2011年3月31日木曜日

ミナトベカナ

Brassica rapa cv “Minato-bekana” 「べか」とは「小さい」という意味だそうで,明治時代、「べか船(http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1541000034.html)」という小さな和船で一年中東京の市場に出荷された小型の菜っぱなので「べか菜」と俗に言われた.明治初年に日本に入ってきた山東菜の中から選抜育成した,小束収穫用の極早生の結球しない白菜のなかまで,葉は肉厚で波うち淡緑色で美しい.小さいうちに収穫するので栽培期間が短く,周年栽培できる.やわらかくクセのない味で、塩づけにすると歯ごたえよく,おいしいとのこと.

小松菜と並んで東京を代表する菜っぱ.種を採るには菜の花を咲かせ,莢に実がいったら刈り取り,莢から種子を外し乾燥する.自家不和合性なので同品種を複数株用意することと,他のアブラナ科野菜との交雑に注意.

庭の畑では,葉をたべる野菜ではなく,若い花茎を癖のないおひたしとして食べる野菜として育てられている.一寸油断すると黄色い花が咲いてしまうが,その花はアブラナよりは弱いものの,甘ったるい香りを放ち,ヒヤシンスと競っている.直播しても発芽率がよく,寒い間は育てやすい.暖かくなるとモンシロチョウをはじめとする,アオムシ達の幼稚園となる.

2011年3月28日月曜日

ヒアシンス (2) コレット,ノアイユ伯夫人,根に含まれる粘液,薬用,香水

Hyacinthus orientalis, wild type? 終りにのぞんで、お許し得て、すはらしいコレットの一節を引用しよう。
「未経験と同じような、はにかみから来る大胆さを以って、ノアイユ伯夫人は花を描いた。
ある日、陶器のような青さの野性のヒヤシンスの壷を前にして、我慢できなくなった彼女は、口惜しまぎれに、パステルを投げつけた。
「ああ、このいやな、青いヒヤシンスが赤かったらうまく描けるのに」と溜息をついた。
- 赤くしたらいいでしょう、と私は言った。
彼女は私の方に、美しい切れ長の目を向け、頭を振って、蛇のように長い黒髪を揺った。「だめ、そんなこと出来ない。」
- なぜ?
- 私はそんな大家ではない……
- 大画家ではない?
- いいえ、大詩人ではない、とつつましく言った。」
   「花の歴史」リュシアン・ギヨー,ピエール・ジバシエ著, 串田孫一訳 ≪文庫クセジュ≫ 1965

ノアイユ伯夫人(Anne Claude Louise d'Arpajon, Comtesse de Noailles 1729 - 1794) はマリー・アントワネットから"Madame Etiquette" と呼ばれるほど,宮廷の礼儀作法にうるさい指導者.池田理代子作「ベルサイユのばら」に描かれて,ソフィア・コッポラ監督の映画「マリー・アントワネット」ではジュディ・デイヴィスが演じている.

この花の魅力は,花弁の中央の紫の線が集まる花芯へのデルフトブルーのグラデーションの花色,そして一茎の花で部屋を満たすさわやかながら甘い香り.そしてくるりとカールした花弁の形.園芸種の,花がびっしりとついた華麗さはないものの,気品ある清楚さ.黄色いラッパスイセンと互いに引き立てあう.

イギリスでは,19世紀の中ごろまで,年々オランダから大量に輸入していた。根に含まれる粘液はでん粉に代用され,固いひだえりの流行した16世紀にはこれをのりに用いていた。こののりは,矢に羽を塗りつけたり,書物の装丁にも利用した。取り立てていうほどの薬効はないが,それでもこしけの妙薬とされていたし,大陸では香水の材料のひとつとされている。イギリスでは,古くはその根をつぶして白ブドウ酒に混ぜ,それを髪に塗って伸びるのを防いだ。これとは逆に,Dioscoridesによれば,この根ははげに発毛の効があるという。
   「英米文学植物民俗誌」加藤憲市著 冨山房 1976

その香りはすっきりとしつつも甘さを持った素敵なグリーンフローラルで、Palazzo Vecchio の Giacinto Selvatico(左図),Penhaligons の Bluebell,Chanel の Cristalle,Gucci の Envy等の主精油として使われている.

2011年3月25日金曜日

ラッパスイセンとティタティタの競演

Narcissus cyclamineus 'Tete-a-Tete' & Narcissus pseudonarcissus sp.

Your maidenheads growing: O Proserpina,
For the flowers now, that frighted thou let'st fall
From Dis's waggon! daffodils,
That come before the swallow dares, and take
The winds of March with beauty
William Shakespeare: Winter's Tale, IV, iv, 116-20 (1623)

今年は冬が寒くて長かったためか,いつもよりスイセンの開花が遅く,しかも開花の時期が短期間に集中している様だ.例年なら同時に見られない花達の競演がみられている.画像はラッパスイセンの一種(勝手に King Alfred)とティタティタの花競べ.

今の庭は黄色がメインカラー.主役はスイセンたちとディモルフォセカ,それに菜花が甘い香りをそえる.紫のヒヤシンスも爽やかな香りを漂わせ,白・紫・黄色のクロッカスたちも可憐な花で地面を彩る.まさに春のクライマックスの第一弾.サクラソウの芽も大きくなり,いくつかは花芽も確認できた.開花が待ち遠しい.

おまけは1979年3月,英国ケンブリッジ,St John's College の The Backs のラッパズイセン.

2011年3月20日日曜日

ショカツサイ 白花,地錦抄附録,紫金草,諸葛菜,橋本関雪,Curtis's Botanical Magazine

Orychophragmus violaceus
筑波山麓の耕作放棄された畑の片隅に咲いていた白いショカツサイ.白いのがあるとは知っていたが,複数の白い花の株が紫と一緒に咲いていたので,そっと一株ずつ抜いて,庭に植えた.種が落ちて白と紫の花が咲いた.白い花は珍しいらしい.宮城教育大学の安江・鵜川研究室 が管理するoNLINE植物アルバム(http://plantdb.ipc.miyakyo-u.ac.jp/index.htmlを「ショカツサイ」で検索すると13の登録画像の内,白花が2つ.

諸葛菜の名前から分かるように,中国原産.日本には,古くは江戸時代,宝永正徳年間(1704 - 15)に渡来し,庭園で栽培されたとの記録がある(地錦抄附録 しょかつな).但し,名は諸葛菜ではあるが,花は黄色(ウコン色)とあり,挿図を見ると立性のキャベツのように見える.ハボタンの一種ではないかと言う専門家もいる.

紫色の花をつける「ショカツサイ」が方々で目に付くようになったのは戦後で,昭和14年に茨城出身の軍医,黒田氏,山口氏が中国南京郊外の紫金山で採取した種を増やして「紫金草」と名付け,戦没者の慰霊のため,種を頒布したからとされている.オオアラセイトウ(標準和名?),ショカッサイ,ムラサキハナナ,ハナダイコンとも呼ばれる.

中国では,二月兰(「蘭」の簡字体),菜籽花,翠紫花,二月蓝,湖北诸葛菜,毛果诸葛菜,缺刻叶诸葛菜,野油菜 の別名がある(http://www.cfh.ac.cn/16292.spid).
中国での正式名は「諸葛菜」,三国時代の蜀の名丞相,諸葛孔明(181 – 234)が戦の先々で,しばしの在陣でも地を選んで,生育の速いこの植物を蒔かせたのでこの名がある,といわれているが,この植物は食料としての価値はほとんどない(若い芽は煮てから水にさらし,苦味を取った後に食用にできるそうだが)ので,実際には蕪の類ではなかったのかと思われるとの事.実際,本草綱目では菁の別名ともされている.

しかし,こんな伝説をもって中国ではこの植物をも諸葛菜と呼ぶようになったといわれている.

江南の地に良く繁殖し,中国の春を旅した画家の橋本関雪(1883 - 1945)は「支那山水随録」(文友堂書店 1940)の一節で,この花を描写して「紫毛氈を敷いた如く,繁殖力特に盛んなり.わが紫雲英(レンゲソウ)比すべく,その花さらに美なり.」とその美しさをたたえている.

都内の鉄道沿線,春の土手をセイヨウアブラナは黄色の,ショカツサイは紫の毛氈に変える.中央線,中野と東中野の間,よく知られている桜が終わると,この花が斜面を埋め尽くす.都内でこの花が拡がった陰には,いわゆる花ゲリラの活躍があった.彼らはあまりに殺風景な鉄道の土手に彩りを与えるため,こっそりといろいろな花の種をまいて歩いたが,このショカツサイはその中の優等生であったとか.今では首都の春の色として,この花の紫色は欠かせない.

左図:1876年 W Fitch原画, Curtis's Botanical Magazine (England)
Moricandia Sonchifolia (= Orychophragmus violaceus, PURPLE CHINESE CABBAGE) 石版手彩色

2011年3月16日水曜日

野蒜海岸のハマニガナ

Ixeris repens
野蒜海岸は子供の頃に海水浴にいった.閑上(ゆりあげ)海岸は小学生のとき地引網で遊んだ.荒浜には姉の友人がいてその家に泊まって潮干狩りをした.松浦の原釜には広い松原があって,大きなハマグリを買ってきて七輪で焼いて食べた.報道を聞くたびに,何年も耳にしていない懐かしい地の名前が出るが,こんな事で聞くのは残念の一言.

米国の友人,カリフォルニアのケイトさんと,インディアナ州在住のダンさんからお見舞いのメールが届いた.彼らとはいわき市にあるK***社の仕事を通しての付き合いが始まりだったが,今はそれから離れても良い友人.心に懸けてくれているのは直接の友人・知人だけではなく,それを通して知った日本. その日本への励ましのメッセージ.

Dear N**-san,
There are no words that can convey my feelings.
These events are truly beyond comprehension, and I can only imagine the horror that Japan is experiencing as the full impact of the earthquake is realised.
One thing is for sure: Japan was more earthquake-prepared than any country, and so I can only think that the there are many fail-safes on the nuclear plants.
My thoughts are with you.
Kate

Mr. N**,
I am so troubled by all of the grave news in Japan. I feel so bad for all of those effected by the earthquake. The US news media is reporting all of the trouble including the possible nuclear meltdown in Fukushima. As I remember, one of K**'s plants is in Iwaki which is close to the nuclear power plant, right? I will keep all of those that might be dead in my thoughts and prayers and I will also keep all of those who survived in my thoughts and prayers as well - as this quake has effected so many lives and generations. I can imagine that even the survivors will have many sleepless nights ahead. I am so grateful that you are okay, please continue to be safe. Do you know if all of my other friends at K*** are okay?
Please let me know if there is anything I can do personally to help out.
Dan

心当たりの方は返信を.

2011年3月14日月曜日

野蒜海岸のハマエンドウ

Lathyrus japonicus
2011年3月11日に起きた東日本大震災.詳細が分かるにつれ,被災地,特に津波による太平洋沿岸地域の壊滅的な状況に心が痛む.仙台は小学4年から就職まで過ごした町であり,父母や兄姉が眠る地でもある.知人に電話をかけても通信が多量のためか通じない.
皆さんの無事を祈り,一日もはやい復興を願い,今は,募金に応じ,省エネに励むことしか出来ない.

松島の絶景を望むことが出来る大鷹沢の麓,野蒜の海岸には200人あまりの遺体が打ち上げられていたとか.あの,ハマエンドウやハマニガナが咲き乱れていた穏やかな海浜を思い出すと,悲しい光景は想像できない.
なくなられた方々が,一刻も早くご家族の元へ帰ることが出来るよう.
ご冥福を祈ります.

2011年3月8日火曜日

ひなぎく English daisy

Bellis perennis 1978年9月,ロンドンに一泊した後,汽車でイングランド中部の大学町へ.大学の機関を通じて借りた家は市の中心部の築後100年のレンガ造りのテラスドハウス.家主さんはブラックホールの研究で,十数年後に日本でも大変有名になったH博士.鉄道駅まで出迎えてくれた妻のJさんは,後年離婚したとか,TVの番組になって日本で放映されていた.
借りた家の近くにはいくつもの公園があり,四季折々いかにも英国らしい花で彩られたが,初期の不安な気持ちを慰めてくれたのは小さな公園の芝生の上に咲いていたヒナギクの花.子供の頃から育てて親しんでいた素朴な花は,懐かしい幼友達.おさらんこ花と呼んでいたっけ.

この可憐な花は英国人に愛され,文学にも古くから登場し,当時世俗の言葉であった英語を使って物語を執筆した最初の文人ともいわれるジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1343? - 1400)はその『善女物語 (The Legend of Good Women)』(1380- 86)の牧場の花づくしで,私の好きなのは白と赤のデージーと歌った.
“Now I have also this disposition, that of all the flowers in the meadow I most love those white and red flowers, which men in our town call daisies.”

また,スコットランドの国民的詩人,ロバート・バーンズ(Robert Burns、1759 – 1796) もこの花を大変愛し,古いスコットランド民謡(日本の「蛍の光」の原曲)につけた詩,有名な Auld Lang Syne の 3番では旧友と子供時代にこの花をつんで遊んだ昔を懐かしむ.

We twa hae run about the braes, and pu’d the gowans fine ; But we’ve wander’d mony a weary fit, sin auld lang syne. (Burns’ original Scots verse)
We two have run about the slopes, and picked the daisies fine ; But we’ve wandered many a weary foot, since auld lang syne. (English translation)

彼はこの花を人の純朴さ・純粋さや自然の象徴と考えていたようで,"To a Mountain Daisy" では,ヒナギクが不誠実な人や社会の発展の力で折られていくのを悲しむ.

Ev'n thou who mourn'st the Daisy's fate,
That fate is thine -- no distant date;
Stern Ruin's ploughshare drives, elate,
Full on thy bloom,
Till crush'd beneath the furrow's weight, Shall by thy doom

おまけは,約1年後にH博士所有の家から転居した郊外の家の裏庭の写真.
ここには 5月には花で覆われ,初秋に小さな実のなるリンゴの樹があり,ハリネズミもやってきた.4月の芝生にはヒナギクがいっぱい.風力を利用した洗濯もの干しの装置もユニーク .

2011年3月5日土曜日

ヤマトタマムシ

Chrysochroa fulgidissima庭にフクジュソウ,クロッカス,ヒヤシンスなどが咲いているが,私にとって春の訪れを告げるのは,地面から覗く仔ウサギの耳のような(日本)サクラソウの芽.毎年,今年は出てくれるかなと気をもんでいるが,昨年は夏の猛暑と体調を崩したため水遣りが十分ではなかったので,今年の芽はことのほか嬉しい.
暖かった日に周りの草取りをしていたら,きらきらと輝くものが枯葉の間に.風で飛んできたお菓子の包み紙かと思ってよく見たら,タマムシの遺骸.死後相当経っているのか,頭と中身,ほとんどの足は失われているが,外骨格の大部分は原型をとどめ,その輝きはまるで宝石のよう.

標本で見たことはあったが,手にとって眺めるのは初めて.日光を受ける方向によって色を微妙に変えながらきらめく.腹部は背部ほど表面の構造が複雑ではないためか,つるっとした陰影の少ない金属光沢の青緑色.一本残った足も,その先端部まで輝いている.

こんなに目に付く色では鳥に見つかりやすく,食べられるのではと心配だが,「鳥は、『色が変わる物』を怖がる性質があるため、この虫が持つ金属光沢は鳥を寄せ付けない。」とのこと.そういえば,鳥除けのためベランダにCDをぶら下げていたり,畑や田んぼで金属光沢のテープを張っていたりするのは,鳥のそのような性質を利用したのだと聞いた.目立っても,嫌がられて食べられなければ,それでいいのだ.オオゴマダラの蛹やモルフォチョウもそれを利用しているのであろうか.

タマムシといえば玉虫厨子.教科書の写真では高さ60cmぐらいかなというイメージだったので,法隆寺で実物を見た時は大きいのにびっくり.そのうえ,ずっとタマムシの羽は下部の半球状の部分にはめ込まれているとばかり思っていたが,再現された玉虫厨子の写真を見ると,宮殿部の透かし彫りの飾金具の下に敷き詰められていた. 2008 年に岐阜県高山市の造園業中田金太さんが私費を投じて作製したこの復刻版には,タマムシの羽6622枚が使われたとの事.

思わぬ春の贈り物,今年はいいことあるかな.でも残骸なので中くらいかも.