷の家を覗に行った。近づくと胸は轟いた。が、ただ焼原であった。

 私は夢かとも思う。いや、雀の宿の気がする。……あの大漢(おほをとこ)のまる顔に、口許のちょぼんとしたのを思え。卯の毛で胡粉(ごふん)を刷いたような女の膚の、どこか、頤(あぎと)の下あたりに、黒いあざはなかったか、うつむいた島田髷の影のやうに――

 をかしな事は、その時摘んで来たごんごんごまは、いつどうしたか定かには覚えないのに、秋雨の草に生えて、塀を伝っていたのである。

「どうだい、雀。」
 知らぬ顔して、何(なん)にも言わないで、南天燭(なんてん)の葉に日の当る、小庭に、雀はちょん、ちょんと遊んでいる。」

と,可愛がっていたスズメたちが,主人公が炎天下探していた「スズメの蝋燭」を探す手伝いをして,スズメの宿に招いて一昼の夢を見させたようにも思わせる.

*  大正12年9月1日の関東大震災,鏡花の『露宿(ろしゅく)』に,鏡花の被災や避難の様子が描かれている.
** 青空文庫で,『二三羽---十二三羽』も『露宿』も読むことが出来る.

この「ごんごんごま」が何であるかは,植物遺伝学者の塚谷裕一氏が考察した.まず,『漱石の白くない白百』(文藝春秋社,1973)では,鏡花の記述からこの植物の形状を推定したが,該当するものが思い浮かばず,辞書で「ごんごんごま」は「江戸の言葉、回して遊ぶ独楽の一種を指す言葉としてである。その場合、それは唐独楽とも言うとある。」そこで,唐独楽を唐胡麻とよんで,ヒマを考えたが,鏡花の記述に合わない.方言なども探したのだが該当せず,その正体は不明のままであった.

しかし,塚谷氏は『異界の花 ものがたり植物図鑑』(マガジンハウス,1996)で「ごんごんごま」がヤブガラシであることを明らかにした.
根拠は,塚谷氏の著書について取材に来た大野浩子氏の当時九十になられる叔父,四方雄男氏が東京の現在の新宿区で昔からこの植物が実際にごんごんごま,また,独楽花とも呼ばれていたことを知っていたとの証言であった.
ヤブガラシであるとして鏡花の「ごんごんごま」の記述を検証すると,まさにぴったり.ということで,鏡花の『二三羽---十二三羽』に出てくる「ごんごんごま」はヤブガラシであることが確認された.

そう思って『二三羽---十二三羽』を改めて読むと,旺盛な繁殖力とつややかな葉とまさに「珊瑚を木乃伊(みいら)にしたやうな」「瑪瑙で刻んだ、さゝ蟹のやうな」花茎,そして花弁や雄蕊が脱落したあとの蝋燭や独楽にそっくりの花盤を持つヤブガラシが,真夏の酷暑にあえぐ白い道と,町中とは思えぬ幽玄な異界とも思える崖下の家とをつなぐ,「蔓」として存在感を際立たせる.

なお,辞書によると「ごんごんごま(独楽)」は「唐独楽」とおなじで,胴に穴があり、廻すと空気が入って鳴るコマ.中国から渡来したので「唐独楽」と呼ばれていた.初期は中国から渡来した鳴り独楽同様に6~9センチの竹筒の上下を板でふさぎ、竹の心棒を通したものであったが,木工技術の発達とともに,轆轤を使った木製の鳴り独楽が作られるようになったようである.とある.

左:和漢三才図会 NDL,右:鳴り独楽 音響文化博物館蔵
和漢三才図会の「独楽」の項には,胴に穴がある独楽の絵がある.この胴が厚い独楽が,ヤブガラシの花盤に似ているために「ごんごんごま」の名がついたのであろうか.

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃),現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫
「独楽 こま 独楽〔和名は古末都玖利(こまつくり)〕
独楽は『弁色立成』によれば、孔のあるものである
△思うに、独楽は海螺弄(ばいまわし)と物は異なっていても趣は同じものである。思うに海螺(ばい)は多く賭に用いられ勝負をみる。独楽は賭に用いない。それで独楽と名づけられているのである。そのつくりは一様ではない。近世の筑前博多独楽は木を削って蓮房のような形にする。大きさは拳ぐらい。鉄釘を心にし糸縄を纏巻(まとい)いて、独楽を引き舞わす。元禄年中に盛行した。習練を積んだものは、繊(ほそい)枝や線縄の上で独楽をまわす。」

2013年8月2日金曜日

シラネアオイ (1/2) 増補地錦抄・北齋漫圖・梅園草木花譜・日光山志・草木図説

Glaucidium palmatum
2003年5月 仙台市野草園

2008年8月 角館 武家屋敷の庭
 トガクシショウマ,キレンゲショウマと並んで,わが国の三大名花野草.日本の固有種でシラネアオイ科シラネアオイ属シラネアオイの一科一属一種とされた.日本産の植物の科はおよそ 200 あるが,その中で特産はシラネアオイ科とコウヤマキ科のみ.キンポウゲ科に属するとする説もあるが,それでも一属一種には間違いない.

花弁を欠き,萼片4枚が弁化.雄しべは内側から外へ成熟し,2個の雌しべは下部でくっついており,これが実ると,方形をした袋状の果実が内側で合着した形になる.初めて見たときには,ブリキのおもちゃのねじ回しのような形で,いったい何の実かと不思議に思った(右図).

人目を引く優麗な花ではあるが,深山に生育するためか,江戸時代までは文献にでてきていない.シラネアオイの名も日光地方の方言で一般的ではなく,ハルフヨウ,ヤマフヨウ,ヤマボタンとも呼ばれていた.磯野の初見は狩野常信『草花魚貝虫類写生』(1661-1712)であるが,残念ながら国立博物館のHPで公開されている画像の中には見つけることが出来なかった.

★伊藤伊兵衛『増補地錦抄 巻之六』(1695)には,「志ら祢(しらね)葵(あふひ)夏初 花むらさき 葉ハ大キく丸ク切込有 やふれすげがさといふ草に似たり」とあり,葉の特長がよく記述されており,すでに庭園に栽培されていたことをうかがわせる.しかし,図は付されていない(左図,NDL).

立命館大学 図書館
★葛飾北斎『北齋漫圖 第八巻』(1814)には,山牡丹の名でシラネアオイが記載されているが,他の人のスケッチの転用であろうか,葉の特長はよく描かれているものの,花は一見すると同定するのは難しい.北海道特産のエトピリカと同じ見開きに描かれていて,「山牡丹」はこの植物の「北海道ニテノ稱呼*」だそうなので,北海道産のものかも知れない(右図).同じ巻の次の見開きに「黒百合(クロユリ)」「三角草(オオバナノエンレイソウ)」が描かれていることも傍証になろう.こちらの植物に対しては色の指定が細かいので,実物を見た可能性が高い.

NDL
★毛利元寿『梅園草木花譜 春之部』(1825 序)には,「春芙蓉 シュンフヨウ 日光産」として,まだ蕾の状態の個体が描かれていて,花の色は美しく再現されている(左図,NDL).彼の庭で栽培されていた場合には,その旨のメモがあるので,そうではないであろう.

WUL
★植田孟縉 編輯,渡辺崋山(他)画『日光山志 巻之四』(1837)に,椿山人が写生したと称する「白根葵 志らねあふい」の多色木版画が載る.しかし,一つの花茎に複数の花が着き,ないはずの萼が描かれているなど,到底実物を写生した図とは思えない(右図).しかし,壮大な葉はその特長を良くあらわしているので,花の終わった葉に,名前に由ってタチアオイの花を合体させたものであろうか.

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』(成稿 1852年(嘉永5)ごろ,出版 1856年(安政3)から62年(文久2))の巻十二には,
NDL
「シラ子アフヒ 茎高二尺許.葉モミヂガラマツ又ハ金剛纂(ヤツデ)ノ如ク.七八ノ大缺刻葉ニ辺縁鋸歯アリ.一柄一葉.ソノ二葉ヲ岐出スルモノハ多クハ梢葉ノ下ニ又一葉ヲナシ.小葉アツテ末ニ一花ヲ開ク.二三月ノ項萌芽ト共ニ花ヲモチテ出.盛開ニ至テモ微ク点頭.無萼ニシテ四弁尖鋭藤花色.子室短角杵状.頭帽様ニシテ黄色縦道アリ.多雄蘂柱ニツキ葯●状蛤様淡黄色ニシテ白粉ヲ吐ク.ソノ状略葵類ノ如シ.白根アフヒノ名ハ蓋シコレニ由ル.野州日光山ニ多ク.近●加州産ハ移栽シテ育テ易ト云 附 一柱 二雄蕊トモ郭大図」
とある(●は判読不能文字).さすがに図(左図),記述とも科学的であるが,「其属未考」とある.

*武田久吉『植物學雜誌第三百七十六號 ◎ 植物和名雜記(一)』(1918)

この日本固有の植物を海外に紹介したのはシーボルトで,学名も彼とツッカリーニがつけた.海外での各種文献への記載は「シラネアオイ (2/2) 」で紹介する予定.
シラネアオイ (2/2) シーボルト.ペリー,A.グレイ,ミクェル,サバティエ,クラーク博士