2020年12月4日金曜日

ツミ(3)エッサイ・クロツミ 訓蒙圖彙,頭書増補訓蒙圖彙大成,觀文禽譜,堀田禽譜

Accipiter gularis

堀田禽譜』サギ(チュウサギ?)を捕捉する黑つみ 元図を所蔵していた「戸田五助」は将軍の鷹狩用の鷹を飼育・訓練していた「千駄木御鷹部屋」を管理していた鷹匠頭 
宮城県県図書館「伊達文庫」収蔵〔禽譜〕

 中村惕斎の『訓蒙圖彙(キンモウズイ)』は,江戸時代前期に作られた「絵入り百科事典」であり,初版は寛文6年(1666)に刊行された.以後,元禄8年(1695)には『頭書増補訓蒙圖彙』,寛政元年(1789)には『頭書増補訓蒙圖彙大成』が,それぞれ大幅な増補改訂を経て刊行されている.『訓蒙圖彙』の「鷹」の項には鷹の年齢による呼び方しか記されていないが,『頭書増補訓蒙圖彙大成』には,「雀鷂・雀𪀚」の記述がある.しかしこの書では「雀鷂・雀𪀚」小鷹で,小鳥を獲るとしかない,また雀𪀚ゑつさい,雀鸇さしばが鳥を捉えている図があるが,どちらかは分明でない. 

堅田藩主で,のち佐野へ転封された堀田正敦の『觀文禽譜(1794) は江戸時代で最大最高の鳥譜で,その図譜部の通称『堀田禽譜』と対になる業績である.その巻四の鷹の部に「つみ(まつみ),くろつみ,ゑつさい」の三項があり,「くろつみ」は「くまつみ」「このやまつみ」「これやまつみ」とも呼ばれ,「つみ」より大きくて,鳥を獲る能力もまさっていて,将軍家のタカ狩りにはこれが用いられているとしていて,『堀田禽譜』にはサギ(チュウサギ?)を捕捉している図もあるが(冒頭図)(https://eichi.library.pref.miyagi.jp/da/detail?libno=&data_id=041-70093-1%20target=),つみの黒化個体と思われる.

以下図は NDL のデジタル公開画像よりの部分引用   

★中村惕斎『訓蒙図彙』初版(1666) 第十冊.巻之十三「禽鳥」には


 よう・をう
たか、鷙鳥(してう)也。一-黄鷹ト、わかたか、二-鷹(へんよう)ト、かたがへり、三-鶬鷹(さうよう)ト、おほたか」としかないが(左図)


★中村惕斎
編『頭書増補訓蒙図彙大成』全 21 (1789)巻之十三には,「禽鳥 此部にすむもろもろの鳥をのこらずしるす」とあり,「鷹」の項には,「鷹は惣名にて大小その品多く勇猛の鳥なり(中略)
○鷂は鷹の小さきものなり鷂の小さきを兄鷂といふさらに小きを雀鷂といふいづれもかなり小さければ小鳥をとるなり.
○雀𪀚ゑつさい 雀鸇さしば
何れも鷹の名小鳥をとるなり(後略)」

とある.また雀𪀚ゑつさい 雀鸇さしばが鳥を捉えている図が掲げられている.(右図)

はいたかの小さいものを兄鷂このり,さらに小さなものを雀鷂つみとし,雀𪀚ゑつさいとは別に考えていた.

 著者の中村惕斎(なかむらてきさい)(16291702)は京都の呉服商の家に生まれ,幼い頃から頭脳明晰,朱子学を独修して一家をなし,同時代の伊藤仁斎(16271705)に比肩する学者とも評された.儒学のほか,天文・地理・度量衡や音律にも通じた,幅広い知識を有した人物であった. 視覚教材としては,チェコのコメニウス(Joh. Amos Comenii, 15921670)による『世界図絵 Orbis Sensualium Pictus』(1658年)が教育史上著名であるが,近い時期に日本でも本書のような書物が出版されていたのである.

  初版の『訓蒙圖彙』は序目2巻,本文20巻全14冊であり,1頁に上下2図を載せている.和名と漢名,短い注記を付す.画者は不明(一説蒔絵師源三郎).以後「・・訓蒙」という書名が流行となった.
  寛文8年(1668)に刊行された第2版『増補 訓蒙圖彙』には,1頁に4図が載り,序目・20巻全7冊に改められた.この版がもっとも多く流布した.ケンペル『日本誌』(1727)もこの版から模刻した図を多く載せている.
  『頭書増補訓蒙圖彙』(1695)は1頁に4図が載り,序目・21巻よりなる.
  『頭書増補訓蒙圖彙大成』(1789)1頁に複数の物品の図が混在し,序目・21巻よりなる.

★『觀文禽譜(1794) の著者堀田正敦(17551832)は江戸時代中期-後期の大名.陸奥仙台藩主伊達宗村の八男として生まれ,天明61786)年堅田藩主堀田正富の養子となり,翌年家督相続,1万石.寛政11789)年大番頭,老中松平定信の知遇を得て翌2年若年寄,勝手掛となり寛政改革の財政を担当.文化31806)年に13千石,翌年にはロシア船来航により蝦夷地に赴き,文政91826)年下野佐野に転封.12年に16千石.天保31832)年に75歳で致仕するまで43年間若年寄の職にあった.
 この間『寛政重修諸家譜』編纂を総括するなど幕府の系譜編纂事業に寄与.また屋代弘賢,林述斎,大槻玄沢,谷文晁 ら学者,文人と交際,彼らの学問,芸術の庇護者となる.自らも博物学者として近世最大の鳥類図鑑『観文禽譜』を編纂した.<著作>『水月文章』『水月詠藻』『幕朝年中行事歌合』『蝦夷紀行』

 『観文禽譜』は江戸時代で最大最高の鳥譜で,その図譜部の通称『堀田禽譜』と対になる業績である.『観文禽譜』は,巻一がツル・サギ・シギ,巻二がカモメ・カモ,巻三がニワトリ・キジ・ハト,巻四がインコ・タカ・フクロウ,巻五がツバメ・コウモリ・キツツキ,巻六がヒバリ・スズメなどで,総計は655品.『堀田禽譜』の多くの図は現在宮城県県図書館に収蔵されているが,堀田正敦が伊達家出身に由来するからか.


観文禽譜』の巻四に

つみ すゝみたか 漢語抄 まつみ 黒ツミニ對トシテ称ス真シキ真カモト云カ如シ

雀鷂 倭名抄引漢語抄 〓(常+鳥)下学集〔  〕撃征 題

雀鷹 鶗〓(肩+鳥)通雅                                                               

新六帖ニ とやかへるつみをてにすゑあはつののうつらからむとこのひくらしつ  前内大臣家良

鷹百首                                            慈鎮和尚

西園寺鷹百首                                                公經

詩小雅 采芑 彼飛隼

 良安云*3コノリニ比スレハ又小ナリ毛色畧ハイタカニ似タリ翅彪横ニ

巻成スル者ノ如ナル者藤黑ノ彪ト名ツク唯雀ノ類ヲ取而已今按ニ
ルニ爾雅*4鷹隼醪陸疏*5鷂屬也齊人謂之撃征或謂之顆肩或
謂之雀鷹春化爲布穀者是也此屬數種皆爲隼又本草鴟集
解詩疏云隼有數種通稱鷂ト云ヘリ其説錯雜ナリト云トモコレヲ改フルニ
ヲホタカハイタカツミ彪各大小アレトモ同種ナリ然ルニ時ハ隼ハイタカ類トナシテツミ
ニ當ン方穏ナルヘシ稲若水庶物類纂*6ニモ撃征題〓(戸ノ下ニ日)雀鷹ヲハイタカニ當テ
ツミヲ別出セス是時珍カ隼鷂ヲ弁出スルト同意ニシテ未審ナラサルニ似タ

  *3:寺島良安『和漢三才図会』
  *4:『爾雅』(陸佃、11世紀末)の「釋鳥」に「鷹隼醜,其飛也翬」とある。
      翬:音読み        意味  速く飛ぶ。大いに飛ぶ。また、その羽の音。五色の美しい羽を持つ雉(きじ)
 *5:陸璣『毛詩草木鳥獸蟲魚疏』の「卷下」に
彼飛隼
隼鷂屬也齊人謂之擊征或謂之題肩或謂之雀鷹春
化為布榖者是也此屬數種皆為隼」とある.

頭注

潛確類書*1 李善曰驇撃之
鳥通日集又曲籍便覧*2隼註
〓云古今隼未有的指其物
者禽経但云鳥之小而驇
者皆曰隼

*1潛確類書:(明)陳仁錫纂輯『潛確居類書』全120卷,その「巻之一百六 飛躍部三」の「鷹隼」の章に,「鷹隼○〔禮記〕立秋乃日鷹隼乃撃○李善曰驇撃之 鳥通日集呼曰隼執取飛鳥撃奪毛羽〇故曰驇撃」とある.
*2曲籍便覧:「曲籍便覧」は特定できなかったが,()馮復京輯著『六家詩名物疏』(萬暦33 [1605] 序)の「詩名物疏 全覽二 有嘉魚之什二 采芑篇」の「隼」の項に「爾雅云鷹隼醜其飛也翬郭云鼓翅翬翬然疾(中略)雅翼云古今言隼未有的指其物者(以下略)」とある.

また続けて

黑つみ くまつみ これやまつみ

新六帖ニ あふ事を いつとか待ん わかさちの 山の黑つみ つみしらせても

利徳朝臣ノ説ニ聞ニ今官ニ養所ノツミハ多クコレ山ツミニシテマツミハ未観スト云ヘリコレ山ツミ
コノ山ツミトモ云ヘリ ハ越前福井ヨリ献ス亦尾藩ヨリモ來ルマツミヨリ差大ニシテワサモ亦勝
レリ疑ラクハ是エツサイノ雌ナラント」
とあり,

更に

ゑつさい 和名漢語抄引を悦哉としるせり 雀𪀚 和名抄引唐韻 零鳥 下学集

鷹三百種 かたむねをなほかひ残すゑつさい乃いかにしてかは鶉とるらん    定家

エツサイハツミノ雄ナル者ナリ大サヒヨトリノ如シ雀及小鳥ヲ取ノミ仙臺
候ノ寫眞*1ヲ観ニ頭背灰青黒ニシテ翅黒シ尾亦背灰ニシテ黒キ横彪
アリ臆*1ヨリ脇腹ニ至テ淡赤臆及腹下白シ咮*2黒ク脚黄ナリ
眼中亦黄ナリ」とある.

*1仙臺候ノ寫眞:現宮城県県図書館「伊達文庫」収蔵〔禽譜〕 (https://eichi.library.pref.miyagi.jp/da/detail?data_id=040-51703)では見られず.
*2
臆:オク,ヨク,むね
*3
咮:チュウ,くち,くちばし

2020年10月11日日曜日

ツミ 雄,エッサイ(仮) 仁勢物語,本朝食鑑,大和本草,和漢三才圖會,貞丈雜記,本草綱目啓蒙

Accipiter gularis

庭に初めて来訪した猛禽類のツミ.ヤエベニシダレの枝に止まり,辺りを睥睨していたが,30分ほど留守にし,戻ってきた時には獲物の肉を爪にしっかりと掴んでいた.庭の常連のシジュウカラやスズメは,ツミがいるのを気にせず辺りを飛び回っていたが,それらよりは大きい鳥の肉のように見えた.やがてツミは獲物の肉をぶら下げて飛び去っていったが,ツミは雌雄で子育てをするとの事なので,近くに巣があるのかもしれない.

タカの仲間は雌の方が大きいのが一般的だが,小型のツミでは,その差が顕著に感じられるためか,古くは,雌をツミ,雄はエッサイと雌雄を別種と考えていた.江戸時代になるとエッサイはツミの雄と認識されるようになった.

平安時代の歌物語『伊勢物語』のパロディとして,江戸初期に成立した★『仁勢物語(にせものがたり)』の三十一段は,『伊勢物語』での「罪」を鳥の「つみ」にかけての話だが,その中では子供がタカ狩りに使うエッサイをツミを同一に扱っている.

江戸前期の医師,★人見必大(1642頃-1701)著『本朝食鑑』(1692年成立,1697年刊)は「本草綱目」に準拠しつつ,実験的に吟味・検討して,庶民の日常食糧を医者の立場から解説し著述しているが,その中で,「必-大(わたし)按スルニ今雀-鷂(ツミ)ノ雄ヲ以テハ雀-𪀚(エツサイ)ト爲ス」と,エッサイはツミの雄であると明言している.これが確認できた文献では,ツミとエッサイを同種の雌雄とした最初の記録である.

★貝原益軒『大和本草(1709) でも,「○雀鷂(ツミ)ハ小鳥ヲトル(中略)○雀𪀚(エツサイ)ハ雀鷂(ツミ)ノ雄ナリ」 とエッサイはツミの雄であるとしている.

江戸の絵入り百科事典★寺嶋良安編『和漢三才圖會』(1712年成立)にも,「雀𪀚(エツサイ) 雀鷂(ツミ)之雄也」とある.

江戸時代中期の旗本で伊勢流有職故実研究家★伊勢貞丈(1718- 1784)が書き残した『貞丈雜記』(執筆 1763-84,出版 1843)にも「一 雀𪀚(エツサイ)ハつみの男也、雀鷂(ツミ)はゑつさいの女也」とある.

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806) は,『本草綱目』に関する蘭山の講義を孫職孝が筆記整理した書.『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.この書では「雀鷹」を本名としているものの,この鷹は「スヾメダカナリ一名ツミ」とし更に「ヱツサイノ雌ナリ雄ヲヱツサイト云形小ナリ」と雄のツミはヱツサイと言い,雌より小型と述べている.

 

★『仁勢物語』は寛永年間 (162444) に刊された仮名草子で作者は未詳.書名は『伊勢物語』のもじりで,にせ (偽) の意をも含んでいる.各段の書き出し「むかし」を「をかし」に替えたり,雅語を俗語に置き換えたりして『伊勢物語』を逐語的にパロディー化し,近世の風俗を取り入れて,卑俗な滑稽文学に仕立てた戯文である.近世古典享受の一面であり,近世人の知性と感覚,機知と諧謔の精神を示したものといえる.

この書の第三十一段は,『伊勢物語』の該当する物語中の「罪」を鳥の「ツミ」に置き換えて,一種の小児の目を通した生き物の生命を奪う事の矛盾を突いた話にしている.


伊勢物語 三十一段』
「昔、宮の内にて、ある御達(ごたち)の局(つぼね)の前を渡りけるに、なにのあたにか思ひけむ、「よしや草葉(くさば)よ、ならむさが見む」といふ。男、

   もなき人をうけへば忘草(わすれぐさ)おのが上(うへ)にぞ生(お)ふといふなる
といふを、ねたむ女もありけり。

現代語訳
  昔、宮中で,一人の男が,ある身分ある女房の部屋の前を通ったところが、男をどんなにくむべき者と思ったのでしょうか、「まあいいってことよ、草葉みたいなもの,今は茂り栄えているようだけれど,どんなになって行くか、なりゆく状態を見てやろうと」という。そこで男は、
 なんのわるいこともしていない、罪もない人をのろってその不幸を祈るようなことをすると、忘れ草が自分の身の上にはえて人に忘れられてしまうということですよ。
 というのを聞いて、悔しがり憎む女もあったことだった。」とある.これは,
 『仁勢物語 三十一段』(日本古典文学大系 90 『仮名草子集』前田金五郎,森田武/校注,岩波書店 (1978),「仁勢物語」前田金五郎/校注)によると

「(三十一) をかし。道の端(はた)にてある子達の(形の彡を鳥)(ゑつさい)(二十)を居(す)(二一)へて通(とを)りけるに、何阿彌(あみ)(二二)とか云(い)ひけん「よしや(二三)殺生(せつせう)(二四)よ。南無釋迦彌陀(なむさかみた)(二五)」といふ。兒(あこ)(二六)

  罪(つみ)も無(な)き人は鵜(う)(一)をかひ罠(ワナ)を張(は)り多(おほ)くの肴(さかな)(二)食(く)ふと云(い)ふなり

と云(い)ふを羨(うらや)む坊主(ぼうず)多(おほ)かり。」と書き換えている.

前田金五郎氏の頭注には,

二十 最も小型の鷹の一種。雄を雀鷂(つみ)、雌を〓(形の彡を鳥)という。秋季、鶉・雲雀・雀等を捕る小鷹狩りに用いる。当時の「ゑつさい」の用字は、雀𪀚・雀鷂・零鳥(伊京集・黒本本・天正本・易林本各節用集)。
 二一 拳にとまらせて。
 二二 浄土宗・時宗で多く行なわれた、名前の上下に付けた「阿弥陀仏」の略号。「阿弥陀仏」または単に「阿」とも付け、また能楽の観阿弥・世阿弥のように、芸能人にも付ける風習があった。
 二三 よしにしなさいよ、止めなさいよ、の意である。
 二四 生物を殺す事。仏教では五悪・十悪の一として最も重罪に数えられている。ここは、小鷹狩りで小鳥の命を取る事を指す。
 二五「南無三宝」「南無三」と同義(宮坂氏示教)。
 二六 子供。普通子供の自称に用いる。「児アコ小児之自称也」(天正本)。
 一 写本「鵜をかひ」。小鷹狩りの殺生はしないが、鵜飼や罠で魚鳥を殺生するの意。上の「罪」に「雀鷂」を掛けた。
   写本「」。とある

前田金五郎氏の頭注では,下線部の如く雄をツミ,雌をエツサイと雌雄を逆に呼んでいる.

小児が,遊びか小遣い稼ぎかは分からないが.小形の猛禽類によるタカ狩りを行っていたのは,『大和本草』にも記載されている. 

★人見必大(1642ごろ-1701)著『本朝食鑑』は江戸前期の食物本草書。医家の必大が1692年に著した遺稿を,子の元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成をうけ,97年に1210冊本として刊行した.庶民の日常生活の食膳にのぼることの多い国産食物に重点をおき,実地検証したものに限って品目を撰定,品名も従来の食物本草書にみるような漢名中心を排し,和名中心としている.品目の分類,解説の構成は中国の《本草綱目》に準拠して,本文中にそのまま文章を引用している個所も多いが,それらは著者の検証に立ったうえでのものと考えられる.

この書の「禽部之四」に
 波之太賀(ハシタカ)ト訓ム.今マ波比太賀(ハヒタカ)ト曰フ。
  (中略)
〔附録〕 雀鷂.豆美(ツミ)ト訓ズ。アルイハ須須美多加(ススミタカ)ト云フ。
 雀𪀚。悦哉(エツサイ)ト訓ズ。○源順曰ク「『兼名苑』ニ云ク、雀鶴ハ善ク雀ヲ提ル者ナリ.『唐韻』ニ、雀𪀚、音ハ戎(ジュウ)、小鷹也」。必-大(わたし)按スルニ今雀-鷂(ツミ)ノ雄ヲ以テハ雀-𪀚(エツサイ)ト爲ス.雀鷂(雌)ハ能ク鳩ヨリ已下(いげ)ノ小鳥ヲ鷙(とる)ル。又鳧(かも)・鷖(かもめ)ヲ鷙ルモノモ亦アリ、ソレハ最モ希(マレ)ト爲ス也。雀𪀚(雄)ハ雀鷂ニ及バズ、漸ク雀鷃(ことり)ノ類ヲ鷙ル。」とある. 


「養生訓」などの著者として知られる江戸中期の古医方家★貝原益軒の『大和本草
(1709) には,多くの自然産物の形状・産地・利用法が記されている.その「巻之十五 山鳥」の部の「鷹」の章には,「(中略)

○鷂(ハイタカ)ハシタカトモ云
 (中略)
 ○雀鷂(ツミ)ハ小鳥ヲトル又ダイサキヲモトル鷂ニ
 似タリ凡鷹ノ類多シ然トモ鳥ヲ捕ハ右ノ數種ノ外ニ
 無之兒(チコ)-隼ハ雀鷂(ツミ)ノ大サニテ隼ト形状少モ不異小-
 兒愛鳥ヲハトラス○雀𪀚(エツサイ)ハ雀鷂(ツミ)ノ雄ナリ鳥ヲ不
 取チカラヨハシツミヨリ猶小也形ハ似タリ」とある.「エツサイはツミの雄だがより小さく,鳥を獲らない」とあるし,また子供が「ちごはやぶさ」という,小型のタカを用いて小鳥を獲るとある.仁勢物語で子供がタカ狩りを行う記述に合致する. 

★寺島良安『和漢三才圖會』は大坂の医師良安が,師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことを動機として編集した絵入り百科事典.明の王圻による類書『三才圖會』を範として,約30年余りかけて編纂された.『三才圖會』をそのまま写した項目には,空想上のものや,荒唐無稽なものもあるが,博物学などにとり貴重な文化遺産といえる.この書の「第四十四 山禽類」には,には,

雀鷂 すずみたか つみ

   [和名 須个美太加 或云豆美
     雀𪀚(エツサイ)[ゑつさい]
     和名悦哉

△雀鶴乃鷂(ハイタカ)乃属(タクヒ)翅彪横ナルヲ巻成-彪(フト)
  雀𪀚(エツサイ) 雀鷂(ツミ)之雄也其ノ大サ如鵯(ヒヨトリノ)共雀小

 かたむねをなほかひ残すゑつさい乃いかにしてかは鶉とるらん    定家」とあり,

現代語訳は「△雀鶴は鷂(はいたか)の属で翅彪(はねのとらふ)が横に巻き成すようになっているものを藤黒の彪という。雀𪀚 雀鷂の雄である。大きさは鵯ぐらいで、どちらもよく雀、小鳥を捉える。」
  とあり,「エツサイはツミの雄でヒヨドリほどの大きさで,よくスズメや小鳥を獲る」とあり,益軒の「エツサイは鳥を獲らない」との記述に反するが,実際は雌より小さいエツサイでも鳥を獲る. 

★伊勢貞丈『貞丈雜記』は,全16巻,36部からなる江戸時代後期の有職故実書.貞丈が子孫への古書案内,故実研究の参考書として,宝暦 13 (1763) ~天明4 (84) 年の 22年間にわたり執筆した.草稿のまま伝わったのを岡田光大 (?1882ごろ) が部類別に編集・校訂し校訂して,天保 14 (1843) 年に刊行した.

  伊勢氏は室町幕府以来,小笠原,今川両氏と並んで武家諸礼式,故実を家職とし,その伝統を伊勢流と称した.
  貞丈の父貞益は家禄の1000石を継ぎ,1717年(享保2)には8代将軍徳川吉宗の命により家伝の書52部・63巻を台覧に備えたが,25年,33歳の若さで死去し,その跡を継いだ兄貞陳(さだのぶ)もまた13歳で夭折し,一家断絶の悲運にみまわれた.翌268月に至り,特旨により10歳の貞丈が家名を継ぐことを許されたが,家禄は大幅に削減されて,わずか300石を給せられた.
  こうした宗家の動揺・減知は,すでに元禄(16881704)前後から小笠原流に圧せられた伊勢流の退勢に拍車をかけたが,それだけに年少気鋭の貞丈にかける一門の期待は大きかった.貞丈は博覧強記,家伝の豊富な書籍を読破し,よく公武の故実に通じ,1745年(延享2)御小姓組番士に列し,家名をあげた.その後も研究に専念し,その著述は武家の制度,典章,弓馬,武器武具,服飾などの分野に及び,実に300部を数える.そのうち『貞丈雑記』『安斎随筆』『安斎雑考』『安斎小説』『武器考証』『軍器考百首』『軍用記』『四季草』『座右書』『伊勢弓馬叢書(そうしょ)』『伊勢平蔵家訓』などが著名である.

貞丈雜記』の「巻之十五 鷹類之部」には

「一 鷹をつかふ事ハ武家の古實にあらず公家より出でたる

事之武家ハ鷹の事知らずといひたればとて恥に
  ハあらざる由舊記にみえたり書札雜々聞書に云く惣
  別鷹の道は無案内と申候ても武士ハ人により候て
  不苦奏者等などにて鷹を渡し候事有之候共
  鷹居(鷹匠の事)めしよせ候はんと申しても叉架(ほこ)につながれ
  候へと申してもくるしからず候由鷹は公家の物にて
  候但當時無案内と可申事未練の至なり云々禁裏
  の御鷹をば古は持明院殿のあづかり申されしとなり
  今も公家に持明院殿と云家あり定めて鷹の
  故實を其家にうけ傳へられしなるべし


   
すべて鷹ハ男鳥小さくして女鳥ハ大なる物也、鷹の品々如左
       兄(シヤウ)鷹ハ男也、弟鷹(オホタカ/ダイ)ハ兄鷹の女也男鳥ハ小き故小といふ女鳥は大なる故おほたかともたいたかとも云
    (中略)
    一 雀𪀚(エツサイ)ハつみの男也、雀鷂(ツミ)ハゑつさいの女也大サひよ鳥ほど有りゑつさいハ力よわし鳥とらずつみは小鳥を取又たいさぎをとる之」とある.エツサイはツミの雄で小さく,鳥は獲らないとある. 

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806)

「巻之四十五 禽之四 山禽類」の「鴟 トビ トンビ」の項に

雀鷹ハ スヾメダカナリ一名ツミ即時珍鸇色青ト云モノナ
リ大サ伯勞ノ如シ能小鳥ヲ捉 ヱツサイノ雌ナリ雄ヲ
ヱツサイト云形小ナリ」とある.

ここで引用されている★李時珍『本草綱目』では「禽之四 山禽類 鴟」の項には,「鸇色青、向風展翅、迅揺搏捕鳥雀、鳴則大風、」とあり,★『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929)春陽堂には,「鸇は色青く,風に向つて翅を展べ,迅(すばやく)揺つて鳥,雀を搏つて捕る.鳴けば大風が起こる.一名晨風といふ.」と訳されている.なお,鸇はサシバ,ハヤブサ,ワシ,ハイタカ,コノリ(ハイタカの雄)などと考定されている.