2017年10月30日月曜日

タラヨウ (5)- はしかよけ-2, 式亭三馬『麻疹戯言』,多羅葉売り,括り猿,南天の杵,麥殿の歌

Ilex latifolia
式亭三馬麻疹戯言』(1803) NDL  
 タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせて*の後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げるという,まじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.
*かせて:三馬は「治疹て」と充てる.はしかの発疹が枯れた事か.一度かかれば二度とは罹らないことから.

式亭三馬の『麻疹戯言』(1803 には,挿画にタラヨウの葉の売り子が描かれ,また,文中に「二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\に廃(すた)れども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)」とあり,また「多羅葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば」とあることから,この書刊行の28年前の安永5年(1775)の流行時には,麦殿の歌とタラヨウの咒いが,既に流布していたと推察される.

享和3年(18033月下旬~6月のはしかの流行に振り回される,江戸の風俗を面白おかしく描写した★式亭三馬の『麻疹戯言(ましんきげん)』(1803) には,中国の風俗に託した麻疹に便乗する江戸の生業の街角の風俗を挿絵にした(冒頭図).
そこには,従者を従えて闊歩する醫者と共に「麻疹咒術」と書いた箱の上で,はしかよけの「括り猿」と「おもちゃの杵」を売る商人と,「多羅葉」を藥材屋の店頭で売る小僧の姿が描かれている.
括り猿」は,現在でも奈良市奈良町で疫病除けとして軒先につるしている,猿をかたどった縫いぐるみで,サルは去るに通ずるからかと思われる.
また,「」は南天(難転)の木で作ったもので,難を転じ,病を打ち砕くための咒いであり,この二つは病児を室内でおとなしく遊ばせておくための玩具として用いられたようだ.
多羅葉」は麻疹除けの歌を書くためであろう,三馬によれば売れに売れて払底していたらしい.

本書の「送麻疹神表」には,
「藥材客(きぐすりや)の賑(にぎは)ふのみならず,苹浮
醫(やぶゐ)も効(こう)を顕(あらは)さんと,麻疹精要*1(ましんせいよう)卒然(にわか)
に闇請(そらん)じ,葛根湯(くはつこんたう)に休(やす)む間(ひま)なく,時を
得顔(えがほ)に誇(ほこ)るといヘども,ことしは勝(すぐれ)て
よなみのよければ,稚(いとけな)きものは鈴(すゞ)付たる
(さる)(きね)めきたるものをもてあそびつ*1
おとなしきものも,させるくるしみもなけ
れば,まめやかなる命定(いのちさだめ)ともいふなるべし.
夫(それ)麻疹(はしか)は天行(てんぎょう)の疫邪(えきじゃ)によりて発(おこ)る
とありて,十二支(じゅうにし)の二(ふた)めぐり乃ころに
はやるよしを醫書(ゐしょ)にもいへり.」とある.

さらに,同書の「」には,「北川氏船(きたかはうじふね)にて契約(やくそく)の事(こと)と書かきたる
招状(はりふだ)は,爺(ぢゞい)と姥(ばゞあ)の講説(はなし)に残(のこ)りて,
二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\*2に廃(すた)れ
ども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に
請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)の徳(とく)は
今茲(ことし)も麻疹(はしか)の流行(りうかう)に
後(おく)れず.されば麻疹(はしか)は
養生(ようぜう)にあり.初発(ぞやみ)の熱(ねつ)の
疸言(うはごと)は,醒(さめ)ての後(のち)の御了簡(ごりょうけん)
と,寺罡(岡)(てらおか)もうけ合(あ)ふべけれど,
治疹(かせ)ての后(のち)の不了簡(りょうけん)は,
了竹(るやうちく)がしる処にあらず.

頃日(このごろ)麻疹(はしか)に罷(かゝ)りて,営生(えいせい)を
休(やむ)るの間,箇(こ)の劇文(げきぶん)を著(あらは)し
て,題(だい)するに,来舶(らいはく)の書名(めい)を
借り,花陣綺言(くハぢんきげん)*4の響(ひゞ)きを
採(と)つて,麻疹戯言(ましんきげん)と題号(だいごう)
しこれを弘(ひろむ)るに,彼(かの)杵(きね)と鈴(すず)の
如くなさんとす*1しかはあれど咒
術(まじなひ)の猴(さる)*1の人真似(ひとまね)にして,多羅
葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば*5
世間(よなみ)の善(よき)痧には引(ひき)かへて,
悪評をするものあるべし.さらば噴嚔(くさめ)をするのみ
にて,人(ひと)の噂(うはさ)も禁物(どくだて)も,
七十五日のすへを待(ま)つと
云爾.
たらり楼において
三馬題」とある.

*1麻疹精要:橘尚賢『麻疹精要方』尊心堂,明和八年(1771)刊
*2鈴付たる猴に杵めきたるもの:本書の図の右端にもある,小児の麻疹除けの呪いの玩具,鈴を付けた猿の縫ぐるみ(サルは去るに通ずる)と南天の木で作った杵(難転,病を打ち砕く)の縁起物,1864年の流行時では,猴は這子人形になったらしい.
*3二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\:安永5年(17763月末~初秋の流行
此れからすると,タラヨウの葉に書く「麦殿は -――」の呪い歌は安永5年には用いられていた.が,タラヨウの葉に書いていたかは不明.
*4花陣綺言:(明)楚江仙叟石公纂輯の漢詩集,全十二卷
*5たらはぬがちなれば:不足気味なので

2017年10月25日水曜日

タラヨウ(4) はしかよけ-1 「疱瘡は器量定め,麻疹は命定め」.幕末の麻疹と食,牛山活套,諺苑,俚言集覧,麻疹要論,麻疹戯言

Ilex latifolia
タラヨウ(1) に記したように,江戸時代「いのちさだめ」と恐れられた「麻疹-はしか」除けのまじないとして,タラヨウの葉の裏面に「麦殿は 生まれぬ先に麻疹して、かせたる後は わが身なりけり」と書いておくとよいとされた.
なぜ,タラヨウが用いられたのか,地元の図書館にリファランス調査をお願いしたが,適切な文献は見当たらなかったとのこと.
貝原益軒の『大和本草 大和本草巻之二十 諸品図中』』(1709) にあるように,葉を火であぶるとその面のみならず,その裏の面にも丸い文様が現れるという,熱と斑点が麻疹を思わせるためかと思われる.

江戸時代,麻疹は間歇的に町を襲い,その周期が24年に近かったことから,(左図:鈴木則子『江戸の流行り病 麻疹騒動はなぜ起こったのか』(2012) 吉川弘文館)天命的な病ともされた.
那賀山章元『麻疹要論』(1799) には,「サテ大テイニ二十三四五年メニ天下一マイニ流行(リウコウ)ス・・古(イニシヘ)ヨリ二十三四五年メニ流行(ハヤル)トイヘドモ云々」とある.また,式亭三馬 (1776-1822)『麻疹戯言』(1803) にも「夫麻疹は天行の疫邪(えきじゃ)によりて発(おこ)るとありて、十二支の二(ふた)めぐりのころにはやるよしを医書(ゐしょ)にもいへり。」とある.

このように,ある程度流行が予想されたことから,その時期になると麻疹対策の医書が出版され,一方実際の流行時には,罹患時の生活指導や,特に小児に対しての病除けや病状軽減を祈ったまじない絵が出版され,特に文久2年(18626月~閏8月の流行時には「麻疹絵」と稱される多色の一枚刷り物が数多く刊行された.

当時の諺「疱瘡(ほうそう,天然痘)は器量定め、麻疹は命定め」は,現在から考えると,「麻疹」が重大に考えられすぎと思われる.いつ頃からこの諺が一般に流布したのか,調べきれなかったが,以下のような文献がある.

★畑有紀「幕末の麻疹と食 ―食物本草本を中心に―」(『言葉と文化』12, 101118 (2012))には,「講談「大久保彦左衛門*」の台詞が元となったとされる当時の諺に「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」(疱瘡の重い・軽いが子供の容貌を左右し、麻疹の重い・軽いが子供の健やかな成長の指標となった)とあるほど、麻疹は疱瘡(天然痘)と同様に恐れられたのである。」とあるが,この元となった講談の題名や語られた時期は不明.
*大久保忠教:1560-1639,戦国時代から江戸時代前期の武将.江戸幕府旗本.徳川氏家臣)

★香月牛山 (1656-1740) 牛山活套(1699自序) に「麻疹 ○夫麻疹ハ痘瘡ニ比スレバ甚カロキ者ナレトモ,其症六府ヨリヲコリツテ陽症ニシテ暴急ノ症也 夫ニヨリテ和俗ノ諺(コトワザ)ニ痘瘡ハ美目(ミメ)定(サダ)メ麻疹(ハシカ)ハ命定(イノチサダ)メト云テ甚大切ノコトトスル也其子細(シサイ)ハ急病ナルヲ以テ療治ノ法少ク怠(オコタ)ル寸ハ其変掌(タナゴコロ)ヲ返(カエス)ガゴトクネレバナリ」とある.
痘瘡と比較すると麻疹は軽症ではあるが,初期対応を誤ると重症化することがあるので,このように言ったのだとする.(左図,右)

江戸後期の儒学者★太田全斎 (1759-1829)の『諺苑』 (1797) 全七巻は俗語・俗諺を集めてイロハ順に配列し、語釈・出典などを示した国語辞書であるが,その「は」の部には,
疱-瘡(ハウ-サウ)ハミメ定(サタ)メ麻-疹(ハシカ)ハ命-定(イノチサタメ)」また「麻-疹(ハシカ)ハ命-定疱瘡ハミメ定」とある


同人が後に『諺苑』に,俗語,漢語,仏語,方言などの類を増補し,改編して著わした『俚言集覧』(成立年未詳)は『雅言集覧*』『和訓栞**(わくんのしおり)』とともに,近世の三大国語辞書と目される江戸時代の国語辞書であり,明治33年(1900)に、井上頼圀・近藤瓶城が現行の五十音順に改編、増補して「増補俚言集覧」3冊として刊行したが,それにも,「疱瘡ハみめ定め麻疹の命定め」「麻疹ハ命定疱瘡ハみめ定め」とある.

*雅言集覧:江戸後期の石川雅望 (まさもち) (1754-1830) が編した古語索引ともいうべき辞書.平安時代の仮名文学を中心に,『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語集』などからも用例を蒐集.現在でも古代語の研究に利用される.
**和訓栞:江戸時代中期の国学者谷川士清 (ことすが) (1709-1776) が著わした国語辞典。93巻。前編,中編,後編として安永6 (1777) 年から 1877年にかけて刊行。古語 (上代語) ,雅語 (中古語) ,俗語 (口語,方言) を集め,第2音節までの五十音順に配列して,出典を示し,語釈を加え,用例をあげている。日本で最初の近代的な国語辞書として注目される.)

★那賀山章元『麻疹要論(1799) には,「寶暦(ほをりやく)の麻疹は至(いたつ)て重(おも)く死亡(しぼう)のもの多(おお)く安永の麻疹は輕し俗(ぞく)の諺(ことわざ)に痘瘡は美面(みめ)定(さだ)め麻疹は命定(いのちさだ)めといふ」とある.(左図,左)
宝暦(宝暦3年(17534月~10月)の流行時には多くの死者が出たので,この諺ができたのだとする.とすると,1753年ころからか.

★式亭三馬 (1776-1822)『麻疹戯言(1803) の「送麻疹神表(はしかのかみをおくるひょう)」には,
「其舊古(そのいにしへ)の紀記(きき)を
索(さぐ)るに、稲目瘡(いなめかさ)とあり。赤疱瘡(あかもかさ)とあるハ、
今いふ麻疹(はしか)の事(こと)なるよし、本居(もとをり)大人(うし)が説(せつ)にも見えたり。亦似た物ハ
痘瘡麻疹(ほうそうはしか)といへども、似ぬ物もまた
疱瘡痧疹(ほうそうはしか)なるべし。形容(かたち)同(おな)じう
して心乃異(こと)なるをたとへバ、水僊*(すいせん)と
冬葱(ねぎ)のごとく、浄**(かたきやく)と諢又浄***(はんどうがたき)の如し。され
ども世俗(せぞく)似(に)た物(もの)なれバ、是(これ)を菖蒲(あやめ)
と杜若(かきつばた)にたぐへて、彼(かれ)を媚定(みめさだめ)とし、
是(これ)を命定(いのちさだめ)とす。麻疹(はしか)は命定(いのちさだめ)に
あらず、痘瘡(ほうそう)命定(いのちさだめ)なるべし。」とある(上図).
二つの似た病を対比させて諺にしたのであって,実際には痘瘡(ほうそう)の方が重症で命さだめだとしている.

*水僊:水仙と同じ
**浄:「浄脚」は芝居の「かたきやく」のこと.「脚」は「脚色」「脚本」の「脚」で、「役」.「浄」はもともと「かたきやく」になるのは「参軍」(お代官さま)が多かったので,「参軍」を縮めて「浄」(じゃん)と言うたのだ,とも,「かたきやく」は白か黒の塗料を顔に塗る(これが「脚色」である)ので清浄ではないことから,それを逆転させて「浄」と呼ぶようになったのだともいふ.
***諢:たわむれ・おどけ,諢又浄:不明

記事中圖は NDL の公開デジタル画像より部分引用

2017年10月13日金曜日

タラヨウ(3) 学名,西欧文献 ケンペル,ツンベルク,シーボルト&ツッカリーニ,パクストン&リンドリー,サバティエ&フランシェ,マキシモヴィッチ,

Ilex latifolia
CBM. Vol. 92 (1866)  TAB. 5597
この樹木は長崎を含めた西日本に多く,つやつやと大きな葉を一年中輝かせ,雌木は長い期間見事な赤い実をつけて目立つからであろう,多くの日本に来た欧州の植物学者に記録されている.

タラヨウを最初に記録に残した西欧人は,1690-92 年に長崎出島のオランダ商館に医師として滞在した★エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, 1651-1716)で,その『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae , 1712)の “Fasciculus V, 775” に「葉羅多 タラヨウ」という漢字名の他に「オニモチ(鬼黐)」と一般的に呼ばれ,真っ赤な小さな実をびっしりつける観賞価値が高い庭木として植えられている」と記し,カロルス・クルシウス(Clusius, Carolus, (1526-1609))の記録したセイヨウバクチノキと同じか?と記した.(左上図)
葉羅多 Taraijo, vulgo Onimotsj. Lauro-Cerasus, flosculis in luteum languentibus, tetrapetalis, numerosis, sub foliorum axillis in modum racemi confertis, fragrantibus; fructu pisi magnitudinis, rubente, umbilicato, quatuor intus granis, figurae seminum pyri, in orbem conglobatis. Ob sempiternam pulchritudinem in hortulis colitur. An Lauro-Cerasus Clusii?”

Lauro-Cerasus:カロルス・クルシウス(Clusius, Carolus, A.K.N. de l'Écluse, Charles (1526-1609))『パンノニア,オーストリア,およびその近隣の稀産植物誌』(Rariorum aloquot Stripium per Pannoniam, Austriam et Vicinas Historia 1583)より(右図)

現在でも有効な学名を与えたのは,リンネの高弟で,日本には1775 - 1776年の短い間滞在し,後にリンネの後を継いだ★カール・ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) で, Syst. Veg., ed. 14: 168 (1784)”
“168
TETRAGYNIA
172. ILEX. Cal 4-dentatus. Cor. rotata. Stylus O. Bacca 4 sperma.
    181.
latifolia. IO. I.  fol. ovatis serratis, flor. axillaribus aggregatis.
Thunb. l. c. M.”
と記し,学名を Ilex latifolia とした.

また,同年に出版した『日本植物誌FLORA JAPONICA)』の “TETRAGYNIA. ILE X.” の項に latifolia. I. foliis ovatis serratis, floribus axiliaribus aggregatis.
Japonice: No Ko Giri.
Caulis arborescens.
Rami rigidi, angulati, fusci.
Folia alterna, petiolata, ovata, obtusiuscula, serrata
margine reflexo, supra nitida, subtus pallida, patentia,
duos pollices lata, tripollicaria.
Petioli subtriquetri, canaliculati, fusci, unguiculares.
Flores supraaxillares, e gemmis plurimi aggregati, pedunculati.
Pedunculi unguiculares.” と,日本名は「ノコギリ」と記した.(左図,上部)

ツンベルクの持ち帰ったタラヨウの腊葉標本は,現在でもライデン大学に保存されている.「トゥンベリィ日本産植物コレクション」(右図)(http://cpthunberg.ebc.uu.se/?locale=ja)

この,『日本植物誌』記載のラテン名を伊藤圭介 (1803-1901) が,シーボルトの指導を受けて,対応する和名と漢名を記した出版物,『泰西本草名疏 下』(1829)には,
 ---- LATIFOLIA                  タラエフ 娑羅樹」とある.(左上図,下部)

江戸時代後晩期の医学・理科学の発展に大きく貢献した★シーボルト (Philipp Franz Balthasar von Siebold, 17961866,日本滞在 18231829, 18591862)は帰国後★ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ (Joseph Gerhard (von) Zuccarini, 1797 1848) と協力して,持ち帰った多くの資料を基に日本植物の研究を行った.その成果は『日本植物誌』に美しい図入りで刊行されたが,それ以外にも学術雑誌に論文として発表された.Abh. Akad. Muench. 4(2) 148 (1845)” “FLORAE JAPONICAE FAMILIAE NATURALES. SECTIO PRIMA. PLANTAE DICOTYLEDONEAE POLYPETALAE.” の項に
p. 147
28. (240. Endl.) ILICINEAE Brogn.
87. Ilex Linn.
147. Il. crenata Thunb. - - - - -
149. Il. latifolia Thbg. I. ramis angulatis, foliis alternis petiolatis, in eodeni ramo figura variis, oblongis ovatis vel ellipticis, acuniinatis vel obtusis, argute serratis vel leviter crenatis utrinque glabris superne lucidis, petiolis trigonis, floribus axillaribus e gemmis propriis umbellato-fasciculatirs numerosis, pedunenlis unifloris. I. latifolia Thbg. Fl. jap. p.79. — I. macrophylla Blume Bijdr. 17. p. 1150.
Rami angulati, crassi. Folia figuia et magnitudine varia, petiolata, petiolo semipollicari crasso superne plano canaliculato subtus carinato; lamina 3—8" longa, 1 1/2—3" lata, oblonga, elliplica vel ovata, acuminata vel obtusa, vario modo serrata, coriacea, lucida. Flores ultra 20 in quovis fasciculo, e viridi flavescentes. Drupa parva, glabosa, coccinea, plerumque tetrapyrena, pyreuis trigonis.
とタラヨウがツンベルクの命名した Ilex Latifolia” の学名で記し,その性状が詳しく書かれている.

タラヨウは英国に移出・栽培され,有名な園芸家・植物学者の★サー・ジョセフ・パクストンSir Joseph Paxton, 1803 -1865& ジョン・リンドリーJohn Lindley, 1799 - 1865)の Flower Garden III” (1852) “GLEANINGS AND ORIGINAL MEMORANDA” の項には,大きなスペースを使って,タラヨウの記事があり,単色ながら挿図も載せられている.寒地にも耐えられる強さと,赤い実と常緑の葉の美しさが庭園木として高く評価されている.
“480. ILEX LATIFOLIA, A hardy evergreen tree, with long shilling leaves, greenish flowers, and small red axillary berries. Said to be a native of Japan. Belongs to Aquinifoils. (Fig. 240.)
This is a stout, stiff, evergreen, hardy tree, of great beauty. Every part is entirely free from hair. The shoots, which are deep green or tinged with violet, are somewhat angular near the ends. The leaves, which are from six to eight inches long, are deep green, not coloured at the edge, flat, oblong, acuminate, sharply and pretty regularly serrated, except at the base, which is entire, and gradually narrows into a petiole about three quarters of an inch long. The flowers are small, hermaphrodite, pale green, in very close axillary racemes, about as long as the leafstalks, and supported by short, ovate, acute, shining, car- tilaginous bracts. The berries, which ripen in February, are in short compact clusters, of a dull red colour, and nearly spherical; each contains from four to five stones, in which we have never succeeded in finding a kernel.
This valuable plant passes under the name of Ilex latifolia, by which Thunberg designated a small tree called, in Japan, No-Ko-Giri; but, if the statement of that botanist can be trusted, his plant must be different, for he says the leaves are egg-shaped, and three inches long by two broad, which gives them an entirely different outline from the species before us, the proportion of whose leaves is not three by two, but six or seven by two, a very material difference. Nevertheless, in the absence of any authentic evidence, we leave the garden name as we find it, especially since it is probably the I. latifolia of Zuccarini and Siebold (Floae japonicae familioe naturales, sect, i., p. 40), or I. macrophylla of Blume. According to the first of these authors, the leaves in the wild plant vary in form, being, on the same branch, oblong, ovate, or elliptical, acuminate or obtuse, and finely serrated, or slightly crenate.
The species nearly approaches the Ilex Perado of the Hortus Kewensis, a native of the Canaries, figured in the Botanical Magazine, t. 4079, under Webb and Berthellot’s name of I. platyphylla, another very handsome hardy shrub, differing from this in bearing clusters of large white flowers, and fruit more than twice the size of that of the present plant. There is no doubt that this I. latifolia, of which we believe two varieties are in cultivation, and which is plentiful in the nurseries, is as hardy as the common holly itself.

同じ英国で刊行され,現在でも続けられている★『カーチスの植物雑誌 (Curtis’s Botanical Magazine)Vol. 92 (1866) TAB. 5597 には,” ILEX LATIFOLIA. Broad-leaved Japanese Holly.” として花を付けたタラヨウと,実との美しい石版手彩色画(文頭図)とともに,記述されている.

“This noble Holly, though often supposed to be one of the later importations from Japan, has long been cultivated in the Royal Gardens, where it has stood without protection, trained against a wall, for many years, and quite uninjured. In the open air I have not observed it flowering, but it flowers abundantly in the Temperate House during June and July. In other places near London and elsewhere, it is cultivated as a standard ; and though I have never seen it luxuriant under such circumstances in the east of England, it no doubt succeeds perfectly in the west. It is a beautiful shrub, of a paler green than the common Holly, with similar berries, and the flowers are produced in round heads of a pale yellow-green colour. As a species it is extremely closely allied to an arborescent Himalayan species that I have found in the Sikkim province, which has however large berries containing a bony three to four-celled nut, which does not, as in this, break up into four nucules. I have native specimens of I. latifolia, collected near Nagasaki by the late Mr. Oldham, collector for the Royal Gardens, from whose seeds the plant.

DESCB. A tall evergreen glossy bush. Brunches very stout, angular, grooved when dry. Leaves three to seven inches long, oblong linear-oblong or oblong-lanceolate, acute, obtuse or acuminate, serrate, bright glossy-green above, paler and opaque below : nerves numerous, obscure when fresh. Flowers probably dioecious, in axillary, dense, subglobose, green clusters an inch to an inch and a half in diameter. Calyx with four short rounded lobes. Corolla cleft nearly to the base into four broadly oblong, obtuse, concave, pale-green lobes. Stamens usually larger than the corolla ; filaments filiformsubulate. Berries half to two-thirds of an inch in diameter, bright-red, globose or a little depressed, with a large persistent four-lobed stigma, containing four bony nuts. -  J. D. H
Fig. 1. Flower. 2. The same, open 3. Calyx : - all magnified.”

明治初期に造船技師としてフランスから招聘された★サバティエPaul Amédée Ludovic Savatier, 18301891)は帰国後,フランシェ (Adrien René Franchet, 1834-1900) と共同で『日本植物目録(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium, 1875-79) を出版したが,これには,九州の山地に多く,オルダム*は長崎で,シーボルトは長崎の岩屋山**で,サバティエは箱根で観察し,日本名は「Toraia(鳥黐の事か)」とある.

316. Latifolia Thunb. fl. Jap. p. 79. —Miq. Prol. 269.
HAB. in regione montana insulae Kiousiou, prope Nangasaki (Oldham*); in monte Iwaja (Siebold)**. Nippon media, in montibus Hakone (Savatier,-n. 224).
JAPONICE. — Toraia.

* Richard Oldham (1837-1864), 王立キュー植物園から日本及び中国に送られたプラントハンター.
** 石山禎一『シーボルト 日本の植物に賭けた生涯』(2000) 里文出版 「長崎近郊への調査の旅
岩屋山周辺調査の記録
一八二七年三月二十九日長崎にて
「今日、私はビユルゲル博士とドゥ・フィレネーフエ氏とともに、長崎の北西に位置する、その近郊では最も高い山の岩屋山に調査旅行をすることにした。(中略)
野生としてはめったに見つけることができないタラヨウが、外的形状(習性)はサクラの木に大変似ている大きな木だと分かったとき、(後略)」
原典確認できず

ドイツ系ロシア人の★カール・ヨハン・マキシモヴィッチCarl Johann Maximowicz または Karl Johann Maximowicz, 1827 - 1891)は1860年から18642月まで日本に滞在し ,精力的に日本の植物相調査を行った.手始めに函館で採集助手として須川長之助 (Sukawa, Tschonoski, 1842 – 1925) を雇い ,およそ1年ほどをそこで過ごし渡島半島の植物相調査を行う.1862年 ,助手の長之助を伴って横浜を経由し九州へ向かう.九州では長崎に1年余り滞在し ,周辺を調査するとともに長之助を雲仙 ,阿蘇 ,霧島などへ遣わした.またこのとき ,たまたま日本滞在中であったシーボルトとも長崎で会っている.その報告,Mem. Acad. Sci. St.-Pet. ser. 7, 29(3) (1881) “MEMOIRES DE L'ACADÉMIE IMPÉRIALE DES SCIENCES DE ST.-PÉTERSBOURG, VIF SÉRIE. ,No 3. CORIARIA, ILICE ET MONOCHASMATE” の項に
“    14. I. latifolia Thunb. Fl. Jap. 79. Arbor vasta coma densa, ramulis crassis glabris hornotinis angulatis; foliis amplis rigide coriaceis superne lucidis elevato-costatis subtus opacis laeviusculis , inferioribus ovatis ellipticisve obtusis, reliquis ovalioblongis oblongisve, utrinque breve acuminatis, serrulatis; cymulis 1 — 3-floris atque abortu 1-floris in pedunculo petiolum superante racemosis, bracteis numerosis ovatis; floribus 4-meris, calycis lobis rotundatis ciliolatis, corolla rotata partita calycem plus triplo superante, stamina in subaequante, in superante, ovario fl. obsoleto, globosoovoideo stigmate lato plano; drupa globosa opaca sordidulococciuea subsicca, pyrenis 4 trigonis sulcatorugosis. Sieb, et Zucc. 1. c. n. 149. Miq. Prol. 269. Franch. Savat. 1. . I, 77. Lindl, et Paxt. Fl. g. III, 13, fig. 240. Bot. mag. 5597. I. macrophylla Bl. Bijdr. 1150. Oni motsj seu
Taraijo, Kaempf. Amoen. exot. 907.
Japonice in Kiusiu vulgo noko-ki, in Yedo: tarayov, unde I. Tarajo h. Angl., an etiam Decaisne in Van Houtte, fl. d. serr. IX, 187., ubi ab I. latifolia distinguitur foliis inaequaliter dentatis oblongolanceolatis acuminatis, petiolis violaceis? Vox tarayov a Hoffmann (Noms indig.) a sinica tôo tô yë derivatur, stirps igitur fortasse et in China occurrit.
In Nippon: Yedo culta, fine Octobris fructif. (ipse), montib. Hakone (Savatier ex Franchet). Kiusiu, circa Nagasaki (Oldham! n. 146 fructif.) v. gr. ad rivulum prope templum Meosuzi, arbores crassitie femoris, init. Maji fl. , , ad viam versus Himi ducentem, ad latus meridionale collium, sylvula e pluribus arboribus, init. Maji c. fructu (ipse), in monte sylvoso Yuwaya, arbor vastissima (Siebold!).
Affinis I. denticulatae Wall, (vidi specc. Wight ex hb. Kew. acc. n. 438, Wight hb.  propr. n. 490, Perrottet n. 720, Ilex spec, Metz n. 1455: I. nilagirica Miq., Metz n. 1456), quae etiam inflorescentia axillari racemosa in utroque sexu gaudet et drupas pyrenasque (distinctius rugosas) floresque similes habet, sed multo magis micropliylla est et folia opaca pancicostata reticulo subtus prominente habet. I. insignis Hook. f. 1. c. 599, valde I. latifoliae affinis dicta, adulta tantum quoad folia similis est, eximie vero differt foliis pl. juvenilis spinososerratis, cymis sessilibus, pyrenis in massam 4-locularem con~ natis. Praeterea habet folia minus coriacea, nervos minus numerosos, sub angulo acutiore egressos et subtus prominentes, superne vero impressos. Ad I. insignem duco specc. Roylei s. n. I. macrophyllae Royle nec Wall, flor., Sikkimensia a G. King frf. S. n. I. insignis, Griffithii flor. n. 2004 distrib. Kew. s. n. I. dipyrenae aff
Folia I. latifoliae inferiora petiolo 15 mm., lamina 80:55 mm., superiora petiolo 20 mm., lamina 165:65 mm., supra saturate, subtus pallide lutescentiviridia, costis utrinque ultra 16, divergentibus, mox venosis et anastomosantibus. Flores diam. 7 mm., luteoviriduli. Filamenta subulata, antherae ovatae. Drupa 8 mm. Pyrenae 4 : 3 mm. magnae, dorso planiusculo inordinate et subobsolete rugosae.
Tab. 1. fig. 2. Pyrena a dorso et ventre, quinquies aucta.
と,図(不鮮明ではあるが)と共に,詳しく紹介している.

以上西欧人のタラヨウの記事は性状には非常に詳しく,植物学的に興味がそそられた樹木であったのであろうが,和本草家の気にしていた,傷をつけると黒く変色するという葉の特徴には触れていない.いくつかの日本での名称は記録しているものの,この木の和名「タラヨウ」の由来に興味がなかったからであろう.

文中挿図:ケンペルのは京都大学図書館,他は Internet Archive の公開デジタル画像より,部分引用