2021年9月19日日曜日

ビヨウヤナギ (18) 西欧-1.ケンペル『廻国奇観』Androsaemum Constantinopolitanum flore maximo Wheleri.,ジョージ・ウェラー『ギリシャへの旅』

 Hypericum monogynum

****** 文献画像は Internet Archives, BHL 及び Plantillustrations の公開デジタル画像よりの部分引用 ******

ビヨウヤナギを西欧に初めて紹介したのは,日本産のものを「柳楊美 Bioru 俗名 Bijo Janági」として記載したケンペルであったようだ.彼はビヨウヤナギと,地中海沿岸東欧に自生する Hypericum calycinum L.(和名:セイヨウキンシバイ)との類似性を指摘した.

★エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, 1651 - 1716)は,ドイツのリッペ=デトモルト侯国のレムゴーに牧師の息子として生まれる.ロシアのケ一ニヒスブルク大学で医学・哲学・歴史学・博物学を修め,1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移り博物学を学び,そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり,彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とペルシアのサファヴィー朝に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった.
その後使節団と分かれ,オランダ東インド会社の船医として勤務した後,1690 (元禄3)年出島のオランダ商館医として来日し約二年滞在した.江戸に二回参府し,第五代将軍綱吉と謁見している.ケンペルは勤務の傍ら,日本の動植物・地理・歴史・風俗などあらゆる部門に関心を示し,収集した資料を持ち帰った.帰国後,日本の動植物に関する論文を提出してオランダ,ライデン大学で学位を受けた.
アジア各地の滞在先の見聞録,『廻国奇観』(Amoenitatum exoticarum Politico-plysico-medicarum1712)の第5部(「日本の植物」Plantarum japonicanum)の中で 日本の植物約500種(標本点数約400)について詳細に記述した.本書の記載文とその植物図は大変正確である.リンネは,後にこのケンペルの知見を基にして『植物の種』(Species Plantarum. 1753. 1版)に日本産の植物(イチョウ・クスノキ・チャノキ・カヤ・ツバキ・サネカズラ・カジノキ・カキノキなど19種)の圖を掲載して世界に紹介している.リンネはこのときまでにはまだ実際に日本の植物の標本を入手していなかった.リンネがツバキに学名(Camellia japonica Linnaeus)を付けたのも,またショウガ科バンウコン属バンウコンにKaempferia Galanga L, という新属新種の学名を新設したのもこの本の図譜からである.
日本植物の最初の研究者であるケンペルは,単に植物の記述を残しただけではなく標本を作っていた.ケンペルの研究はツンベルクにより継承され 日本植物の研究を支える基礎になった.
ケンベルの著作はリンネの『植物の種』(Species Plantarum, 1753)以前のものであるから,ケンペル自身は「二名法」による学名を記載することはなかった.
他に日本研究の金字塔『日本誌-日本の歴史と紀行』(The History of Japan1727. これは没後出版された英訳本でドイツ語の原著はさらに50年後の1777 – 1779年に出版された)を著した.
マメ科のダイズGlycine soya(現在の学名はGlycine max (L) Merr.である)をヨーロッパにはじめて紹介したのもケンペルである.

 この『廻国奇観』の第五部の「日本の植物」,845 ページに

柳楊美 Bioru, vulgo Bijo Janági. Salix pu-
mila, flore Ranunculi magno. Sive: Androsæmum Con-
stantinopolitanum flore maximo Wheleri.

 とある(冒頭図).背の低いヤナギに似ていて?花は大きなキンポウゲに似ている.或は “Androsaemum Constantinopolitanum flore maximo Wheleri.” かも知れない.とある.ビヨウヤナギは「ウェラー氏(が最初に記録した,)コンスタンティノープル(に生えている)花の大きなオトギリソウ」と類似しているという事となる.この“Androsaemum Constantinopolitanum flore maximo Wheleri.” は後にリンネが Hypericum calycinumと命名し,現在日本でも園芸植物として庭に植えられているセイヨウキンシバイである.確かにビヨウヤナギの花はセイヨウキンシバイに似ていて,ケンペルの博識・慧眼に感服する.

  ウェラー氏とは,ジョージ・ウェラー卿1651 - 1724)のことで,彼の著書 A Journey into Greece1682)にこの植物の絵と名前が載っている.

  ジョージは英王室のライフガードの大佐である父,ケント州チャーリングのチャールズ・ウィーラーの子息で,清教徒革命におけるイングランド内戦の間,王室派の両親が亡命していたオランダで生まれた.彼は1683年にオックスフォードのリンカーンカレッジで修士号を取得した後,当時の裕福な子弟の習慣として, 1673年,フランス,スイス,イタリアの“Grand Tour” に出かけた.16756月にはヴェネツィアでジェイコブ・スポン (Jacob Spon, 1647 – 1685) と出会い,1675年と1676年にレバントとギリシャを旅した.ウェラーはザンテ,デロス,コンスタンティノープル,プルサ・アド・オリンポス,チアティラ,エフェソス,デルファイ,コリント,アッティカを訪れ, 167611月にイギリスに戻った.彼はその経験を “A Journey into Greece” (1682) に著した.この書の中で,大理石の彫刻やコインと共に,動植物についても絵とともに記録を残している.また,オトギリソウ(‘St. John's wort of Olympus = Hypericum olympicum)を含む,英国で栽培されていなかった植物を故国に持ち帰り,ジョン・レイ(John Ray, 1627 - 1705),ロバート・モリソン(Robert Morison, 1620 - 1683),レナード・プルークネット(Leonard Plukenet, 1642 - 1706)らの植物学者に寄贈し,彼等は著書にウィーラーへの感謝を述べている(Pulteney “Progress of Botany”, i. 359).

ウェラーの「ギリシャへの旅 “A Journey into Greece” (1682)」の “THE Second BOOK : Containing an Account of CONSTANTINOPLE, And the Adjacent Places.” “A VOYAGE from Venice to Constantinople.”  205 ページには,
“Lib: II. Fig: IX Androsæmum Constaninopolitatum, flore maximo.
との説明文と,茎に葉が平面的に対生してついた「キンシバイ」によく似た花の絵と共に,


 
”I found another Plant going thither, and to the Black-Sea also;
 which I know not to what species to refer, unless to Androsemum majus
 which we call Parks-Leaves1): For the Leaves are of the substance and
 colour, only longer, and of a more tough Substance, growing two
 by two, on a shrubby square Stalk, of a reddish colour, not rising
 from the ground above a span high: On the top of which succeedeth
 a large yellow Flower, much bigger than Parks-Leaves, filled with
 a large Tuft of the same; out of which, before the Flower is fallen,
 beginneth to rise a long Vessel, divided into five Appartments full
 of reddish Seeds. The Smell is like the best Turpentine; but more fra-
 grant, and like Coris2). Of it I observed two sorts: The difference is
 only, that the one hath its Leaves growing by pairs, flat like a Jacob’s-
 Ladder3) and the other by pairs cross each other. It spreads upon the
 Ground in heaps; so that seldom one shall find one Stalk a-
 lone.” との本文が記されている.

このAndrosæmum Constaninopolitatum, flore maximo は後に(1767年)リンネが Hypericum calycinumと命名し,現在日本でも観賞用として庭に植えられているセイヨウキンシバイである.


Weinmann, J.W., “Phytanthoza iconographia”, vol. 3 (1742), t. 589 f. e.
   
Curtis, W., et al., “Botanical Magazine” vol. 5 (1792), t. 146.
   
Kerner, J.S., “Abbildungen aller ökonomischen Pflanzen” vol. 7 (1794), t. 635.
   
Sibthrop, J., Smith, J.E., “Flora Graeca” (drawings) vol. 8 (1845-1847), t. 71.

一方ウェラーが本文中で参照した植物は以下のものであり,それぞれ草姿と花,香り,葉のつき方が似ていると記述している.

1) Androse(æ)mum majus which we call Parks-LeavesHypericum androsaemum L.

 

“Park-leaves” の名の由来について,ジョゼフ・ピトン・トゥルヌフォール(Tournefort, J. P. de, (1656 - 1708)   “The compleat herbal, or, The botanical institutions of Mr. Tournefort ----“  (1719) “GENUS XVII.
Androsaem, Tutsan, or Park-Leaves

This Plant is called Androsæmum from αίμα Blood, and ένας άντρας a Man ; for this Plant, says Dioscorides, being bruised or squeezed by the Fingers, yields a Juice of the Colour of Blood. We call it Tutsan in Engrish from the French Toute-Saine, or the Italian Tutisan ; and some call it Park-Leaves because it is so familiar to Parks and Woods, that it seldom grows an where else.” とある.
  和名コボウズオトギリとして,大きい実を観賞するために日本でも流通している.葉は十字対生に着く.

(1-1) Dodoens , R., “Stirpium historiae pemptades sex, sive libri” (1583), p.79 f.1.
(1-2) Passe, C. van de, “Hortus floridus” (1614), t. 3-4, f. 4.
(1-3) Blackwell, E., “Curious Herbal”, (1737) vol. 1, t. 94.
(1-4) L. Curtis, W., Flora Londinensis (1778) vol.3, t. 48.

2) Hypericum coris L.


(2-1) Matthioli, P. A. Commentarii in sex libros Pedacii Dioscoridis Anazarbei De medica materia. P. 936 (1565)
(2-2) Lobel, M. de, Plantarum seu stirpium icones, Vol. 1, P. 403, f. 1 (1591)
(2-3) Curtis, W., et al., Botanical Magazine, Vo. 5, t. 178 (1792)
(2-4) Sibthrop, J., Smith, J.E., Flora Graeca , vol. 8 T. 177 p. 56 (1833),

3) Jacob’s LadderPolemonium caeruleum L. ヨウシュハナシノブ.「ヤコブの階(キザハシ)」とは,旧約聖書の創世記281012節でヤコブが夢に見た,天使が上り下りしている天から地まで至る階段.平面的に対生する小葉から名がついたか.


(3-1) Curtis, J., British entomology Vl. 7, t. 636 (1823)
(3-2) Sweet, R., British flower garden vol. 3, t. 266 (1827 - 29)
(3-3) Baxter, W., British phaenogamous botany vol.2, t. 149 (1834 - 43)
(3-4) Smith, J. E. Engl. Bot., ed. 3 vol. 6, t. 922 (1866)

2021年9月10日金曜日

ビヨウヤナギ (15) 江戸-8-明治-3-大正・昭和.新摸草木花,泰西本草名疏,草木育種,東京大学小石川植物園草木図説,非水百花譜,牧野日本植物圖鑑

Hypericum monogynum

******文献画像は NDL の公開デジタル画像よりの部分引用********


筆者不明の『新摸草木花』(江戸後期)には,「ビヤウ柳」としてビヨウヤナギの図がある(冒頭図①)

江戸時代の植物学書として有名な『本草図譜』の著者岩崎常正及びその弟子の阿部喜任(180570)の著になる植物栽培の啓蒙書『草木育種(そうもくそだてぐさ)』(1837)は,上下二巻からなり,上巻は総論で下巻は各論で,185品の草木について述べる.注目されるのは,下巻の目録で草木名をイロハ順に配列し,品ごとに何番目の丁にあるかを記して索引を兼ねている点である.索引という発想が無かった江戸時代には珍しい試みであった.その「後編」には,

金絲桃(びやうやなぎ) 致富奇書             園中(えんちゅう)に栽(うえ)て根より生するを分け種べし群芳譜

 根下劈梅雨(つゆ)の時枝(えだ)を挿(さ)してよし致富奇書曰一

 種似タル金絲梅其花稍(ヤヽ)小比レハ金絲桃レリ今是も培法同し」とある(冒頭図②)).

 伊藤圭介(1803-1901)訳述『泰西本草名疏』(1829)はツンベルク著『日本植物誌 Flora Japonica』(1784)(滞日1775 1776)に所収された植物を,シーボルトに指導のもと,学名のアルファベット順に配列し,その和名・漢名を記した書.その「巻下 HI」の「HYPERICUM」の部に,キンシバイ,ヒメオトギリ,オトギリソウと共に

HYPERICUM MONOGYNUM ビヤウヤナギ 金絲桃」とある.一方,「HYPERICUM PATULUM. TH. キンシバイ 金絲梅〇 ビヤウヤナギ」」ともある.

これは凡例の言によれば,ツンベルクは,Hypericum patulum. TH. の和名をビヤウヤナギとしたが,シーボルトはこれをキンシバイの和名とした事に関与した.

ツンベルク 『日本植物誌』FJ p.295 には,Hypericum patulum の項に  Japonice: Bijo Janagi” とあり,一方 p. 297 H. monogynum の項には Japonice: Bioru, vulgo Bijo Janagi” とある.つまり,ツンベルクは,H. patulum の和名はビヨウヤナギ.H. monogynum の和名はビヨウ(美陽)で俗名は H. patulum と同じく「ビヨウヤナギ」であると記録したこととなる(冒頭図➂).


 東京大学教授となった伊藤圭介は,豊後国国東郡高田(現在の大分県豊後高田市)出身の本草学者,賀来飛霞(1816 - 1894)を小石川植物園に招き,二人で編輯した『東京大学小石川植物園草木図説』を 1884年に出版した.その「巻2」に,美しいビヨウヤナギの図(賀来が描いたと思われる)とともに,

金絲桃科 林氏第十二綱第五目
〔和 名〕 ビャウヤナギ ビヂヨヤナギ
             
   サツマヤナギ           (ツ子ノビャウヤナギ)
〔漢 名〕 金絲桃           廣東新語 三才圖會
〔羅甸名〕 HYPERICUM CHINENSE, L.

此品,蓋シ舶種ナルヘシ,我邦未ダ自生ヲミズ,人家ニ多ク栽テ花ヲ賞ス
灌木ニシテ,高サ三四尺許,一根叢生シ,枝葉對生ス,葉ハ柄無ク長楕圓全縁ニ
此品,蓋シ舶種ナルヘシ,我邦未ダ自生ヲミズ,人家ニ多ク栽テ花ヲ賞ス
灌木ニシテ,高サ三四尺許,一根叢生シ,枝葉對生ス,葉ハ柄無ク長楕圓全縁ニ
シテ二三寸,背ハ白ミヲ帯ビ,冬月尚残葉アリテ,紅赭色ニ變スレドモ,落盡ス
ニ至ラズ,夏月枝梢兩葉ノ間ヨリ花梗ヲ抽キ,枝ヲ分チ小梗ヲ出シ,數花ヲ開
ク,蕚ハ披針狀ニ五裂シ,辧ハ倒卵圓形ニシテ五片,深黄色滑澤ニシテ光アリ,
多雄蘂ソノ脚相連ルテ五?ヲナシ,蕚ヨリ生シ,無數ニ分レ花外ニ出デ,
細絲細葯皆黄色ナリ,故ニ金絲ノ名アリ,雌蘂亦黄色,柱頭五ニ分レ,實礎卵形
ニシテ五縦道アリ,内亦五隔アリテ,無數ノ種子ヲ含ム,〇和方ニ,婦人ノ悪阻(ツハリ)
ニハ金絲桃或ハ金絲梅ヲ煎服シ,験アリト云
           雄蘂                      二 辧ト雄蘂ヲ去リ,雌蘂及ビ蕚ヲ観ル 以上(廓)           實礎横裁 四 實                  五 種子(廓)」と記した

飛霞の描いた植物図は,色彩をはじめ,花弁や種子の構造,葉脈や幹・根の形態にいたるまで詳細に観察し図示されており,科学的に高い内容のものといわれている.
 興味深いのは,学名(羅甸名)で,圭介は『泰西本草名疏』(1829)では,H. monogynum としたのに対し,この書では H. chinense としたことである.どちらもリンネの命名であるが記載されたのは Hypericum monogynum は,彼の “Sp. Pl. ed. 2 : 1107 (1763)” であり,H. chinense ”Syst. Nat. ed. 10, 2 : 1184 (1759)” である.後者が先に発表されているので,圭介はこの学名を採用したとおもわれる.が,現在の標準的な学名(正名 correct name)は,Hypericum monogynum であり,H. chinense synonym 同物異名としている書が多い. 


三越のポスターを制作した事でよく知られる,日本モダンデザインの先駆者,杉浦非水(1876 - 1965)は,1920年から22年にかけて,『非水百花譜』という花卉写生図集を出版した.これは杉浦の写生に基づいて描かれた花卉図を版画とし,5種類をひと包としてタトウ紙に入れ,全20組百枚をセットにしたものである.

 各図は,花卉のシルエット(本図と同じではない)にひらがなの名称を入れたものと,花卉の実物写真,部分図,葉脈図,植物学的解説に,杉浦の写生日時,場所,さらに写真撮影日時,場所,撮影者のデータが記してあるシートに挟まれている.それによると,杉浦は東京でほとんどの植物を写生しているが,ほかに安房郡太海村(現,千葉県鴨川市),新潟県赤倉温泉,石川県片山津温泉などが含まれている.撮影者もほとんどが非水本人であるが,ほかに千葉凱夫,高瀬写真館などの名がみえる.植物学的解説は,大正版では第14輯までを松尾亀夫,以降を川村正が担当したとある(亀井の病気による交代のようである). 何故,植物図鑑以上に詳しい解説を全ての作品に添えたのか,不思議ではある.その「第7輯」に
           びやうやなぎ(未央柳)

學名 Hypericum chinense, L.
 漢名       金絲桃 未央柳
 英名       St. John’s Wort
 科名       金絲桃科
性頗る強壯にしてよく數多の枝條を叢生し,高さ四尺許に生育する小灌木なり.學名なる Hypericum も荒
沼地に適する植物を意味し Yperiekon に語源を有す.(Yper = , ereike = heath

全形概ねキンシバイに類似すれども葉は全縁にして葉柄なく,長楕圓形にして互生せり.
夏期枝條の先端に濃黄色の花を開く.花は放射相稱にして両性,花辧は五箇にして各片共に一隅缺如せるを普通
とす.雄蕋は多數にして花絲の基脚を以て五個づつに合着し,所謂群束をなす.
雌蕋一個,子房は一室又は下完全なる二三室をなし側膜胎座なり.胚珠は倒生し
果実は胞間裂開をなす所の蒴果にして多数の種子を藏し,種子には胚乳を有せず.
之に代りて幼軸は異常の發達を遂げ却つて子葉は小となれるの現象を呈せり.
叉本種の花は開花の當初,昆蟲によりて他花受粉を遂ぐれども後に至れば花絲は
漸く萎凋し漸時内方に曲がりて自花受粉をなす.
花の美しきにより觀賞植物として栽培せらるゝもの多し
 備 考
一,學名に Hypericum salicifolium S. et. Z. を當つるものあり
本圖 大正八年七月一日東京に於て寫生(自然大)
附圖 (一)花の正面,(二)花の側面,(三)花蕾,(四)印葉,(五)花辧の形狀
     (六)蒴果,(七)雄蕋及雄蕋の群束,(全部自然大)
寫眞 大正八年七月上旬東京に於て著者撮影」とあり,松尾の植物学的記述は詳しく,部分図は美しい.非水の大図(左ページ)は勿論多色刷り版画で,見事な物であろうと想像できるが,今のところ未見.早く NDL で,カラー版の公開を望む.

 ★牧野富太郎『牧野日本植物圖鑑 初版』(1940)には

びやうやなぎ

Hypericum chinense L.


支那ノ原産ノ半落葉小灌木ニシテ,人家
ニ栽植セラレ,高サ1m内外アリ,多ク分
枝シ,褐色ナリ.葉ハ無柄,對生シ,長楕
圓狀披針形ヲナシテ鈍頭ヲ有シ,全邉ニシ
テ質薄ク,葉中ニ細微ナル透光的油點密
布ス.夏日,梢頭ニ聚繖花ヲ成シテ大ナ
ル有梗ノ黄花ヲ開ク.緑蕚五片.花辧五
片,倒卵形.雄蕋多數ニシテ基部五束ト
成リ,黄色ニシテ花絲ハ絲狀ナリ.子房
ニ長キ一花柱アリテ頂五岐ス.蒴ハ宿存
蕚ヲ伴フ.和名ハ未央柳ノ意乎或ハ美容
柳ノ意乎未詳ナレドモ共ニ其美花賞賛ニ
基ヅク.漢名 金線海棠(慣用)」とある.和名の「未央柳」が,「美花賞賛ニ基ヅク」名で,長恨歌の楊貴妃をしのぶ場面に基づくものとは言っていないことは,気に留めておくべきであろう.(下線:筆者)また学名としては H. chinense を採用している.

2021年9月7日火曜日

ビヨウヤナギ (14) 江戸-7,伊藤若冲.玄圃瑤華,金刀比羅宮 花丸図,信行寺花卉図天井画

Hypericum monogynum


 江戸中期の画家,伊藤若冲1716 – 1800)は,京都,錦の青物問屋の主であり,独学で琳派,諸家を学び独自の画風を極める.自然を観察する視線は精密を極め,その作品は個性的で,特に鶏の図の作品が多い.若冲には,幾つかビヨウヤナギを描いた作品がある.

 金刀比羅宮 花丸図 美容柳』(1764


讃岐の「金刀比羅宮奥書院」の上段の間を飾っているのが,若冲の「花丸図」である.若冲は金刀比羅宮を訪れてはおらず,絵は京都で制作されて送られたと考えられている.奥書院を使っていた金光院第10代別当である宥存(ゆうそん(1739 - 1787))は,少年時代に若冲に絵を習ったことがあり,その縁で障壁画の制作を依頼したと推測されている.


格子状の枠の中に整然と配置された総数201点にも及ぶ花卉図は,床の間,周囲の壁,襖全体に広がり,若冲独特の円形の虫食い穴など緻密な描写が見られる貴重な文化遺産である若冲は,現存する上段の間のほかに,二の間に「山水図」,三の間に「杜若図」,広間に「垂柳図」を制作したという記録が残っているが,これらは天保15 (1844)年,岸岱(がんたい)が描き直した.この「花丸図」の花は1点が約30cm×40cmのサイズで描かれている.もともと地の色は白だったが,後年の加筆で金地になった.劣化の為か,この加筆の為か,ビヨウヤナギの鮮やかな黄色が白みを帯び,細い雄蕊の繊細な描写が確認できないのが残念である.

 


玄圃瑤華』(1768)は,彫った木版の上に紙をのせ,絵具を含ませたタンポで叩くようにして紙の繊維を板に食い込ませて摺る「紙本拓版」で,白と黒のメリハリのはっきりした画面に強い凸凹がつき,他の版画にはない立体感を感じさせる.「玄圃瑤華」の「玄圃」は仙人の居どころ,「瑤華」は玉のように美しい花の意味.若冲53歳の時の作品で,極端に折り曲げられ,デフォルメされた草花に虫類を配した図は,白と黒の劇的なコントラストと大胆な構図が見どころ.

左は国立博物館所蔵の伊藤若冲自画自刻『玄圃瑤華』からのビヨウヤナギ図であり,拓版の特徴である細い線をつぶれること無く表現できる技法を,ビヨウヤナギの雄蕊に生かした銘品である.
  右は芸艸堂が明治40年頃に刊行した『若冲画帖』中のビヨウヤナギ図であり,『玄圃瑤華』からの復刻と思われ,細かく見ていくと違いが何カ所かあるのが分かる.

 


信行寺花卉図天井画』(1798

伊藤若冲が天明8年(1788)の京都大火で疎開した石峯寺(伏見区深草)で描いた観音堂天井画の一部.本来は182面を擁する大きな格天井であったが,観音堂は明治維新時の廃仏毀釈によって解体.天井画も解体され,古美術商に渡ったのち檀家総代の五代目井上清六が買い取り,168面は,京都市東山通仁王門の真行寺に,15面は義仲寺へと分割奉納された.
 信行寺花卉図天井画は全168枚.内訳は花卉図167枚で,1枚は落款「米斗翁八十八歳画」墨書と「若冲居士」朱印が刻されている.花は牡丹30枚,キク15枚,梅10枚,朝顔・百合各6枚,杜若・水仙・蓮・藤各4枚(推測含む)が目立つが,渡来して間もない珍奇な植物もある.一方,野菜や山菜などの食用の植物も取り上げられているのには,青物商の若冲の矜持の片鱗が伺われる.各板絵の法量は約38㎝四方.胡粉地の塗り残しで直径34㎝ほどの円窓の縁が設けられ,その中に花卉を,円窓に相応しい図案的な表現で描写している.

 その中に,ビヨウヤナギの図がある.現在は板の木目が目立ち,ビヨウヤナギの細い雄蕊が目立たないが,制作当時はさぞかし美しかったろうと思われる.