2013年3月31日日曜日

アセビ (1/5) 万葉集・源俊頼・藤原信実・伊藤左千夫・子規

Pieris japonica
撮影:20083月 奈良,浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺までの馬酔木の咲ける道  林大馬
万葉人に愛された日本で最古の造園植物の一つ.『万葉集』には大和を中心にあしび(馬酔木,安志妣,馬酔,安之婢と表記,アセビ)を詠った歌が十首ほどある.

大伴家持は「池水に影さへ見えて咲き匂ふ あしびの花を袖に扱(こ)きれな」(巻二十-4512)と詠み,また,甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)は「磯影の見ゆる池水照るまでに 咲けるあしびの散らまく惜しも」(巻二十-4513),三形王(みかたのおほきみ)も中臣清麻呂の庭を訪れて「鴛鴦(ヲシ)の住む君がこの山斎(嶋の築かれた大きな池)今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも」(巻二十-4511) と,いずれも庭園に設けられた泉水に映るアセビの花を賞した.
また,「磯の上に生ふるあしび(馬酔木)を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに」(巻二-0166)と大来皇女が弟の大津皇子が刑死した後にその死を悼んで詠み,また,「あしびなす栄えし君が堀りし井の 石井の水は飲めど飽かぬかも」(作者不詳,巻七-1128))や「春山のあしびの花の悪しからぬ 君にはしゑや寄そるともよし」(作者不詳,巻十一-1926)とあるように,古代人にとっては,白い花が鈴なりに咲く「あしび」は人を偲ぶのよすがともなる好ましいものであった.

しかし,平安期になると王朝歌人や文学者にはあまりとりあげられていない.植物が多く登場する『枕草子』にも見られず,源氏物語にもその名はない.渡来した華やかな花に隠れて目につかなかったのか,それとも田舎くさいとして心引かれなかったのか.『古今集』をはじめの八代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』,平安初期から鎌倉初期に至るおよそ300年間の勅撰和歌集)にもあしびの歌はみられない.

それどころか,平安時代後期の革新的な歌人である源俊頼の歌には,「取りつなげ玉田横野の放れ駒 つつじかげだにあしび花咲く」(『散木奇歌集』)とある.これは馬があしびを食うとその毒に当たるから危ないと言って,万葉人とは逆に好ましからぬ花という感じをもっているように思われる.
「みま草は心して刈れ夏野なる 茂みのあせみ枝まじるらし」(藤原信実).これは鎌倉時代の画家で歌人でもあった藤原信実が詠んだもので,馬にとって有毒なあしびを,飼料に入れないようにと忠告しているのである.

馬が渡来したのは,弥生時代と考えられているので,万葉人もこの毒性は知っていたのに気にせず,むしろ,その白い花が房になって咲く見事さに感じていたところに,価値観の違いがみられる.

「おそろしやあせみの花を折りさして 南に向かひ祈る祈り人」(藤原光俊).これも信実と同時代の歌人の歌であるが,あしびは人を呪う媒介物とされ,恐怖の対象となっている.万葉人たちがあしびをもって,人の繁栄を寿いだのとは全く逆に扱われている.

このように平安・鎌倉時代の,優美を好み,典雅幽艶を愛する歌人には忘れられていたアセビも,明治になってから再びかえり咲いている.言葉遊びや本歌取りから離れて,写実をもって歌の本道とするとの考え方から,万葉集が尊重され,「あしび」に対する感じ方や考え方が大きく変わった.

その一つの象徴は,正岡子規を継承した伊藤左千夫が,根岸短歌会の短歌誌の名称として『馬酔木』を採用したことであろう.この雑誌に拠って,新しい短歌の運動を起こす際,愛される植物としては,ほとんど万葉集にしか載っていない花である『馬酔木』を雑誌の名称とすることで,万葉(集)の歌の精神に立ち返ろうという意がこめられているとも考えられる.残念ながら,子規の,左千夫の詠ったあしびの短歌は見出せなかった.

風吹て馬酔木花散る門も哉 子規

アセビ (2/5) 堀辰雄「浄瑠璃寺の春」「十月」「辛夷の花」「死者の書」

2013年3月23日土曜日

マンサク(2/2) シーボルト,Botanical Magazine,園芸種

Hamamelis japonica
Curtis’s Botanical Magazine (1882) 石版手彩色
MOBAT
マンサクに学名をつけたのは,シーボルトとツッカリーニ.1845 年の “Abhandlungen der Mathematisch-Physikalischen Classe der Königlich Bayerischen Akademie der Wissenschaften. Munich (バイエルンの自然科学学会紀要)” の “Flora japonica familiae naturales (日本植物誌分類大綱)” に発表した(左図).
また,マンサクの仲間は東アジア(中国・日本)と北米大陸東部に分布し,Asa Gray が提唱した「東アジア・北米隔離分布」を示す植物群の一つとして有名.

英国には米国産のアメリカマンサク(H. virginiana)が 1736 年に移入されたが,あまり花木としての評価は高くなかった.十八世紀の植物学者マーシャルは,その花は「まったく見栄えがしないが,咲きかけの頃には,人によっては欲しいと思うかもしれない.この灌木についてはそれ以上,庭師に対して言うことはない.マンサクという植物は,自然が植物学者の真面目な厳しいおめがねにかなうようにデザインしたもののようである」と述べている.

1862 年にヴィーチ商会が日本からマンサクを導入したが,この木は簡単に変異をおこす灌木とされ,ある栽培家などは,「種子を播くと,どんな種類でも手に入る」(ビーン)と嘆いているほどであった.
Enum. Pl. Jap. (1875)
1882 年のカーチスのボタニカルマガジンには,冒頭の美しい絵とともに「北米産の魔女ハシバミと近縁にある非常に興味深い植物で,赤い萼裂片の付いた花はやや大きく,また fruiting-calyx はやや短い.葉では殆んど区別が付かないが,北米産のほうが,通常細くまたしばしばより分葉している.(フランスの日本産植物の研究家として名高く,フラサバソウに名を残す)フランチェットFranchet とサバチェルSavatier 氏の(上右図),葉に重点を置いた見分け方はあまり信頼性が置けない」などと,アメリカマンサクとの類似性とその二種の見分け方に力点を置いて記載し,また日本と米国東部との植物相の類似性にも言及している.

英国においてすべてのマンサク類の中で最も人気があるのは,シナマンサク(H. mollis)である.これは,ヴィーチ商会のために植物を収集していたチャールズ・マリーズが 1879 年に九江(江西省)で見つけた.しかし,マリーズがイギリスに送った株は,ヴィーチ商会のタームウッド種苗園で 20 年以上も放置されたままであった.というのは,変異をおこしやすいマンサクの一変異であろうと考えられていたからである.マンサクの花びらが,「まるで波打って縮んでいるリボン」(ストーカー “A Gardener’s Progress 『ある庭師の進歩』” (1938))のように見えるのに,シナマンサクの花びらが真っすぐである点が特徴的である.

'Ruby Glow' from RHS
シナマンサクは 1918 年に王立園芸協会の FCC(First Class Certificate)を獲得し,AM (Award of Merit (メリット賞)) は 1932 年に与えられた.花弁が長く花数も多い園芸種 ‘Pallida’ は 1932 年以前にウィズレイ園芸植物園で育てられていたが,これも園芸界で最も高い賞を勝ち取った.他にも赤褐色の花の 'Jelena' ,より赤みの濃い ‘Ruby Glow’ ,真っ赤な花をつける ‘Diane’ など観賞価値の高い園芸種が作出された.これらの種の開花時の画像は王立園芸協会の HP で見ることが出来る.

ヴァージニアへの入植が行われるかなり前から,アメリカ先住民は収斂作用をもっている各種のアメリカマンサクの内皮を,眼病や炎症やできものの外用薬として使用していて,今も治療薬として役に立っている.

一般にもよく知られている化粧品メーカー「ポンズ」が,最初に開発した「ポンドのエキス」("Pond’s extract" 右図)では,ハマメリスエキスがその効力の主成分である.日本で現在販売されている「ポンズ・クリームクレンジング」にも,コラーゲン,スクワランとともに,ハマメリスエキスが含まれていると記されている(http://www.ponds.jp/products/lifting_1.html).

ハマメリスは hama,「いっしょ」の意味,と melis,「リンゴ」の意味からできた言葉で,どのような植物であるか同定されていない植物についていた名前ではあるが,果実と花が同時に見られるこの類につけられた.

一方,英語名「魔女のハシバミ」(Witch-hazel)は,H. virginiana につけられたものであると考えられている.初期のアメリカの入植者は,水のありかを探すロッド・ダウジング(rod-dowsing)にハシバミの木の枝を使ったり,また H. virginiana  の枝を用いたからである.しかし,この名前は「曲がりやすい」とか,「弾力性がある」という意味のアングロ・サクソン語の wice とか wic という言葉からでてきたものであるかもしれないとの説もあり,日本における「ねそ(綯麻)」との類似性が興味深い.

冒頭の図譜の説明:1, Bud (from “Gardeners’ Chronicle”); 2, portion or flower laid open; 3, petal; 4 and 5, front and side view of stamens; 6, rudimentary stamens; 7, carpels; 8, transverse section of a carpel

2013年3月19日火曜日

マンサク(1/2)物品識名,綯麻(ねそ),ハマメリス葉

Hamamelis japonica
撮影 茨城県フラワーパーク
早春の野山を最初に彩る日本原産の花木の一つ.葉のない枝を,黄色い細いカールしたリボン状の花弁とえび茶色の萼とで飾る.

NDL
縄文時代から建築に使われていたといわれる利用価値の高い木ながら,文献ではあまり見られず,木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』柏書房 (1991) には,出典として岡林清達・水谷豊文『物品識名』(1809 跋)が記載されるのみ(左図,文中の「ウメズヱ」が何かは分からなかった).観賞用花木や生薬としての価値がないとみなされていたからであろうか.
磯野の初見*は狩野常信『草花魚貝虫類写生』(1661-1712)の 1704 年度分だということだが,所蔵している国立博物館から公開されている画像では確認できなかった.他の江戸時代の園芸書・図譜を調べたが,この植物の記述や図は見出せなかった.

芽吹き頃のマンサクの樹皮は粘りが強く切れにくいので,縄のない縄文時代では材と材とをむすんで固定するために使われていたと考えられ,後世でも綱の代りに,材を打ち砕いて「綯麻(ねそ)」として筏や薪,建築物の柱を結ぶためなどにも利用された.世界遺産として知られる岐阜白川郷の合掌家屋の「くだり」や「やなか」と呼ばれる構造材の部分は何百本の「綯麻(ねそ)」で締めこんで合掌家屋の構造を支えている .実際の使われ方は『茅葺き職人のブログ(http://www.kayabuki-ya.net/ver1/notebook/2008/03/0309.html)』に詳しい.

中国産のシナマンサクや米国産の種との交配などで花弁の色が赤やオレンジ,白など多くの園芸品種がつくられていて,庭木や公園樹として植えられ,盆栽,花材にも利用される.また葉にはタンニン類が多く含まれるので,米国産の近縁種,ハマメリス Hamamelis virginanana L. の代用にハマメリス葉 (Hamamelidis Folium) として用い得るが,日本ではほとんど使われていない.

メキシコおよび北米ではハマメリス葉を収れん,止血,止瀉薬とし赤痢,細菌性の下痢に煎剤(1日5g)を内服し,また痔の坐薬,湿疹などの軟膏に配合する.成分は約3%のタンニンで hamamelistannin と呼ぶものが知られている.

なお,最近植え込みや生垣として人気のある,赤や白の花をいっぱいにつける「トキワマンサク」は同じマンサク科ながら,別属(Loropetalum属)の植物.

*磯野直秀『資料別・草木名初見リスト』慶應義塾大学日吉紀要 No.45, 69-94 (2009)

2016/05/31 追記

最近読んだ1920年代の米国北東部の小さな町の医師が謎の事件を解決する,エドワード・D・ホック著,木村二郎訳『サム・ホーソーンの事件簿I』(2000)の「呪われた野外音楽堂の謎」には,訪れた薬局で看護婦のエイプリルが「帰る前に、母のためにマンサクのエキスを買わないといけないので」と云い,サムは「そして、店を出るとき、母親のためにマンサクのエキスを買うのを忘れないようにと、エイプリルに言ったんだ……」とある.原文は確認できなかったが,20世紀前半には米国の町の薬局でマンサクのエキスが日常的に使われる薬品として売られていた事がわかる.

2013年3月12日火曜日

ロウバイ(3/3) ルドゥテ,ケンペル,リンネ,ツンベルク,グレイ「東アジア・北米隔離分布」

 Chimonanthus praecox
Redoute "Nouveau Duhamel" (1800)  Japan Calycant

Amoenitates Exoticae
最初に欧州にこの中国原産の灌木を中国名 “La-mei” として紹介したのは,ポルトガルのジェスイット派の宣教師 Alvarez de Semedo が 1643 年に送った手紙であった.
約 50 年後,長崎・出島の医師として来日したケンペルが,著書『廻国奇観』(Amoenitates Exoticae, 1712)に,長崎で見た花を日本名 “Obai” として図(左図)とともに「蠟梅」の漢字入りで記述した.

この記述と図を元に,リンネが「日本に生育している潅木で,”Abai”, “Robai” と呼ばれている」(右下図)として,米国原産の「クロバナロウバイ属」に分類し, Calycanthus praecox と学名をつけた("Species Plantarum”, Edition 2, p718).
Species Plantarum”, Edition 2, p718

日本を訪れたリンネの弟子,ツンベルクは著書『日本植物誌』(Flora Japonica,1784)に,索引には属名は記したものの,該当ページに記述は見当たらない.
また,この Flora Japonica を元に,和名と学名の対応表を記載した伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』(1829)においても,「ロウバイ」も “Calycanthus praecox” もない.ツンベルクは記載する予定はあったものの,書き忘れたのであろうか.
現在の属名は 1819 年に著名な英国の植物学者リンドレイが Chimon (winter) と anthos (flower) から名づけた.

西欧においても,日本・中国と同様,或はそれ以上に,冬季に咲くつややかな花とよい香が歓迎された.

Gift from Kate-san
"Garden Shrubs and Their Histories" Notes by John L. Creech, Simon & Schuster (1992) には,「英国には 1766 年 Worcestershire の Croome の Coventry 卿に標本が届けられるまでは渡来しなかった.そこでは温室に植えられ,1799 年までには高さ,幅 10 フィートの繁みにまでに成長した.咲いたときの芳香は建物から 50 フィート離れていても香った.1800年刊のボタニカルマガジンに Old Brompton の種苗家 Mr, Whitley から供給された枝が描かれた(右下図)が,「彼の主人は町近辺の殆んどの育苗家にその植物を分け与えた」.取り木もしくは播種によって繁殖された株は,それまでに簡単な防寒を施して戸外での越冬が試行されて,耐寒性があることが確認されていた.1838 年までにはこれは,「殆んどの選ばれた庭に花を目的に育てられ,少なからぬ花が毎日集められ,スミレと同じように,応接室や婦人の間に置かれた.」
Curtis BM, 1800, 銅版手彩色

Loundonはこれを「この木のない庭など考えられないぐらい,欠かせない木であり,・・・ロンドンの北にある全ての庭において,少なくとも得られる喜びから判断するに,他の同様に壁に這わせる果樹と同等の価値がある (it deserves a wall as much as any fruit-tree)」とみなした.これ以降,違いが分かる鼻を持った庭師たちから,この賛辞は何度も繰り返された.E. A. Bowles はさらに,「二本の植物を植えられる広さのある庭ではロウバイとカンザキアヤメ(寒咲きアヤメ Iris unguicularis)を育てるべきである.」とまで云った.Haworth-Booth氏は,「純心な若いときにこの花の香を嗅いだ鼻は,非常な高齢になってもこれを忘れることはない」と云った.
(中略)

中国においては基本種のほかに少なくとも宋王朝時代 (A.D. 960-1279) に園芸化された五種の品種があり(注:ソシンロウバイ,トウロウバイなどか),11世紀には多くのこの花を詠った詩の内の最初のものが現れた.
温暖な地方では,この花は中国の新年の祝賀儀式のころに咲き,中国の婦人の間ではこの香のよい花を髪に飾るのが伝統であった.材自身も芳香をもつので,中国と日本の主婦は箪笥や衣装部屋に枝や小枝を束ねて入れて,移り香を楽しんだと言われている.
ノート:米国においてもロウバイは,長いこと待ち望まれていた冬季の花の咲く灌木である.不運にも,この植物は挿し木などの無性生殖で繁殖させるのは難しかった.日本においては,11月にロウバイの気持ちのいい香の花を咲かせる専門家がいる.マンゲツ(満月)と呼ばれる変種は八重咲きの大きな花を多数つける.米国国立樹木園はこの植物を 1976 年に日本から購入したが,挿し木や接ぎ木が困難なため,まだ流通していない.」(原文,英語)とある.

最初にリンネがクロバナロウバイ属に帰属させたように,中国原産のロウバイ属と米国原産のクロバナロウバイ属(一例,右下図)には類似点が多々ある.

ハーバード大学の Asa Gray 教授 (1810-1888) は,ペリーが日本来航の際に採集した植物標本の解析とともに,この二つの類似した属が太平洋を挟んで分布している事も根拠の一つとして, 1859 年に「東アジア・北米隔離分布」を提唱した. 
Botanical Register V6 (1880)
Tab.481 Calycanthus Laevigatus.

“Calycanthace consist of three species of Calycanthus in the United States east of the Alleghany Mountains, one in California, and one, Chimonanthus, in Japan.” (Memoirs of the American Academy of Arts and Sciences, New Series, Vol. 6, No. 2(1859), pp. 377-452)

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「ロウバイ(2/3)  多識編・物品識名・物類品隲・本草綱目啓蒙」
「ロウバイ (1/3) 本草綱目・温故知新書・伊増補地錦抄・大和本草・和漢三才図会・救荒本草・花彙」

2013年3月5日火曜日

ロウバイ(2/3)  多識編・物品識名・物類品隲・本草綱目啓蒙,荷花梅

Chimonanthus praecox
マンゲツロウバイ (Chimonanthus praecox var. lutea cv. Mangetsu)
画像提供 つくば市 E.T.さん
以下にいくつかの江戸時代の辞書・本草書の蠟梅の項を示す.渡来した時期が遅かったためか,記述は『本草綱目』の写しが多く,また方言名が殆んどないのが目に付く.源内は檀香梅の中国からの渡来は享保年間で,俗に唐蠟梅と呼ばれるとした.さらにこの花を一枝挿すと部屋中に馥郁たる香が満が,花瓶の水には猛毒が移ると記している.蘭山の『本草綱目啓蒙』には,近年,荷花梅という花被全体が黄色いもの(ソシンロウバイか)が渡来した.また『群芳譜』には臘月の時に開くので臘梅といっているが,この名は非であるとしている.


NDL
★林羅山『多識編』 (1612) (再版 1630、1631) (左図,左)
蠟梅 ラフハイ 綱目(本草綱目)異名 黄梅花

★平賀源内『物類品隲』巻之四 木部(1763) (左図,中央)
蠟梅 和名ナンキンウメ
東璧(*本草綱目の編者,李時珍の字)曰 蠟梅種凡ソ三種 子種ヲ以出テ接経不者ノ臘月小花ヲ開而香淡シ 狗蝿梅ト名 接ヲ経テ花疎開ク時合口ナル者梅馨口梅ト名ヅク 花密ニシテ而香濃紫檀ノ如者ハ檀香梅ト名ヅク 最モ佳ナリ 實ヲ結コト垂鈴ノ如尖リ長寸余 子其中ニ在ト 今本邦狗蝿檀香ノ二種アリ
○狗蝿梅 江村如圭曰ク昔シ本邦之有コトヲ不聞(*きかず)
後水屋帝時朝鮮自(*より)来ルト今ハ處處多植
○檀香梅 ○漢種享保中種ヲ伝へテ官園ニ植 俗唐蠟梅ト云 花狗蠅梅ニ比スニ大ナルコト三倍 色琥珀ノゴトク 帯ニ近キ処深紫色ニシテ紫檀ノ色ノゴトシ 香甚濃ナリ 若シ一枝ヲ瓶中ニ挿メバ香馥室ニ満ツ ○本草ニ曰ク花瓶水之ヲ飲メハ人ヲ殺ス 蠟梅尤甚(*尤甚:ゆうじん 非常に.際立って.ひときわ)

★岡林清達・水谷豊文『物品識名』乾 (1809 跋) (左上図,右)
ラウバイ 通名ナンキンムメ 蠟梅 狗蝿梅 汝南国史
 シンノラウバイ 檀香梅 蠟梅ノ條

★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之三十二 木之三 灌木類
蠟梅 ナンキンウメ カラウメ トウウメ ランウメ 今通名 〔一名〕奇友(事物紺珠)九英梅(汝南圃史)狗蝿花(汝南圃史)狗英(花史左編)狗櫻(群芳譜)
蠟梅ノ説一ナラズ。時珍ノ説ハ、困其与梅同時、香又相近、色似蜜蝋、故得此名ト云。群芳譜ニ、人言臘時開、故以臘名非也、為三色正似黄蠟耳ト云。又似女工撚蠟所成、故名ト云。彙苑詳註来其蠟国ト云。コノ木ハ百九代後水尾帝*ノ時、朝鮮ヨリ来ルト云伝。故ニ俗ニ、カラウメ等ノ名アレドモ、今二至テハ皆蠟梅ト称ス。ソノ木叢生ス。*(在位:慶長16年(1611) - 寛永6年(1629))

高キ者ハ丈余、低キ者ハ数尺、枝葉対生ス。葉ノ形狭長ニシテ尖リ、長サ四五寸、肌糙渋ニシテ加条(ムク)葉ノ如シ。唐山ニテハ、ミガキモノニ用ユルコト物理小識ニ見エタリ。冬月、梅ト同時ニ花ヲ開ク。皆下ニ向フ。緑萼。弁ハ細長シテ尖リ、黄白色ニシテ光リアリ。蠟花ノ如シ。故ニ狗蝿梅ト名ク。狗蝿(イヌバイ)ノ色ニ似タルナリ。弁ハ九出ナリ。故ニ叉九英梅ト名ク。花中ニ蘂ナシ。小弁九出シ、紫黒色ナリ。コノ花開ク時ハ其香一室ニ盈。花謝シテ稀ニ実ヲ結ブ。大サ揖ノ如ク、長サ寸余、内ニ数子アリ、形雲実(カハラフヂ)ニ似テ、長ク褐色、甚硬シ。一種檀香梅、享保年中ニ渡ル。即、蠟梅中ノ上品ナリ。唐蠟梅ト呼。今ハ世上ニ多栽、直ニ檀香梅ト称ス。葉ハ九英梅ヨリ短ク厚ク、小柿葉ノ如シ。花ハ大ニシテ色深黄、弁円ニシテ梅花弁ノ如シ。内ノ小紫弁最モ美ハシ。香モ亦多シ。花正開セズ、常ニ半合ニシテ下ニ向フ。故ニ又磐口梅ト呼。今世ニ檀香梅ト称シ栽ル者ハ、多ハ荷花梅ニシテ真物ニ非ズ。即、檀香梅ノ一種、下品ナリ。荷花梅ハ弁狭ク尖リテ九英梅ト同ジ。其色深黄ニシテ正開ス。檀香梅ノ弁、円ニシテ半含ナルニ異ナリ。秘伝花鏡ニ、惟円弁深黄、形似白梅雖盛開如半含者名磐口、最為世珍、若瓶供一枝、香可盈室、狗英亦香、而形色不及、近日円弁者、如荷花而徴有尖、僅免狗英者ト云。此文ニテ檀梅香ト荷花梅ノ分別ヲ知べシ。又時珍、磐口梅、檀香梅ヲ分テ二ツトスルノ誤ヲ知べシ。

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2013年3月4日月曜日

ロウバイ (1/3) 本草綱目・温故知新書・増補地錦抄・大和本草・和漢三才図会・救荒本草・花彙

Chimonanthus praecox
2010年1月 皇居東御苑
原産地中国では名花として高く評価され,雪中四友(玉梅,臘梅,水仙,山茶)や,名花十友*の一つとして絵画や詩文の題材にされている.花が薬用としても使われていた.日本には,江戸時代初期,後水尾帝の時に朝鮮から渡来したとされている.
*曾端白(宋)が花十種を品評,雅友になぞらえたもの.一,桂花(仙友) 二,蓮花(浄友) 三,海棠(名友)四,酴靡(韻友) 五,梅花(清友) 六,菊花(佳友)七,梔子花(禅友) 八,端香花(殊友)九,蘭花(芳友)十,蠟梅花(奇友)

葉のない冬の時期に,明るい色の薫り高い花を開く事から,日本でも珍重され広く栽培された.また,種子は有毒ながら,花は飢饉の際に食べるられるとされている(救荒本草)が,その図はまったくのウメ.葉については形状はカキノキの葉に似ているとしているが,ムクノキの葉と同様に,ざらざらしているので木竹製品を磨くのに用いられるとしている書もあり,興味深い.

「臘梅」として記載された三種のうち,花としては評価が低い「狗蠅梅」が現在のロウバイであり,より薫り高く花が大きいと評価が高い「檀香梅」,現在のダンコウバイ(クスノキ科クロモジ属)ではなく,トウロウバイChimonanthus praecox var. grandiflorusであるとされている.なお,「狗蠅」とは体色が黄褐色のハエで,色が似ていることからこの名が臘梅につけられたが,花には気の毒のように思われる.参考のために,シーボルトのために多くの植物・動物・風俗絵を描いた川原慶賀(1786-1860以後)の「イヌバエ、ハエの一種」(ライデン国立民族学博物館蔵)の図を示す.

なお,花弁が蝋細工のように見えるため,「蠟梅」と名づけられており,臘月(陰暦十二月)に咲くからと「臘梅」と書くのは誤り.

NDL 和刻本草綱目
★明の李時珍選『本草綱目』(初版1596),左図 和刻本
木之三 (灌木類五十一種)
蠟梅(《綱目》)【釋名】梅花
時珍曰此物本非梅類,因其與梅同時,香又相近,色似蜜蠟,故得此名
【集解】時珍曰蠟梅小樹,叢枝尖葉。種凡三種以子種出不經接者,臘月開小花而香淡,名狗蠅梅;經接而花疏,開時含口者,名磬口梅;花密而香濃,色深如紫檀者,名檀香梅,最佳。結實如垂鈴,尖長寸余,子在其中。其樹皮浸水磨墨,有光采
花【氣味】辛,,無毒 【主治】解暑生津(時珍)
NDL 温故知新書
*陰暦十二月の異称

★『温故知新書(下)』「ラ」の部,「生植(植物)」の門に「蠟梅蘭(ラフハイラン)」とあるのが磯野*の初見.(右図)この書は室町時代後期の文明16年(1484年)に成立した全2巻(3冊)の国語辞典.著者は新羅社宮司大伴泰広(大伴広公),序文は園城寺学侶尊通.所収語数は約13,000で,いろは順が一般的であったこの時代に五十音順を採用した最古のものといわれている.
*磯野直秀『資料別・草木名初見リスト』慶應義塾大学日吉紀要 No.45, 69-94 (2009)

NDL 増補地錦抄
★伊藤伊兵衛『増補地錦抄』(1695)巻之三(左図)
○さつき梅桃るひ
南京梅 花黄色梅にてハなく十月より花咲ゆへ臘梅とも云

★貝原益軒『大和本草 (1709) 巻之十二木乃下花木
蠟梅 本草灌木ニ載ス 近年中夏ヨリワタル 臘月ニ小黄花ヲ開ク 蘭ノ香ニ似タリ 中華ノ書ニ多ク記シ詩ニモ詠セリ 花ノ容ハ不好 葉ハ柿ニ似テ柿ノ葉ヨリ小ニメ長シ 葉ニ少シイラアリ 其高二三尺四五尺ニスギズ 大坂ニテハカラ梅ト云 梅ノ類ニハアラス 根ニ香気アリ 味辛辣木香(ノ)如ト云 中華ノ本(ノ)名(ハ)黄梅 後世蠟梅称ト云ヘリ

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃),現代語訳 島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳,平凡社-東洋文庫
蠟梅 らふばい 黄梅花〔俗に南京梅という〕
『本草綱目に次のようにいう。臘梅はもともと梅の類ではない。それは梅と時期を同じくし、香りもよく似、色も蜜臘に似ているので、こう名づけているのである。小樹で枝は叢(むらが)り、葉は尖り、垂鈴のような実を結ぶ。尖っていて長さ一寸余。子はその中にある。樹皮を水に浸し磨くと黒くなって光沢がある。お
よそ次の三種がある。
狗蠅梅(くようばい) 子を種えて育て、接木しないもの。臘月(十二月)に小花を開き、香りは淡い。
磐口梅(けいこうばい) 接木して育てる。花は疎(まばら)で、開くときに口を含んだように半開きで平開しない
檀香梅(だんこうばい) 花は密で香り濃く、色は深黄。紫檀のようなもの。最も住いものとされる。 
△思うに蠟梅は花弁六つ。単葉で小梅の花に似ていて黄色。枝は柔らかに撓う。遠くから見ると日本の連翹(湿草類)のようである。ただし連翹の花弁は四つで盞(ちょこ)の形をしている。
『農政全書』に「臘梅の枝条(えだ)は李(すもも)によく似ている。葉は桃の葉に似ていて寛(ひろ)く大きく、紋がやや粗(あら)い。淡黄花を開く。味は甘く徴苦」(荒政、木部)とある。

NDL 救荒本草
★『周憲王救荒本草』明徐光啓輯 茨城多左衞門等刊(1716)〔周憲王(周定王)朱橚選『救荒本草』(初版1406)〕巻之十一(左図) 
木部 花可食
臘梅花 (ナンキンムメ)
南方ニ多ク産ス 今北土ニモ亦之有 其ノ樹枝條頗フル李ニ類ス 其葉柿葉ニ似テ而寛大 紋微麄 淡黄花ヲ開ク 味甘ク微苦

NDL 花彙

救餓 花ヲ採リ煠キ熟シ水ニ浸シ淘浄シ油塩ニ調ヘ食

★小野蘭山『花彙』(1765)木部之三(右図)
九英梅 蠟梅 カラムメ ランムメ                            汝南圃史
今處々ニ植フ モト異邦ノ種ナリ 樹高サ丈余 枝条(エダ)叢生ス 葉朱果(カキ)ニ類シテ狭長尖峭(トガル)頗フル硬沙(カタクザラツク)ナリ 亦糙葉(ムク)樹ノ葉ニカヘテ木竹ヲ治ムベシ 季冬花ヲヒラク 大サ五銖銭ノ如ク九出淡黄色 中心又九葉ノ小花ヲナス 深紫色藜蘆(シュロソウ)花ニ似タリ 實ヲ結ブ 尖長寸許 内子自ラ落テ生ジヤスシ

川原慶賀(1786-1860以後)
イヌバエ、ハエの一種
A kind of fly
ライデン国立民族学博物館


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