2010年10月30日土曜日

Edible mum 食用菊 延命楽(もってのほか,かきもと)

Chrisanthemum ( Dendranthema ) x grandiflorum cv. ‘Enmei-raku’

蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和へかな 芭蕉
夕飯や醤油かけても菊の花 一茶

日本特産のエディブル・フラワー.中国ではキクは紀元前から不老長寿を願う花として親しまれ,菊酒にしたり,お茶に添えたりして味わう伝統があった.日本へは8世紀後半天平時代に唐から(左に示した『和漢三才図会』によれば,仁徳天皇七十三年 -西暦386年- に百済から)渡来したと云われる.
最初は主に薬草として用いられ,貴族社会を中心に重陽の節句(旧暦九月九日)の菊酒や,真綿に花の香りを移す「被綿(きせわた)」などに用いられていた.その後観賞用としての栽培が始まり,一般の人々の食用として普及するのは,江戸時代前期以降.江戸時代の本草書では,花弁が甘い(苦くない)物を薬用・食用とする.

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) には「菊花種類多シ。大抵二品ニ分ツ。薬食ニ用ル菊卜花ヲ賞スル菊トナリ。薬用ノ菊ハ甘菊ナリ。本草ニ説トコロハ此モノヲ指。甘菊ハ元来色ノ黄白ニ拘ラズ昧甘キ者ヲ用ユ。然ドモ今本邦二伝栽ル者ハ皆黄色ナリ。和名アマギク又料理ギクトモ云。九月ニ花ヲ開ク。大サ寸許、或ハ寸余、弁ハ常菊トチガヒ細筒子ニシテ末五出、弁多ク重テ心ナシ。変ジテ濶弁(ヒラシベ)トナレバ黄色淡クナリテ中ニ小心アリ。此菊、花葉共二苦味ナクシテ食料ニ充べシ。故ニリヤウリギクト云。此花薬用ニ良トス。」とあり,黄色い八重咲きで先がやや開いた細い管状の舌状花の品種を料理菊としている.
これは今の「阿房宮(あぼうきゅう)」に当たるのかも知れない.他の本草書でも黄色い花が食用・薬用に適しているとし,紫色の菊については記載がない.芭蕉や一茶が食したのは黄色い菊だったのだろう.

庭で育てているのは「もってのほか」とも呼ばれている「延命楽(えんめいらく)」で,淡紅紫色の八重咲き中輪種.主に山形や新潟において栽培されている.おひたしにするとさわやかなキクの香りとちょっとした苦味が日本酒に合う.この一風変わった名前は、「天皇の御紋である菊の花を食べるとはもってのほか」または「もってのほか(思っていたよりもずっと)おいしい」に由来するとか云われているが,私は「こんな美しい花を食べるとはもってのほか」が由来と思いたい.

2010年10月27日水曜日

番外編 サフラン(2) リンネ・ルソー・ルドゥーテ・ラスキン・漱石 Linne, P J Redoute, J J Rousseau, J Ruskin, Soseki

Crocus sativus
P.J. RedoutéJ. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau』 (1805) 多色銅版

(承植物の体系的な分類法を考案し,現在世界基準となっている二名法の基礎を築いたリンネは聖職者の子供であり,生涯敬虔なキリスト教徒であった.彼の重要な著作「自然の体系」の冒頭には旧約聖書の詩篇からの一節が引用され,たとえ人間の目に如何に複雑で混乱に満ちているように見える自然界でも,神の創造物である以上,美しい秩序があり,彼の分類体系はその秩序を明らかにし,神の偉業を讃えるための一つの手段であるとしていた.

J. J. ルソーも,植物の研究を自然の神秘の中に神の摂理を見出すためと考えていたようであり,リンネの考えに共感し,リンネの著作を持ち歩き,観察をした自然の植物を記述する際には,リンネの「植物の種」に基づいていた.「自然の研究は,我々を自分自身から引き離し,創造主への導くものです(「ポートランド夫人への手紙」,1766)」.従って,リンネも,ルソーもたとえ華麗な花をつけても,人が創造した園芸種や変種には嫌悪感を隠さなかった.リンネはこのような例外的な植物を「怪物」と呼び忌み嫌っていた.ルソーも八重咲きの栽培種については「こうした手も足もない怪物を通して繁殖を行っていくことを,自然は拒否しているのです(「植物学についての手紙」)」と記している.

このような,「自然崇拝」派は園芸大国の英国にも存在し,その代表的な論客は,ラファエロ前派の思想的バックボーンであった美学者 J. ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900 )であった.ウィルフリッド・ブラントは彼の『植物図譜の歴史』*2 で丸々一章をラスキンの業績(というか植物学者としての不業績)に割いているが,(第21章 ジョン・ラスキンのこと),ラスキンによれば,花は花としてそのままその美しさを賛美していれば良いのであって,そもそも学名を付すことからして植物を鑑賞する視点からは有害なのである.
ラスキンの自らの言によると,「植物学者と戦争状態」にあり,友人の中に非常に有名な植物学者が何人もいたのに,専門用語をたいへん嫌った.そしてラスキンはありふれた野の花-「人間の干渉によって品位を落とされたりゆがめられたりせず,花の展示会でけばけばしくこのうえなく厚かましい姿をさらすようなこともない」もの-をもっとも愛した.

ラスキンは,ルドゥーテが挿絵をつけた「ルソーの植物学」を賞賛していて,「どの競売でもいいから,売りに出されている彩色図版付きの J. J. ルソー氏植物学」(一八〇五年)をあなたのパリの代理人に探し出すようすぐ指示して,買えるだけ買ってください」(ラスキンから書籍商 F. S. エリスへの手紙,一八七八年五月七日).しかしエリスは一つも探し出せなかった(*2,第14章ルドゥテの時代).一方,ゲーテはこの本を所蔵していることを誇りにしていた.

ラスキンは日本でも明治・大正時代の知識人に大きな影響を与え,夏目漱石(1867 - 1916)は,『文学論』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871770/1) でラスキンの美学を紹介し,また『三四郎』(1908年9 - 12月,『朝日新聞』/1909年5月,春陽堂)には三四郎が理科大学の野々宮君を訪れた際の情景に

 青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。
「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。

リンネの紋章 *1 『リンネの教え-知識へのインスピレーション』 リンネ学校教育プロジェクトwww.bioresurs.uu.se/skolprojektlinne
*2 『植物図譜の歴史-芸術と科学の出会い-』 ウィルフリッド・ブラント著 森村謙一訳 八坂書房 1986

番外編 サフラン(1) "La Botanique de J. J. Rousseau" P J Redoute, J J Rousseau

2010年10月24日日曜日

ハハコグサ,万葉集,和草,草餅,本草綱目啓蒙,鼠麹草,草仔粿,鼠麴粿

Gnaphalium affine
葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
(蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲為而 人尓所知名 作者: 不明)

春の七草の一つ.御行(おぎょう)はこの草の古名で,七草粥に用いるのは早春のロゼッタ.和名は全草に生える白軟毛がほうけ立つことによるホウコグサからの転化ともいわれる.「万葉集」に詠まれている「庭の和草(にこぐさ)」は,和毛(にこげ)に覆われた特徴からこの草と考えられている.
漢名は鼠麹草(そこくそう)で葉を鼠の耳,花を熟した麹(こうじ)に見立てたものらしい.

現在では「草餅」の「草」はヨモギの若い葉を用いるが,古くはハハコグサを使っていた.小野蘭山『本草綱目啓蒙』 (1803-1806) によれば,ヨモギに変えたのは,色を濃くするためとか.また,花を煙草として吸うとも記している.
巻之十二 草之五 湿草類下 鼠麹草 ハハコグサ
 此草原野二多アリ。秋月、苗ヲ生ズ。菓ハ馬歯莧(スベリヒユ)葉ニ似テ、薄ク長クシテ白毛アリ。三四月苗高サ六七寸、或一尺ニ至ル。葉互生シ、梢ニ蔟リテ黄花ヲ開ク。此花ヲ取、烟草ニ代テ吸。又此花ヲ以テ完花二偽リ、又蜜蒙花ニモ偽ル。古ハ上巳(「桃の節句」)二此葉ヲ用テ餐(モチ)トス。即竜舌●(米+半)ナリ。後其色ノ濃カランコトヲ欲シテ、艾葉ヲ以テ代。朝鮮賦二謂ユル艾糕ナリ。
 今ハ皺葉芥(オオハガラシ)葉ヲ加テ其色ヲタスク。益其真ヲ失ス。〔集解〕●(米+巴)果ハ、果子ノコトナリ。禁烟ハ寒食ノ一名也。冬至ヨリ育五日ヲ云。

草餅になぜ,ハハコグサやヨモギが用いられたか.それはこれらの草の葉に生えている「毛」が餅の中で絡み合い,餅のつなぎとして,また餅の腰を出すために重要だったからである.同様に葉の裏に毛が多いオヤマボクチも,新潟県の笹団子や山梨県と檜原村の草餅で利用されている.

現在でもハハコグサは中国や台湾では食材として重要で,若芽を野菜として食べるほか,草仔粿 (chháu-á-ké) または鼠麴粿 (chhú-khak-ké) という,草餅の餡の代わりに味をつけたひき肉や野菜などを入れて蒸して作る食品に使われていて(「台灣大百科全書-草仔粿-」の項に作り方が詳しい),美味しいらしい.

2010年10月22日金曜日

洋種シュウメイギク ボタンキブネギク

Anemone ×hybridaピンクのシュウメイギクが満開.一株づつ離して植えたのが,子株を増やし広がった.秋風に揺れている様子は,なかなかエレガント.買った時は矮化剤を使っていたのか,こじんまりしていたが,次の年からは1m以上に花茎を伸ばす.乾燥は好きではないと見えて,今年の夏は葉を落とし,子株もいくつか枯れてしまった.

日本に昔からあるシュウメイギク(貴船菊,左図)は紫紅色で八重の花をつける.庭に植えてあるのは一重のと桃色の花をつける種.これらは「洋種シュウメイギク」とでも呼んで区別するよう,千葉大の村井千里氏は,「花葉 2007 No.26」で提案している.

また,長田武正『原色日本帰化植物図鑑』保育社 (1976) には,「シュウメイギク」の項に「萼片が幅広く,数は10個以下で白~淡紅色のものをボタンキブネギクという.」とある.これに従えば,この植物はボタンキブネギクとなる.

シュウメイギクの母種は Anemone hupensis で桃色の一重の花をつけ,漢名は「打破碗花花」,中国南部の海抜400~1800mの草原に生える.
日本でのシュウメイギク A. hupensis var. japonica は現地で「秋牡丹」と呼ばれ,八重咲き、蕚片が約20で,紫或は紫紅色.雲南,広東,江西などの各地で栽培されたものが野生化している.

一方日本で現在一般に流通しているシュウメイギクは欧州で秋牡丹と野棉花(一重,白花 A. hupensis var. alba)を交配して改良した A. ×hybrida ボタンキブネギク が主らしい(左図 Garden Perennials and Water Plants, 1970 より).

昔からある「シュウメイギク」は江戸時代には広く栽培・野生化していたと見え,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803―1806)には日本各地での呼び方が記されているが,それぞれこの花の特徴を捉えていて興味深い.
秋牡丹一名秋芍薬卜云。
 和名 キブネギク京師 カウライギク讃州 八朔牡丹長州 アキ牡丹相州 カハギク紀州 カヾギク泉州 トウギク大和本草 紫衣ギク三才図会 ハマギク常州 シマギク越後 ムメウサウ南都 サツマギク濃州 カブラギク加州小松 カブロギク勢州山田 シウメイギク同上久井 クハンノンギク播州林田 ランギク同上立野 カラギク越前 クサボタン江州 
 山中渓側二生ズ。人家ニモ栽、甚繁茂ス。城州ニハ貴船山中二自生多シ。故ニキブネギクト云.春宿根ヨリ葉ヲ叢生ス。形三枝九葉ニシテ大抵牡丹葉ニ類シ、尖リテ毛茸アリ。夏月、茎ヲ抽コト三四尺、八九月二至リ、枝頂ゴト一花アリ。形菊花ノ如ク、二三重ナリ。大サ一寸余、初ハ紫紅色後ハ色淡シ。背二白毛アリ。花中ニ黄小心アリ。花後実ヲ結バズ。冬二至テ苗枯。春二至レバ根鬚ノ末皆苗ヲ発スルコト、金沸草(オグルマ)ノゴトシ。

海を渡ったシュウメギク」はこちらのリンクからどうぞ.

2010年10月19日火曜日

アカヤシオ (2), 戻り咲き,返り咲きのメカニズム.フユザクラやジュウガツザクラ,アブシジン酸,

Rhododendron pentaphyllum var. nikoense
春3月に開花したアカヤシオがまた10月にいくつかの花をつけた.ツツジやサツキではこのような「戻り咲き,返り咲き」は珍しくはないが,アカヤシオでは初めて見た.これは今年の夏の猛暑と乾燥により葉がほとんど落ちてしまったことと関連がありそうだ.

毎日新聞(10月5日)によると,大阪府四條畷市では,遊歩道に沿って植えられたヤマザクラが季節はずれの花を咲かせ,長居植物園(大阪市東住吉区)などによると,夏の間に猛暑による水枯れなどで開花を抑制する葉が落ちてしまい,春先のような気候になったこの時期に花が咲いたとの事.

サクラにはフユザクラやジュウガツザクラの様に,春と晩秋と二回花をつける種がある.サクラは気温が30 度に達すると花芽をつくり始めるので,平年7月に暑い日が続くとつぼみの元をつくりだんだん大きくなる.しかし,秋に成長したのでは,花が木枯らしで飛ばされてしまうので,そうはならないように葉から分泌されている植物ホルモンのアブシジン酸が花芽の成長を止める.ところがフユザクラやジュウガツザクラは早めの9月には落葉してしまい,花芽にアブシジン酸がたまらないため,晩秋~初冬でも暖かい日が続くと花をつけて,冬の花見が楽しめる(左2010年1月皇居東御苑).

一方ソメイヨシノやヤマザクラなどの春の一期咲きのサクラでも,葉がアメリカシロヒトリの幼虫に食べられたり,台風で飛ばされたり,あるいは葉が病気で枯れたということになると,芽にアブシジン酸がたまらない状況で落ちてしまい,それである程度暖かい日が続くと,秋に花をつけてしまう.

庭のアカヤシオでも,夏の落葉によって同様のメカニズムで,3月に続き10月にも花が咲いたと思われる.今年の夏の猛暑と少雨は野菜の生育や動物や昆虫の生態に大きな影響を与えたと報じられているが,庭の花々にも影響を与えているので,来年の春が心配.なお,朝日新聞(2月19日)はアブシジン酸とその受容体、さらにたんぱく質の脱リン酸化酵素PP2Cが結合した複合体の三次元構造が明らかになり,干ばつや冷害など厳しい条件下でも農業をするために利用できる可能性が開けてきた.と報じた.

2010年10月16日土曜日

アマクリナム’ドロシーハンニバル’

X Amacrinum ’Dorothy Hannibal’南アフリカ原産の「アマリリス・ベラドンナ (Amaryllis belladonna) ホンアマリリス」と「クリヌム・ムーレイ (Crinum moorei ) ハマユウを含むハマオモト属」との属間交雑種なので名前もアマクリナム.その園芸種の一つ.
9月から110月ごろ,70センチほどの花茎を伸ばして散形花序をつける.花序ははじめ苞に包まれていて,開花時にはこの苞は紐の様に下に垂れ,花には芳香がある.ヒガンバナと同様に花の咲く時期には葉が見られないので,この類の“Naked lady”の別称もうなずける.花後,根元につやつやとした幅広い剣状の束生する葉を伸ばす.

色に品がないので家内にはあまり評判が良くないが,花の少ない季節に咲き,花期は長く,密植すると花束のように華やかで人目を引く.



おまけは米国 Indiana 州 Seymour の Dan-san から送ってもらった,彼の家の花壇に咲くナデシコの仲間.多分ビジョナデシコ(Dianthus barbatus 英名 'Sweet William')の品種,他にピンクの剣咲きのバラも咲いているようだ. 秋の Seymour もいいだろうな.


2010年10月14日木曜日

コスモス "イエローキャンパス"

Cosmos bipinnatus cv. ‘Yellow Campus'
心中をせんとて泣ける雨の日の白きこすもす紅きこすもす  与謝野晶子

コスモス(オオハルシャギク)はメキシコを中心とした中南米及び北米南部原産.図譜(銅版手彩色)を左下に示した Curtis “Botanical Magazine 1813” によれば,欧州では 1789年の10-11月にマドリッドの王立植物園で開花,1791年に A.J.Cavanilles によって記載された.また1812年にメキシコから英国にもたらされた種子からボイトンで咲いた花を元にこの絵が描かれた.
日本では,文久二年(1862)12月遣欧使節が持ち帰った250種に及ぶ種子類の1つにあった.

コスモスの花色といえば,栽培が開始されてから約150年間は,野生原種の花色である桃色,白色に加えて深紅色,およびそれらの組み合わせ模様からなる発色に限られてきた.ところが一人の日本人の遺伝・育種学者による変異体の発見,および根気強い育種学的研究と農学教育の継続が,世界で初めての黄色コスモスをわが国において誕生させることになった.その人が佐俣淑彦(よしひこ)博士(1919-1984)である.

1957年,当時研究に使用していた東京大学田無農場において,紅色の八重咲きではあるが花弁の一部が黄色である1株の変異体を発見し,この黄色を,一重咲きコスモスへと取り込む実験に着手した.佐俣博士は1984年6月に逝去したものの,その遺志は教授を勤めていた玉川学園の研究者に受け継がれ,30年後(春と秋の選抜で,約60世代後)にあたる1987年に,世界初の黄色コスモスが「イエローガーデン」の品種名で登録された.しかし,次第に形質の退化が見られるようになり改良した結果,1998年にはさらにはっきりとした黄色の品種として「イエローキャンパス」が作られた.他にも玉川大学では,オレンジがかった「オレンジキャンパス」,クリムゾンと黄色の色素が重なった「イエロークリムゾンキャンパス」,濃い赤色の「ディープレッドキャンパス」が開発されている.

なお,黄橙色,鮮黄色,濃赤色等の花を咲かせるキバナコスモス(Cosmos sulphureus )は葉の形が異なる別種で,Cosmos bipinnatus との間では種を作らない.最近はチョコレートコスモス (Cosmos atrosanguineus) や,属が異なるウィンターコスモス(Bidens laevis センダングサ属)も園芸店で入手できるが,これらには秋桜の別名が似合う Cosmos bipinnatus の優雅さがない.

昭和記念公園などの花畑がまだ有名でない10年ほど前に一度,サカタから購入した種から育てて,道行く人に珍しがられた.画像の花は,昨秋近くの花壇の種をいただいて今春播いて育てた.猛暑で水切れのせいかあまり勢いはよくないが,花の色はきれい.

2010年10月12日火曜日

アオマツムシ(メス)

Truljalia hibinonis 8月下旬から現れ,オスは木の上で「リー・リー」と高い声で鳴く.一生を木の上で送る.中国南部が原産地といわれる外来種.日本での初記録は1898年(明治31年)とも,1917年に東京で発見されたとも言われる.その後戦災で樹が減ったためか,アメリカシロヒトリ防除のための殺虫剤散布のせいか,一時減少したが,その後自動車のただ乗りを利用して,どんどん棲息範囲を広げている.

原産地中国の「王朝網絡 (http://tc.wangchao.net.cn/bbs/detail_636434.html)」によると
アオマツムシの中国名は「梨片蟋」又は「金鍾、天蛉、綠蛣蛉、銀琵琶」.主要分布地は中国南部,インド、フィリピン、日本、ベトナムで,

此昆蟲是一種森林性蟲類,喜棲息于高大的樹木上,常停留在樹枝上高聲鳴叫,不論白天、黑夜其鳴聲都婉轉動聽,叫聲如“句—句、句、句,句.....”一般是4聲一組,第一聲教長,後3聲短促,常常不停的重複著這種調門鳴叫著。其鳴聲高亢清脆,音色比蟋蟀美。

と樹上に住み夜に鳴き,鳴き声はコオロギと肩を並べるほど美しいとしている.“句—句、句、句,句.....”は ” りーり,り,り,り ”と読むべきか.


庭から家に入りこんで壁に留まっていた.背中の網目模様(翅脈)を見ると、かなり規則的なのでこれは雌.道理で鳴かなかった.
アオマツムシの存在に最初に気がついたのは都心近くの街路樹から聞こえてくる鳴き声.頭上から降り注ぐようだった.茨城県南部の当地ではこの数年来.庭の下草からはコウロギの声がきこえ,住み分けているようだ.夜も更けて気温が下ると鳴かなくなる.熱帯産で寒いのは苦手か.

2010年10月9日土曜日

ミズヒキ

Antenoron filiforme
わが二十 町娘にてありし日の おもかげつくる水引の花   与謝野晶子

「考えてみれば,こんな小さな花を観賞栽培する国は,日本をおいて,まずない」(湯浅浩史).
ヒマラヤ,中国南部と朝鮮半島、そして日本列島へと分布している多年草。長さが四〇センチ以上にもなる花穂に、点々と長さ2-3㍉の濃紅色の小さな花がならぶ.花に花弁はなく,四枚の蕚片と四本の雄蕊に囲まれた二花柱の子房からなりたっている。蕚片は上の3枚が赤く,下の1枚が白く,花穂を上から見下ろすと赤く,下から見上げると白いので,紅白の水引に喩える.

室町時代以前の書籍でこの草ににふれたのは知られていないが、雪舟の弟子で十六世紀の始めに活躍した長谷川等春の代表作『花鳥人物図』には描かれているとのこと.
江戸時代には多くの文献に記述され

貝原益軒『大和本草』 (1709)  「海根」が「水引」にあたると記していて,種が出来ても落ちない蕚片を花と同一視している(左図,右).

寺島良安『和漢三才図会』(1713)(左図,左)

伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719)巻之五 薬草五十七種 では
「海根」 田野に多く生ス葉毛蓼の葉に似大キく中に黒点少有花ほそながく二尺ばかりくれない穂のごとく也草花に水引草と云 とあり図(右図)も添えられている.

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之十二 草之五 では
「海根」  詳ナラズ。
ミヅヒキサウニ充ル古説ハ穏ナラズ。其水引草ハ一名ハイトリグサ、汝南圃史二載ル所ノ金線草、一名重陽柳ナリ。山野二多ク生ズ。春、旧根ヨリ苗ヲ発ス。葉互生ス。形土牛膝ノ葉二似テ、長大ナリ。面背トモニ短毛アリ。苗高サ一尺許、秋二至テ茎頭及葉間二一尺余ノ細紅茎ヲ抽テ、極小ノ深紅花、稀二綴リ、ミヅヒキノ状ノ如シ。又白花モアリ、ギンミヅヒキ卜云。紅白雑ルヲ、ゴシヨミヅヒキ卜云。一種葉ノ中間黒斑相対シテ墨記草(イヌタデ)ノ如ク、八ノ字ノ形二似タルモノアリ。八幡水引卜云。又一種長葉ノモノアリ。又チャボミヅヒキアリ。矮茎短穂、地ニッキテ生ズ。

と何れも本草の「海根」がミズヒキに当たるとしている.

しかし現代の中国では「海根」とは言わないようで,金線草 九龍盤 水引草と呼び,乾燥した全草は根が赤くなることから「朱砂七」として薬用に用いている.

庭に野趣を与えるが,根を張り大株になる困り者になった.また思わぬ所から芽生えるので不思議に思っていたら,ミズヒキの戦略に乗って私たちが種を拡げていた.

長田武正著『野草図鑑 8 はこべの巻』 に
果実の柄には関節があり,さわるとここで切れて果実がぴんぴんととぶ。さらに花柱の先はかぎ形に曲がるので,動物体にひっかかって運ばれる。
とある.

2010年10月7日木曜日

アオジソ

Perilla frutescens var. crispa f. viridis
青紫蘇の花に蜜蜂集ひ来てつぶらむらさきほろほろ散るかも 中 勘助


日本では生食や天ぷらにアオジソを使うので,「オオバ」の名で野菜としてスーパーなどで売られているが,韓国や,紫蘇の原産地の中国では紫のシソが主流.中国ではシソを以下の様に細かく分類し,日本では青紫蘇が刺身などに添えられていることを特筆している(維基百科,自由的百科全書).
· 回回蘇(カイカイソ,huihuisu)Perilla frutescens var. crispa
  · 紅皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. atropurpurea
  · 皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. crispa
  · 斑紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. rosea
  · 紅紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. purpurea
  · 青紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. viridis
  · 青皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. viridi-crispa

江戸時代の本草書には紫のシソだけしか記載されていない.その内容はほぼ同じでたとえば『広益地錦抄』 巻之五 薬草五十七種の「紫蘇」では
若葉はへ出てより料理にす葉おもてむらさきうらうす白くしらけたる悪敷両面共に紫紅にしてあつくちりめんのごとくにしぼあるを上とす葉茎實共に薬種に用
とあり,葉の両面が紫のものを上品としている.

紫のシソの主な色素は、アントシアニンでその70%程度がマロニルシソニン.アオジソにはその色素はほとんど含まれない.東京生薬協会のHP 『常用和漢薬集』 の ソヨウ(蘇葉)[紫蘇葉] には
漢方処方用薬:去痰・鎮咳・健胃・発汗・解熱・解毒(抗アレルギー)作用があり、感冒、気管支炎、神経痛、不眠、魚蟹中毒の嘔吐腹痛の薬方に配合される。通例、アオジソ、チリメンアオジソは使用しない。 とある.

アオジソは戦後に岡山近辺から出荷されてから一般的になって,西日本の一部では「青蘇(せいそ)」とも言われている.確かに青蘇は黒白鳥の様に矛盾している.

庭ではこぼれ種で毎年生えてくるが,抜くのを忘れるとかなり大きく頑丈になり根を張る.そう大量に消費するものでもないので,ほんの数本を残して除去.

2010年10月5日火曜日

サルビア・コクシネア “Lady in red”

Salvia coccinea cv. “Lady in red”Salvia coccinea はメキシコ原産.そこから中央アメリカや合衆国南部に拡がった野草で,米国ではTexas sage, scarlet sage, tropical sage, blood sage と呼ばれている.Salvia coccinea の品種としてはLady in Red の他に白花の‘Snow Nymph’,花の上側が白に近い薄ピンクで下側がサンゴ色 (coral-pink) の‘Coral Nymph’ があるが,赤色の‘Lady in Red’ が原種に近そう.一般にサルビアといわれているサルビア・スプレンデンスとは異なり,ガクは小さく緑色で観賞価値はないが,花は繊細で女性的.一個一個の花の寿命は短いが下から順に咲きあがるので,美しい時期は長い.米国南部での野生種はハチドリの蜜源として知られ,また中国での名前はいかにも漢字の国らしく「朱唇」.


10年以上前,’Lady in Red’ , ‘Snow Nymph’ と ’Coral Nymph’ を種で購入して育てた.それから毎年数個体がこぼれ種で開花.現在では ’Lady in Red’ と ’Coral Nymph’ が細々と花をつける.
右は育種一年目の様子.手前の赤色の繁みは紅葉したコキア(ホウキグサ). 右の赤い小さな花はセンニチコウ”ストロベリー・フィールズ”





おまけはインディアナ州の友人 Dan-san の息子さん,Michael-kun の動画(YouTube)へのリンク.学校の環境クラブ(Habitat club)でオオカバマダラを育て,放蝶した場面("Freedom of a monarch".).ベースボールだけでなく,自然への興味を持っていてくれてうれしい.大きくなった.お父さんに似てハンサム.

2010年10月4日月曜日

タコノアシ

Penthorum chinense 日本のほか東アジア一帯に分布.湿地や沼,休耕田など湿った場所に生育していて,そう珍しいものではなかったが,生育区域の開発と,同じような環境を好むセイタカアワダチソウとの生存競争に負けたためか,多くの県で絶滅危惧2類に指定されている.国のレッドデータブックによると総個体数約6万で,100年後の絶滅確率は約2%,約300年後には絶滅すると予測されているが,最近整備された湿地に一気に繁殖した光景もみられた.

草丈は1mほど,秋に放射状に数本に分かれた茎に薄緑色の丸い小さな花をつけ,上から見ると吸盤のついた蛸の足のよう.晩秋になるとさく果が熟しまた全草が紅葉し,ゆで蛸のようになる.中国では扯根菜 che gen cai と呼び,若葉を食用とするとの事.

里山として保存活動をしていた水田の水路に生育していた個体の種をバケツに播いたら発芽.順調に成長し,花も咲き,結実.落ちた種からの発芽率は良いようだ.
左:水路に成育している個体の花
右:晩秋の湿地でのゆでダコ

2010年10月2日土曜日

番外編 サフラン(1) "La Botanique de J. J. Rousseau" P J Redoute, J J Rousseau, Roussea simplex

Crocus sativus


P.J. Redouté 『J. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau』 (1805) 多色銅版

18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778)は,フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした数多くの著作で知られるが,特に後半生は植物学にも多大の興味を持ち,余暇は近隣の森林草原水辺で植物観察をし,記録をとるのを無上の喜びとした.1762年に『エミール』がその「サヴォワの助任司祭の信仰告白」がもとで宗教界の反発をうけ,パリ当局から禁書にされ逮捕状も出たため,パリを脱出しスイスに渡ってイヴェルドン,次いでモティエに逃れた.

1762年からの3年間,彼は当地の医師ディヴェルノワから植物学の体系的な指導を受け,以降この学問に熱中した.彼は,市民権を取ったヌーシャテルのサン・ピエール島で毎日のように植物を観察採集し,咲き誇る野草たちに孤独な心を慰めたのだった.

1770年にパリに帰った後は王立植物園の勉強会に参加し,リンネとの手紙のやり取りをし,『植物学に関する手紙 Lettres sur la botanique 』(1771年から1774年まで知人のドレッセール夫人に宛てて,彼女が幼い娘に身のまわりの植物を説明できるよう,植物学の基礎を教えるために送られた8通の私信),や『植物学用語辞典のための断片 Fragments pour un dictionnaire des termes d'usage en botanique 』といった学術的な著作をも執筆した.

彼の死後,これらの著作を基にした「基礎植物学に関する書簡」(Lettres élémentaires sur la Botanique,1782年ジュネーヴで初版)が出版された.その反響は極めて大きく、パリ王立植物園の A. L. ジュシューはルソーの試みを高く評価し、また、イギリスでは、ケンブリッジ大学植物学教授の T. マーティンによって続編をふくむ英訳 'Letters on the elements of Botany' が1785年ロンドンで初版が刊行され大きな成功を収めた.

上に述べたルソーの植物学の著作及び T. マーティンの英訳は "Biodiversity Heritage Library" のRousseau, Jean-Jacques のサイト(http://www.biodiversitylibrary.org/creator/15)からDLできる.

また,ルソーと植物学に関しては小林拓也教授の以下の報文が興味深い(Articles en japonais).
«Jean-Jacques Rousseau botaniste: à l'aune de ses annotations sur La Botanique de Regnault», Études de langue et littérature françaises, 90, 2007, p. 154-167.

「花の画家」「花のラファエロ」として王侯貴族から愛され,花のように華やかな人生を送った P. J. ルドゥーテの代表作『バラ図集』『ユリ図集』『多肉植物図集』は当時の植物図の最高のものといわれるが,これらに描かれた華やかな園芸花卉や珍奇な外来植物とは一線を画す,ありふれた花を描いた美しい図譜に『J. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau (1805)』がある.

荒俣宏氏の『花の図譜』 ルドゥテ伝 によると
表紙とムラサキツメクサ(Trifolium pratense)図,  MoBot
「ルドゥテが恩人レリティエの図書室でJ-J. ルソーの植物学の著作と出会った逸話は興味ぶかい.あるときレリティエは書棚からルソーの著作を示し,「これは,実にすばらしい書物だ.いつか君は,この本のために植物の図版を制作するべきだね.」しかしルソーと聞いたルドゥテは,「とんでもありません」と叫んだ,と評伝 “THE MAN WHO PAINTED ROSES - Pierre-Joseph Redoute” の著者アントニア・リッジ Antonia Ridge は書いている.
「ルソーといえば危険思想の持ち主で,しかも自分の子を平気で捨てる鬼のような男だというではありませんか.そんな人物に,すばらしい植物学書が書けるはずはありません」彼はそう言って,ついにルソーの本を開こうとしなかった.
しかしその後,植物図の大家となったルドゥテはふとしたきっかけでルソーの著作を読み,全編にあふれる優しさと自然への愛に接して涙を流した.鬼のような男とばかり思っていたルソーが,実はこのようにすばらしい自然史学者であったとは!
彼は若き日の短慮を後悔し,レリティエの予言通り,1805年にこの本のために65葉のスティップル・エングレーヴィング(stipple engraving ,点刻彫版法)の技法を駆使した美しい多色銅版画を挿絵とした四折大判の 『J. J. ルソー氏の植物学 La botanique de J.J. Rousseau :ornée de soixante-cinq planches, imprimées en couleurs d'après les peintures de P.J. Redouté.』 を制作出版した.」

なお,この本の全文・全画譜は ”Botanicus Digital Library” の http://www.botanicus.org/title/b12074470 で閲覧・DLできる.

この書の表紙に描かれている植物は,英国の James Edward Smith  (1759-1828) によって,J J ルソーに献名された,モーリタニア島特産のエスカロニア科(Escalloniaceae)の Roussea simplex である.

この植物はつる性の灌木で,熱帯性の美しいヤモリ(Phelsuma cepediana)によって,受粉・種子撒布されていて,爬虫類が花粉運搬者という珍しい植物として有名である.種はヤモリの腸を通過することによって,種の表面を覆っている発芽抑制物質が除去され,芽を出すことが出来る.現在では,島に持ち込まれた外来生物によって,絶滅に瀕している.

J. E. Smith はこの属と種の原記載文献(Pl. Icon. Ined. 1: t. 6. 1789)で,「息絶えるまで,植物を研究する喜びを手紙の形で記した,かの有名な J J ルソーを記念してこの名をつける.彼はリンネとも手紙で度々交流していた.云々(訳に自信なし)」と命名の理由を記した(左図 MoBot).
“In memoriam celeberrit Jean Jacques Roussau, qui epistolas amoenissimas de re botanica scripsit, & amabilem scientiam ad extremum usque halitum coluit & ornavit. Linnaeus, qui saepius cum illo per epistolas consilia communicabat, in manuscriptis planiam nomini suo consecraverat. Cum vero haec, ex Linnaei filii hallucinatione, alio nomine (Russelia) evulgata est, genus novum pulcherrimum & maxime singulare Rousseam dixi.”

また,Roussea simplex Phelsuma cepediana の美しい生態画像は Plants & Fungi At Kew (http://www.kew.org/science-conservation/plants-fungi/roussea-simplex) で見ることが出来る.

番外編 サフラン(2) リンネ・ルソー・ルドゥーテ・ラスキン・漱石 Linne, P J Redoute, J J Rousseau, J Ruskin, Soseki