2017年12月22日金曜日

タラヨウ (12) はしか除けの咒,多羅葉,ヒイラギ,御柳.麻疹戯言,麻疹必用,麻疹串義教訓,甲子夜話.文政七(1824)年

Ilex latifolia
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」(ヴァリエーションあり)と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げる,という咒が,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.
「麦殿」の由来は,前ブログに記した,太田全斎 (1759-1829) の『俚言集覧』や葛飾蘆庵の『麻疹必用』(1824)にあるように,はしかの名の由来として,ムギ(や稲)の芒(禾,のぎ)が肌をチクチクと刺戟する様を,西国では「はしか」という事に由来する.此事から,神格化した麥(麥殿)は,一度罹患すると二度とはかからない麻疹に既に罹っているから,麻疹神に(この子のところに 或は この家に)来ても無駄だよと宣告したのであろう.
また,タラヨウの葉は,経文を書いて保存する「ありがたい」貝多羅葉と同一視されていたことや,火であぶると麻疹罹病時と同様の「斑点」が現れる事から,この咒をタラヨウの葉に書けば,その効力はいや増すと考えられたのかもしれない.

  文中画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用

Blog-5 に記したように,享和3年(18033月下旬~6月のはしかの流行に振り回される,江戸の風俗を面白おかしく描写した★式亭三馬の『麻疹戯言(ましんきげん)』(1803) には,中国の風俗に託した麻疹に便乗する江戸の生業の街角の風俗を挿絵にした.そこには,「多羅葉」を生薬屋の店頭で売る丁稚の姿が描かれている右図
また,文中に「二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\に廃(すた)れども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)」とあり,また「多羅葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば」とあることから,この書刊行の28年前の安永5年(1775)の流行時には,麦殿の歌とタラヨウの咒いが,既に流布していたと推察される.三馬は「廃(すた)れ」たと言ったが,タラヨウの葉の麦殿の哥の咒は,その後も広く信じられていた.

特効薬もなく,良い医師の診察代が高価だった江戸では,「ハシカ除け」の呪いが庶民の拠り所だった.流行初期の咒には,タラヨウの葉の麦殿の哥の他に,梅毒除けのお守りを転用する,馬(特に神馬)の飼い葉桶を被る,ヒイラギの葉や御柳(ギョリュウ)の葉を煎じて飲む等があり,武家の間でも行われた(甲子夜話,54巻).

文政七年 (1824) の流行時に出版された★葛飾蘆庵『麻疹必用』には
「麻疹来んとする時預(あらかじ)め用心の妙法」の一つとして
「○又方多羅葉(たらえふ)といふ木(き)の葉(は)を採(とり)左の通りの古哥を書本人の年と姓名を書付惣身をなでて河へ流すべし
〈むぎどのは生れたまゝに
はしかしてかせての後ハ
わが身なりけり〉
此葉を書てからた中をなでさすりて流せハ必ず
はしかをのかるヽといふ又やむとも至て輕きこと妙なり」とある.

★乍昔堂花守の『麻疹(1824) には,
「御江戸の繁華の地方(とち)四里四方の其間、爰乃門(ここのかど)にもはしかの妙薬、かしこの裏にも麻疹の奇方と、筆太に見しらせたる間に、合(あい)招牌のおびたゞしさ。仁の術やら術ないやら、はしか銭をしてやらふと、人たらし*多羅葉に、麦どのゝ歌をそへて売あるく奴あれば、食物の能毒を施印にして配るもあり。」とあり,麥殿の咒が広く信じられていた様子が記されている.
*人たらし:「人をだます人または物」という意味. たらすは漢字で「誑す」と書き,言葉巧みにだましたり,甘い言葉で誘惑するようなことを指す.「是ぞ都の―ぞかし/浮世草子・一代男」

★山田佐助『麻疹串義教訓』(1824)にはタラヨウの葉に麦殿の歌を書いて川に流す,また,節分に門に挿したヒイラギの葉を33軒から一枚ずつ貰い集め,煎じて未患病の子に与えるとよいという咒いが,載っていて,日本古来の妙法で,「信すべし 尊むへし」と強調している.

「麻疹除咒法(はしかをかろくするまじない)
麻疹軽くする法 柊の葉(ひいらきのは)    多羅樹葉(たらじゆよう) 
一 節分の夜門にさしたる柊の葉を三十三軒にて一枚つゝもらひあつめせんしてはしかせぬ小兒に呑すべしかろくしてわさわひなし 
一 多羅樹葉(たらやうのは)一枚とり
 麥殿(むきとの)は生(うま)れたまゝに麻疹(はしか)して かせたるのちハ我身(わがみ)之けり
 といふ哥を書(かき)はしかせぬ小児(こども)の名と年をかきて川へ流すへし 
かならす輕く 餘病も出ず
右は我 日本神霊の傳法にして 必驗の妙方な里(り)
信(志ん)すべし 尊(たつとむ)むへし」とあり,その効力は絶大としている.

平戸藩を経済的困窮から救った名君であり,また趣味人として知られる★松浦静山(1760-1841)の『甲子夜話』(1821-41)の「巻四十五」には,文政七年 (1824) の流行時に友人の御医中川常春院が出版した『救疹便覧』の内容を記すと共に,家中に対して行った予防法のお蔭か,比較的軽微に済んだとある.タラヨウの咒は記録されていない.一方では,これらの注意を無視しても,病状が回復した駕籠かきの例や,逆に禁忌の房事を行ったため,悪化して死亡した遊女の例も挙げていてる.

巻四十五
〔二三〕 今年春江都に麻疹流行せしは一般のことなりし。このこと蚤(は)や前年の秋初か、予が西辺の領邑に已にありと聞たれは、かねて知る観音柳〔一名御柳〕の庭前なるが、はや霜葉せんと見ゆるを、採てその療用に設けよとて、紙袋の大なるに三つ四つ貯置たりき。然るに其年の末には、都下も少しづゝ思る者ありと聞しが、春になれば盈々たり。此とき御医中川常春院、一小冊を刻して世に施す。予もその冊を得しが、今後年の為に滋に記す。
『救疹便覧』
凡麻疹は陽に(中略)
避疹法
蒼尤(さうじゆつ)川芎(せんきゆう) 細辛 乳香 降真香 右等分粗末にして火に薫じ、人々嗅候得ば、一生麻疹に不染と云。(中略)
麻疹流行時の薬
一、御柳〔一名観音柳。又西河柳
右一味、枝葉とも大人一服弐匁程、小児は壱匁程、常のごとく煎じ用ひてよし。但目方は目分量にてもよし。又懐妊の女には荷葉(はす)のまき葉を別にせんじ、前の御柳と同じく兼用て怪我なし。」
(中略)
予この時,の患にかゝる人々を避めんと志て、予め嗅薬の法を製して、藩中に普く嗅がせ、又手近き妾婢等には日々に咲かして、又芭蕉稗浴の方をも、邸内にはかねて浴屋あれば、その所に設て普く浴せしめ、妾婢には日浴させ、三豆湯は茶の代りとして朝夕に服せしめ、藩中にも施したりしが、是にても脱れざると覚しく、遂に皆この患に罹らざるはなし。去れども其効にや、藩中の老少総て危篤の者一人もなく、内に在りし妾婢の輩は、際だちてその患軽かりし也。又貯置し観音柳も、軽症ゆゑ用ゆるに及ばずして、たゞ一袋を発して止ぬ。又外々のことを聞くに、種々の不養生なる者、誠を守らざるも有りしか、疹息の難無して平復し、或は流毒の間に交り居て、その病に染まざりし者も有りとそ。人世のことはかゝるも多き者なり。

〔二六〕 上年西国より麻疹流行して、今春は東都に及べり。官醫中川常春院、治疹の書を著し、諸人に印施して、殊に禁忌のことを伸ぶ。然るに可笑しきは、坊主衆の利倉某話す。その僕年五十なるが、発熱して臥たり。一両日にして不起。某(それがし)見るに麻疹なり。因て、汝疹なり。我れ薬を与へん。能く保養すべしと云へば、答るに、左あらず。はや快(こころよし)と云故、其まゝにして置たるに、仲間に語りたるを聞けば、五十の歳になり麻疹と云も外聞あしゝと云たりしと。然るに其翌日は如常月代(さかやき)すり、髪結(ゆひ)て出たり。且(かつ)酒気もあるゆゑ、何にして早く快きと間へは、はや全快せしまゝ入湯の後、まぐろの指身(さしみ)にて一盌傾け出候と云たり。某もあきれはてゝ虞(すてておき)たるが、夫(それ)より某が外行には、日々駕寵(かご)を舁(かき)行き、今に別条なしとそ。又或人の話しは、吉原町か、或る名妓この病に染たるが、殊に軽症ゆゑ、しばし引籠りて加養せしが、頓(やが)て快復せり。因て倡主も、かゝる軽症なれば礙(さは)りなし迚(とて)、不日に客を迎(むかへ)たるに、その後朝(きぬぎぬ)より病再発して尋(つい)で死せりとぞ。是より倡主驚き、他妓のこの病に染たる者に其禁忌を守らせしとぞ。後聞くに、妓は鶴屋の大淀と云しなりしと。」

(松浦静山著,中村幸彦・中野三敏校定『甲子夜話3』東洋文庫 321 平凡社,1977

2017年12月15日金曜日

タラヨウ(11)はしかの名の由来(4)日本疾病史,倭訓栞,俚言集覧,麻疹必用

Ilex latifolia
2005年5月 塩竃神社
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして,川に流す或は門口に掲げるというまじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.「麦殿」という麻疹除けの民間信仰神の由来は,「はしか」というこの病の名称に係っていたようだ.

「はしか」という病名の由来は,富士川游著,松田道雄解説『日本疾病史』東洋文庫133,平凡社 (1969) の「麻疹」の項に「ハシカとは稲麦の芒の喉にたちて、いらいらするの感あるによりて名づけたること、諸家の説あり。これを列挙すれば次の如し。『ハシカとは麻疹をいひ、麦の芒刺をいふ、ともにいらいらとして苛酷なる義なり、「下学集」に檜を読めるは、芒刺の意なり』(「倭訓栞」).」とある.

江戸後期から明治にかけて編まれた★谷川士清の国語辞書『倭訓栞』の増補改訂版『増補語林倭訓栞』皇典講究所 (1898) には「はしか 麻疹をいひ麦の芒刺をいふ ともにいら/\として苛酷なる義也 下學集*に檜をよめるハ芒刺の意也 麻疹を糠瘡ともいへり 羅浮子**云細粟如麻者呼爲麻也 國史には赤斑瘡とみゆ,」とある.
*東麓破衲編『下学集』(室町期1444)(確認できず)
**羅浮子:林羅山 (1583-1657) の号の一つ

日本疾病史』には,「ハシカとは瘡も喉も、いがらぎ心地するを云ふ、畿内及び西国には、物のいらいらするを、はしかいといふ、喉のいがらきをもしか云ひ、稲麦の芒をもはしかいと云ふ(「麻疹考」)。」(未確認)
「ハシカといへるは、身体咽喉いがらく、いらいらとはしかきものなれば、然云ふなるべし、豊足(中島)が郷里の俗、稲麦の芒塵に交るをはしかめにまめるといふ、又籾糠にまぶるゝをも然いへり、又尾張名古屋の俗、糠をはしかといへるも、共にこれに交る時ははしかきより云ふなるべし、又気をいらちて物する人をはしかき人と云ひ、又蕁麻をいらくさと云ふも、此草に触近づくときは、其芒頴にさゝれていらいらとはしかきものなれば、いらくさとは云ふなるべければ、比等を以て、ハシカといへる意も、証候をも察すべし(「疫瘡新論」)。」(未確認
「旧説にハシカといふは咽中はしかく覚ゆる故なりといぶことを、頃日見出だせり、されば関東にて、いがらっぽいといふは、即ちはしかくといふことなるべく、これは烏薟とも、戟喉ともいふ意なるベし、我郷人のいへる穀芒、秕の喉を刺戟するがごとしといへると同義なり、このハシカの名を漢名に訳さば戟喉瘡にして、此病に於ては的当せる名なり』(「麻疹啓迪」)。(未確認
と,ハシカの名の由来は「罹患すると喉が刺激されるのを,稲や麦の芒の塵を吸い込んだ様子に例えた」と記した多くの文献を引用している.

また,江戸後期の儒学者★太田全斎 (1759-1829)の『俚言集覧』(成立年未詳)には「麥殿ハ生れなからに麻疹して 麥の芒(ハケ)をハシカと云 波部のハシカイの條通考すべし」とあり,波部には「はしかい 麥の穎にていらヽくが如くなるを俗にハシカイともハシカボイとも云麻疹をハシカと云も名義ハ是に取れるなり[萬安石]疹はしか又麥芒をハシカと云尾張名護屋にて糠をはしかと云[疹科纂要]俗名糠瘡」とある.

★葛飾蘆庵の『麻疹必用』(1824)には,「はしかといふ名ハ左のずの如く稲(いね)の芒(のぎ)麥(むき)の芒(のぎ)をはしかという之
いねのゝき むきののぎ
稲穂(いなぼ)麥(むき)の穂(ほ)ともに(のぎ)をはしかといふ
芒(のぎ)とハ穂(ほ)の先の毛(け)をいふ之又尾州の名古屋(なごや)にて(ぬか)をはしか
といふ五畿内及西國にて物のいら/\することをはしかというゆへ
喉(のんど)のいたきをもはしかといふ麻疹(はしか)の初め喉(のんど)のいたき心地(こゝち)するを
以てはしかといふなるべし又鄙俗(いなかもの)の芒(のけつ)〓い.はしか〓い.〓〓〓〓いなるをいふおもひ合するべし」
と図入りで解説している.「〓」は判読不能文字

このような「麦の芒」と「はしか」の関係から,「麦殿の咒哥」が信じられたのであろう.

(文中の画像は,NDLの公開デジタル画像より部分引用)

2017年12月10日日曜日

タラヨウ(10)はしかの名の由来(3)はしか,麻疹,いなすり.多聞院日記,妙法寺記,醫學天正記,断毒論

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タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げる,まじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.「麦殿」と云う麻疹除けの民間信仰神の由来は,「はしか」というこの病の名称に係っていたようだ.

平安時代「アカモガサ,赤斑瘡」と言われていたこの病を「はしか」と呼ぶようになったのは,鎌倉時代とされている.富士川游(著),松田道雄(解説)『日本疾病史』平凡社 (1969) の「麻疹」の章には,「鎌倉時代の頃になって世人は麻疹をハシカと呼んだ.鎌倉時代の医師,梶原性全 (1266-1337) の「万安方 (13151327)」には,瘡疹の部門を立て,瘡をモカサと読み,疹をハシカと読み,また同人の著書「頓医抄 (130204)」には,麩瘡にハシカカサの読み仮名を附けた事からも明かである.」とあるが,これらの書を見ることは出来なかった.

(以下画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用)

多聞院日記(たもんいんにっき)』は奈良興福寺の塔頭多聞院において,室町期 文明10年(1478年)から江戸初期 元和4年(1618年)にかけて140年もの間,僧の英俊を始め,三代の筆者によって延々と書き継がれた日記.当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である.その室町期,文明十六年(1484)六月三日の記事には
「臨時心經會成廻請畢.自今春疱瘡并ハシカ)以外増,七八十歳之物ニ至マテ病之,於小兒不及言者也,隨老若病氣大事也,他國ニハ多以令死去,於當国當所(大和国奈良)者,依ハシカ)死去之物少シ.叉三月末四月初比以來疫病以外増.殊南里ニ増云々.多以老若失命者也.於他國者言語道斷疫令増云々.隨而死去之事ハ,他國之事一里二里而開ル在所在之云々.仍爲自国他国祈禱,臨時心經會可有始行之由學侶評定,則寺務ハ被申之了,依學侶之儀廻請等如前々認之者也.五師・三綱出仕廻請・幡廻請等如恒例認之,叉疫病ハ於寺僧中一人而無之.」とあり,ハシカの読み仮名が振られ,室町期にはハシカが病名として知られていたことが分かる.(出典:英俊ら著『多聞院日記』 第1巻,三教書院 (1935))

一方,中国明代の医学書の『古今医鑑』等に記された「麻疹」の病名は日本に伝わり,甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成. 七』(1932-35)に収められている★『妙法寺記』の永正十年(癸酉)(1515)  の項に「此年麻疹世間に流行事大半に過ぎたり錢をゑる事無限賣買安し.(以下略)」とあるのが,「麻疹」の初出とされている.また,この書の大永三年(癸未)(1523) の項には「「此年少童痘(も)をやむ又イナスリをやむ大〓(墍の土を木,概?)ははつるヽ也」とあり,イナスリとも呼ばれていた.
『甲斐志料集成. 七』には,「妙法寺記は一に勝山記ともいふ.山梨縣南都留郡小立村妙法寺住僧の記されたるもの也.上下二巻よりなる.文正元年より永禄四年に至る九十六年間の甲駿越及び坂東諸国の主要なる出来事を録せるものにして信憑するに足る記録として古來より史家の間に有名なる史料の一也.」とある.それぞれの年には,甲州で「麻疹」が医師から伝えられ,一方和名としては「イナスリ」が僧職の間では一般的であったと思われる.

「麻疹」は医家の間で広くこの病の名として認識され,曲直瀬玄朔(1507-1594) 1576年(天正4)に著わした,28歳から58歳までの30年間にわたる診療の記録★『醫學天正記(慶長12, 1607)には,「麻疹」の項があり,二人の患者の病状と処方した薬の記録が残る.「麻疹
 一 二條又右衛門子息 五才 疹後身熱便瀉シ不食?? 咳痰
和肌湯 参蘇飲ニ去
一 河村清十郎 而發熱往來 大便瀉シテ而帯血渇
調中湯 参 朮 苓 甘 陳 芍 葉? 丹 王 門 葛」
これ以降の時代には,漢名としては「麻疹」が一般的となり,庶民の間では「ハシカ」が多く用いられた.

江戸時代後期の医師 橋本伯寿 (? - 1831) 断毒論 天』(1809)の「痲源」の項には,この病の名称が文献名と共に記載されている.
痲源
痲亦今-昔無有焉.其初異-域之疹氣.合湊於人-.以成-種之異病.傳-染周-流.恰如痘之巡-行郡-.屢巡-行萬國.而残害乎古-今之生-者也.按

和漢多名目一○ 所謂--- ------ 唐以-上,諸--書, ---書(略) 麻疹 ---鑑,痲疹 --- -韻云,痲本作麻 糠瘡 ---書云,(中略)
-- ---年官-符 --  ---記 - --抄 -  ---運 --○ 稲目瘡 ---畧,和訓意----沙(イナメカサ),----(アカモカサ) 栄華物語 --ハシカ -俗,呼-穎,曰--加,取意身-體喉-口發疹,如甲レ-,與---*-云糠--意, ---(イナスリ)和,稲訓-,摩訓-,是亦觸-之意,等皆濫名 (以下略)」           
*『証治準縄』:明代医家王肯堂編輯,万暦35 (1608) 頃の成書.六科に分かれ、《六科証治準縄》《六科準縄》とも称す。

ハシカに罹って喉がいがらっぽい様子を,---(いなすり)は稲の穎に觸れて,--(はしか)は穀物(麦)のもみ殻の穎に觸れて,チクチク・イライラする様に例えたとしている.この「はしか」の名の由来が「麦殿」が信仰された要因と考えられる.