2020年10月11日日曜日

ツミ 雄,エッサイ(仮) 仁勢物語,本朝食鑑,大和本草,和漢三才圖會,貞丈雜記,本草綱目啓蒙

Accipiter gularis

庭に初めて来訪した猛禽類のツミ.ヤエベニシダレの枝に止まり,辺りを睥睨していたが,30分ほど留守にし,戻ってきた時には獲物の肉を爪にしっかりと掴んでいた.庭の常連のシジュウカラやスズメは,ツミがいるのを気にせず辺りを飛び回っていたが,それらよりは大きい鳥の肉のように見えた.やがてツミは獲物の肉をぶら下げて飛び去っていったが,ツミは雌雄で子育てをするとの事なので,近くに巣があるのかもしれない.

タカの仲間は雌の方が大きいのが一般的だが,小型のツミでは,その差が顕著に感じられるためか,古くは,雌をツミ,雄はエッサイと雌雄を別種と考えていた.江戸時代になるとエッサイはツミの雄と認識されるようになった.

平安時代の歌物語『伊勢物語』のパロディとして,江戸初期に成立した★『仁勢物語(にせものがたり)』の三十一段は,『伊勢物語』での「罪」を鳥の「つみ」にかけての話だが,その中では子供がタカ狩りに使うエッサイをツミを同一に扱っている.

江戸前期の医師,★人見必大(1642頃-1701)著『本朝食鑑』(1692年成立,1697年刊)は「本草綱目」に準拠しつつ,実験的に吟味・検討して,庶民の日常食糧を医者の立場から解説し著述しているが,その中で,「必-大(わたし)按スルニ今雀-鷂(ツミ)ノ雄ヲ以テハ雀-𪀚(エツサイ)ト爲ス」と,エッサイはツミの雄であると明言している.これが確認できた文献では,ツミとエッサイを同種の雌雄とした最初の記録である.

★貝原益軒『大和本草(1709) でも,「○雀鷂(ツミ)ハ小鳥ヲトル(中略)○雀𪀚(エツサイ)ハ雀鷂(ツミ)ノ雄ナリ」 とエッサイはツミの雄であるとしている.

江戸の絵入り百科事典★寺嶋良安編『和漢三才圖會』(1712年成立)にも,「雀𪀚(エツサイ) 雀鷂(ツミ)之雄也」とある.

江戸時代中期の旗本で伊勢流有職故実研究家★伊勢貞丈(1718- 1784)が書き残した『貞丈雜記』(執筆 1763-84,出版 1843)にも「一 雀𪀚(エツサイ)ハつみの男也、雀鷂(ツミ)はゑつさいの女也」とある.

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806) は,『本草綱目』に関する蘭山の講義を孫職孝が筆記整理した書.『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.この書では「雀鷹」を本名としているものの,この鷹は「スヾメダカナリ一名ツミ」とし更に「ヱツサイノ雌ナリ雄ヲヱツサイト云形小ナリ」と雄のツミはヱツサイと言い,雌より小型と述べている.

 

★『仁勢物語』は寛永年間 (162444) に刊された仮名草子で作者は未詳.書名は『伊勢物語』のもじりで,にせ (偽) の意をも含んでいる.各段の書き出し「むかし」を「をかし」に替えたり,雅語を俗語に置き換えたりして『伊勢物語』を逐語的にパロディー化し,近世の風俗を取り入れて,卑俗な滑稽文学に仕立てた戯文である.近世古典享受の一面であり,近世人の知性と感覚,機知と諧謔の精神を示したものといえる.

この書の第三十一段は,『伊勢物語』の該当する物語中の「罪」を鳥の「ツミ」に置き換えて,一種の小児の目を通した生き物の生命を奪う事の矛盾を突いた話にしている.


伊勢物語 三十一段』
「昔、宮の内にて、ある御達(ごたち)の局(つぼね)の前を渡りけるに、なにのあたにか思ひけむ、「よしや草葉(くさば)よ、ならむさが見む」といふ。男、

   もなき人をうけへば忘草(わすれぐさ)おのが上(うへ)にぞ生(お)ふといふなる
といふを、ねたむ女もありけり。

現代語訳
  昔、宮中で,一人の男が,ある身分ある女房の部屋の前を通ったところが、男をどんなにくむべき者と思ったのでしょうか、「まあいいってことよ、草葉みたいなもの,今は茂り栄えているようだけれど,どんなになって行くか、なりゆく状態を見てやろうと」という。そこで男は、
 なんのわるいこともしていない、罪もない人をのろってその不幸を祈るようなことをすると、忘れ草が自分の身の上にはえて人に忘れられてしまうということですよ。
 というのを聞いて、悔しがり憎む女もあったことだった。」とある.これは,
 『仁勢物語 三十一段』(日本古典文学大系 90 『仮名草子集』前田金五郎,森田武/校注,岩波書店 (1978),「仁勢物語」前田金五郎/校注)によると

「(三十一) をかし。道の端(はた)にてある子達の(形の彡を鳥)(ゑつさい)(二十)を居(す)(二一)へて通(とを)りけるに、何阿彌(あみ)(二二)とか云(い)ひけん「よしや(二三)殺生(せつせう)(二四)よ。南無釋迦彌陀(なむさかみた)(二五)」といふ。兒(あこ)(二六)

  罪(つみ)も無(な)き人は鵜(う)(一)をかひ罠(ワナ)を張(は)り多(おほ)くの肴(さかな)(二)食(く)ふと云(い)ふなり

と云(い)ふを羨(うらや)む坊主(ぼうず)多(おほ)かり。」と書き換えている.

前田金五郎氏の頭注には,

二十 最も小型の鷹の一種。雄を雀鷂(つみ)、雌を〓(形の彡を鳥)という。秋季、鶉・雲雀・雀等を捕る小鷹狩りに用いる。当時の「ゑつさい」の用字は、雀𪀚・雀鷂・零鳥(伊京集・黒本本・天正本・易林本各節用集)。
 二一 拳にとまらせて。
 二二 浄土宗・時宗で多く行なわれた、名前の上下に付けた「阿弥陀仏」の略号。「阿弥陀仏」または単に「阿」とも付け、また能楽の観阿弥・世阿弥のように、芸能人にも付ける風習があった。
 二三 よしにしなさいよ、止めなさいよ、の意である。
 二四 生物を殺す事。仏教では五悪・十悪の一として最も重罪に数えられている。ここは、小鷹狩りで小鳥の命を取る事を指す。
 二五「南無三宝」「南無三」と同義(宮坂氏示教)。
 二六 子供。普通子供の自称に用いる。「児アコ小児之自称也」(天正本)。
 一 写本「鵜をかひ」。小鷹狩りの殺生はしないが、鵜飼や罠で魚鳥を殺生するの意。上の「罪」に「雀鷂」を掛けた。
   写本「」。とある

前田金五郎氏の頭注では,下線部の如く雄をツミ,雌をエツサイと雌雄を逆に呼んでいる.

小児が,遊びか小遣い稼ぎかは分からないが.小形の猛禽類によるタカ狩りを行っていたのは,『大和本草』にも記載されている. 

★人見必大(1642ごろ-1701)著『本朝食鑑』は江戸前期の食物本草書。医家の必大が1692年に著した遺稿を,子の元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成をうけ,97年に1210冊本として刊行した.庶民の日常生活の食膳にのぼることの多い国産食物に重点をおき,実地検証したものに限って品目を撰定,品名も従来の食物本草書にみるような漢名中心を排し,和名中心としている.品目の分類,解説の構成は中国の《本草綱目》に準拠して,本文中にそのまま文章を引用している個所も多いが,それらは著者の検証に立ったうえでのものと考えられる.

この書の「禽部之四」に
 波之太賀(ハシタカ)ト訓ム.今マ波比太賀(ハヒタカ)ト曰フ。
  (中略)
〔附録〕 雀鷂.豆美(ツミ)ト訓ズ。アルイハ須須美多加(ススミタカ)ト云フ。
 雀𪀚。悦哉(エツサイ)ト訓ズ。○源順曰ク「『兼名苑』ニ云ク、雀鶴ハ善ク雀ヲ提ル者ナリ.『唐韻』ニ、雀𪀚、音ハ戎(ジュウ)、小鷹也」。必-大(わたし)按スルニ今雀-鷂(ツミ)ノ雄ヲ以テハ雀-𪀚(エツサイ)ト爲ス.雀鷂(雌)ハ能ク鳩ヨリ已下(いげ)ノ小鳥ヲ鷙(とる)ル。又鳧(かも)・鷖(かもめ)ヲ鷙ルモノモ亦アリ、ソレハ最モ希(マレ)ト爲ス也。雀𪀚(雄)ハ雀鷂ニ及バズ、漸ク雀鷃(ことり)ノ類ヲ鷙ル。」とある. 


「養生訓」などの著者として知られる江戸中期の古医方家★貝原益軒の『大和本草
(1709) には,多くの自然産物の形状・産地・利用法が記されている.その「巻之十五 山鳥」の部の「鷹」の章には,「(中略)

○鷂(ハイタカ)ハシタカトモ云
 (中略)
 ○雀鷂(ツミ)ハ小鳥ヲトル又ダイサキヲモトル鷂ニ
 似タリ凡鷹ノ類多シ然トモ鳥ヲ捕ハ右ノ數種ノ外ニ
 無之兒(チコ)-隼ハ雀鷂(ツミ)ノ大サニテ隼ト形状少モ不異小-
 兒愛鳥ヲハトラス○雀𪀚(エツサイ)ハ雀鷂(ツミ)ノ雄ナリ鳥ヲ不
 取チカラヨハシツミヨリ猶小也形ハ似タリ」とある.「エツサイはツミの雄だがより小さく,鳥を獲らない」とあるし,また子供が「ちごはやぶさ」という,小型のタカを用いて小鳥を獲るとある.仁勢物語で子供がタカ狩りを行う記述に合致する. 

★寺島良安『和漢三才圖會』は大坂の医師良安が,師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことを動機として編集した絵入り百科事典.明の王圻による類書『三才圖會』を範として,約30年余りかけて編纂された.『三才圖會』をそのまま写した項目には,空想上のものや,荒唐無稽なものもあるが,博物学などにとり貴重な文化遺産といえる.この書の「第四十四 山禽類」には,には,

雀鷂 すずみたか つみ

   [和名 須个美太加 或云豆美
     雀𪀚(エツサイ)[ゑつさい]
     和名悦哉

△雀鶴乃鷂(ハイタカ)乃属(タクヒ)翅彪横ナルヲ巻成-彪(フト)
  雀𪀚(エツサイ) 雀鷂(ツミ)之雄也其ノ大サ如鵯(ヒヨトリノ)共雀小

 かたむねをなほかひ残すゑつさい乃いかにしてかは鶉とるらん    定家」とあり,

現代語訳は「△雀鶴は鷂(はいたか)の属で翅彪(はねのとらふ)が横に巻き成すようになっているものを藤黒の彪という。雀𪀚 雀鷂の雄である。大きさは鵯ぐらいで、どちらもよく雀、小鳥を捉える。」
  とあり,「エツサイはツミの雄でヒヨドリほどの大きさで,よくスズメや小鳥を獲る」とあり,益軒の「エツサイは鳥を獲らない」との記述に反するが,実際は雌より小さいエツサイでも鳥を獲る. 

★伊勢貞丈『貞丈雜記』は,全16巻,36部からなる江戸時代後期の有職故実書.貞丈が子孫への古書案内,故実研究の参考書として,宝暦 13 (1763) ~天明4 (84) 年の 22年間にわたり執筆した.草稿のまま伝わったのを岡田光大 (?1882ごろ) が部類別に編集・校訂し校訂して,天保 14 (1843) 年に刊行した.

  伊勢氏は室町幕府以来,小笠原,今川両氏と並んで武家諸礼式,故実を家職とし,その伝統を伊勢流と称した.
  貞丈の父貞益は家禄の1000石を継ぎ,1717年(享保2)には8代将軍徳川吉宗の命により家伝の書52部・63巻を台覧に備えたが,25年,33歳の若さで死去し,その跡を継いだ兄貞陳(さだのぶ)もまた13歳で夭折し,一家断絶の悲運にみまわれた.翌268月に至り,特旨により10歳の貞丈が家名を継ぐことを許されたが,家禄は大幅に削減されて,わずか300石を給せられた.
  こうした宗家の動揺・減知は,すでに元禄(16881704)前後から小笠原流に圧せられた伊勢流の退勢に拍車をかけたが,それだけに年少気鋭の貞丈にかける一門の期待は大きかった.貞丈は博覧強記,家伝の豊富な書籍を読破し,よく公武の故実に通じ,1745年(延享2)御小姓組番士に列し,家名をあげた.その後も研究に専念し,その著述は武家の制度,典章,弓馬,武器武具,服飾などの分野に及び,実に300部を数える.そのうち『貞丈雑記』『安斎随筆』『安斎雑考』『安斎小説』『武器考証』『軍器考百首』『軍用記』『四季草』『座右書』『伊勢弓馬叢書(そうしょ)』『伊勢平蔵家訓』などが著名である.

貞丈雜記』の「巻之十五 鷹類之部」には

「一 鷹をつかふ事ハ武家の古實にあらず公家より出でたる

事之武家ハ鷹の事知らずといひたればとて恥に
  ハあらざる由舊記にみえたり書札雜々聞書に云く惣
  別鷹の道は無案内と申候ても武士ハ人により候て
  不苦奏者等などにて鷹を渡し候事有之候共
  鷹居(鷹匠の事)めしよせ候はんと申しても叉架(ほこ)につながれ
  候へと申してもくるしからず候由鷹は公家の物にて
  候但當時無案内と可申事未練の至なり云々禁裏
  の御鷹をば古は持明院殿のあづかり申されしとなり
  今も公家に持明院殿と云家あり定めて鷹の
  故實を其家にうけ傳へられしなるべし


   
すべて鷹ハ男鳥小さくして女鳥ハ大なる物也、鷹の品々如左
       兄(シヤウ)鷹ハ男也、弟鷹(オホタカ/ダイ)ハ兄鷹の女也男鳥ハ小き故小といふ女鳥は大なる故おほたかともたいたかとも云
    (中略)
    一 雀𪀚(エツサイ)ハつみの男也、雀鷂(ツミ)ハゑつさいの女也大サひよ鳥ほど有りゑつさいハ力よわし鳥とらずつみは小鳥を取又たいさぎをとる之」とある.エツサイはツミの雄で小さく,鳥は獲らないとある. 

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806)

「巻之四十五 禽之四 山禽類」の「鴟 トビ トンビ」の項に

雀鷹ハ スヾメダカナリ一名ツミ即時珍鸇色青ト云モノナ
リ大サ伯勞ノ如シ能小鳥ヲ捉 ヱツサイノ雌ナリ雄ヲ
ヱツサイト云形小ナリ」とある.

ここで引用されている★李時珍『本草綱目』では「禽之四 山禽類 鴟」の項には,「鸇色青、向風展翅、迅揺搏捕鳥雀、鳴則大風、」とあり,★『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929)春陽堂には,「鸇は色青く,風に向つて翅を展べ,迅(すばやく)揺つて鳥,雀を搏つて捕る.鳴けば大風が起こる.一名晨風といふ.」と訳されている.なお,鸇はサシバ,ハヤブサ,ワシ,ハイタカ,コノリ(ハイタカの雄)などと考定されている. 

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