2023年12月27日水曜日

クサギ (3) 西欧-3 シーボルト-1 NIPPON,日本植物經濟概要

Clerodendrum trichotomum

極東アジアに広く分布するシソ科(旧クマツヅラ科)の低木,日本産植物としてケンペルが紹介し,学名はツンベルクが付けた(前報).彼等に続いて出島のオランダ商館医師として滞日したシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン,Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 1866,日本滞在 1823 1829, 1859 1862)は,江戸時代の日本の醫学と自然科学の近代化に貢献した.7年間(1823 -1829)の第一次滞日の帰国後に著した大冊 NIPPON” (1832 – 58/59) の江戸参府(1826)の紀行文中に日本の四季を彩る植物を記録し,八月に二種のクサギ属(クサギ,ヒギリ)の花が咲くことを記した.

 彼の日本滞在の目的の一つは,日本の有用な自然資源を調査し,当時下り坂であったオランダの経済を立て直すための資料とすることにあった.実際,滞日中の 1824年及び 1825年にチャノキの種を,オランダ領ジャワのバイデンゾルフ (Buitenzorg) 植物園に送っている.一回目の試みは先人たち同様失敗したが,二回目の試みは成功し,バイデンゾルフ植物園での栽培に成功し,やがてチャの栽培はジャワ全土に広がった.
  その他の日本産有用植物に関しても情報をあつめ,離日直後の
1830 年にバタビアで出版した『日本植物經濟概要 'Synopsis plantarum oeconomicarum universi regni Japonici'』には,447種の植物について,科で分類し,学名・和名・用途を短く記した.この書にクサギ(Gusaki)は若い葉が食用になり,ヒギリ(トウギリ,Tookiri)は街路樹として有用だとして記載し,また添付表には食用・藥用植物として「クサギ」を「臭梧桐」の漢名と共に記載した.

シーボルト “NIPPON Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzländern Jezo mit den südlichen Kurilen, Sachalin, Korea und den Liukiu-Inseln” (1897, Zweite Auflage) 97ページには,

“I.2 REISE NACH DEM HOFE DES SJŌGUN IM JAHRE 1826
Reise von Nagasaki bis Kokura

Wohl einen Monat und darüber bis zum August erscheint im äußeren Pflanzenleben keine auffallende Veränderung ; bloß hie und da zeigt sich noch eine spätblühende Staude oder ein Baum – Clerodendron, Hibiscus, Bignonia, Lagerstroemia4, und Arten von Patrinia, Eupatorium, Prenanthes5, und einzelne blühende Kräuter der früher erwähnten Gattungen sehen mit mattem Grün aus dem gelben Grase hervor. Baumfrüchte und Samen reifen, die Reisfelder erbleichen, und wo im Frühling Veilchen und Anemonen blühten, zeigen sich jetzt im September Strahlblumen, Glocken, Gentianen und einzelne Schirmpflanzen6.

4. Clerodendron trichotomum Thunb. (Kusagi), C. squamatumWahl. (Tōkiri). Hibiscus mutabilis Thunb. (Fujū), H. Syriacus L. (Mukuge). Bignonia grandiflora Jacq. (Nōsen kadsura). Lagerstroemia japonica (Saru suberi).” とあり,(冒頭図,

斎藤信訳『江戸参府紀行』(1967,東洋文庫 87)では
「長崎から小倉への旅 1826年二月二〇日 〔旧一月一四日〕
 おそらく八月まで一カ月かあるいはそれ以上の間、植物の外観上の生活には目立つほどの変化はあらわれない。ただそこここになおクサギ・トウキリ・フヨウ・ムクゲ・ノウセンカズラ・サルスベリのような遅咲きの木や、オトコメシ・オミナエシ・フシバカマ・ヒヨドリハナ・ツルニガナの類や前に述べた属のいくつかの花の咲く野草が、黄色い草の中からつやのない緑色をして顔をだす。」と訳されている.

  都立大学のシーボルトコレクションには,「クサギ」と同定されている腊葉標本が二枚(NO.1245 & 1244)収蔵されている(冒頭図,&)が, NO.1244 の初めの同定は「ヒギリ」であり,形状からだとヒギリのように思われる.この二枚の標本をシーボルト自身が作成したか否かは不明である.


 また離日直後の 1830 年にバタビアで出版した★『日本植物經濟概要には,447種の植物について,科で分類し,学名・和名・用途を短く記した.名称については不明や同定不能のものもある.添付されている表には,224項目の植物が用途別に列挙され,学名の他片仮名で和名及び漢字で漢名が記載されている.この表には.本文にはない16の酒・味噌などの加工品とその主原料の植物が記載されている.この片仮名・漢字の附表がどのように作成されたのか興味がある.出島滞在中に日本の植物学者の協力を得て元の表が作成され,バタビアにおいて,リトグラフで片仮名・漢字を表示したのであろう*

この書にクサギ(Gusaki)は若い葉が食用になり,ヒギリ(トウギリ,Tookiri)は街路樹として有用だとして記載し,また表では食用・藥用植物として「クサギ」を「臭梧桐」の漢名と共に記載した

VITICEÆ.

CI. CLERODENDRON , Linn.

* 186 C. trichotomum , Th. Gusaki , Japon,
     (v. v. h. b.)1)
 
    Usus: Folia adhuc tenera edunt.

187 C. Kaempferi, Sieb. Tookiri , Japon.
   (v. v. h. b.)
   Synon: Volkameria Kaempferi , L. E.
   Arbor formosissima ad ambulacra culta.

1) (v. v. h. b.): Quas ipse vidi vivas siccatasve, signis : (v. v.) (v. s.), quasque in horto botanico colui , signo : (h. b. ).
v. v.
:(日本に於て)生植物を観察した.h. b.:(出島の)植物園で栽培している.の意.


江戸時代の救荒書にはクサギの若葉が食されると記されており,近代・現代に於いてもお浸し,炒め物,くさぎな飯として調理される.

★岩崎常正(17861842)『救荒本草通解』全八巻,巻之四には
「臭竹樹 和名クサキ クジウ預州 クサギ石州 トウノキ仙臺豆州 センヘラヒヽノキヌ 蛮名
(中略)
春ノ嫩葉食フベシ樹中蠧蟲ヲ生スクサギノムシト云小児ノ病ヲ治ス薬ニ食セシム
(後略)」とある(左図).クジウ,クサギの「」は「」由来であろう.

木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』柏書房 (1991) によれば,他にも★遠藤泰通(義斎)「救荒便覧」1837(天保8)及び★小野職孝「救荒植物便覧」1843(天保11)にも,救荒食としてクサギの記事があるそうだが,未確認.

★徳島県教育会初等教育研究部女教員会編『阿波郷土食の伝承と将来』(1994)には

「(食品名)クサギナノアヘモノ シタシモノ, (材料)くさぎな,調味料, (調理)くさぎなの若葉をとり,茹でて半日位水につけておき油にていため,醤油にて味をつけ叉浸物にもする. (採集地)三好郡 池田」
「(食品名)クサギナメシ, (材料)くさぎなの葉,米, (調理)くさぎなの葉を米と一緒に混ぜて炊く. (採集地)那賀郡 加茂谷」とある.戦時下なので,地方での野草料理や糧飯(カテメシ)を掘り起こし,全県に普及しようという意図が感じられる.

★柿原申人『草木スケッチ帳 II』(2002)には,「クサギ うはべ美し底苦い
(中略)クサギの若葉は加熱すると匂いが抜けて食べられる.しかしゆがき方が下手だと苦みと臭みが残る.(中略)私がはじめて食べたのは熊本に知人からもらった,ちりめんじゃこ入りの佃煮.以来ファンになった.だけどアク抜きは難しい.ついゆがきすぎ,臭みは抜けたが味も抜けたとなりがちである.(後略)」とある.

*シーボルトが 182510月に出島で執筆し, 1830 年にドイツの「王立レオポルド・カロリンガー・アカデミー自然科学紀要 Kaiserliche Leopoldinisch-Carolinische Deutsche Akademie der Naturforscher,)」14 (2) に掲載された★『日本の植物学の現状,アジサイ属と本草学の日本の文献について』(Einige Worte über den Zustand der Botanik auf Iapan : in einem Schreiben an den Praesidenten der Akademie ; nebst, Einer Monographie der Gattung Hydrangea ; und, Einigen Proben Japanischer Litteratur über die Kräuterkunde, ⑨)にも,漢字・片仮名で書かれたアジサイ類の和名・漢字名及び和書籍名が挿入頁にある.


 片仮名の筆跡は『日本植物經濟概要』によく似ているが,「草」の読み「サウ」が本論文では「ソー」となっているなど異なる点もある.一方,漢字はいかにも原文を絵として見て真似をしていると思われ,これらの頁は原頁をドイツの職人がみて,リトグラフで描き印刷したと考えられる.基本的にシンプルな直線からできている片仮名は真似し易く,複雑な漢字はしにくかったのであろう.
 なお,このアジサイ属の研究報告書は,シーボルトが単独で発表した唯一の日本植物の論文ではないかと思われ,アジサイ科,アジサイ属のノリウツギ,タマアジサイ,クサアジサイの現在有効な学名の命名者として Siebold のみが記される原記載文献である.
Hydrangea paniculata Siebold
ノリウツギ,Hydrangea involucrata Siebold タマアジサイ,Hydrangea alternifolia Siebold クサアジサイ

続く

2023年12月1日金曜日

クサギ (2) 西欧-2  de Candolle “Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis”

 Clerodendrum trichotomum


  極東アジアに広く分布するシソ科(旧クマツヅラ科)の低木,日本産植物としてケンペルが紹介し,学名はツンベルクが付けた(前報)が,19 世紀後半になると主に中国本土から,プラントハンター達によって欧州に持ち込まれ,観賞用植物として図と共に植物図譜や園芸誌に紹介され,その香りや果実の色が高く評価された.日本では「臭い」とされる葉を揉んだ時の香りも,ピーナッツバターに似ている故に Peanuts butter tree” と言ったり,由来は判らぬものの “Harlequin* glory bower” と呼ばれ,悪評は聞かれない.フランス・パリや米国東南部では,街路樹としても用いられている.   * Harlequin:道化師,果実を取り巻く5つに割れた蕚を,道化師の帽子或は襟飾りに例えたか?

現在の分類法の基礎を提示したフランスで活躍したスイスの植物学者,オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle or Augustin Pyrame de Candolle1778 1841)が著わした“Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis”(「植物界の自然系統序論」)の第11巻(1847)のクマツヅラ科には,彼の提唱した分類法に従って,クサギがツンベルク及びケンペルの文献を参照して,Clerodendrum trichotomum として記述されている.このクマツヅラ科の著者はプロイセンの植物学者シャウアー(Johannes Conrad Schauer, 1813 - 1848)であり,記述内容は単なるツンベルク及びケンペルの引用でなく,彼自身がゲーリングの集めた標本を研究した結果に基づいている. 

カンドール(Augustin Pyramus de Candolle, 1778-1841)は,ジュネーヴに役人の息子に生まれ,ジュネーヴの Collège Calvin で植物学に目覚め,1796年にパリに赴き,1798年にシャルル=ルイ・レリティエ・ドゥ・ブリュテル(Charles Louis L'Héritier de Brutelle1746 1800)の薬草園で働いた.1802年にコレージュ・ド・フランス(Collège de France)で仕事を得て,ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744 – 1829)から植物誌,Flore française (A Paris, Chez Desray, 1805 - 1815) の第3版の共著者として編集 を任された.この仕事で,カール・フォン・リンネの雄蕊雌蕊の数を基本とする人工的分類法と異なる,生物の進化,分化の道筋に基づいた植物の特徴に従う自然分類法を採用した.
 1804年にパリ大学の医学部から医学の学位を得,その後フランス政府の求めで,フランス各地の,植物,農業の調査を行い,1807年にはモンペリエ大学(Université de Montpellier)医学部の植物学の教授に任じられた.1816年にジュネーヴに戻り,1834年までジュネーヴ大学(Université de Genève)で植物学と動物学の教授を務め,1817年にはジュネーヴで最初の植物園(Conservatoire et Jardin botaniques de Genève)を設立した.
 その後は植物の完全な分類をめざす著作 “Regni vegetabillis systema natural” の執筆に費やすが,2巻を発行した時点で大規模なプロジェクトの完成を断念し,1824年からより小さい ”Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis” の刊行を始め,構想の2/3の,7巻を完成した.この著作では,種を100以上の属に実証的な特徴で分類を行った.この膨大な著作には多くの欧州の植物学者が関わっていた.大場秀章編著『植物分類表』(2009) によれば,英国のフッカー(William Jackson Hooker, 1785 - 1865),ベンサム(George Bentham, 1800 - 1884),ドイツのアイヒラー(August Wilhelm Eihler, 1839 - 1887),オランダのミクエル(Friedrich Anton Wilhelm Miquel, 1811 - 1871),当時はロシアに居たレーゲル(Eduard August von Regel, 1815 - 1892)など,ドゥ・カンドール親子を含む35名が分担した.
 オーギュストの子孫は3世代にわたって植物学者となった.息子のアルフォンス・ドゥ・カンドール(Alphonse Louis Pierre Pyrame de Candolle1806 1893)はオーギュストの仕事を引き継ぎ,比較形態学、植物分類学、植物地理学などでの業績で知られ, ”Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis” の完成に努力した.現行の分類法・命名法の主流『国際藻類・菌類・植物命名規約(ICBN)』の制定に功績があった.

 


オーギュストとアルフォンスの共著となっている“Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis”の第11巻(1847)にはオーギュストの分類法に基づき,クサギが,Classis prima DICOTYLEDONEÆ Subclassis III. COROLLIFLORÆ ordo CXLVII VERBENACEÆ   XXXI. CLERODENDRON Sectio 1. EUCLERODENDRON. /§5. Paniculata の項に
  38.
C. TRICHOTOMUM (Thunb. fl. jap. p. 256), glabrum, foliis oppositis longe pe-
tiolatis membranaceis integerrimis opacis subtus pallidis glanduloso-punetatis
et secus nervos obsolete lanuginosis, inferioribus maximis trilobis, superiori-
bus ovatis in acumen longum attenuatis, paniculâ terminali amplissimâ effusâ,
cymis trichotomis patentissime corymbosis multifloris bracteolis parvis cadu-
cis, calyce longe pedicellato inflato 5-angulato acute 5-fido , corollæ tubo gra-
cili calycem duplo excedente.
In Japoniâ (Thunb., Zollinger! pl. jap. exs.
n. 346, Goering!) — Kæmpf. amœn. p. 827 ic. 22. Folia penninervia basi
triplinervi venosa , sursum decrescentia. Calyx membranaceus, basi attenuatus,
semipollicaris. Corolla hypooraterimorpha glabra. Stamina longissime exserta.
Drupa baccata calyci aucto eaque longiore patente insidens. (v. s. inh. DC. et
Lucæ.)
とある.
 
この科はプロイセンの植物学者,ヨハネス・コンラート・シャウアー(Johannes Conrad Schauer, 1813 - 1848が担当したが,ケンペルやツンベルクの記述の写しではなく,ゾリンガーが欧州に持ち込んだ腊葉標本(ゲーリングが収集した日本産植物)に基づいて記したと考えられる.(活動時期地域から,Carl Ferdinand von Römer (1818 – 1891) による収集品ではないかと思われる.章末近くのシュンランの文,参照)

ツォリンガーHeinrich Zollinger, 1818 - 1859)はスイスの植物学者.1841年から1848年ジャワのBuitenzorg の植物園で働き,同園の標本庫に収められていた日本産の植物について研究し,チューリッヒで, “Systematisches Verzeichnis der im Indischen Archipel in den Jahren 1842 - 48 gesammelten, sowie der aus Japan empfangenen Pflanzen”1842 – 1848)を出版した.この中にはゲーリング(P. F. W. Goring)の日本産植物のコレクションについても言及した. 1851年から1859年に渡りジャワに滞在し,多くの植物標本を集めて,欧州の植物学者やコレクターに提供した.

ゲーリングPhilip Friedrich Wilhelm Goring, 1809-79)はドイツ生まれの植物学者で,ジャワに滞在中(1844 – 1845 ?)に長崎のオランダ商館で採集された日本産植物を収集した.彼のコレクションは多くの専門家によって研究された.主な研究者は,ツッカリーニ(ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ(Joseph Gerhard (von) Zuccarini, 1797 - 1848,ドイツの植物学者)で,このコレクションを基に定期刊行物“Flora,” volume 29 (1846) に成果を発表.また,同巻にはストイデル(Ernst Gottlieb (Theophil) von Steudel, 1783 – 1856, ドイツの医師,植物学者)が日本産の イネ科 及び カヤツリグサ科に関しての論文を発表した. 19世紀のドイツにおける最も知られたランの研究家ライヘンバッハHeinrich Gustav Reichenbach1823 1889)は,“Botanische Zeitung,” volume 3 (1845) にゲーリングのラン科植物のコレクションから数種の新種を発見し報告した.また.ロシアの植物学者トゥルチャニノフ(Nikolai Stepanovich Turczaninow, 1796 1863)も本コレクションを基にした研究成果を “Bulletin de la Société des Naturalistes de Moscou” に,1844年から48年に渡って発表した.

ライヘンバッハはゲーリングのコレクションを基に,日本産シュンラン(春蘭)を北米南部・中米に多く分布するマキシラリア属に帰し,その種小名をゲーリングに献名して,学名をMaxillaria goeringii Rchb.f., Bot. Zeit. iii. (1845) 334. として発表したが,米国産のランが日本の庭園で栽培されているとは考え難いとした.後により良い標本を得られたとして,彼はシュンランの属をMaxillaria からCymbidiumに変えて,現在も有効な学名Cymbidium goeringiiとした なお,彼が研究した腊葉標本は Hr. v. Römer の所有する,ゲーリングがジャワで収集したものであろう.このHr. v. Römer とは,プロイセンの博物学者で蒐集家の Carl Ferdinand von Römer (1818 – 1891) ではないかと思われる.


CBM vol.68, t. 3945 (1842), Maxillaria cucullata Lindl.
Bot. Zeit. iii. (1845) 334, Maxillaria goeringii Rchb.f.,
Walp., Ann. Bot. 3: 547 (1852), Cymbidium goeringii (Rchb.f.) Rchb.f.
④シュンラン 茨城県南部

Bot. Zeit. iii. (1845) 334
Notiz über einige Orchideen der Göringschen Sammlung japanischer Pflanzen.
Von G. Reichenbach fil.

  Hr. v. Römer hatte die Güte, mir diese Orchideen zur Untersuchung mitzutheilen, wofür ich demselben meinen aufrichtigsten Dank sage.
  Da mir völlig unbekannt ist, ob irgend ein Botaniker sich mit diesen Orchideen beschäftigt, so nehme ich keinen Anstand, diesen kleinen Beitrag zur Bestimmung der Göring’schen Sammlung hiermit zu veröffentlichen. Ich sehe mich indessen genöthigt, zu bemerken, dass Hr. v. Römer in Erfahrung gebracht hat, dass die Nummern der verschiedenen Sammlungen durchaus nicht übereinstimmen.
 Maxillaria Göringii G. Rehb. fil. pseudobulbis ......, foliis ......, scapo erecto vaginis ventricosis acuminatis vestito, sepalis petalisque brevioribus lanceolatis acuminatis basi attenuatis, Jabello cucullato, trilobo, lobis lateralibus rotundatis obtusis, loho medio porrecto oblongo subacuminato geniculatim reflexo, labello a basi usque ad flexuram lobi medii lineis duabus obliquis cristato. — Japonia. Göring. No. 592. in hb. de Römer.
 Höhe des Schaftes 7”, äussere Kelchblätter 1(1/2)” lang, in der Mitte 4” breit, innere um den dritten Theil kürzer, den äussern Kelchblättern gleich lang. Die Säule ist halbstielrund, etwas nach vorn gebogen. Anthere fast nierenförmig, oben mit einem dreiseitigen Wulste versehen. Pollenkörper 4, einer kleinen Drüse aufsitzend. — Die Art gehört in die Verwandtschaft der Maxillaria cucullata. Die Scheiden des Schaftes erinnern an die der Lycaste Deppii.
 Anmerk. Das vorliegende Exemplar ist an melreren Stellen so zerquetscht, dass mir eine Verbesserung oder Bestätigung obiger Beschreibung wünschenswerth ist.
  Anmerk. Es ist kaum nöthig hervorzuheben, wie merkwürdig das Vorkommen einer Mazillaria in Asien ist! Enthalten die Göring’schen Sammlungen auch mehre sicher kultivirte Exemplare, so ist es doch kaum denkbar, dass in Japans Gärten uns noch unbekannte amerikanische Orchideen kultivirt werden.

Walp., Ann. Bot. 3: 547 (1852)
1427. CYMBAEDIUM Sw.
(LO. p. 161. — Rchb. fil. in Wlprs. Ann, I. 784.)

1. C. (MAXILLARIA G, Rchbch. fil. in v. Mohl & v. Schl. Bot. Ztng. 1845. pag. 334.)
GÖRINGH Rchbeh fil, mss, — Foliis eusiformibus ; pedunculo erecto, uni — bifloro vaginis ventricosis acuminalis vestito; sepalis petalisque brevioribus lanceolatis acumi- natis, basi attenuatis; labello cucullato, trilobo, lobis lateralibus rotundatis obtusis, lobo medio porrecto oblongo subacuminato geniculatim reflexo; labello a basi usque ad flexuram lobi medii lineis duabus obliquis cristato. — Pedunculus 7", phylla perigonii externa 1(1/2)" longa, medio 4
lata, interna Lerlia parte breviora, exteruis aequilata. Gynostemium semiteres, autrorsum flexum. Anthera prope remformis, apice tumore triangulo donata. Pollinia quaterna glandulae parvae insidentia.
   “Obs. Specimen adeo compressum, ut cupiam descriptionem meam iterum comparari cum speciminibus melioribus;” Simul atque meliora obtinui specimina, extemplo vidi, esse Cyimbidium,

" = inch, = リーニュ(ligne1インチの12分の1

2023年11月26日日曜日

コガネノハカタカラクサ(黄金野博多唐草)Tradescantia fluminensis 'Aurea' or T. f. ‘Gold Wing’

Tradescantia fluminensis 'Aurea' or T. f. ‘Gold Wing’ 


 ノハカタカラクサ(トキワカラクサ)は南アメリカ原産のツユクサ科の多年草.現在でも有効な学名をつけて発表したのは,ブラジル生まれのポルトガル人植物学者ヴェローゾ(José Mariano de Conceição Vellozo, 1742 - 1811) で,Florae fluminensis(『リオデジャネイロ植物誌』1825)及びその図譜部 Florae fluminensis icones” (1827) に簡明な記述と図を記した.この書籍の発行に至る数奇な物語は,Wikipedia の José Mariano de Conceição Vellozo の項に詳しい.
 その後欧州で温室植物として広く栽培され(E. Regel ”Gartenflora” vol. 16 p. 298 (1867)),数種の色変わりや模様入りの品種が作出された.日本に園芸植物として昭和初期に渡来したノハカタカラクサは,葉に帯状の白い斑が入っていた品種で,博多帯のようなのでハカタカラクサと呼ばれていた.しかし栽培場所から逸出すると斑がなくなって,親のノハカタカラクサとなって各地で野生化した.斑が残っているのは,シロフノハカタカラクサと呼ばれている.

 ノハカタカラクサの黄葉種(Tradescantia fluminensis 'Aurea')は,1991年に英国の王立園芸協会(RHS)のガーデン・メリット賞(A. G. M., Award of Garden Merit)を受賞して,現在(2023年)もその賞を保持している.この賞は「比較的手に入れやすく,育てやすく,長年栽培していてもその形質が安定していることが確認された,観賞価値の高い植物」に与えられる賞であり,定期的に審査される.'Aurea' というのは「黄金色の」という意味のラテン語で,金の元素記号 Au もこれに由来する.
 ネットで調べると,もう一つの黄葉種の
‘Gold Wing’ が欧州では市販されていて,画像を見る限り 'Aurea' よりは葉が小さく,茎立ちも高くなく,這性が強いのでハンギングバスケットに適している.


 我が家の庭で栽培している黄葉種は,もう5年程生えっぱなしで,春から初夏は葉の色が緑からライムグリーン,5月に白い繊細な花をつけ(冒頭図),日差しが強くなると葉の黄色味が濃くなり,晩夏から黄色になる(上図).南アメリカ原産なので寒さには弱く,霜が当たると葉が枯れてしまうが,木の下や屋根の下では越冬して,春には莖を伸ばして拡がる.春に枯れた長く伸びた茎を取るのが手間だが,サクラソウの根を暑さと乾燥から守る夏のグランド・カバーとして重宝している.形状的には‘Gold Wing’ に近いように感じられる.
 花は,雄蕊に多くの細胞が一列に並んだ細い毛がついている.この毛はツユクサの類には多く見られ,ムラサキツユクサの花の毛は,理科の授業で顕微鏡で覗いて,原形質や核を観察したことがある.また昔は放射線に対する感受性が高いので,原発の周辺で生物モニターとして使ったらとの話もあったと憶えている.東電福島第一原発の事故の際には,どうだったのだろうか.

Tradescantia fluminensi 原記載文献
 Florae fluminensis (Florae fluminensis, seu, Descriptionum plantarum praefectura Fluminensi sponte mascentium liber primus ad systema sexuale concinnatus” (1825)


p. 140

Hexandria. Monogynia.

2. T. fluminensis. T. caule procumbente , floribus axillaribus.
  congestis. ( Tab. 152.a T. 3. )

OBSERVATIONES.

Vaginæ foliorum pilosæ ; stamina antheris binis as apicem ; flamen-
tis pilosis e basi ad medium. Habitat maritimis ad revolum ri-
pas, locaque humentia.


 “Florae fluminensis icons (Petro nomine ac imperio primo Brasiliensis imperii perpetuo defensore ... jubente Florae fluminensis icones, nunc primo eduntur ...)” (1827)

TAB. 152

TRADESCANTIA FLUMINENSIS
 (TAB. 152)

  ノハカタカラクサの種小名及びヴェローゾの著作にある “Fluminensis” は,ラテン語の「川」の意の “flumen” 由来で,「川」はポルトガル語では “rio” であり,ブラジルではリオ・デ・ジャネイロ (Rio de Janeiro) を指す.ポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモス(Gaspar de Lemos)たちがグアナバラ湾の湾口であるこの地を,湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し,発見した1502年1月1日に因み “Rio de Janeiro(ポルトガル語で一月の川)” と命名した.住民たちは,江戸生まれの人たちが「江戸っ子」というように “Fluminense” と自称・他称する.1902年に設立された土地の名門サッカークラブも “Fluminense Football Club” と名乗る.2023年クラブワールドカップの決勝に進出した(2023-12-22, 追記)が,イングランド:UEFAチャンピオンズリーグ2022/23優勝チームのマンチェスター・シティFCに,4-0 で敗退した.