2011年7月29日金曜日

ハマナデシコ サマーラベンダー (2) 花壇地錦抄, 和漢三才図会, 絵本野山草, ツンベルク-Flora Japonica

Dianthus japonicus cv. “Summer lavender” (2)現在の標準和名はハマナデシコだが,江戸時代は花の色から一般的には「ふじ(or ふち)なでしこ(藤撫子・藤瞿麦)」と呼ばれていた.慶応大学の磯野直秀によれば,ハマナデシコの文献上の初出が確認されたのは『日葡辞書』(1603-04)との事だが,「ハマナデシコ」の名で出ているのかは確認できなかった.

伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)の「△草花夏之部 是従下ノ初中末の三字ハ夏三月断(コトハリ)なり」の項には「瞿麦(なでしこ)のるひ」として,「ふちなでしこ (初中) 葉も花もなでしことハちかいあり藤色小りん也.」とある.

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)の「瞿麦」の項には「藤瞿麦」として絵と共に「藤瞿麦 茎は太くて高さは一尺余。葉は厚く、形は匙首(さじのあたま)に似ていて深青色、節を抱えて二つずつが対生する。花は数朶(ふさ)から成って小さく、形は桔梗に似て、白く紫を帯びている。萼は長くて浅青色をしている。」(現代語訳,島田勇男ら,1987年)とあり,葉が厚く,花が総状についているとの特徴が記されている(左図).

橘保国『絵本野山草』(1755)の第三巻には見事な挿絵が載せられ,「藤撫子 五六月,花有 葉、川柳のはに似て、あつく、つや有。花に、紫、白、二色有。花びら五つ、はのうへに、すゞなりにさく。又、浜なてしこといふ。」と,白い品種があることが添えられている(右図).


学名をつけたのは,リンネの弟子で 1775 - 76 年に出島の医師として日本に滞在していたカール・ツンベルク(1743 - 1828)で,彼の『Flora Japonica (日本植物誌)』(1784)に絵と共に,「日本ではナデシコ或いはセキチクと呼ばれている」「花序は総状」と記し,Dianthus japonicus と命名した(左).

学名を直訳すれば日本ナデシコ.花の優雅さでは「カワラナデシコ(やまとなでしこ)」に劣るものの,その海浜の厳しい環境に負けない生命力とスタミナ,そして多く花が輝くところは,女子サッカーチーム「ナデシコ・Japan」の名にふさわしいかも知れない.

2011年7月25日月曜日

メマツヨイグサ 月見草油,万能薬の王者(King’s Cure-all),健康食品としての効果

Oenothera biennis = Plants which bloom in the second yearいわゆる月見草や宵待草と言われているマツヨイグサの仲間のうち,ツキミソウ(白花)の他は何れも黄花で,全て北南米原産.最初は夕方咲く花を愛でるために移入されたが,ツキミソウ以外は強靱な生命力で野生化し,川原や原野に勢力を拡げている.太宰治の有名な「富士山には月見草がよく似合う」の月見草も当時の分布から,マツヨイグサの類だったろうと言われている.メマツヨイグサは背は高いものの,花が径5㌢以下で,8㌢をこえるオオマツヨイグサやマツヨイグサより小さいから「雌」が付いた.
マツヨイグサ類は,それぞれ特徴はあるが,中間の形状を示す物も多く,我々素人にとって見分けるのは容易でない.ギリシャ語にちなむ属の名(エノテラ)は野獣の酒と言ったほどの意味で,この仲間に根がワインに似た香りを出すものがあり,それを野獣が好んで食べるからだと言われている.英名(属の総称)は Evening primrose 夕方咲く桜草,英国の野生の桜草(cowslip 等)の花は多くが黄色いので,花色の類似性から名付けたのだろうが,かなり大雑把.

数年前,カナダのおみやげに貰った wild flowers の種を大事に蒔いたが,発芽した殆どはメマツヨイグサであった.こぼれ種でどんどん増え,我が家では芽生えが見つかるや,抜かれてしまう雑草に成り下がってしまった.世界中に野生化して広がっているのも頷ける生命力である.

その力の源なのだろうか,「月見草油」が日本でも,健康補助食品としてかなりの高価で売られている.主にメマツヨイグサの種子からヘキサン等の有機溶媒で抽出された後,精製された油だそうだが,約9%のガンマーリノレイン酸を含み,アトピーや高脂血症,さらには痩身や肌荒れにまで効果があるとされている.はじめはアメリカ先住民族の秘薬だったのが19世紀にヨーロッパに渡り,万能薬の王者(King’s Cure-all)として使われた.欧州では現在でも薬局方に収載されており(”Evening primrose oil, refined”),アレルギーに処方されていると聞いている.またドイツのコミッションE (薬用植物の評価委員会) からは、呼吸器系のカタル (過度の粘液分泌に伴う粘膜の炎症) に対してメマツヨイグサの花と根の使用が承認されている. また,独立行政法人 国立健康・栄養研究所のツキミソウ類の健康食品としての効果に対する見解は「健康食品等の素材情報データベース(http://hfnet.nih.go.jp/contents/indiv_agreement.html?542)」で確認できる.

中国では,マツヨイグサ属 Oenothera は月見草属と訳され,メマツヨイグサは「美丽月见草(美麗月見草)」と呼ばれる(丽 = 麗(繁体字)).
白い花のツキミソウ( Oenothera tetraptera, 中国では四翅月見草)は,日本へは1847年渡来し,京都で待宵草,花戸では宵待草・夕化粧と称された(『遠西舶上画譜5』)とされる(磯野直秀 (2007))が,弱いため現在では野生は珍しい.

O. tetraptera, W Curtis “Botanical Magazine” (1799) 銅版手彩色.

2011年7月22日金曜日

ガイラルディア(テンニンギク)サンクレスト (2)

Gaillardia pulchella sp. “Suncrest”
ガイラルディアはアメリカ合衆国中部原産のキク科,ガイラルディア属の一年草.オクラホマ州の州の野生の花(State wildflower).4月の米国ウィルミントンの海岸で,絨毯の様に道端を埋め尽くしていた野生種(原種)の花を見たが,まさに米名の“Indian blanket”.中心部が赤で周辺部が黄色の染め分けの派手派手模様.これからいくつかの園芸種が生まれた.有名なのはポンポン咲きのサンダンス・バイカラーや,ヤグルマギクに似た形のサンドリーム・ダブルイエローで,いずれも管状花が花弁化していて,真夏には暑苦しい.


このサンクレストの花はバーガンディー色の一重で花弁も薄く,茎も細く葉も薄いので風にそよぎ,暑さを忘れさせてくれるエレガントさを備えている.昨年の晩春,息も絶え絶えに残っていた一本の個体から採れた種を,今春播いた.昨秋に播くべきだったのだが,すっかり忘れていて--.発芽率は悪かったが,苗は順調に育って今花盛り.ディモルフォセカの後を埋めている.しかし,秋播きに比べると徒長気味の感があり,暑さのせいか下葉が枯れ始めている.やはり秋まきがいいようだ.舌状花が落ちた後も,釦のようで鑑賞できる(左画像).

ガイラルディア類の和名はテンニンギク,明治改元の二日後に死亡した馬場大助の『舶上画譜』(1868)に描かれているのが文献上初出(磯野直秀,2007)とのこと.中国でも天人菊と呼ばれているが,別名虎皮菊、老虎皮菊と,黄色と赤の縞模様を虎の皮に見立てているのが面白い.

2011年7月19日火曜日

フウラン(風蘭) スズメガ, 花壇綱目, 和漢三才図会, 絵本野山草, 廻国奇観, Curtis’s “Botanical Magazine"

Neofinetia falcata = curved like a sickle昨年の夏,いわき市の蘭愛好家Sさんから頂いたフウランが咲き出した.Sさんの「洋蘭解説 331(2010/7/28)」の「フウラン(風蘭)」のテキストを引用すると,「気品・香りから、我国が世界に誇る野生蘭です。小さな純白花に長い距(キョ、花の後ろの突起物)が印象的。夕方よく香り、朝まで庭先に芳香が漂います。宵闇とともに色香に誘われてスズメガが訪れ、ホバリングしながら、長い口吻で距にたまった蜜を独り占めします。蜜と引換えに与えた花粉をしっかり受粉させるために、蛾の行き先がまたフウランであってほしい。浮気を止めさせたい一心で、蛾と特約協定を結んだ結果、距が長くなったといわれます。」 と,興味深いコメント.我が家の花ではまだ,スズメガの吸蜜行動は観察されていないが,蚊がいやで夜に庭に出ないからかもしれない.

古くからその高い香りを賞されて栽培され,また,江戸時代には「富貴蘭」の別称で「芸」と呼ばれる短く厚い変わり葉や斑入りのものを選別・命名して栽培することが流行し,最盛 250 種に達した.最近では近縁の単茎性の洋ラン(バンダなど)に香りや耐寒性を与えるための交配親として用いられ,また花や花色が様々な変種が鑑賞用として育種・開発されている.

文献の初出は水野勝元『花壇綱目』の初稿1664年で,中村惕斎『訓蒙圖彙(キンモウズイ)』(初版1666)の寛政元(1789)年版(九大所蔵)には図が出ているが,着生蘭一般の名前の様にも見える(左図).

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)には「風蘭  桂蘭 仙草 三才図会に云ふ、風蘭は土あらずして生く。小さき籃(かご)に貯へて樹の上に掛く。人、仙草と称す。細なる花微かに香し。五雑組に云ふ、風蘭は根土に着かずして木石の上に叢り蟠(またが)り、取りて之れを詹(のき)の際に懸く。時に風の為に吹かるときは愈々茂盛す。其の葉花家蘭と全く異なること無し。
△按ずるに、風蘭は深山に之れ有り。榧(かや)椵(もみ)等の幹(えだ)の間に多く之れ有り。葉の形万年青に似て細く小さく、其の長さ二、三寸、六月に一茎を抽(ぬ)き小白花を開く。末(すえ)曲り微かに香し。」(『三才図会』に、「風蘭は土がなくても生育する。小さな籃に入れて樹上に掛ける。人は仙草と称する。細かい花でかすかに香りがある」(『草木十二巻蘭』)とある。『五雑組』に、「風蘭の根は土に着かず、木や石の上に叢(むらが)り蟠(わだかま)る。取って詹端(のきば)に懸ける。時折の風に当るといよいよ繁茂する。葉・花は家蘭と全く異ならない」(物部二)とある。
△思うに、風蘭は深山にあり、榧(かや)椵(もみ)などの幹の間に多く生える。菜の形は万年青に似ていて細く小さく、長さは二、三寸。六月に一茎が抽きん出て小白花を開く。末(はし)は曲り、微香がある。」とあり,「風に当るといよいよ繁茂する」ところから名づけられたのであろうか.

また,橘保国『絵本野山草』(1755)にはよく特徴を捉えた絵と共に「風蘭 おさ蘭 花,五六月より八月まで 葉、柳菜にして、ほそくあつし。つや有。ちいさし。花のいろ白く、小りん。蘭花のごとし。」とナゴランやカヤランなど一緒に記述している(右上図).

早くから海外にも紹介され,ケンペル『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae, 1712)には「風蘭」の漢字が図と共に載っているが,距が短く,また茎の形状からすると明らかに「セッコク(石斛)」の誤りで,フウランそれ自身は記載されていない(左図,上).ツンベルク『日本植物誌』(Flora I(J)aponica, 1784)ではこの誤りが引き継がれ,彼が日本名「フウラン」の植物(実際はセッコク)につけた学名(種小名)は,現在はセッコクのそれとなり.彼が箱根で見て日本名「キンラン」と記した「フウラン」につけた学名 ORCHIS falcate の種小名 “falcata = 鎌のように曲がった” が現在のフウランの学名に受け継がれた.

1819年の Curtis’s “Botanical Magazine” Limodorum falcatum (Neofinetia falcata) (銅版手彩色)のテキストには,香りが非常に良いことが特徴とされている.
LIMODORIJM FALCATUM. FRAGRANT LIMODORUM.

This pretty little plant is also very fragrant. It is a native of Japan. Where, according to THUNBERG, it grows on the Mountains among shrub; but as this traveler had no opportunity of gathering the plants from their place of growth, it must be uncertain whether it grew on the earth, on rocks, or parasitically on trees; by the manner in which it puts forth its roots, if they can be so called, we should judge that its natural situation was not on the soil. Our plant was cultivated in the garden of the Horticultural Society as an air plant, being suspended from the roof of the stove in a basket with only a little moss in it;and was communicated by the society’s gardener, Mr CHARLES STRACHAN,in May last.

It was first cultivated in England by Sir ABRAHAM HUME,At Wormleybury, who reccived the plant from the East Indies,Through the late Dr.ROXBURGH.

2011年7月15日金曜日

ギンセンカ(2/2)増補地錦抄,大和本草,絵本野山草

Hibiscus trionum

江戸時代の園芸書には度々取り上げられているが,今では殆ど一般には見ることの出来ない花の一つ.金銭花(ゴジカ)が金朱色なのに対して白いので,銀銭花(ギンセンカ),あるいは,早朝に咲いて直ぐしぼんでしまうため朝露草(ちょうろそう)と名づけられた.
慶応大学 磯野 直秀によれば,日本に入ってきたのは英国と略同じ15世紀以前と思われ,明応1年(1492)の『山科家礼紀』に宮中での立花に使用との記事があり,また延宝1年(1673)に狩野常信が写生して,『常信写生図巻13』にその図が残っている.江戸時代には多くの園芸書に記載され,広く愛されていたことが分かる.特にはかない花が賞されていたようだ.

伊藤伊兵衛『増補地錦抄』(1695) 巻之七 朝露草(てうろさう) 花形草立共木綿の木に似て花うすしろく花中くろべに色朝にひらき夕にしぼむ其つき成花叉朝にひらきさかり久敷物なり(左図)

貝原益軒『大和本草 巻之七 草之三』 (1709)
銀銭花 花鏡農圃六書等ノノセタリ午時紅ノ花白キ也茎葉少異レリ京都北野ニアリ北野ニテモ銀銭花ト云 金銀共ニ好花ナリ何レモ冬ハ根枯ル春實ヲマキテ生ス金銭花ハ多ク銀銭花ハ少シ也
貝原益軒『大和本草諸品図上』(1709)(左図内右下)

橘保国『絵本野山草』(1755)
銀銭花 朝露草ともいふ はなのかたち、かうそ(注トロロアオイ)のことく、花は秋葵(かうぞ)(注トロロアオイ)より小し。いろ、白青きうるみ色。花、底黒べにのきほひあり。葉、五つ出、三つて有。葉のきれ、西瓜(すいくは)の葉に似たり。長一二尺ばかり。えだもあり。朝にひらき、ゆふべにしぼむ。その次なるはな、又朝にひらく。秋葵の類也。又金銭花(注ゴジカ)に似たり。六七月まで、はなさく。 (右図)

我が家の庭には 1997 年に現れて,2年ほどコボレダネで生育したが,その後消えた.最初葉を見た時は,捨てた種から出たスイカの若菜かと思ったが,中国*でも,また『絵本野山草』でも同じように感じているのを見て興味深かった.蕾や,花の終わった後の膨んで縞の入った実の形もスイカに似ている.長年維持するのは難しいようで, Gerard が「毎年自分の庭では咲いている」と自慢するのが分かる.
現在でもわずかに野生化したものが見られるが,お茶花などに好まれるなど珍しさもあり,苗や種が園芸店で販売されることもあるようだ.

*中国では野西瓜苗と呼ばれ,別名は香鈴草、小秋葵、打瓜花、山西瓜秧.中国全土で雑草化している.

ギンセンカ(1/2) Geralde, Parkinson, Curtis

2011年7月12日火曜日

ギンセンカ(1/2) Gerarde, Parkinson, Curtis

Hibiscus trionum = flower of an hour江戸時代の園芸書には度々取り上げられているが,今では殆ど一般には見ることの出来ない花の一つ.金銭花(ゴジカ)が金朱色なのに対して白いので,銀銭花(ギンセンカ),あるいは,早朝に咲いて直ぐしぼんでしまうため朝露草(ちょうろそう)と名づけられた.

まずは,英国での歴史.原産地は東部地中海沿岸らしいが,ヴェニス経由で英国に入ったからか,古くは“Venice Mallow”と呼ばれた.

1597年以前に移入されたことは,ジェラードが,“The Herball (1597)”に,「アフリカの森から愛好家の庭に移し植えられた.私の庭で年ごとによく育つようになっている」と書いている事から分かる.その「人を楽しませる美しい花」について述べた後で彼は,「八時頃に花が開き,太陽の光を受ける九時に閉じる.だからこの花は見られるのを拒否しているようだ」と言っている.この性質から,この花には〝一時間の花″,〝午前九時におやすみ〞という名前を与えられた.その後いつの間にか時間が延長されて,“正午におやすみ(Goodnight at noon)”になってしまった.ジェラードは,「アネモネではなくこの花こそが,アドニスが殺された時にヴィーナスが流した涙から生まれたものだと言ったほうがよい」と書いている.どうやら,「この花の命がはかないこと,女性が流す涙は長く続かないことを考慮すると」そうなるらしい.

また,パーキンソンも彼の“Paradisi in Sole (1629)”に図と共に,その草姿や「底に濃い紫あるいは暗紅色の斑点のある非常に優美な花」,「花の後の半透明な実」を詳しく紹介している.

現在でも米国や欧州南部で観賞用に庭に植えられ,またニュージーランドも含めて広く野生化している.

その短時間しか咲かない性質や,花の底の斑点の特異な色,膨らんだ蕾や実の形から,多くの一般名があり,英語圏だけでも上記の Goodnight at noon 以外にも,Black-eyed Susan, Bladder hibiscus, Bladder ketmia, Bladder weed, Flower-of-the-Hour, Modesty, Puarangi Rosemallow, Shoofly など多数に上る.


右図:W. Curtis "Botanical Magazine" (1792) 銅版手彩色

ギンセンカ(2/2)増補地錦抄,大和本草,絵本野山草





2011年7月9日土曜日

ジャガイモ(6/6) 日本への渡来,南京芋,小野蘭山,耋莛小牘,エゾイモ,明治期の本格導入,男爵・メイクイーン

Solanum tuberosum

馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に

石川啄木 初出「スバル」明治43年11月号(1910)

 日本にジャガイモが初めて渡来したのは,慶長六年(1601)だといわれている.オランダ船が,インドネシアのジャカトラ港(現在のジャカルタ)から長崎の平戸に運んできたので,出港地の名前に因んで,最初はジャガタライモと呼ばれていたが,次第に縮まってジャガイモになった.

 慶応大学の故磯野直秀教授は『明治前園芸植物渡来年表』(2007)で,『長崎年暦両面観』(1828刊)に,ジャガイモが南京芋の名前で載っており,天正四年(1576)に長崎への渡来と記録されているが,欧州渡来年(1580年代)を考えると早すぎて疑わしいとしている.また『資料別草木名初見リスト』(2009)では小野蘭山の『甲駿豆相採薬記』(1801)にジャガイモの名が載るのが最初としている.

 ジャガイモを馬鈴薯というが,これは上記の小野蘭山が,文化五年(1808)に著した『耋莛小牘(てつえんしょうとく)』で,ジャガタライモを中国の『松渓縣志』(1700) に記載されている「馬鈴薯」と同じと考えたことによる.『松渓縣志』の「馬鈴薯」はホドイモの類で,ジャガイモではないというのが定説のようだが,現在では中国でもジャガイモを马铃薯(馬鈴薯の簡体)と呼び,他にも地方により土豆,山药蛋,洋芋,洋山芋,薯仔という呼称もある.

一方,江戸時代にロシア人がジャガイモを北海道に伝え,エゾイモの名前で東北地方にも広がったが,江戸時代には,食用としては普及しせず,わずかに飢饉のための救荒植物として栽培されていた.食用としての栽培が本格化するのは,明治初年になってからで,北海道開拓使がアメリカから新しい栽培品種を導入し,これが広まったことが大きい.

明治 18 年(1885) に東京の大日本農会三田育種場から出版された「船来穀菜要覧」という本には「根菜類」の一つとしての「○馬鈴薯」の項に「第一号 チリ ガーネット」から「第三七号 コンプトン プライズ」という 37 種の米国・ドイツ・オーストリアなど世界各地のジャガイモが,それぞれの特徴と共に記載され,「欧米州に於いては馬鈴薯を小麦に亜て最必要の食物となし大にこれを栽培して所要に供せり近歳本邦に舶来の種類其数すこぶる多く上好なる者に至っては其味美なること甘藷に譲らざるものあり」とし,更に土地を選ばないこと,収量も多いこと,年に二回収穫できる種類もあり,また収量も安定していて,甘藷より栽培は簡単で肥料もあまり要らず貯蔵が効くなどの特徴と共に,澱粉を製して焼酎が造れるなど利用法がいろいろあるという記述がある(左図).

 ジャガイモの栽培品種といえば,日本では「男爵」と「メイ・クイーン」が名高い.「男爵」の名は,函館ドック社長であった川田龍吉男爵の名に因む.明治40年(1907)にアメリカから「Irish cobbler (アイルランドの靴屋)」を導入,北海道の七飯の彼の農場で栽培し好成績を収めたことが,このジャガイモを「男爵」の名で広がるきっかけになった.一方の「May Queen(メイ・クイーン)」は,イギリスの伝統行事,五月祭の女王に因んで名付けられたイギリス原産の優良栽培品種で,大正6年(1917)にアメリカから輸入された.

 我が家の庭では,引っ越してきた当時,まだ木がなく,日当たりが良い何年間はジャガイモが良く育った.いまではその当時の子孫(取り残し)が細々と芽を伸ばすが,殆ど花はつけず,根茎も収穫できるほど大きくはならない.(この項 終了)

ジャガイモ(5/6) Burbank, JFK, Marilyn Monroe

2011年7月5日火曜日

ジャガイモ(5/6) Burbank, JFK, Marilyn Monroe, J.F.ケネディー マリリン・モンロー

Solanum tuberosum現在のジャガイモの主生産国の一つ,米国におけるジャガイモの歴史は比較的新しい.1600年代に度々移入されたにも関わらず,ある程度の規模で栽培される様になったのは 1719年にニューハンプシャー州ロンドンデリーでスコットランド-アイルランド系移民によってであり,それ以降国中に拡がって行った.しかし1850年代においてもジャガイモは家畜のえさとみなされていたようで, Frederick Butler (1766-1843) の "Farmer's Manual" p47 (1819) には「ジャガイモは豚に与えるため,豚小屋近くの畑で育てるのがよい " A potato patch, with pumpkins near your hogs pen, you will find very useful, and convenient, in bringing forward your hogs."」とされている.

米国ではアイダホ州ほどジャガイモと関わっている州は他にはない.この州においては,長老教会派の宣教師 Henry Harmon Spalding (1804-1874) が 1836 年にネイティブアメリカンのNez Perce族に,狩猟採集生活から農耕生活への切り替えを促すためにジャガイモの栽培をして見せたのが歴史の始まりとされるが,ネイティブアメリカンが近隣の伝道所の人々を虐殺したため,Spalding はこの地域を離れざるを得ず,彼の意図は頓挫した.

現在の様にアイダホ州がジャガイモ生産の一大中心地になったのは,1872年に Luther Burbank (1849 –1926) が育種した,生産性・食味・耐病性に優れたラセット-バーバンク(Russet Burbank)種が,この土地にあっていることが分かってからである.この種はフライドポテトに最適なので,育種から130年経った現在でもマクドナルドの「マックフライポテト」は主にこの種を使っているとのこと.

本日(2011年7月8日)NHKの BS プレミアムのドラマ 「ケネディ家の人々 “The Kennedys”」シリーズの第7回では,JFK (1917–1963) と愛人関係にあったマリリン・モンロー (Marilyn Monroe, 1926 – 1962) が,1962年5月19日の彼の45歳の誕生日パーティーに出席して(右下),あのセクシーな声で “Happy Birthday Mr. President” と歌う場面が再現されるだろうが,この二人もジャガイモとの縁は深い.

JFK の曽祖父 Patrick Kennedy (c.1823 – 1858) が1848年にアイルランドの Dunganstown, County Wexford にあった家族の農園を離れて単身渡米したのは,前項に述べたジャガイモ飢饉から逃れるためであった.
一方,マリリン・モンローはアイダホ・ポテトのジャガイモ袋のコスチュームをまとってポーズをとった写真(上)が,彼女のモデルそして女優としての出発点であったと言われている.

ジャガイモはまさに最もアメリカ的な作物の一つと言えよう.

マリリンがジャガイモ袋(Potato Sack Dress)をまとった他の画像と,その経緯は,このサイトで見ることができる.
http://www.vintag.es/2014/06/marilyn-monroe-and-potato-sack-dress.html

ジャガイモ(6/6) 日本への渡来,南京芋,小野蘭山,耋莛小牘,エゾイモ,明治期の本格導入,男爵・メイクイーン
ジャガイモ(4/6) Potato Famine, ジャガイモ飢饉

2011年7月2日土曜日

ジャガイモ(4/6) Potato Famine, ジャガイモ飢饉

Solanum tuberosum一方英国でも,potatoに対する正しい認識は年と共に深まり,1633年にはロンドン王立協会がこれに注目して,飢餓に備えてその栽培を奨励した.Ralegh が先鞭をつけたアイルランドでの栽培は,ようやく17世紀末ごろから盛んとなったが,18世紀に入ってからも,R Bradley : Historia Plantarum Succulentarum(1716)には‘inferior to skirrets (carrots) and radishes’ と見えている.1725年にはスコットランドへも伝えられた.が,最初はやはり偏見に災いされて,聖書に見えない不浄の植物として1728年には法によって禁止され,その法が解かれたのはようやく1760年のことであった.イングランドでも,庶民の野菜としてようやく普及したのは18世紀中ごろからで,White : Selborne(1789)には次のように見えている.-
They have prevailed by means of premiums within these twenty years only, and are much esteemed here now by the poor,Who would scarcely have ventured totaste them in the last reign.-‘To Barrington,XXXVII.
(ジャガイモの栽培が奨励金つきで盛んになったのはようやくここ20年のことで,前王のみ代には食べてみようともしなかった当地の貧民たちが,今ではとても重宝しています.)

特に小麦の栽培が安定しなかったアイルランドでは,貧しい小作農民達の主食として広く普及したが,一つの品種に依存しすぎたため,1845 年には大病害が発生し,翌年にはそれがアイルランド全域にひろがって,イングランドも含めて 100 万人もの餓死者を生んだ.特にアイルランドでは,地主達の殆どがイングランドに在住していた不在地主だったため,自らの地代収入を心配するあまりアイルランドからの食料輸出禁止に反対するなどして,餓死者が出ているにもかかわらず,食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた.

最終的には,アイルランドの人口の少なくとも 20% が餓死および病死,10% から 20% が国外へ脱出した.また,これにより婚姻や出産が激減し,最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだ.
さらにアイルランド語話者の激減を始め,民族文化も壊滅的な打撃を受けた.ジャガイモ飢饉(Potato Famine)として有名なこの飢饉は後代にまで大きな影響を及ぼし,米国へ多数の移民をもたらすとともに,現在まで続く北アイルランド紛争の遠因ともなった.

1997年に英国のトニー・ブレア首相は,アイルランドで開催されていた飢饉の追悼集会において,1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め,謝罪の手紙を読み上げた.

なお,原因はジャガイモ疫病菌 Phytophthora infestans と判明し, 1885年にワインの産地であるフランスのボルドー大学の教授だったミヤルデ(ミラードとも Pierre-Marie-Alexis Millardet)によって発明されたボルドー液でようやく救われた.

ジャガイモ(5/6) Burbank, J. F. ケネディー, マリリン・モンロー