2016年6月27日月曜日

マツバボタン-2 追補 柏木吉三郎 『亜墨利加草類図』 松葉牡丹と命名

Portulaca grandiflora

平野 恵『十九世紀日本の園芸文化一江戸と東京、植木屋の周辺』思文閣出版 (2006) には,柏木吉三郎*の稿本『亜墨利加草類図』(文政10/41827)・元治元(1864))の二十四丁表の図が掲げられていて,それにはマツバボタンの図と共に,
「ポルチエラツカスプレンデンス
黄花ヲ ウヱルロウテンス
松葉牡丹ト吉三郎*名附
又長太郎**岩牡丹ト名附
文久元酉年初テ亜墨利加ヨリ来る珍草なり」とあり,以下判読不明だが,「紅色・白色・黄色などの種々の花があり,実を蒔けば繁殖する.莖の高さは7-8寸で,また(茎を)挿せば根付く」と書いてあるようだ.

この資料によれば「松葉牡丹」の名は柏木吉三郎が名付けたことになる.

『倭種洋名鑑』より,風せんカヅラ
(東博上記公開画像より部分引用)
*柏木吉三郎17991883(明治16)以降?) 幕末から明治に活躍した巣鴨の植木屋.花戸(かこ)業の傍ら,本草学者の小野蘭山の孫である職孝(もとたか)の弟子となり,本草を修め,本草家や花卉愛好家と交流する.積極的に海外から渡来の植物を栽培し,伊藤圭介に「粗図ナレドモ之ヲ自写シ楽ミトナシ居リタル老翁(確認中)」と評された植物画を多く残す.三色すみれ ハクチョウソウなど,渡来植物の和名はこの人がつけたという.著作『倭種洋名鑑』は東京国立博物館のHPで見ることができる(webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0035325).
柏木吉三郎については,上記の平野恵の著書の「第二部 園芸と本草学,第二章 植木屋柏木吉三郎の本草学における業績」に詳しい. 


**内山長太郎(18041883)は,花戸の太閤とも呼ばれた,江戸後期―明治時代の名植木職人.巣鴨の竹笊作りの倅として生まれ,15歳で賞翫用の唐辛子の苗の振り売りから始め,社寺縁日に店を出し,そこで富山藩主・前田利保と出会い贔屓にされた.菊づくりの名人で,巣鴨に「栽花園」をひらき,菊人形展にたびたび出品.文政12年には水野忠暁の「草木錦葉集」を出版した.チョウタロウユリは彼の名に由来する.

2016年6月23日木曜日

マルバアサガオ-7 条斑点絞咲き,トランスポゾン,曜斑点咲き(ミルキー・ウェイ),花色の変化.

Ipomoea purpurea
2016年6月21日 同じ株から異なった模様の花が咲く
昨年の秋に,茨城県南部の廃屋と,千葉県のフラワー・パークの垣根から採取した種から成育した,マルバアサガオが咲きだした.前者は紺の条斑点絞咲き,後者はミルキー・ウェイという栽培種と思われる(下図,下側).成長速度は速く,草丈は2メートル以上になり,脇芽も多くでてよく茂る.グリーンカーテンとしてはよいが,葉の大きさの割には花が小さい.一つ一つの花は個性的で,特に曜斑点のあるミルキー・ウェイの花は可憐なので,もっと花が大きければと残念である.(葉:最長径 20 cm,花:径 6 cm 程度)

条斑点絞咲きの花の模様は,別株では勿論,同じ株の中でも,一つ一つ模様が異なる(上図).これは,トランスポゾン(動くDNA(あるいは動く遺伝子)と呼ばれる)の作用の結果であるとされている.即ち,花弁を発色させるアントシアンを合成する過程の一つの遺伝子にトランスポゾンが入っていると,発色に必要な酵素が生合成できず,花弁は白い地色になってしまう.そのトランスポゾンが飛び出す(脱離)と遺伝子は正常に戻り,酵素が合成され,色のついた細胞ができる.トランスポゾンが飛び出す時期により,色つき細胞の数が変わり,条斑模様の形や大きさが決まってくる.このような仕組みで,マルバアサガオに多様な条斑点絞模様が発現する.小さな条や斑点が鮮明に出るところが,マルバアサガオの条斑点絞り(flaked)の園芸価値が高い点だそうだ.

経時的花色の変化    上:紺の条斑点絞咲き, 下:ミルキー・ウェイ
マルバアサガオの花弁の青紫色は,経時的に赤紫色に変化する.これは紺の条斑点絞部分,ミルキー・ウェイの曜斑点でも同様である.前者でも,耀の部分から変色が始まる.アサガオの花色の「青→赤」の経時変化は,時間と共に色素を含む細胞の pH が酸性側に傾くためと説明されているが,代謝物の蓄積によるのか,空気中の炭酸ガスの作用なのかは,検索では確認できなかった.

吉田久美(椙山女学園大学生活科学部助手)さんの「アサガオの花はなぜ青くなるのか?」季刊誌「生命誌」通巻16号 には,
「ソライロアサガオ(Ipomoea tricolor )の一品種のヘブンリーブルー(cv.Heavenly blue)は,つぼみの時は赤紫色で開くと青色に変わり,数時間後にしぼむとまた赤紫色になる。そこで,細胞に直接刺し込んで測定する微小pH電極を用いて,1個の液胞のpHを測定したところ,空色の花びらの液胞pHは約7.7と異常に高く,赤紫色のつぼみの花びらのpH6.6とそれより低い.これにより,アサガオの花色は液胞pHの変化により移り変わることが実証できた。花びらが青色になるには,pHの変化以外にも重要なことがある アサガオの液胞pHの変化は,液胞膜を介した水素イオンやカリウムイオンなどさまざまなイオンの輸送により調節されているものと考えられる。」とある.https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/016/ex_2.html

また久富恵世さん(総合研究大学院大学)の博士論文には,『絞り花を咲かせるアサガオとマルバアサガオの色素生合成系遺伝子と可動遺伝因子』 1997,(info:ndljp/pid/3142635)がある.

マルバアサガオ-6 蔓の巻き方.太陽の運行方向,グッドイヤー,パーキンソン,トーマス・ジョンソン,ダーウィン,方以智「蔓艸皆左旋」,貝原益軒「蔓草ハ皆左旋ス」 

2016年6月20日月曜日

マツバボタン-1 追補-2 伊藤圭介『植物図説雑纂』,万延元年遣米使節 成瀬正典が導入か,モース “Japan Day By Day. Vol. 1“


★伊藤圭介(1803-1901)編著『植物図説雑纂』第153 (NDL, pid/2571102) の「マツバボタン」の項には,特徴を捉えた美しい数枚の絵と共に,「江戸 イハボタン,京都 ハナマツナ」と呼ばれるとある.また,成瀬氏*が舶米の時に購入した,アメリカの種屋の書」からのマツバボタンの性状の和訳が引用され,さらに,「米種世ニ播殖シ,又文久二戌冬佛種ヨリモ〇ヘ植ユ」とある.また「米リケン万延 佛文久 ヨリ種○来リ多ク繁殖ス」とあり,万延元年の遣米使節と文久二年の遣欧使節によってもたらされたとある.

『植物図説雑纂』 第153冊 NDL

なお,この成瀬氏*とは,遣米使節の一六人の正使の一人,外国奉行支配組頭 成瀬正典 (善四郎,1822-?) であると思われる.(左図 from Johnston, James D. “China and Japan: Being a Narrative of the Cruise of the U.S. Steam Frigate Powhatan” (1860) Desilver.)

 玉虫茂誼著 航米日錄 第七巻 仙台叢書(NDL)
万延元年遣米使節は,江戸幕府がペリーとの間に結んだ,日米修好通商条約の批准書交換のために 1860 年に派遣した使節団であり,1854年の開国後,最初の公式訪問団であった.正使は新見正興,副使の村垣範正,目付小栗忠順の二人を加えた三人が首脳を務め,加えて外国奉行支配組頭 成瀬正典,勘定組頭 森田岡太郎をはじめとする十六人の正使からなり,これに正使の従者や召使,医師等を加えた総勢七十七名の大使節団であった.万延元年(1860118日に品川を出港,ハワイ経由で太平洋を横断してアメリカに渡り,ボストンやワシントンを訪問.大西洋,喜望峰を経て 928日に帰国し,多くの新しい知識・文物をもたらした.
この成瀬善四郎は渡米時の記録を残していないようで,植物種子をどこで購入したのかは分からない.彼については,帰路,味噌や醤油が不足したのは,出発前にストックが多すぎるとして搭載量の半分を江戸湾に捨てさせたからだと,乗員からは評判が悪かったとの事である.

伊藤圭介は水谷豊文に本草を学び,豊文を中心とする尾張本草家・博物家の会として著名な「嘗百社」では,豊文門下の大河内存真(圭介の実兄)・大窪昌章(二代目薜茘菴)・吉田平九郎(雀巢庵)などともに有力メンバーの一人であった.
一方,蘭学は藤林普山・吉雄常三に教えを受け,文政10年(1827)にはシーボルトに師事,シーボルトの良き協力者ともなった.
文久1-3年(1861-63)には幕府の蕃書調所(洋書調所)物産方に出仕し,その後名古屋に戻っていたが,明治3年(1870)に政府から「大学」出仕を命じられて東京に転居する.翌4年から7年までは文部省に勤務し,8年からは小石川植物園(幕府の小石川薬園の後身)に移った.10年には東京大学員外教授となって引き続き小石川植物園を担当し,21年には日本最初の理学博士号を授与された
没したのは明治34年(1901120日,99歳の長寿であった.出版された著作は多いが,ツンベルクの “Flora Japonica” に収載された植物の日本名を,シーボルトの指導を受けて考定・同定した『泰西本草名疏』が著名である.

植物図説雑纂』は,本邦産の植物および渡来植物について,古来の和漢文献や写生図・印葉図・一枚刷・小冊子などをできるかぎり収集しようとした資料集であり,出版を意図していたが,果たせなかった.草部と木部から構成する構想だったらしいが,草部が『植物図説雑纂』の名のままだったのに対して,木部の方は圭介自身が『錦窠植物図説』の書名に改めた.ともに未定稿であるが,圭介逝去の時点で前者は計130冊,後者は164冊という大部の著作になっていた.(但し,NDL, デジタルコレクション『植物図説雑纂』の最終冊は第 254 冊.)

Blog-1 に引用した,帝国大学の初代動物学教授モースMorse, Edward Sylvester, 1838-1925)の★Japan Day By Day. Vol. 1“, Boston, Houghton (1917) には,1877年の東京における記事として,“FIRE-FIGHTING (p.135)

The other afternoon a distinguished old Japanese by the name of Ito* called on Dr. Murray, and I had the honor of being presented to him. He is an eminent botanist and was president of a Japanese Botanical Society in 1824. He had come to bring to Mrs. Murray the first lotus in bloom. He was in full Japanese dress, though he had abandoned the queue (fig. 114). I regarded him with the greatest interest, and thought how Dr. Gray* and Dr. Goodale** would have enjoyed meeting this mild and gentle old man who knew all about the plants of his country. Through an interpreter I had a very slow but pleasant conversation with him. On his departure I gave him copies of some of my memoirs, of which he could understand only the drawings, and a few days after he sent me his work on the flora of Japan in three volumes.
「(私訳)先日の午後,伊藤氏*という非凡な老日本人が,ドクター・マレーを訪問し,私も紹介される栄誉に浴した.彼は優秀な植物学者で,1824 年には日本のある植物学会の会長であった.伊藤氏はマレー夫人に,この年最初に咲いた蓮の花を持って来たのである.彼は丁髷は棄てたが,純日本風の服装をしていた(図114).私は最大の興味を以て彼を眺めた.そしてドクター・グレードクター・グッドエールが,日本の植物のすべてを知っている,この柔和で物静かな老人と会うことをどれ程よろこぶことだろうと考えた.通訳を通じて私は彼と,非常にゆっくりした,然し喜ばしい会話をした.彼が退出する時,私は私の備忘録の一部分の写しを贈皇したが,彼が理解したのは絵だけであった.数日後,彼から三巻の日本の植生に関する著書を贈られた.」と,モースと伊藤圭介の遭遇の様子が記録されている.

*伊藤圭介博士1803-1901)当時75
** Asa Gray (1810 –1888) is considered the most important American botanist of the 19th century. ペリー提督が来日の際に収集した日本の植物標本の同定を行い,いくつもの新種を発見.東アジアと米国との「植物の隔離分布」を見出した.
*** George Lincoln Goodale (1839 –1923) was an American botanist and the first director of Harvard’s Botanical Museum (now part of the Harvard Museum of Natural History).

2016年6月18日土曜日

マツバボタン-1 追補-1 前田曙山『園芸文庫』 渡来時期,逸話

前田曙山1872 1941,本名,次郎)『園芸文庫 第弐巻』(1903(NDL pid/80002) 

八月之部「松葉牡丹
おのみち文学の館
卑俗の花としてたちまち排斥し去られ、僅かに女兒の手遊(おもちゃ)になるに非らざれば、寺院の敷石の邉(ほとり)などに毀(こぼ)れ種によりて咲き出づるを見るのみ、夫(それ)も多くは雑草と共に抜かれ、辛くも残留して花咲く者は、其(その)十が一ニに過ぎず、哀れなる身の上といふべし。されども此花誠に斯く迄も卑(いや)しきか、花の美なるは、萬(よろず)の草の中にて多く其(その)疇(ちう)を見ず、アルメリヤや松葉菊などよりは、遙かに賞すべき價値はあれでも、其餘りに能く繁殖して、殆ど何處(いずく)の隈(くま)にも行き渡らぬ無ければ、世人は終(つい)に馴れて徒に看過するなるべし、不遇なるかな。

園芸文庫 第弐巻
八月之部
(NDL)
蘭國より渡る  此花は元外国の産、傳へいふ寛文年中蘭國より渡りしものとか、當時にありては甚だ尊重せられ、西國の某太守は、此花を愛玩するの餘り、數十鉢を庭前(ていぜん)に並べて、守衛の士を置きたりしに、士偶(たまた)ま座睡(ざすい)して足を失し其一鉢を仆(たう)せしより、既に誅せられんとせしが、近侍の諫むるに因(よ)りて、僅かに事なきを得たりしと、彼(か)の緋目斑魚(ひめだか)を流失して割腹(くわつふく)したりし奇譚と共に愚なる好對といふべし。
花に紅白黄緋或は樺色或は桃色にして紅斑なるもの、白花(はくくわ)にして淡紅の絞を交へたるものなどありて、殆ど名狀すべからず、其重辧(やへ)なるは大にして花富麗、眞に牡丹の名に脊かず。豈軽々しく拆(す)つるの花ならんや。

繁殖の法は實生にあれど、採芽(さしめ)にても活(つ)かずといふ事なし、今日縁日の植木店にて、一鉢に様々の種類を蒐(あつ)め、一銭二銭にて客をよぶものは、大抵採芽に非ざるはなし。土は赤土にても眞土にても可なれど、陰濕に過きざるを以て可なりとす、肥料などは殆ど選ぶ所なし。
              石燬(や)けて松葉牡丹の盛りかな    可盛
とは、其烈日の下に、紅黄緋白の妍を戰(たヽ)かはすを詠じたものなるべく、花は朝(あした)に開きて夕(ゆうべ)に萎む、萎むものは再び開かねども、翌(あす)は叉新花(しんくわ)の咲き出づるを以て、盛り久しくして眺矚(ちやうしょく)に値(あたへ)すべし。只其色の艶に過ぎて、清洒(せいしゃ)の態に乏しければ、目に巒氣(らんき)の磅礴(はうはく)たるを見るに能(あた)はざるを恨みとす。

注:原文では漢字にはすべて振り仮名があるが、適宜必要と思われるものだけ、括弧に入れて残した.

*眺矚:遠くをじっとながめる.「矚」は、じっと注目する.
『万葉集 巻十九』の巻頭歌.大伴家持の作.越中秀吟十二首の一首目に、「天平勝宝二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首(天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑の桃李の花を眺矚して作る二首;天平勝宝二年三月一日の夕方に、春の庭園の桃とすももの花を見渡して作った歌二首)」とある.
** 巒気:山中で感じられる特有の冷気
*** 磅礴:旁礴/旁魄:「ぼうはく」とも.1 混じり合って一つになること.2 広がり満ちること.満ちふさがること.

2016年6月15日水曜日

マツバボタン-2  別名,地方名.牧野植物図鑑・図説草木名彙辞典・日本植物方言集成 日照,爪,不滅

Portulaca grandiflora
1990年7月
鮮やかでバリエーションに富む花色,一日花ながら次々と咲き続ける期間の長さ,日照にも堪え,一旦根付けば,こぼれ種で毎年花が咲く強健さから,渡来後短期間で全国に普及した.

マツバボタンの名は,伊藤圭介にその植物画が認められた幕末-明治初頭の植木屋,★柏木吉三郎(1799 - 不明)がつけた(マツバボタン-2 追補 柏木吉三郎 『亜墨利加草類図』 松葉牡丹と命名)が,葉と花の特徴をとらえたよい名前だと思う.これ以外にも多くの別名・地方名を持つ.とくに,爪で切った茎を挿せば根付く事や,葉が爪の切りくずに似ている事からか,爪に関連すると思われる名前や,日照でも花が咲き続ける強さに由来する名前が多い.

大植物図鑑 村越三千男 編  (1925)
★牧野富太郎『牧野植物図鑑 初版』(1940)には,「まつばぼたん 一名 ほろびんさう Portulaca grandiflora Hook. 蓋シ弘化年間頃ニ渡來セル花草ニシテ普通ニ人家ニ栽培セラルル年米原産ノ一年生草本ナリ.(中略)和名ハ松葉牡丹ニシテ松葉ハ葉形,牡丹ハ花状ニ基ク.不亡草ハ此草一度種ウレバ年々子生シテ永ク絶滅セザルヲ以テ斯ク云フ.」とあり,渡来時期は弘化年間としている.

★木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』柏書房 (1991) の「まつはぼたん【松葉牡丹】 マツバボタン スベリヒユ科の一年草(栽培)」の項には,「別/花松菜(はなまつな)・牡丹(ぼたん)・松牡丹(まつぼたん)・岩牡丹(いわぼたん)・鷹爪(たかのつめ)・爪切草(つめきりさう)・花甘藍(はなかんらん)・日中花(にっちゅうばな)・亡草(ほろびんさう)・不亡草(ほろびんさう)・不滅草(ほろびんさう)・日向草(ひなたぐさ)・日和草(ひよりさう)・日照草(ひでりぐさ)・亜米利加草(あめりかさう)・ひるてるさう・ちりんさう」と多くの別名が記載され,更に「漢/半支蓮・龍鬚牡丹. 來/ブラジル原産で弘化年間(一八四四〜四八)アメリカより渡来.用/観賞、食用(茎葉),季/夏」とあり,渡来は米国から弘化年間と,万延元年(1860)の渡米使節歸国より早いとしているが,上述の牧野植物図鑑に拠っているのであろう.また,スベリヒユと同属であるので,当然といえば当然だが,食用にできるとある.

日本各地に速く広がり,多くの地方で愛されたため,明治以降に栽培され始めた植物としては異例に多い別名・地方名を持つ.★八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001)には,120 個以上の地方名が記載されている.ちなみに同時期に渡来したヒャクニチソウの地方名も多いが,同書によれば 37 個であり,マツバボタンのそれは,ヒャクニチソウの三倍以上に當る.便宜的に推定由来から分けると.

1.異国情緒いっぱいだからか,渡来地に由来するのか,◆あめりかそ-:静岡(小笠),新潟,三重(宇治山田市),島根(出雲),山口(阿武)/あめりかひょ-:山形(東置賜・西置賜)/あめりかぼたん:山形(東田川)新潟/からくさ:和歌山(新宮)/からび:新潟(刈羽)/からびょ-:山形(西村山・北村山)〔「ひょー」とは「ひゆ」の転訛で「スベリヒユ」の事.山形県では「ひょう」を一種の山菜として扱い,茹でて芥子醤油で食べ,また干して保存食にもされた.〕

2.一日花や,一茎に一輪ずつ咲く特性からか ◆いちにちそ-:新潟/いちりんそ-:香川

3.指や爪で茎をちぎって挿せば,簡単に根付いて増やせることからか ◆いちきりそ-:高知 /ちみぎりしょ:三重(員弁) /ちみぎりそ-:兵庫(津名・三原),山口(豊浦),愛知(知多) /ちめきりそ-:岩手(九戸) /ちょ-ちこ:島根(隠岐島) /ちょんぎりぐさ:新潟 /つききりそ-:山口(厚狭・豊浦) /つきみそ-:静岡(小笠・浜名) /つけぎりそ-:三重(桑名) /つまぎりそ-:愛知(海部) /つみきりぐさ:鹿児島 /つみきりそ-:石川(江沼),長野(上伊那),岐阜(飛騨),静岡(小笠・浜名),兵庫(津名),山口(吉敷・厚狭・豊浦),徳島 /つみぎりそ-:愛知(知多) /つみきりぼたん:長崎(壱岐島) /つめきり:岩手(九戸),福島,福井(今立),兵庫(加古) /つめきりそ-:青森,長野(佐久),岐阜(飛騨),静岡(富士),兵庫(赤穂・加古),石川(江沼),和歌山(海草・日高),山口(大島・吉敷・美祢・大津・阿武)高知 /つめぎりそ一:三重 /つめじそ一:長野(佐久) /つめりぐき:和歌山(日高) /つめりしょ:長野(佐久) /つめれしょ:長野(佐久) /つんき-:鹿児島(鹿児島・谷山) /つんき-くさ:鹿児島(肝属・鹿児島) /つんき-ぐさ:鹿児島 /つんきり:富山(射水・高岡市) /つんきりぐさ:鹿児島(肝属))

4.炎天下の日向で元気に花をつけるからか いでりそ-:山口(佐波)/お-ひぐらし:山口(大島)/おてんきそ-:埼玉(入間),東京(八王子),神奈川(津久井)/おひでりそ-:愛媛(周桑)/てんきそ-:栃木,群馬(勢多・佐波),埼玉(北葛飾),神奈川(愛甲)/にちりんそ-:奈良(宇陀・北葛城),山口(豊浦),徳島/にちれんそ-:福井(今立)/にっちそ-:愛媛(東宇和)/にっちゅ-ばな:和歌山(新宮市),新潟/にっちゅぐさ:熊本(玉名)/ひ-てるそ-:愛媛(周桑)/ひぐらし:山口(大島)/ひぜりそ-:山口(佐波・美祢)/ひでりくさ:島根(邇摩・鹿足)/びでりぐさ:兵庫(佐用),島根/ひでりこ:岩手(水沢),山口(大島)/ひでりこ-:山口(大島)/ひでりそ-:岩手(東磐井),新潟,群馬(勢多),静岡(志太),三重(志摩・宇治山田市),島根,島根(美濃・鹿足・邇摩),岡山,山口(大島・玖珂・熊毛・都濃・佐波・吉敷・厚狭・豊浦・美祢・阿武),香川(木田・高松市),愛媛,高知,高知(幡多),福岡(築上),大分/ひでりば:山口(吉敷)/ひでりばな:山形(東田川)/ひでんそ-:島根(邇摩),山口(大島)/ひなぎく:山口(美祢)/ひなたぎく:山口(美祢)/ひなたぐさ:兵庫(赤穂)/ひなたそ-:静岡(小笠),愛知,奈良,和歌山(和歌山)/ひぼたん:愛媛/ひゃくにちそ-:徳島,徳島(美馬)/ひよりぐさ:山口(吉敷)/ひよりそ-:島根(石見・那賀)/ひよりばな:秋田/ひるきざ:山口(阿武)/ひるてるそ-:愛媛(松山市・周桑)/ひるべる:岐阜(恵那)/ひるべろ:岐阜(恵那)/ひれりそ-:山口(佐波)

5.牧野博士が別名として挙げたように,一度根付くとこぼれ種で毎年花を咲かせることからか ころびそ-:愛媛(松山)/ほろび-そ-:山口(玖珂)/ほろびし:宮城(仙台市)/ほろぴんそ-:高知/ほろべし:宮城(登米・仙台市),山口,高知/ほろべそ:宮城(仙台市)/ほろべっそ-:宮城(仙台市)

6.花容が牡丹を彷彿とさせることからか,あめりかぼたん(再):山形(東田川)新潟/いぎぼたん:山口(阿武・玖珂)/いわばたん:青森(八戸・三戸),千葉(市原),新潟(中蒲原),静岡(富士),福岡(久留米・三井・三瀦・浮羽)/えわぼたん:青森/かやぼたん:新潟(西蒲原)/からぼたん:新潟(佐渡)/くびぼたん:山口(大島)/つゆぼたん:山口(都濃)/なつぼたん:島根(鹿足),広島(安芸・高田)/にわぼたん:群馬(佐波)/はなかんらん:山口(豊浦・大津)/はなぼたん:山口(豊浦・美祢)/はぼたん:山口(豊浦・美祢)/ぼたん:山口(阿武)/まつばぎく:山口(熊毛)/まつばぐさ:山口(都濃)/まつばそ-:静岡(小笠),山口(厚狭)/まつぼたん:青森,和歌山(東牟婁),山口(熊毛),愛媛(新居)

7.解釈に困るが,なんとなく草姿や(茹でた時の)食感を連想させる名前としては, いしがらまき:岩手(紫波)/いみりくさ:福岡(築上),熊本(玉名)/いみりぐさ:福岡(築上)/いわざく:岩手(気仙)/えすからまき:岩手(盛岡)/きんぎんそ-:福島(相馬・中村)/くさつめれしょ:長野(佐久)/すっぽんそ-:山口(岩国市・玖珂)/すっぽんてん:山口(玖珂)/すべり:和歌山(田辺市・海草)/たかのつめ:愛知(西春日井)/ちりんそ-:岩手(上閉伊・釜石)/ちりんちりん:岩手(遠野・上閉伊)/つるんつるん:岩手(遠野)/ちんちくだんちく:新潟/てれめんそ-:静岡(志太)/てれんそ-:香川(大川)/どんどろびし:香川/ぬだりこ:岩手(紫波)/ねこずみ:群馬(群馬)/ねなし:群馬(佐波),愛媛(喜多)/ぶるてりそ-:山口(都濃)/へ-ろへ-そ:和歌山(新宮)/べんばな:新潟(岩船)/はいてる:三重(津・安芸)/は-きらん:和歌山(西牟婁)/は-ろへ-そ:和歌山(東牟婁)/はって-ろ:鹿児島/ほるてる:三重(宇治山田市・津)/ほろちらん:山口(阿武)

と数多く記録されている.沖縄と北海道の方言は収載されていない.なお,沖縄には,オキナワマツバボタン(Portulaca okinawensis. syn. P. pilosa ssp. okinawensis)という,固有種が分布している.

マツバボタン-1 日本への渡来.天保度後蠻舶来草木銘書,植物渡来考,遠西舶上画譜,新渡花葉図譜,モース "Japan, Day by Day"
マツバボタン-2 追補 柏木吉三郎 『亜墨利加草類図』 松葉牡丹と命名

2016年6月13日月曜日

マツバボタン-1 日本への渡来.天保度後蠻舶来草木銘書,植物渡来考,遠西舶上画譜,新渡花葉図譜,モース "Japan, Day by Day"

Portulaca grandiflora
2015年7月31日
原産地はブラジル及びその付近で,今では世界中で栽培され,帰化もしているが,歐州に紹介されたのは比較的遅い.1827年に,熱帯アメリカの植物を研究していたスコットランド人の船医 John Gillies, M.D. (1792–1834 によってブラジルの軽砂質地で発見され,英国王立キュー植物園に送られた.これを基に,1829年イギリスの植物学者 W. J. Hooker がカーチスの “Botanical Magazine” に記載し,現在も有効な学名を発表した(Blog-3).

現地ブラジルでは,11時の花 “Onze-horas”と呼ばれるが,それはこの花が早朝に開くが十一時に閉じるからである.雄しべに昆虫などが触れると刺激物に向かって曲がる.多肉質の葉が夕方から茎に沿って上向する一種の就眠運動をするなど,特異な草花として知られている(湯浅浩史『花の履歴書・マツバボタン講談社学術文庫 (1995)).

日本でも真夏の花として明治以降親しまれ,明治の時代小説家で,園芸家としても知られる前田曙山(1872 - 1941)は『園芸文庫』第2巻(1903)で,「マツバボタンは余りよく繁殖するので,卑俗の花とされるが,花は美しく,不遇だ」と述べ,また渡来当初は珍しく,西国のある大名が数十鉢を庭前に並べて展示,その鉢を守衛がうっかり倒したのでお手討ちになりかけた話を紹介している.また曙山は寛文年間(166173)にオランダより渡来したといわれているとしたが(追補-1),これは疑問で,幕末ころに米国か歐州から渡来し,その後花戸経由で各地に広がったものと思われる.

★群芳軒*花形簿』に収載されている『安政六年未三月東山邨 群芳軒所持 天保度後蠻舶来草木銘書』(1859)に「「一 ホルデユラカガランデフール スベリヒ(ユ)一種櫻咲本紅黄紫三種アリ」と書かれていて(左図.NDL),これを,白井光太郎は『植物渡来考』岡書院(1929)のなかでマツバボタンであるとしている(右図,NDL).

*群芳軒:調査中

一方,★伊藤圭介(1803 -1901)編著『植物図説雑纂・153冊)』には「マツバボタン、万延元年アメリカより、文久二年フランスより渡来」とあり,万延元年(1860)の渡米使節,文久2年(1862)の遣欧使節が持ち帰ったとしているマツバボタン-1 追補-2

★馬場大助*17851868)『遠西舶上画譜・第二巻』紙本着色 / 江戸時代・安政2年(1855)写 には,「亜米利加産/ホルーチカ
葉ハ佛甲艸*ニ似テ莖紫色 六月花ヲ開ク 五辧櫻花ノ形ニ似テ円ク花色ハ紅白朱紅滲紅薄黄?黄蒲橙モノ花○ヲ開ク 此草○天ヲ好ミ枝ヲ切○ハ忽チ根ヲ生ス」*オノマンネングサ,〇は読みとれない文字)とあり,花色は様々で,挿し芽で繁殖が容易であるとしている(左図,国立東京博物館).

*江戸後期の旗本,本草家.江戸生まれ.名は克昌,仲達,字は利光,通称は大助,号は資生圃.父は日光奉行馬場讃岐守尚之.文化91812)年家督を相続.美濃国釜戸(瑞浪市)などに所領2000石.西之丸目付のち西之丸留守居.本草を設楽貞丈に絵画を増島雪斎に学ぶ.天保81837)年幕命により関八州,伊豆を巡察.富山藩主前田利保が江戸で主宰した本草同好会赭鞭会の有力会員で,麻布飯倉の自邸内に多数の舶来植物を植え,それらを写生して『舶上花譜』をつくった.

★渡辺又日菴*(17921871)『新渡花葉図譜・乾』には,
ホルヒヱス
文久2年、大坂花戸ヨリ尾張ニ来
新舶來
一名 ホルテユラカガランテワルール トモ云由
小草ニシテ中輪.紫花.黄花.黄紅花四月頃ナリ
秋九月迄花アリ一日花也
白○色アリ実ヲ蒔チ色々ヲ生ス 又サシ木シテ活
馬歯莧菜ノ一種也」とあり,早くも1862年には,多くの花色の本品が大阪から名古屋に来ていた.また,スベリヒユの仲間と認識し,雌蕊と多数の雄蕊からなる花の拡大図が示されている(右上図,NDL).

『新渡花葉図譜 乾・坤』は尾張の渡辺又日菴(渡辺規綱*)が,乾(天保末年 (1844) から元治元年(1864)),坤(元治元年から明治初年(1868))まで,新たに渡来した植物の図を描き続けた画集.ここに図示したのは大正3年(1914)に伊藤圭介の孫伊藤篤太郎が母の小春(圭介の五女で,画才があった)に転写してもらった写本からの図である.

*渡辺又日菴, 実名:規綱(1792-1871) 江戸後期-明治時代の武士,茶人,三河奥殿(おくどの)藩主松平乗友の次男として生まれ,尾張名古屋藩重臣渡辺綱光の養子となり,文化14年家老となるが,翌年辞任し文政228歳で隠居・剃髪して兵庫入道と称し,茶道,作陶(宗玄焼)をたのしむ.本草学にも通じ,「本草図譜」などを著わした.

Japan, Day By Day. Vol.1
口絵
その後,花色の多さ・鮮やかさ,花期の長さ,強健さ,繁殖のしやすさなどが幸いして,日照が続いて花の少ない夏を華麗に彩る草花として日本各地に広がった.


大森貝塚を発見した帝国大学の初代動物学教授モースMorse, Edward Sylvester 1838-1925)の★Japan, Day By Day. Vol.1“ (1917) には,彼が 1877 7 月に日光を訪れた帰りに江戸に入って,人力車上から見た風景として “These people lead the gardeners of the world in the way they make the trees behave. The beds of flowers we passed in going through the country were beautiful, particularly the hollyhocks, and the dazzling masses of portulacas, and the blue hydrangeas with big clusters of blossoms. (私訳「このように樹木にいう事を聞かせる点では日本人は世界の庭師の第一人者である.この地方を旅行していて目についた花壇,特にタチアオイ,マツバボタンの眩い程の群落,大きな花のかたまりの青いアジサイは美しかった.」)とあり,渡来後 20 年を経ずして,マツバボタンが広く普及して道ばたにまで咲いていた事がわかる.
マツバボタン-2  別名,地方名.牧野植物図鑑・図説草木名彙辞典・日本植物方言集成 日照,爪,不滅
マツバボタン-1 追補-1 前田曙山『園芸文庫』 渡来時期,逸話
マツバボタン-1 追補-2 伊藤圭介『植物図説雑纂』,万延元年遣米使節 成瀬正典が導入か,モース “Japan Day By Day. Vol. 1“