2017年2月23日木曜日

オシロイバナ-13 梅毒 日本での蔓延-2 江戸時代.西遊記,形影夜話,養生法,骨から見た日本人,ケンペル,ツンベルク,シーボルト,高良斎

Mirabilis jalapa
梅毒スピロヘータは,カリブ海から地球を半周して日本に到達,1512年(永正9)には記録が残る.南蛮人の渡来より30年も早い.この梅毒を大陸から運んだのは日本人を主体とする倭寇(わこう)であり,時代は戦国乱世の動乱期で,梅毒はたちまち日本人を激しく冒していき,江戸時代に深く淫侵(いんしん)した. 
梅毒は室町後期 1512年には京都の多くの住民が罹患していると書かれている.これが梅毒の日本における最初の記録とされており,人の往来の多い大都会を中心に日本各地に拡がった. 
梅毒は江戸時代になると,参勤交代で江戸に上がった藩士たちが遊里で遊び,感染して帰国後地元で拡げたことから*,全国的な感染症となった.

京都の医師,橘南谿 (17531805) が,医学修業のため諸国を歴遊し,道中で見聞し考えたことをまとめた「東西遊記」の内,1795年に版行した『西遊記 下 巻之三』の「〇壽(じゆ)夭(えう)」(長命と短命)の章には,
西遊記 下 巻之三 〇壽(じゆ)夭(えう)WUL
「〇壽(じゆ)夭(えう)
余諸國をめぐり試(こころむ)るに,山中の人は長命なり.海邉の人は短命なり.京都の人は癰疔(ようちょう)の如き腫物類は甚稀(まれ)なり.長崎には甚多くして,京都の三雙倍(ざうばい)五雙倍ともいふべし.其由來を考ふるに,食物の事にあり.山中の人は魚肉なければ常(つね)に芋(いも)大根の類のみを食す.もし年始(ねんし)節句(せつく)其外祝ふ日といへども,富(とめ)る者も纔(わずか)に鹽肴(しほざかな)乾物(ひもの)には不過(すぎず).其上に高山深谷(しんこく)に登り下りて耕作(かうさく)に身を勞(らう)し,纔に麥飯(むぎめし)に饑(うゑ)をしのぐ.麁(そ)食にして身を動(うごか)す故に,長命にして無病なり.海邉の人は魚肉(ぎょにく)に飽滿(あきみち)て,飯のかはりにも魚を食し,船の出入り有りて諸國の運槽(うんさう)よろしければ,飯は其米自由(じいう)なるゆゑに,貧しき者もつひに麥飯などは食せず.其上に山坂の働(はたらき)の苦勞(くらう)は無く,船にて往來(わうらい)やすらかにして,魚鹽の利ゆたかなれば,自然と身も安くして美食にくらす故,病身(びやうしん)にして短命(たんめい)なり. 猶又山中は人の往來不自由にして,淋敷(さみしく)質朴(しつぼく)なれば,賣女(ばいぢよ)遊里(いうり)も無く,濕毒(しつどく)傳染(でんせん)の憂(うれひ)も無く,海邉は何方(いづかた)にても諸國(しょこく)の通路(つうろ)よければ,賑(にぎやか)に華麗にて遊女あらざる所もなく,人ごとに濕毒もうつり,且又鹽(しほ)風(かぜ)に濕氣(しつけ)を受(うけ)て,内外より病を作り養ひ,心氣(しんき)を勞(らう)し,腎(じん)をつからし,いかなる壯實(さうじつ)の生れ附といへども,短命(たんめい)病身(びやうしん)ならざう事あたはず.是山中と海邉の壽夭(じゆえう)の違(ちがひ)の根本(こんぽん)なり.長崎は天下第一に魚肉(ぎょにく)たくさんにて,野菜(やさい)の類より下直(げぢき)なる程なれば,人皆日々魚肉に逢ひて飽満(あきみち),且又唐人の飲食を見習へ,何の肉にても油(あぶら)あげになし,厚味(こうみ)にして食す.其上金銀の通利格別に宜敷,人皆歡樂(くわんらく)にしえ世を渡る.其故に日夜唯飲食のみを樂(たのしみ)として,身を働(はたら)き氣血(きけつ)をめぐらす事なし.是皆腫物(しゅもつ)の類(るい)の多(おほ)き根本(こんぽん)なり.京都は人皆家業(かげふ)を専一につとめ,身を働き,海(うみ)無(な)き國なれば,魚肉格別高料(かうれう)にして,貧賤のものは求(もと)めがたし.故に他國(たこく)に違(ちが)ひ,常(つね)に麁食也.癰疔の類すくなき所以(ゆゑん)なり.然れども,繁(はん)華(くわ)の地ゆゑ濕毒(しつどく)の憂(うれひ)は日々に多く,貴賤(きせん)おしなべて病(やま)ざる者無きに似たり.もし保養(ほうやう)をよくせば,京の地も長壽(ちやうじゆ)を得べき所なり.」
と,港町は人の往来が盛んで,賣女,遊里が多く濕毒にかかる可能性も高く,食生活も肉食に偏り味付けが濃いので,山里の人に比べれば短命である.京都も食は山里に近いが,賑やかなので「濕毒の憂は日々に多く,貴賤おしなべて病ざる者無きに似たり.」.しかし,保養に努めれば,山里の人と同様の長命を保てるだろうとしている.

山脇東洋の門下であり,古方派の医師であるが,西洋医学にも理解を示した永富独嘯庵1732 - 1766)の『黴瘡口訣』1788 序)には,
「黴瘡口訣  独嘯菴
黴瘡口訣  独嘯菴 WUL
凡,此黴毒ノ一症ハ,中古以来ノ病ニテ,中華ニテモ,結定端的ノ方書無シ.陳九韶ガ,黴瘡秘録ト云ヘル一書アレドモ,下手醫者ノ著タル書ナレバ,治療ノ手本トナシ難シ.近年此病,諸国ニ流傳スルコト,大方ナラズ在在津々浦々,至ラヌ所ナク,跡先ナシノ,年少ノ徒ハ,治療ノ道ヲ,疎略ニ打遣リ,終身ノ患トナル者夥シ.
(中略)予,諸国ヲ經歴セシ内,肥前長崎,或ハ京大坂,江戸ナドノ如キ都會繁華ノ地ハ,十人ニ八九人ハ,此病ヲ病.医ヲ業トスル者,能々心得アルベキ事ナリ.此病ハ,昔ヨリ素人療治ニモスルコト,仕似セトナリテ,夫ニテ,輕粉*水銀ノ毒ニ中リテ,終身廃疾トナル者モ,亦多シ,此病ニハ輕粉水銀モ用ヒザレバナラヌコトアレドモ,至テ嶮峻ノ藥ナレバ,素人業ニハアブナキコトナリ.是又大ニ傷ムベキコトナリ.箇様ノ事,イヅレ生民ノ大患ナル故,目ニ見耳ニ聞手ニ仕覺エタル事ヲ,アラアラ書付侍ルナリ.」と,日本全国に「流傳」し,大都会では「十人ニ八九人ハ,此病ヲ病」み,しかも副作用の甚大な水銀剤「輕粉」以外有効な治療薬がないため,水銀中毒となり「終身廃疾トナル者モ,亦多シ」と,嘆いている.(輕粉*:水銀から昇華法で精製した粗製塩化第一水銀(甘汞) Calomelas (Hg2Cl2またはHgCl) の白色結晶性粉末)

杉田玄白 WUL
杉田玄白1733-1817)は晩年の著作『形影夜話 巻之下』(1810)では,「問う 病名の如何」の章に「兎角(そうこう)する内に年々虚名を得て病客は日々月々に多く毎歳千人余りも療治するうちに七八百は梅毒家なり 如斯(かくのごとき)事にして四五十年の月日を経れは 大凡此病を療せし事は数万を以て数ふへしと、」と毎年診療する千人余の患者のうち、七八百人は梅毒患者だったと振り返っている.(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0222/bunko08_c0222_0002/bunko08_c0222_0002_p0017.jpg

1823年から29年にかけて長崎に滞在したオランダ商館医師シーボルトに,門弟の高良斎17991846)が提出した論文『日本疾病志 日本に現れる注目に價する數種の病の短い目録並びに記載』には,
「第三 花柳病
我が国でもこの疾病は全日本に日一日と段々擴がつて行く.それで百人中十人高々十五人がこの病気から免れてゐる位のものである.従つて日本の疾病は大部分花柳病で壓倒されてゐるわけである.
遺憾なことには我が国の醫家は,多くの無知からこのいやしむべき花柳病を明らかにするを得ず,他の疾病と誤り,そのために患者に多くの不幸を齎すことさへある.ご承知の如く,日本人は年と共に弱く小さくなつて行く.私はそれは恐らくこれ花柳病と關係があると思ふ.
もしあなたが歐州へ歸られて,この疾病を十分に取り扱つた本を我々に送つてくれられるならば,それは我々の大なる幸福なるのみならず,日本人全體の幸福であらう.私は先年これについた一書を書いた. Swediaur著(?)1817) 私はそれを日本の醫家のために譯すであらう.[意味不明.『書いた』は恐らく『入手した』の誤りであらう.]」(シーボルト文献研究室 編刊『施福多先生文献聚影』(1926),NDL)
と,梅毒の流行が西洋人に比して日本人が病弱で体格的に劣る理由としている.また,適切な診断法や治療法がない事にも,危機感を抱いている.

江戸時代末期,幕府医学所頭取の松本良順1832 – 1907)が書いた『養生法 下』(1864)の「〇房事」の項には,「下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ.西洋の国にはこの病気の蔓延を恐れて花街を破壊したが,かえって病気は拡がった」とあり,花街を存続させ,働く娼婦の規制・検診を推奨している.実際に1860年に長崎にロシア艦隊が来航した時には,幕府医官だった彼は艦長の求めに応じて,遊女の梅毒検査を実施した.

また,鈴木隆雄骨から見た日本人(1998) 講談社選書メチエ142 で,鈴木氏らが旧江戸市中で発掘した人骨調査の結果から,①江戸時代の成人のうち骨梅毒に罹患している者は,全人口の 3.9 – 6.9% で,平均 5.4% である.また,明治三六年(1903)の東京帝大皮膚科外来統計から②第三期の骨梅毒を有するものは全梅毒患者の 9.9% を占めている.という二つの値を用いて,江戸時代の梅毒患者の頻度を推計し,江戸市中の人の 54.5 % が罹患していたとしている.(「第六章 江戸を生きる-命長ければ病多し 1 江戸の徒花・梅毒」).

* 「また警視庁衛生部長・栗本庸勝**によると「徳川時代におきまする花柳病の伝播者は、主に諸国から参勤交代いたしまする武士でありまする。この頃の規則として参勤の武士は妻女を同伴して旅行することが出来なかったので、道中筋はいふに及ばず江戸へ着きましても、猖んに私娼を買ひ又は遊里に出入りしたのです。そして此の結果は道中で感染した病毒を江戸へ輸入し、或いは江戸で背負い込んだ病毒を国元へ伝播するという恐るべき害毒を流したものです」という.」(苅谷春郎『江戸の性病』(1993)三一書房,**警察医長 医学士 栗本庸勝(? -1933))

江戸時代に来日したオランダ商館の医師たちも,梅毒の患者が多い事に気が付き,その治療法を教授している.

ケンペル(1651 - 1716,滞日:1690-1692)は『廻国奇観』 (1712) の「シナおよび日本でよく行われている艾灸」という項目の中で,「日本人は水浴好きで とくに湯にはほとんど毎日入る。日本人が比較的梅毒に罷らないのはそのためで、湯浴好きでなかったら、梅毒は全国民の間に蔓延していると思う。」と記述し,彼も梅毒患者を多く認めていた.(宗田一『図説・日本医療文化史』思文閣出版 (1993))


1775年にオランダ東インド会社の外科医として長崎に赴任したスウェーデン生まれのツンベルクは,江戸参府の道中に多くの梅毒患者に遭遇し,治療に有効な水銀製剤「スウィーテン液」の調製法を通辞達に実地に伝授し,著効が見られ感謝されている,とその『旅行記』に記している.

出島のオランダ商館の医師として 1823-29 年赴任していたシーボルトは,江戸参府の途中や江戸で診察した患者の中に、痼疾となっている梅毒の非常に思わしくない症例をいくつも見つけた。「私は日本でこんなに深く根を下ろしたこの病気の種々の型や、水銀剤の適正な用法について短い説明をした。」それまで日本では主として軽粉等の形で内服され.それも瞑眩(メンゲン)するまで服むという考え方があって,水銀剤中毒が多かった.シーボルトは頑固難治の黴毒には水銀軟膏の塗擦療法をすすめた.

ケンペルの考察,ツンベルクとシーボルトの梅毒療法については後記事

2017年2月20日月曜日

オシロイバナ-12 梅毒 日本での蔓延-1 江戸時代以前『再昌草』『月海録』『妙法寺記』ルイス・フロイス”Tratado das contradições e diferenças de costumes entre a Europa e o Japão(日欧文化比較)”

Mirabilis jalapa
梅毒スピロヘータは,地球を半周して,日本に到達,1512年(永正9)には記録が残る.南蛮人の渡来より30年も早く,当時は,唐瘡(とうがさ)あるいは琉球瘡(りゅうきゅうがさ)とよばれた.この梅毒を運んだのは日本人を主体とする倭寇であり,時代は戦国乱世の動乱期で,梅毒はたちまち日本人を激しく冒していき,江戸時代に深く淫侵(いんしん)した(参考:立川昭二「疫病史」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説).
この疾病名は歐州でこの病気をもたらした人々にちなんで「フランス病」「ナポリ病」と呼んでいたのを思い起こさせる(前ブログ記事参照).

梅毒は室町後期 1512年には京都に患者が発生したという記録が,歌人・三条西実隆の歌日記『再昌草』にあるとされる.また,竹田秀慶の『月海録』の同年の記録にも京都の多くの住民が罹患していると書かれている.これが梅毒の日本における最初の記録とされている.

宮内庁書陵部
宗祇から古今伝授された歌人・三条西実隆 (14551537) の『再昌草』永正九年壬申 (1512) の章に「(四月)「十三日 (中略)
道堅法師、唐瘡をわつらふよし申たりしに、戯に
もにすむや我からかさをかくてたに 口のわろきよ世をはうらみし
返 事
唐瘡をかくかきにさすもくつにも 大和こと葉の〔虫喰い〕れす

朝倉や清水たてし飲中も あらすなる世に身をはうらみし」とある.
(芝葛盛 山岸徳平監修『桂宮本叢書 第12巻』(1953) 宮内庁書陵部/編,養徳社)
「四月二十四日」と www.tanken.com/baidoku.htm には,あるが,「四月十三日」の誤りと思われる.

道堅法師(岩山道堅 いわやま-どうけん)?-1532 戦国時代の武士,歌人.死亡したのはこの20年後の1532年.本当に唐瘡(梅毒)に罹患していたのだろうか.

奉公衆として足利義尚(よしひさ)につかえ,文明15年(1483)の和歌打聞(うちぎき)(私撰和歌集)に参加した.義尚死去後出家し,明応4年から三条西実隆のもとで歌道にはげんだ.享禄(きょうろく)5年6月2日死去.名は尚宗.歌集に「道堅法師集」「道堅法師自歌合」など.(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

富士川游博士が発掘した京都の医師 竹田秀慶享録元年,年七十九歿)の月海録』には「永正九年壬申,人民多有瘡,似淫瘡_,是膿庖,醗花瘡之類,稀所見也,治之以淫瘡之薬_,云々,謂唐瘡琉球瘡_」と,同じ1512年に京都で流行した「瘡」病を記載し,これは,中国あるいは琉球より伝わった疾病であるとしたが,後にこれが梅毒であることが指摘されている。
また,旧甲州都留郡太田村(現在の山梨県河口湖町)にある日蓮宗の古刹 妙法寺の住職が,坂東諸国の出来事を代々書き綴ってきた古記録『妙法寺記』に,「永正十癸酉、此年麻疹世間ニ流行シ、大半ニ過タリ. --- 此年天下ニタウモト云フ大ナル瘡出デ平愈スルコト良ス,其形譬ヘバ,癩人ノ如シ云々」と1513年の記事にあり,この頃関東地方にも梅毒が流行したことが記録されている.(富士川游著,小川鼎三校注 『日本医学史綱要』第1巻 平凡社 東洋文庫 258 (1974),堀口友一『日本の文献にあらわれた古代・中世の疾病に関する歴史地理学的研究』茨城大学教育学部紀要(15): 121-136 (1966)http://hdl.handle.net/10109/10048))*「タウモ」のタウは唐、モは瘡(モガシ)の意であって、唐瘡=梅毒.

Luís-Fróis1977 Portugal 没400年記念
永禄五年(1562) 来日し,キリスト教の布教に尽力したイエズス会(耶蘇会)の宣教師ルイス・フロイス Luís Fróis1531 -1597)が天正十三年(1585) に,滞在していた島原半島の加津佐でまとめた,欧州と日本の風習・風俗の違いを際立たせて述べた『Tratado das contradições e diferenças de costumes entre a Europa e o Japão(日欧文化比較)』には,観察地がどことは特定できないが,「第九章 病気、医者および薬について」の章で「19 Antre nós adoecer um homem de uma mula sempre é cousa suja e vergonhosa. Os japões homens e mulheres o têm por cousa corrente e nada se pejam disso. 
*The term "mule" was used here as a synonym for syphilitic bobcat
19 われわれの間では人が横根**にかかったら、それは常に不潔なこと、破廉恥なことである。日本では、男も女もそれを普通の事として、少しも羞じない。
**横根:梅毒はコロン(コロンブス)によってアメリカ大陸からヨーロッパに伝わった病気で、わが国にはポルトガル人によって伝えられた。横根という言葉は『日葡辞書』にも見え、「ヨコネ鼠蹊部に生ずる腫瘍、すなわち横根 mula」と記されている。しかし当時の日本人は、この病気に雇っても、それを恥ずべきこととは考えなかったようである。)」(和訳『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著 岡田章雄訳注(p137)).
加藤茂孝氏(理化学研究所 新興・再興感染症研究ネットワーク推進センター マネージャー)によれば,「欧州でもルネッサンス期には美男美女の病として感染者からはむしろ誇らしげに語られたとさえ言われている.日本でも江戸時代前期には,遊び人の勲章であると思われていた節がある.しかし,18 世紀中ごろからは,社会的に恥ずべき病とされて行く.」(モダンメディア,62 (5), 2016

梅毒は江戸時代になると,参勤交代で江戸に上がった藩士たちが花街で遊び,感染して帰国後地元で拡げたことから,全国的な感染症となった.

2017年2月15日水曜日

オシロイバナ-11 梅毒 欧州での治療法 水銀燻蒸と癒瘡木,ベンヴェヌート・チェッリーニ『チェッリーニ自伝』

Mirabilis jalapa

コロンブスの第一回航海がイスパニア島(ハイチ)よりもたらしたとされる梅毒は,帰帆した 1493年にはバルセロナに上陸し,1494年には,フランス王シャルル八世のイタリア遠征軍のスペイン傭兵がもちこみ,翌年,ナポリに駐留することによってイタリアに蔓延した(当時はフランス病,ナポリ病と呼ばれた).バスコダガマの大航海の艦船の乗組員によって,1495年にはインドのカリカットに上陸し,マレー半島,中国広東,中国全土への拡散し,日本にもわたってきた.

欧州における治療法としては,梅毒と共に持ち込まれたユソウボク(癒瘡木 or 愈瘡木 Guaiacum officinale L)と呼ばれる南米原産の硬木の材から抽出した樹脂を服用する事と,水銀蒸気で全身を燻蒸することの二つが汎用された.

ユソウボクと他数種の近縁種の材は,ラテン語で「生命の樹」という意味のリグナムバイタ(lignum vitae)と呼ばれることもあり,南米から輸入されるため非常に高価で,ドイツのフッガー家はこの輸入販売で財を成したと言われる.


左図:水銀燻蒸治療を受けるナポリ病の患者(LESPAGNOL AFFLIGE DU MAL DE NAPLES16世紀木版画
右図:癒瘡木の治療を受ける富者 ca.1580 銅版画(原画:Jan van der Straet (1523 –1605,彫版:Philip Galle (1537 –1612))手斧で削っている材が癒瘡木

ルネサンス期イタリアの金細工師・彫刻家で,多くの富豪・教皇・王族にその作品が評価され愛蔵されたベンヴェヌート・チェッリーニBenvenuto Cellini, 1500 - 1570)は,その奔放な『チェッリーニ自伝』でも知られる.
チェッリーニは58歳になって自叙伝を口述筆記し始め,62歳まで続けていた.13歳の筆記者に口述した,綴りや文法に拘泥しない型破りの文体で語られたのは,単なる一芸術家の奔放な生き方だけではなく16世紀イタリア風俗や,権力者を取り巻く人々の,今に変わらぬ権謀術数の生気あふれる叙述であった.18世紀になってガリレオ派の流れをくむ百科全書派の学者コッキによって草稿が発見され,1728年に公刊された.40年後にバレッティによって再刊された版でフランス人にも知られるようになり,ルソーやスタンダールに熱烈に支持され,ベルリオーズはオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」を作曲している.ドイツでは1803年にゲーテが解説と注を添えてドイツ語訳を刊行し,ブルクハルトをはじめとするルネサンス研究の先駆けをなした.

この書には,梅毒の治療法として上記の二法が記述され,更に水銀法に関しては,それを拡げたとされる,当時の名医Jacopo Berengario da Carpi (ヤーコモ・ダ・カルビ,c. 1460 – c. 1530) がローマを訪れて富裕な患者に行った水銀燻蒸法と,彼自身が罹患した際のユソウボク抽出物による経過が述べられている.彼は前者の後遺症がシビアであること,後者によって彼は全快したと記している.

以下に「自伝」の該当部分の,英訳及び和訳を載せる.英訳は “The Autobiography of Benvenuto Cellini, Translated By John Addington Symonds” (Symonds, John Addington, 1840-1893), (2 volumes; London: J. C. Nimmo, 1895) ,和訳は,『チェッリーニ自伝〔全2冊〕』古賀弘人訳,岩波書店,岩波文庫 赤711-1 (1993) による.

XXVIII
AS I have said above, the plague had broken out in Rome; but though I must return a little way upon my steps, I shall not therefore abandon the main path of my history. There arrived in Rome a surgeon of the highest renown, who was called Maestro Giacomo da Carpi. This able man, in the course of his other practice, undertook the most desperate cases of the so-called French disease. In Rome this kind of illness is very partial to the priests, and especially to the richest of them. When, therefore, Maestro Giacomo had made his talents known, he professed to work miracles in the treatment of such cases by means of certain fumigations; but he only undertook a cure after stipulating for his fees, which he reckoned not by tens, but by hundreds of crowns. He was a great connoisseur in the arts of design.
(中略)
The Pope would fain have had him in his service, but he replied that he would not take service with anybody in the world, and that whoso had need of him might come to seek him out. He was a person of great sagacity, and did wisely to get out of Rome; for not many months afterwards, all the patients he had treated grew so ill that they were a hundred times worse off than before he came. He would certainly have been murdered if he had stopped.
(後略)
28
さきに話したように、ローマにはペストの流行が始まっていた。話は若干まえに遡るけれども、だからと言って私の主旨からはずれはしないだろう。ローマに、ヤーコモ・ダ・カルビというたいそう偉い医者がやって来た。この有能な先生は、さまざまなその医術のなかでも、不治の病とされるフランス病の治癒をおこなった。そしてこの病気はローマでは、僧侶たち、わけてもより裕福な僧侶たちと馴染みであったから、この有能な先生は、ある種の蒸気の力によってこのような業病を驚異的に治してみせるとの触れこみで、名医という噂がたったが、ただし治療に入るまえに契約を結ぶのか彼の条件だった。その契約の額というのか、何十ではなくて何百スクードなのであった。
(中略)
たいそう教養のある人であった。医学について見事に弁舌をふるった。法王が彼に留まって侍医になるように求めたけれども、彼はこの世の誰にも仕える気はない、自分を必要とする人があれば追いかけてくるであろうと答えた。じつに抜けめのない人間で、彼はまんまとローマから逃げおおせた。というのは,數カ月たたずして,彼が診た人は誰も彼も,まえより百倍も具合が悪くなったからであり、彼がのんびり留まっていたならまず命はなかったであろう。
(後略)」

この「ヤーコモ・ダ・カルビというたいそう偉い医者」については,第二巻の第VIII章にも表れる.

VIII
(中略)
Messer Alfonso, quite affronted, let some contemptuous words escape him, and exclaimed: Who are you, then, you who do not know what you are saying? I replied: Listen for a moment, and afterwards judge which of us knows best what he is saying. Then turning to Messer Alberto, who was a man of great gravity and talent, I began: This is a copy from a little silver goblet, of such and such weight, which I made at such and such a time for that charlatan Maestro Jacopo, the surgeon from Carpi. He came to Rome and spent six months there, during which he bedaubed some scores of nobleman and unfortunate gentlefolk with his dirty salves, extracting many thousands of ducats from their pockets. At that time I made for him this vase and one of a different pattern. He paid me very badly; and at the present moment in Rome all the miserable people who used his ointment are crippled and in a deplorable state of health.
(後略)

(中略)
アルフォンソ氏は怒って、無礼な台詞を吐いた、「きみはいったい何者だ、自分がなにを言っているか、わかっているのか」.これに私は答えた、「まあ聞いてください、自分がなにを言っているかよくわかっていないのが、私たちのどちらなのか、はっきりするでしょう」私は、とても慎重で利口なかたであったアルベルト氏に向かって言った、
「これは、私があのころ、あのペテン師で外科医のヤーコポ・ダ・カルビ先生のためにつくったものです。重みのある銀の小ぶりの水差しで、先生がローマへ来て半年ばかりいたときでした。彼は軟膏と称するものを、何十人という貴族や気の毒な紳士の方がたに塗りたくっては何千ドゥカートとたんまりせしめました。そのころ私がこの壷と、もう一個これと別のものをつくってやったのです。彼はどちらにも金を払うには払った、払いは全然よくなかったですが。そしてローマにはいま、軟膏を塗ってもらって手足がきかなくなったり萎え衰えたりした、運の悪い人たちが、ごろごろしています
(後略)」
と,水銀の軟膏を塗られて,その蒸気を燻蒸された患者たちが,後遺症に苦しんでいるとしている.

一方自分自身の羅患とユソウボクによる治療については,
LIX
IT was true indeed that I had got the sickness; but I believe I caught it from that fine young servant-girl whom I was keeping when my house was robbed. The French disease, for it was that, remained in me more than four months dormant before it showed itself, and then it broke out over my whole body at one instant. It was not like what one commonly observes, but covered my flesh with certain blisters, of the size of six-pences, and rose-coloured. The doctors would not call it the French disease, albeit I told them why I thought it was that. I went on treating myself according to their methods, but derived no benefit. At last, then, I resolved on taking the wood, against the advice of the first physicians in Rome; [1] and I took it with the most scrupulous discipline and rules of abstinence that could be thought of; and after a few days, I perceived in me a great amendment. The result was that at the end of fifty days I was cured and as sound as a fish in the water.
Some time afterwards I sought to mend my shattered health, and with this view I betook myself to shooting when the winter came in. That amusement, however, led me to expose myself to wind and water, and to staying out in marsh-lands; so that, after a few days, I fell a hundred times more ill than I had been before. I put myself once more under doctors orders, and attended to their directions, but grew always worse. When the fever fell upon me, I resolved on having recourse again to the wood; but the doctors forbade it, saying that I took if it with the fever on me, I should not have a week to live. However, I made my mind up to disobey their orders, observed the same diet as I had formerly adopted, and after drinking the decoction four days, was wholly rid of fever. My health improved enormously; and while I was following this cure, I went on always working at the models of the chalice. I may add that, during the time of that strict abstinence, I produced finer things and of more exquisite invention than at any other period of my life. After fifty days my health was re-established, and I continued with the utmost care to keep it and confirm it. When at last I ventured to relax my rigid diet, I found myself as wholly free from those infirmities as though I had been born again. Although I took pleasure in fortifying the health I so much longed for, yet I never left off working; both the chalice and the Mint had certainly as much of my attention as was due to them and to myself.
Note 1. That is, Guiacum, called by the Italians 'legno santo.'
(後略)
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病気にかかったというのは事実なのだが、それにつけてもいまになってみるとあれは盗みに入られたあのころに私が囲っていた、あのうら若い、器量よしの小間使いからもらったものだと思う。あのフランス病が正体を現すまでまる四カ月以上も潜んでいて、その挙句なんとまったく出しぬけに私を襲ったのである。よくある症状とはちがって、クァットリーニ貨くらいの大きさの赤い発疹で全身が覆われるというありさまだった。医者はみなフランス病と認めるのをしぶった。私は私なりに自分の思いあたる病因を述べた。医者たちの処方どおりに治療をつづけたが、いっこうにはかばかしくなかった。ことここにいたって私は、ローマでも指折りの医者たちの意見にそむいて、聖なる樹を用いる決心をした。この樹を用いるにあたってはおよそ考えうるありとあらゆる規律と節制を実行し、そしてほんの数日で俄然よくなった。おかげで発病後、五十日をへて恢復し、ぴんぴんした魚のように元気になった。
あとは患いでの体力の消耗の恢復につとめ、冬に入るとともに好きな鉄砲撃ちをはじめ、雨の日も風の日も出かけては沼地に入った。それが災いして、あっという間に病がぶりかえし、まえより百倍もひどい具合になってしまった。またもや医者の世話になり、治療をうけたものの、悪くなるばかりだった。
熱が上がってきて、私はまた自己流であの樹を用いようと決めた。医者たちは、高い熱があるのにその療治を用いたら命は八日ともたないだろうと言って反対した。医者の意見がどうであろうと、自分で処置した。まえのときと同じ療治によって、四日間、この樹の聖なる汁を飲んだところ、熟はあっさり消えた。ぐんぐんと快方に向かいだしたが、その樹を用いているあいだも例の品の雛型づくりはたえず進めていた。その間(かん)は節制のかいあって、およそ私の生涯にかつてなかったほど美しい数々の作品や類いまれな創意工夫を生みだしたものであった。
(後略)
13 聖なる樹 - 癒瘡木(ゆそうぼく)(スペイン語でguayaco)。その樹脂の癒瘡木精(グワヤコール)は発汗剤、利尿剤、下剤の効能を備えており、梅毒(文中ではフランス病)の治癒に大いに活用された。」

と,癒瘡木の decoction(煎液)が著効を示し,再発時にも効果を発揮したとある.


実際には,癒瘡木の煎液は,梅毒の治療に効果は全くなく,チェッリーニは,梅毒ではない他の皮膚病に罹っていたのではないかと思われる.が,癒瘡木による治療が広く信じられていたことが伺われる.