2010年12月31日金曜日

Japanese flower by P. J. Redoute (1) アオキ Aucuba japonica

Aucuba japonica
バラやユリ科植物の美しい図譜で有名な「花のラファエロ,ルドーテ」はいくつかの日本から来た植物を描いている.彼の初期の作品,アンリ・ルイ・デュアメル・デュ・モンソー (DUHAMEL DU MONCEAU, Henri Louis (1700-1782))著 「フランス樹木誌(Traité des Arbres et Arbustes que l'on cultivé en France en pleine terre)」新版 7 volumes, folio (16 3/8 x 10 inches) には少なくとも5枚の日本由来の植物の図譜が含まれている.
別名を「新デュアメル」(Nouveau Duhamel)と呼ばれるこの植物誌は,18世紀の著名な植物学者デュアメルが1755年に著した同名の植物誌(挿絵 250枚,木版無彩色)の新版(SECONDE EDITION CONSIDERABLEMENT AUGMENTEE)とされているが,実質的には別物.
デュアメルへのオマージュとして制作され,テキストと図版が一新されたこの新版は,ルイ16世やナポレオンの宮廷から寵愛を受けた,当時フランスで最も有名な植物画家であったピエール・ジョセフ・ルドゥテ(1759-1840)と彼の一番弟子パンクラース・ベッサ(1772-1835)が新たに原画作者として起用されたことで,西ヨーロッパ樹木誌の傑作のひとつとなった.498の図譜の内,463がルドゥーテ,33がベッサが描いたとされ,54人の彫版者が銅版を彫った.ちなみに新版のテキストはヴェイヤール,ジョーム・サン・ティレール,ミルベルら(Veillard, Jaume St.Hilaire, Mirbel, Poiret and Loiseleur-Deslongchamps)の5人の著名な植物学者が担当した.

W.ブラント著『植物図譜の歴史』 ルドゥテの時代 に,「ルドゥテの初期の作品の一つ-デユアメル・デュ・モンソーの 『樹木概論』(TRAITE DES ARBRES ET ARBUSTES 一八〇一-一七年)-を見ると、彩色加筆がなされないと、もとの色彩がいかに多く失われるかがわかる。」と記されているように,後のルドゥテの多色刷スティップル銅版画手彩色の図譜に比べると,べったりとした画質となっている.

海を渡ったアオキのお話は私のもうひとつのブログの記事「海を渡った日本の花(2) アオキ」を参照下さい.

Japanese flower by P. J. Redoute (2) ロウバイ

2010年12月26日日曜日

マンリョウ

Ardisia crenata 7月に地味な花を咲かせていたマンリョウが多数の真っ赤な実をつけた.つやつやとした深緑色の葉との対比で一層実は目立ち,英名がCoral berryなのも納得.

このように初冬目立つ実をつけるのに,同属のヤブコウジ(十両)がヤマタチバナの名で『万葉集』に登場するのに比べ,文献上の登場は遅い.江戸時代の伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695),貝原益軒『大和本草』 (1709),寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)などには「センリョウ(珊瑚,仙寥)」はあるものの「マンリョウ」は見つけられなかった.
本格的に園芸化されたのは文化・文政のころ(19C初頭)といわれ(今泉優),小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803-1806) に白実と共に黄実の名も初めて載る.
巻之九 草之二 山草類下
硃砂根  マンリヨ
花家ニ多クアリ。高サ一尺以来、葉ハ百両金ニ似テ、短ク、辺ニ尖ラザル鋸歯アリ。葉ハ茎端ニ叢リ互生シテ傘ノ如シ。数百ノ円実枝ヲ分チテ葉下ニ倒垂ス。冬春、紅熟シテ観ニ堪タリ。又黄実、自実、其余数品アリ。一種播州及紀州二生ズル者、高サ三四尺ニシテ実少シ。花戸ニテ、シキンジヤウト呼、紀州ニテ、ヤマシキミト云。
江戸の終わりにブームとなり斑(ふ)入りや葉変わりなどが改良され,明治の『硃砂根銘鑑』には53品種が記録されている(湯浅浩史).

光沢のある厚い葉の波状に膨れた部分には共生細菌(Phyllobacterium myrsinacearum Miehe)が詰まった部屋が内部に形成されている(Knoesel (1962))のだそうだ。防疫のため殺菌剤を散布するとセンリョウの成長が阻害されるので,この細菌は宿主にとって有益な働きをしているのだろう.

日本では名前から縁起のよい植物とされ,十両(ヤブコウジ),百両(カラタチバナ),千両(センリョウ)やアリドオシやモチノキと一緒に植えられ,富貴への願いとされるが,ハワイや米国南部(Kaoru Kitajima, 2006)では,観賞用として導入されたマンリョウが鳥によって散布され,原植相に悪影響を与えるとして外来有害植物に指定されている.そういえば,鹿島神宮の参道では,大木の又のところに,鳥の糞から成長したマンリョウを見た(左,2009).

2010年12月16日木曜日

紅葉 カエデ Acer L.

我が家の庭には紅葉が美しいカエデがないので,苦し紛れにアカヤシオの紅葉で代用.

カエデの園芸種は江戸時代に観葉植物として,秋の鮮やかな紅葉のみならず,新芽の色や,葉の形,斑入りなど世界に類のない発展を遂げた.
中尾佐助氏は「花と木の文化史」(岩波新書)の「日本の花の歴史」の項で「落葉樹ではカエデの改良がすばらしい。日本には紅葉する樹木は多いが、栽培下で多数の品種ができたのはカエデ類だけであろう。日本のカエデの栽培品種は珍しくも多くの異なった種からとりだされている。(中略)そのほとんどは枝変りから選択されており、交配はない。元禄の頃からモミジ品種が区別されており、江戸時代にジリジリと品種数が増加し、明治、大正、昭和までなかなかよく保存されてきた。」と記している.
江戸時代の園芸書伊藤伊兵衛らの『花壇地錦抄』(1695),『増補地錦抄』(1695)『広益地錦抄』(1719)『地錦抄附録』(1733)には,トウカエデやイタヤカエデのような園芸種以外も含まれるが,115種の「かえで」が記載されている.
園芸種の名前は雅趣に富んでおり,『花壇地錦抄』では名前と短い説明だけだが,他の3冊ではそのほかに葉のイラストと名前の由来が記されている.名前はほとんどが古歌に基づいている.
例えば
唐織 葉形ほそく切込すかし春の出葉よりべに紫色見事にむらさきの中に本紅のとび入りふかはりもありてふだんながめよし秋の色も又すくれてよし
                             国久
       そめそめて見るにそあかぬ唐錦
                     名にも立田のみねのもみちは
(そめそめて見るにぞあかぬ唐錦名にも立田のみねのもみぢば)
これらの園芸種名と本歌は一覧表はカエデのHPとして有名な林田 甫氏のhttp://homepage2.nifty.com/chigyoraku/Cvname-1.htmlで見ることが出来る.

欧州にはケンペルが「廻国奇観(1712)」で鶏冠木,Kaide, Momidsi と呼ばれ,秋に紅葉すると紹介し(左図,上),ツンベルクは「Flora Japonica(1784)」で,いくつかのカエデに学名をつけ,代表的なイロハモミジには Acer palmatum =手のひら状の という学名をつけた(左図,下).

またシーボルトも持って帰ったようで,下にしめした1870年発行のMorren (ベルギー)の”L'ILLUSTRATION HORTICOLE, REVUE MENSUELLE, DES SERRES ET DES JARDINS”の図譜にはシーボルトの名前が見え,また彼の「Flora Japonica(1835-1870)」のカエデ属の項にはイロハモミジはじめ9種のカエデ類が記載されている.












おまけは2007年,初冬のカンザスシティーの川で撮影した流れよった落ち葉の堆積.芸術写真を狙ったが力不足.

2010年12月12日日曜日

リクチメン 綿花

Raw cotton of Gossypium hirsutum  近くの小学校の3年生の総合学習の時間に,「種の不思議,「み」と「たね」を観察しよう!」という,2時間のお話をした.家内はもう7年ほど,私は昨年に続いて2度目.近隣の原野・川原・公園などからあつめた草木の種や実を子供たちに見せて,自分からは動くことが出来ない植物がどうやって子孫の分布を増やそうとしているか,その知恵について考えてもらった.その材料の一つが綿花.そのため,春に種をまき5本ほどを庭で育てて収穫し,教室に展示した.

 夏から秋に咲いた花はやがて落ち,珠のような実がつき,これが,丸々と太り,やがて弾けて中から白い繊維が現れる.弾ける前の実の形(左),何かに似ているなーと思っていたら,ウルトラマンに出てきた地底怪獣ガボラの頭部だった.

 ワタの実は,繊維がもしゃもしゃと美味しくないので動物に食べられないし,鳥が種をついばむには繊維の妨害があるように思われる.見ていると,ワタの実は大きさの割りに質量が低いし丸っこいので,地面に落ちると風でころころと転がっていく.雨にぬれたり湿度の高いところでは繊維がべったりと地面に張り付き,種が地面に固定され,この繊維は腐って種が発芽した後の栄養になる.ワタは高度な風を利用した種子散布の戦略を持った植物で,人間はそれをうまく利用していると思われる.

 なお,この授業で展示し,実際にさわったり,飛ばしたり,剥いたりしてもらった植物のリストは以下の通り.

1. 自分で弾けて: フジ
2. 動物や人にくっついて: アメリカセンダングサ チカラシバ オオオナモミ イノコヅチ
3. 動物に食べられて糞と一緒に排泄されて: ムラサキシキブ ナンテン トウネズミモチ クロガネモチ カラスウリ
4. 動物に食べ物として埋められて: スダジイ マテバシイ コナラ シラカシ クヌギ ウバメガシ トチノキ エゴノキ
5. 風に乗って: ガガイモ アカマツ アオギリ シンジュ
6. 風に転がされて: フウセンカズラ ワタ
7. 水に流されて: ハス ジュズダマ
8.参考資料:カツラの黄葉(においを嗅いでもらった),各種黄葉・紅葉,アオギリの葉,トチの葉

2010年11月28日日曜日

スプレーギク(4)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (4) (続き)
はじめ栽培されていた中国産の園芸種は,たいてい花びらを内側に巻き込む種類であったが,十九世紀の終わり頃にかけて,日本産の柔らかい,花びらが外側に広がるタイプの方が好まれるようになった.その幾つかは一八六一年日本での四度目の旅行でロバート・フォーチュンが持ち帰ったものであるが,最初はほとんど注目を浴びなかった.だが,一八九八年までにはヒッバードが言うような「花がとても大きいので帽子に入らないほど」のキクも良く好まれる様になっていた.キクは大部分が,温室の花であった.ポンポン咲きの園芸種が一時的に人気がなくなった後,一八八〇から一八九〇年の間にフランスの栽培家 M・デロー氏が関心をキクに向けるまでは,新しい戸外向けの耐寒性のあるキクを作り出すことはほとんど行なわれなかった.

その後,寒さに強くて花をつけやすい朝鮮産のものが新たに紹介され,花壇の縁どり用として再び関心が寄せられるようになった.朝鮮産のものというのはイギリスに早く導入された戸外用の園芸種とコレアヌム種(C. coreanum)の交配種で,アメリカの A・カミングス氏が育てたものである(An important step toward better mums was made when Alex Cumming, Jr., crossed the species Chrysanthemum coreanum with the garden chrysanthemum C.hortorum to produce the Korean hybrids. These crosses were made in 1928. The introduction of germ plasm of this species has resulted in better garden chrysanthemums and points the way to future improvement through interspecific crosses.)
もう一つの重要なキクはルベルム種(C. rebellum)から生まれた.これは一九二三年,ランディットノー(イギリス)のハッピー・ヴァレイ・ガーデンとドイツのデルムシュタット近郊の種苗園で同時に作出された.これは中央ヨーロッパ原産のザワデスキ種(C. zawadskii (Zawadsky's chrysanthemum),標準和名 イワギク (岩菊) 日本各地及び東アジアからシベリア,ヨーロッパ東部にまで分布するキク属の多年草.山地の岩場などに生え,高さは10~60センチほど,石灰岩地の残存植物として点々と隔離分布する.下部の葉は2回羽状に深裂または全裂し,長い柄があり,葉の形状は地方によって変異が大きい.7月から10月ごろ,白色の頭花をつける.)の突然変異であると考えられている.今日では,ウールマンの「リリベット」,サットンの「チャーム」など魅力的な花壇用の小形のキクがたくさん生産されている.

キクの親,つまりシネンシス種とインディタム種は,ともに中国の自生種である.インディタム種の方はリンネが一七五三年に『植物の種』の中で乾燥標本に名づけたのである.インド産であるかのような名前は誤解を招く.植物を企業化するのに巧みな植物愛好家である中国人は,生食用の花びらを採るために,ある種の園芸種を栽培していた.クリサンテマムは「金色の花」という意味であり,新しくココというような名前で呼んだりクリサンス(Chrysanths)とか,もっと悪いマムズ(mumus)とか呼ぶ人には,一種の罰を与えるべきだろう.
(終わり)

おまけは1960年,中国で発行された菊花の切手.全18種が発行されたが,持っているのは内14種.いかにも中国らしい名前と配色が楽しい.

图序 票图名称 原作者 面值(元)
18-1 黄十八 洪怡 0.04
18-2 绿牡丹 屈贞 0.04
18-3 二乔 刘硕仁 0.08
18-4 大如意 屈贞 0.08
18-5 如意金钩 胡絜青 0.08
18-6 金牡丹 汪慎生 0.08
18-7 帅旗 屈贞 0.08
18-9 芙蓉托桂 徐聪佑 0.10
18-10 玉盘托珠 洪怡 0.10
18-13 紫玉香珠 徐聪佑 0.22
18-14 冰盘托桂 洪怡 0.22
18-15 墨荷 胡絜青 0.30
18-16 班中玉笋 屈贞 0.30
18-17 笑靥 屈贞 0.35

2010年11月23日火曜日

スプレーギク(3)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (3)
(続き)
 一七八九年にマルセーユのブランカールという商人が三種の園芸種を輸入した.それは白,スミレ色,紫色のキクだけが生き残った.そのうちの一本が一七九三年頃にキュー植物園に入った.その時はうまく根付き,立派に育った.このキクがイギリスで最初に展示されたのは一七九六年コルヴィール氏のチェルシー種苗園の展示会であった(左図:Curits’ Botanical Magazine, 1796,Chrythanthmum indica,銅版手彩色).
 最初は,種子も株もすべて輸入されていた.ロンドン園芸協会の要望に従って,東インド会社の広東代表ジョン・リーヴィス氏が送ってきたものもあった.一八二〇年から一八三〇年にかけて,およそ七十種類の園芸種が導入されたが,その中には「真紅のラナンキユラスの花に似たキク」があり,中国人はこの花のことを酔っ払った婦人と呼ぶが,それはおそらく「それがバラ色をしているためであろう」とザビーネは一八二六年のロンドン園芸協会『会報』に書いている.
 一八三二年にイギリスで初めて種子が採れた.そしてその後,キクの栽培はジャージーの重要な産業になった.ジャージー島では,一時期四千種類もの違ったキクの変種が栽培されていたと言われる.最初のキクの品評会は一八四三年にノリッジで催された.そしてストーク・ニューイングトン協会,後の英国菊花協会が一八四六年に創設された.

同じ年に,ロバート・フォーチュンがチユーサン・デージーと呼ぶキクをイギリスにもたらした.これが小形のポンポン咲きの親である.ポンポン咲きのキクはたいそう人気が出て,とくにフランスでは人気が高かった(この名前はフランスの兵士の帽子につけているポンポンから取ったと言われている).ビートン夫人は一八六五年に「人々に愛好されているこの小形の種類が導入されたことは,キクの栽培がイギリスで再び盛んになったことに少なからず貢献した」と書いている(右図:Lemaire, 1861, Chryanthemes nains piecoces, 多色石版).
 その頃,キクの栽培は一時的に下火になっていたらしい.グレニーはその理由を「開花時期が遅いのと,色が明るいこと以外推薦できる点はない.匂いはないし,その上栽培を薦められるようなよい性質も持たず,言えるのは下の方から葉が無くなってとても醜くなることである.戸外では棒の支えが必要で,それがないと倒れてしまう」からであると言っている(とひどい言われようだが,キクは仄かだが良い香りがするし,挿し木や適切な摘芯をすればコンパクトになる.文句を言う前に日本の芸術的な仕立て方を学ぶべきであったろう) .

(続く)

2010年11月19日金曜日

スプレーギク(2)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (2)

続き
キクの栽培は四世紀の終わり頃中国から日本に伝えられ,七九七年*1にミカド個人の紋章となって*2,この紋章は以後皇族のみに使用が限られるようになった*3.この花をたたえる詩をミカド自らがつくり*1,また菊花勲章*4はミカドが与える最高のものであった.キクの栽培は皇居や貴族の家の庭でのみ許されていた.今日も用いられている日本の国旗は,一般にはそう思われているようであるが,日の出ではなく,まん中の花盤の周りに十六枚の花びらをつけたキクなのである〔旭日旗のことを指している〕*5.
こうした東洋での栽培事情を知れば,一六八八年には早くもオランダでマトリカリア・ヤポニカ(Matricaria japonica)という名前でわずかながらもキクの園芸種が栽培されていたのに,イギリスに到着したのがやっと十八世紀の終わりであったという史実を思い返すと屈辱的な気持ちになる.一七六四年にはチェルシー薬草園で小さな黄色の花びらを持ったキクが栽培されていた記録があるが,その後間もなく姿を消してしまった.

*1 桓武天皇 天平9年(737年) -延暦25年3月17日(806年4月9日)の時代.キクが園芸的に栽培され,「菊花観賞」が宮廷儀礼の重要な部分として行われるようになるのは,桓武天皇が平安遷都を成功させた延暦十三年(794)以後のこと.菅原道真編『類聚国史』(892年成立)卷七十五「歳時部」六の曲宴の項によると,平安京遷都から三年目の延暦十六年(797)十月十一日,宮中において開催された曲水宴の席上において,桓武天皇がキクを題材にした,次のような即興の和歌を朗詠した.
 己乃己呂乃.志具礼乃阿米爾.菊乃波奈.知利曽之奴倍岐.阿多羅蘇乃香乎.
 コノゴロノ シグレノアメニ キクノハナ チリゾシヌベキ アタラソノカヲ
また,同書卷七十四「歳時部」五の九月九日の項には,桓武天皇の子の平城天皇の大同二年(807)頃には,九月九日の重陽の節供に菊花宴を開くことが恒例になり始めていたことが記述され,8世紀末から9世紀初めには中国原産のキクが日本の宮廷社会に根を下ろしていったことが分かる.

*2 鎌倉時代の後鳥羽上皇(治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日)はことのほか菊を好み,自らの印として愛用した.その後,後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し,慣例のうちに菊花紋,ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した.

*3 「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは,1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による.親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し,十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした.また,1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で,皇族以外の菊花紋の使用が禁止され,同第286号で,皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた.その後,1926年(大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条[4],第13条[5] によって正式に定められている(From Wikipedia).

*4 最高位である大勲位菊花章頸飾及び大勲位菊花大綬章

*5 1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、日章旗が正式に国旗として定められた。

Pannemaeker “LA BELGIQUE HORTICOLE” Chrysantheme Du Japon “Stantead Surptise” 1800’s(伯)多色石版



2010年11月16日火曜日

スプレーギク(1)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (1)1940年代にアメリカで作出された「キク」の園芸品種群.日本には1970~80年代に導入された.主茎から5~10個の側枝が伸びて多くの頭花を咲かせるのが特徴(スプレー咲き).ポンポン咲き,アネモネ咲き,スパイダー咲き,丁字咲きなどがあり,花色も豊富.

『花の西洋史』草花篇 A. M. コーツ著,白幡ら訳 八坂書房(1989)は,日本から海外,特に欧州に渡った花の歴史やその後を知るには非常に有用な書物である.そこには「きく Chrysanthemum」の項目があり興味深いが,その中の中国や日本での菊の歴史についての記述にはいくつか誤解があるのではと思われる.そこで,原文を引用したうえ,注やコメントを紺色で追記する.

クレサンテマム・シネンシス・インディクム(C. sinensis ×indicum)がいわゆるキクである.この高貴な花はその自生地,東洋では二千年にも及ぶ栽培の歴史を持つが,イギリスにおける栽培の歴史は比較的短い.
中国ではおよそ紀元前五〇〇年頃に,孔子(紀元前551年9月28日‐紀元前479年4月11日)がキクについて語っていると言われる(調べきれず.屈原 (紀元前343年1月21日? - 紀元前278年5月5日?)の『離騒 第四段 成言後悔』には「朝飮木蘭之墜露兮,夕餐秋菊之落英 (朝には木蘭の墜露を飲み、夕べには秋菊の落英を餐らう)」とあるが).
五世紀には陶淵明(365-427)という人物がいて,キクの花の栽培家として有名であった(「秋菊有佳色」(飲酒二十首 其七),有名な「採菊東籬下」(飲酒二十首 其五)など,知られているだけで菊を愛する七つの詩を残しているが栽培家とは読み取れず).彼の死後,住んでいた町はチユーシアン(潯陽柴桑(今在江西九江西南)?),すなわちキクの町と改名されたというのを読んだことがある(「小柴桑 菊城」*との混同か).  続く

おまけ(1)
「陶淵明の菊」にちなむ俳句
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒 (芭蕉 「笈日記」)
 夏菊や陶淵明が朝機嫌 (井上井月(幕末の長岡藩士)「漂泊酒句」)
 菊の香や晋の高士は酒が好き(漱石)
 菊咲けり陶淵明の菊咲けり (山口青邨 「雪国」)

熊本大学学術リポジトリに発表された朴美子さんの『中国文学に見られる「菊」の様相 : 陶淵明を中心として』(http://hdl.handle.net/2298/2749)が興味深い

おまけ(2) 左図
Pannemaeker “LA BELGIQUE HORTICOLE - Chrysanthemum sinensis var. Japanese” 1863 (伯) 多色石版

*正式な名前は「小欖」という町 原名欖鄉,古有美稱“小柴桑”、“欖溪”等,今又有美名“菊城”   この町が“菊城”とも言われるゆえんは以下の中国語版Wikipediaに詳しい.
http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%B0%8F%E6%A6%84%E9%95%87
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A6%84%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E4%BC%9A

2010年11月13日土曜日

サガギク(嵯峨菊)

Chrysanthemum grandiflorum cv. Saga
京都で育種された,数多くの細い花弁が,刷毛か茶筅の様に立つ中輪のキク.
江戸のはじめ,嵯峨御所大覚寺の大沢池の小島に生えていたキクに始まるという(湯浅浩史).
「古今和歌集」には大沢の池を模した庭の池のそばに植えられたキクを紀友則が詠んだ歌が
大沢の池に形に植ゑたるをよめる 「一本と思ひし花を大沢の池の底にも誰か植ゑけむ ひともととおもひしきくをおほさわのいけのそこにはたれかうゑけむ」(巻五・秋下・275番) とある.

京都市右京区嵯峨にある旧嵯峨御所 大本山 大覚寺の掲示には嵯峨菊の由来として
「嵯峨菊は旧嵯峨御所大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事がある。  
また、平安朝の歌人 紀友則は、「一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」と詠んでいる。
この嵯峨独特の野菊を、永年に亘り王朝の感覚を以って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立とし、長さは二メートルにする。これは殿上から鑑賞されるに便利なよう高く育てる為である。 花は先端に三輪、中に五輪、下に七輪で七・五・三とし、葉は下を黄色に、中程は緑、上の方は淡緑になるようにする。
花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチが理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに妍を競い高い香をただよわせる。」としている.

京都の大沢池にある小さな菊ガ島には,紀友則の歌の石碑が立つが,詞書からすると実際に大沢池で詠んだ歌ではなく,時代からしてサガギクを詠んだ歌ではない.
また江戸時代に育種されたなら在位809 - 823年の嵯峨帝が現在の形の花を楽しむのは不可能であろう.

花(春)の下の葉を,上段は緑(夏),中段は紅葉(秋),下段は枯れた状態(冬)にして,上から春夏秋冬に見立てての情景を楽しんだという.

ご近所から「嵯峨菊」として苗を頂いたが,あまり弁が細くないので,典型的な「サガギク」ではなさそう.しかし庭に繁茂しているスプレーギクとは違ったキャラクターが際立っている.


2010年11月10日水曜日

イソギク

Chrysanthemum pacificum
日本特産のキク.千葉県から静岡県及び伊豆諸島の海岸に自生するのでイソギク(磯菊)の名を持ち,種小名も pacificum太平洋の であるが,性質は強健で各地で栽培されている.
地下茎を出して広がり,株立ちになる.葉は厚く,表は緑色だが,裏側は白い毛が密生し,白い縁取りのようにも見える.花期は10〜11月頃で,多数の頭花を散房状につけて,香りがよくて晩秋の日を浴びて輝き,多くの昆虫が訪れる.一般には管状花のみといわれるが,この株の花の外側には短く細い花弁をもつ舌状花があるようだ.

野菜及び花きの大害虫であるマメハモグリバエ Liriomyza trifolii (Burgess) は北アメリカ原産で,1970年代以降世界各地に広く分布するようになった.この分布拡大の中心はアメリカのフロリダらしく,そこから出荷された花きや野菜の苗に本種が寄生していたらしい.しかもこの系統は殺虫剤抵抗性を獲得しており,アメリカばかりでなくアフリカやヨーロッパ諸国でも大問題となっている.我が国では1990年6月頃から静岡県西部地域を中心にハモグリバエが大発生し,キク,ガーベラ,セルリー,トマトなどに深刻な被害を与えている.
オランダのJ. DE JONG & M. VAN DE VRIEは,「イソギクは観賞用のキクよりもこの害虫に対する抵抗性が際立って高い(生みつけられた卵から幼虫への成長を阻害する)ので,交配やその活性成分を同定することによって,マメハモグリバエの被害を防げるのでは」と言っている.(http://www.potatonews.com/leafminers/database/a012.pdf).一方米国では地方によっては,キク白さび病菌の宿主になるため栽培が禁止されている.

庭に来てから10年ほど,地下茎で大きく広がるので若い芽が地表から出ると抜いてコンパクトな株にしている.そのせいかだんだん勢いがなくなってきた.しかし秋の日に輝く花は,Golden button といわれるにふさわしい.

2010年11月7日日曜日

番外編 ハナグモ

Misumenops tricuspidatus「坂の上の雲」ならぬ,「花の上の蜘蛛」,今満開のイエローキャンパスの花びらの上で,吸蜜に来る昆虫を待っていた.

ハナグモはカニグモ科に属する網を張らないクモで,草間や花の裏などを徘徊・待ち伏せて,昆虫類などを捕食する.体色も花や葉の色に紛れる様にか,明るい中間色.幼体では全身緑色で,成体の雄では頭胸部および足は赤褐色で腹部の中央付近が緑色になり,雌では頭胸部および足は緑色で腹部は白っぽい.何れも腹背に褐色の斑紋が見られる.動作はゆっくりとしていて,ほとんど動かないので,昆虫に認識されないのであろう.
カニグモ科のクモの外見上の特徴は足の配置で,4対の足のうち,前3対が前を向き,後ろ1対のみが後ろを向く.特に前2対が長く発達して,その2対は左右に大きく張り出し,それを抱え込むように曲げるので,カニを思わせる.
写真のハナグモは体色から生体の雌.この大きさではチョウは獲物になりそうもない.アブやアリマキを待っているのだろうか.生きた農薬としてアリマキをせっせと食べて欲しい.
おまけは米国カリフォルニア州に在住の Kate-san のパートナー,Peter-san が撮影した米国のクモの画像.
Peter-san は主に人物や自然を撮影し,個展やグループ展を開き,音楽祭などの催しに呼ばれるプロの写真家.黒色の背景にクモの巣の糸が銀色に輝く描写はさすが.クモの名は分からないが,この雌は交尾の後で,雄を食べてしまったとのこと.

2010年11月5日金曜日

ホオズキ 実

Physalis alkekengi var. franchetii
鬼灯は實も葉もからも紅葉哉 芭蕉(芭蕉庵小文庫)

5月に花をUPしたホオズキの実が赤くなった.中には赤い丸い実があるはず.古代ではこの赤い丸い実はおどろおどろしいイメージが先行したようだ.

『古事記』 天照大神と須佐之男命「五穀の起源」では,ヤマタノオロチの目の描写に「答白、彼目如二赤加賀智(あかかがち)一而、身一有二找頭找尾。亦其身生二蘿及檜椙、其長度二谿找谷峽找尾一而、見二其腹一隅、悉常血爛也。【此謂二赤加賀智一隅、今酸漿隅也。】 」とあり,
『日本書紀』 巻第一「神代上(第8段)」でもこの大蛇の「眼は赤酸醤(あかかがち)の如し。」とされている.また巻第二「神代下(第9段)」で,猿田彦の「眼は八咫鏡の如くして然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)に似たり。」と記され,何れも眼光鋭い異形の目の例えに使われている.

しかし平安時代になると,上代と違ってこの実はポジティブに受け取られ,ふくよかな実の丸さが美しい女性の例えに用いられるようになったり,
『源氏物語』「野分」 (玉鬘の美しさの表現に)「酸漿などいふめるやうにふくらかにて、髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ。」
『栄華物語』(1028~92頃) 「初花」  御色白く麗しう、ほほづきなどを吹きふくらめて据(す)ゑたらむやうにぞ見えさせ給(たまふ)
また,大きい程美しく,実の形の趣があるものとされていたようだ.
『枕草子』「おほきにてよきもの」 法師。くだもの。家。餌嚢。硯の墨。男の目。あまりほそきは女めきたり、又鋺のやうならんはおそろし。火桶。酸漿。松の木。山吹のはなびら。馬も牛も、よきは大にこそあめれ。 
「草の花は」夕顔の花はさまも朝顔に似て、言ひ続けたるもをかしかりぬべきを、葉の姿ぞ憎きや。実の様こそいと口惜しけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかづき(=ほほづき)などいふ物のやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名の付きそめけんいとをかし。
とある.
江戸時代の『本草綱目啓蒙』 巻之十二 草之五 濕草類下 には,
酸漿 力ヾチ アカヾチ ヌカヅキ ホウヅキ〔一名〕姑娘菜 燈寵児 掛金燈 絳嚢 叱利阿里
春月、宿根ヨリ苗ヲ生ズ。形状時珍ノ説ニ詳ナリ。夏月、葉間ニ花ヲ開ク。一弁ニシテ牽牛花ノ如ク、五尖アリテ五弁ノ如クニ見ミ。故ニ如盃状無弁、但有五尖卜云リ。花後実ヲ結ビ下垂ス。熟スレバ外殻紅色ニシテ美ハシ。云々」とあり,また,「凡酸漿実己熟スルモノヲ盆ニ裁、冬月紙袋ヲ覆テ寒ヲ防トキハ能久ニ堪。其殻筋脈ノミ残リ、蝉翼ノ如ク、中ノ紅実ヲ透見シテ燈寵ノ如シ。」
と興味深い鑑賞法も記されている.  

左図 ヨウシュホオズキ( セイヨウホオズキ) P. alkekengi var. alkekengi (ヨーロッパから中央アジアに分布)
Schlechtendal, D. F. L von et al. "Flora von Deutschland, Oesterreich und der Schweiz.... ( W Mueller) 独 1889 多色石版

2010年11月1日月曜日

番外編 熊毛帽 Bearskin Hat


2010年10月30日の「世界ふしぎ発見!」 第1163回 『あなたの知らないイギリス王室の秘密』 で,竹内海南江さんが今年の女王の公式誕生日の行事「軍旗分列行進式(Trooping The Color)」をレポートしていた.もう31年前になるが,我々家族も1979年6月5日に同じ会場で行われた公式リハーサルを抽選に当たって観覧することが出来た (Stand K, Block 3, Row W, Seat No. 23-25) ので,TVで放映された行進や軍楽隊の演奏を懐かしく聴いたが,もうエリザベス二世も87歳.31年前は乗馬でお出ましのリハーサルだったが.

歩兵連隊がかぶっていたのは黒い熊皮帽(Bearskin hat).文字通りクマの皮で作った背の高い帽子で,赤い軍服の上着と共に,王室の衛兵の象徴であり,リハーサルの後これを被った何人かの古参兵が,プログラムにサインを求められていたのを思い出した(上図).英国王室の象徴の一つとも言うべきこの熊皮帽だが,最近動物愛護の観点から見直しを求められている.

この背の高い帽子は,17~18世紀の戦場で勝敗を決する戦力として重要視されていた擲弾兵の帽子であった.当時,大きな破壊力をしめす擲弾(現在の手榴弾)を人力で投げる兵士は,歩兵よりも体格が良く筋肉の発達した兵士が選ばれ,一種のエリートであった.この体格をより大きく見せ,敵を威圧するために背を高く見せる熊皮帽を被ったらしい.特に有名なのがナポレオンの「皇帝近衛隊」の近衛擲弾兵や近衛擲弾騎兵で(「二人の擲弾兵」ハイネ詩,シューマン曲),彼らは戦場では「黒い熊毛帽の森」と呼ばれて恐れられていた(左下図).


1815年のワーテルローの戦いで,英軍のメイトランド将軍が率いる第1近衛旅団がナポレオン軍を破り,その功績を讃えられ,皇帝近衛隊の「熊毛帽」を被り「近衛擲弾兵」を称する栄誉を与えられた.それ以降,英国王室の近衛歩兵は主にセレモニーにおいてこの帽子を被るようになった.他にもカナダ,ベルギー,デンマーク,イタリー,オランダ,スウェーデンなどの国の儀仗兵も行事の時には被っている.

現在でもこの「熊毛帽」は野生のクマの毛皮から作成されており,一頭から一個しか作ることが出来ない.特に士官の帽子には,毛の密度からカナダの灰色熊のメスの毛皮が最適で,これを黒く染めて用いている.そのため,母親グマが皮をとるために殺され,子グマが飢え死にした事例もあるという.ちなみに,英国歩兵近衛兵の帽子の高さは45cm,重さは280g,英国軍は年間50~100個を現在のレートで85,000円で購入する.使用期間は適切に手入れをすれば十年ほどだが,100年以上前の帽子もあるとのこと.

資源保護や動物愛護の点から,これを人工製品に交換を求める動きは古くからあり,とくに 「PETA (People for the Ethical Treatment of Animals)動物の倫理的扱いを求める人々の会」 は以前からいろんなデモンストレーションを行っていたが(GOD SAVE THE BEARS 2006年セントポール寺院近くでのDie-in など www.unbearablecruelty.com/21_bum_salute.asp),最近,元ビートルズのポール・マッカートニーさんの娘で,人気デザイナーのステラ・マッカートニーさんが開発した人工皮革の帽子を英国防省に提示し,交換を求めた.しかし,伝統を重んじる国防省側の反応は鈍かった(2010年9月8日朝日新聞)とのこと. PETA の活動はグリンピースとやや違ってどこかユーモラスで,日本でも杉本彩さんが「毛皮?裸でいいわ Fur? I'd Rather Go Naked 」という「反毛皮」メッセージを文字通り裸で送ったことが話題になった.

なお,英国王室衛兵の所属は熊毛帽につけられているhackle と呼ばれる羽根飾りと,上着のボタンの配列で見分けられる.ちなみに冒頭の兵士の所属は聖パトリックの青い hackle と襟章のクローバからアイルランド部隊,アイリッシュガーズ (Irish Guard) と思われる.


右は会場で兵士が売っていたスコットランドの軍楽 -バグパイプと太鼓- のカセット (売価 3ポンド) の外装.どの曲も同じように聞こえるが,最初の "Scotland the Brave" はよく演奏されるので,聞き分けられる.

2010年10月30日土曜日

Edible mum 食用菊 延命楽(もってのほか,かきもと)

Chrisanthemum ( Dendranthema ) x grandiflorum cv. ‘Enmei-raku’

蝶も来て酢を吸ふ菊の酢和へかな 芭蕉
夕飯や醤油かけても菊の花 一茶

日本特産のエディブル・フラワー.中国ではキクは紀元前から不老長寿を願う花として親しまれ,菊酒にしたり,お茶に添えたりして味わう伝統があった.日本へは8世紀後半天平時代に唐から(左に示した『和漢三才図会』によれば,仁徳天皇七十三年 -西暦386年- に百済から)渡来したと云われる.
最初は主に薬草として用いられ,貴族社会を中心に重陽の節句(旧暦九月九日)の菊酒や,真綿に花の香りを移す「被綿(きせわた)」などに用いられていた.その後観賞用としての栽培が始まり,一般の人々の食用として普及するのは,江戸時代前期以降.江戸時代の本草書では,花弁が甘い(苦くない)物を薬用・食用とする.

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) には「菊花種類多シ。大抵二品ニ分ツ。薬食ニ用ル菊卜花ヲ賞スル菊トナリ。薬用ノ菊ハ甘菊ナリ。本草ニ説トコロハ此モノヲ指。甘菊ハ元来色ノ黄白ニ拘ラズ昧甘キ者ヲ用ユ。然ドモ今本邦二伝栽ル者ハ皆黄色ナリ。和名アマギク又料理ギクトモ云。九月ニ花ヲ開ク。大サ寸許、或ハ寸余、弁ハ常菊トチガヒ細筒子ニシテ末五出、弁多ク重テ心ナシ。変ジテ濶弁(ヒラシベ)トナレバ黄色淡クナリテ中ニ小心アリ。此菊、花葉共二苦味ナクシテ食料ニ充べシ。故ニリヤウリギクト云。此花薬用ニ良トス。」とあり,黄色い八重咲きで先がやや開いた細い管状の舌状花の品種を料理菊としている.
これは今の「阿房宮(あぼうきゅう)」に当たるのかも知れない.他の本草書でも黄色い花が食用・薬用に適しているとし,紫色の菊については記載がない.芭蕉や一茶が食したのは黄色い菊だったのだろう.

庭で育てているのは「もってのほか」とも呼ばれている「延命楽(えんめいらく)」で,淡紅紫色の八重咲き中輪種.主に山形や新潟において栽培されている.おひたしにするとさわやかなキクの香りとちょっとした苦味が日本酒に合う.この一風変わった名前は、「天皇の御紋である菊の花を食べるとはもってのほか」または「もってのほか(思っていたよりもずっと)おいしい」に由来するとか云われているが,私は「こんな美しい花を食べるとはもってのほか」が由来と思いたい.

2010年10月27日水曜日

番外編 サフラン(2) リンネ・ルソー・ルドゥーテ・ラスキン・漱石 Linne, P J Redoute, J J Rousseau, J Ruskin, Soseki

Crocus sativus
P.J. RedoutéJ. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau』 (1805) 多色銅版

(承植物の体系的な分類法を考案し,現在世界基準となっている二名法の基礎を築いたリンネは聖職者の子供であり,生涯敬虔なキリスト教徒であった.彼の重要な著作「自然の体系」の冒頭には旧約聖書の詩篇からの一節が引用され,たとえ人間の目に如何に複雑で混乱に満ちているように見える自然界でも,神の創造物である以上,美しい秩序があり,彼の分類体系はその秩序を明らかにし,神の偉業を讃えるための一つの手段であるとしていた.

J. J. ルソーも,植物の研究を自然の神秘の中に神の摂理を見出すためと考えていたようであり,リンネの考えに共感し,リンネの著作を持ち歩き,観察をした自然の植物を記述する際には,リンネの「植物の種」に基づいていた.「自然の研究は,我々を自分自身から引き離し,創造主への導くものです(「ポートランド夫人への手紙」,1766)」.従って,リンネも,ルソーもたとえ華麗な花をつけても,人が創造した園芸種や変種には嫌悪感を隠さなかった.リンネはこのような例外的な植物を「怪物」と呼び忌み嫌っていた.ルソーも八重咲きの栽培種については「こうした手も足もない怪物を通して繁殖を行っていくことを,自然は拒否しているのです(「植物学についての手紙」)」と記している.

このような,「自然崇拝」派は園芸大国の英国にも存在し,その代表的な論客は,ラファエロ前派の思想的バックボーンであった美学者 J. ラスキン(John Ruskin, 1819 – 1900 )であった.ウィルフリッド・ブラントは彼の『植物図譜の歴史』*2 で丸々一章をラスキンの業績(というか植物学者としての不業績)に割いているが,(第21章 ジョン・ラスキンのこと),ラスキンによれば,花は花としてそのままその美しさを賛美していれば良いのであって,そもそも学名を付すことからして植物を鑑賞する視点からは有害なのである.
ラスキンの自らの言によると,「植物学者と戦争状態」にあり,友人の中に非常に有名な植物学者が何人もいたのに,専門用語をたいへん嫌った.そしてラスキンはありふれた野の花-「人間の干渉によって品位を落とされたりゆがめられたりせず,花の展示会でけばけばしくこのうえなく厚かましい姿をさらすようなこともない」もの-をもっとも愛した.

ラスキンは,ルドゥーテが挿絵をつけた「ルソーの植物学」を賞賛していて,「どの競売でもいいから,売りに出されている彩色図版付きの J. J. ルソー氏植物学」(一八〇五年)をあなたのパリの代理人に探し出すようすぐ指示して,買えるだけ買ってください」(ラスキンから書籍商 F. S. エリスへの手紙,一八七八年五月七日).しかしエリスは一つも探し出せなかった(*2,第14章ルドゥテの時代).一方,ゲーテはこの本を所蔵していることを誇りにしていた.

ラスキンは日本でも明治・大正時代の知識人に大きな影響を与え,夏目漱石(1867 - 1916)は,『文学論』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871770/1) でラスキンの美学を紹介し,また『三四郎』(1908年9 - 12月,『朝日新聞』/1909年5月,春陽堂)には三四郎が理科大学の野々宮君を訪れた際の情景に

 青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。
「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。

リンネの紋章 *1 『リンネの教え-知識へのインスピレーション』 リンネ学校教育プロジェクトwww.bioresurs.uu.se/skolprojektlinne
*2 『植物図譜の歴史-芸術と科学の出会い-』 ウィルフリッド・ブラント著 森村謙一訳 八坂書房 1986

番外編 サフラン(1) "La Botanique de J. J. Rousseau" P J Redoute, J J Rousseau

2010年10月24日日曜日

ハハコグサ,万葉集,和草,草餅,本草綱目啓蒙,鼠麹草,草仔粿,鼠麴粿

Gnaphalium affine
葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
(蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲為而 人尓所知名 作者: 不明)

春の七草の一つ.御行(おぎょう)はこの草の古名で,七草粥に用いるのは早春のロゼッタ.和名は全草に生える白軟毛がほうけ立つことによるホウコグサからの転化ともいわれる.「万葉集」に詠まれている「庭の和草(にこぐさ)」は,和毛(にこげ)に覆われた特徴からこの草と考えられている.
漢名は鼠麹草(そこくそう)で葉を鼠の耳,花を熟した麹(こうじ)に見立てたものらしい.

現在では「草餅」の「草」はヨモギの若い葉を用いるが,古くはハハコグサを使っていた.小野蘭山『本草綱目啓蒙』 (1803-1806) によれば,ヨモギに変えたのは,色を濃くするためとか.また,花を煙草として吸うとも記している.
巻之十二 草之五 湿草類下 鼠麹草 ハハコグサ
 此草原野二多アリ。秋月、苗ヲ生ズ。菓ハ馬歯莧(スベリヒユ)葉ニ似テ、薄ク長クシテ白毛アリ。三四月苗高サ六七寸、或一尺ニ至ル。葉互生シ、梢ニ蔟リテ黄花ヲ開ク。此花ヲ取、烟草ニ代テ吸。又此花ヲ以テ完花二偽リ、又蜜蒙花ニモ偽ル。古ハ上巳(「桃の節句」)二此葉ヲ用テ餐(モチ)トス。即竜舌●(米+半)ナリ。後其色ノ濃カランコトヲ欲シテ、艾葉ヲ以テ代。朝鮮賦二謂ユル艾糕ナリ。
 今ハ皺葉芥(オオハガラシ)葉ヲ加テ其色ヲタスク。益其真ヲ失ス。〔集解〕●(米+巴)果ハ、果子ノコトナリ。禁烟ハ寒食ノ一名也。冬至ヨリ育五日ヲ云。

草餅になぜ,ハハコグサやヨモギが用いられたか.それはこれらの草の葉に生えている「毛」が餅の中で絡み合い,餅のつなぎとして,また餅の腰を出すために重要だったからである.同様に葉の裏に毛が多いオヤマボクチも,新潟県の笹団子や山梨県と檜原村の草餅で利用されている.

現在でもハハコグサは中国や台湾では食材として重要で,若芽を野菜として食べるほか,草仔粿 (chháu-á-ké) または鼠麴粿 (chhú-khak-ké) という,草餅の餡の代わりに味をつけたひき肉や野菜などを入れて蒸して作る食品に使われていて(「台灣大百科全書-草仔粿-」の項に作り方が詳しい),美味しいらしい.

2010年10月22日金曜日

洋種シュウメイギク ボタンキブネギク

Anemone ×hybridaピンクのシュウメイギクが満開.一株づつ離して植えたのが,子株を増やし広がった.秋風に揺れている様子は,なかなかエレガント.買った時は矮化剤を使っていたのか,こじんまりしていたが,次の年からは1m以上に花茎を伸ばす.乾燥は好きではないと見えて,今年の夏は葉を落とし,子株もいくつか枯れてしまった.

日本に昔からあるシュウメイギク(貴船菊,左図)は紫紅色で八重の花をつける.庭に植えてあるのは一重のと桃の花をつける種.これらは「洋種シュウメイギク」とでも呼んで区別するよう,千葉大の村井千里氏は,「花葉 2007 No.26」で提案している.

また,長田武正『原色日本帰化植物図鑑』保育社 (1976) には,「シュウメイギク」の項に「萼片が幅広く,数は10個以下で白~淡紅色のものをボタンキブネギクという.」とある.これに従えば,この植物はボタンキブネギクとなる.

シュウメイギクの母種は Anemone hupensis で桃色の一重の花をつけ,漢名は「打破碗花花」,中国南部の海抜400~1800mの草原に生える.日本でのシュウメイギク A. hupensis var. japonica は現地で「秋牡丹」と呼ばれ,八重咲き、蕚片が約20で,紫或は紫紅色.雲南,広東,江西などの各地で栽培されたものが野生化している.

一方日本で現在一般に流通しているシュウメイギクは欧州で秋牡丹と野棉花(一重,白花 A. hupensis var. alba)を交配して改良した A. ×hybrida ボタンキブネギク が主らしい(左図 Garden Perennials and Water Plants, 1970 より).

昔からある「シュウメイギク」は江戸時代には広く栽培・野生化していたと見え,小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803―1806)には日本各地での呼び方が記されているが,それぞれこの花の特徴を捉えていて興味深い.
秋牡丹一名秋芍薬卜云。
 和名 キブネギク京師 カウライギク讃州 八朔牡丹長州 アキ牡丹相州 カハギク紀州 カヾギク泉州 トウギク大和本草 紫衣ギク三才図会 ハマギク常州 シマギク越後 ムメウサウ南都 サツマギク濃州 カブラギク加州小松 カブロギク勢州山田 シウメイギク同上久井 クハンノンギク播州林田 ランギク同上立野 カラギク越前 クサボタン江州 
 山中渓側二生ズ。人家ニモ栽、甚繁茂ス。城州ニハ貴船山中二自生多シ。故ニキブネギクト云.春宿根ヨリ葉ヲ叢生ス。形三枝九葉ニシテ大抵牡丹葉ニ類シ、尖リテ毛茸アリ。夏月、茎ヲ抽コト三四尺、八九月二至リ、枝頂ゴト一花アリ。形菊花ノ如ク、二三重ナリ。大サ一寸余、初ハ紫紅色後ハ色淡シ。背二白毛アリ。花中ニ黄小心アリ。花後実ヲ結バズ。冬二至テ苗枯。春二至レバ根鬚ノ末皆苗ヲ発スルコト、金沸草(オグルマ)ノゴトシ。

海を渡ったシュウメギク」はこちらのリンクからどうぞ.

2010年10月21日木曜日

タイワンホトトギス

Tricyrtis formosana
ホトトギスだとばかり思っていたが,これはタイワンホトトギスだった.今,市街地ではこちらの方が多いとの事.山地に自生するホトトギスは葉の腋に1〜3個の花がつくのに対し,タイワンホトトギスは花茎が長く伸びてよく枝分かれした先に花をつけ,外花被片の基部に2個の丸いふくらみが目立つ点に違いがある.この丸いふくらみに蜜がたまって昆虫を誘うと言われている.

他のホトトギス類との交配による“Fujimusume”, “Samurai” などという名の園芸品種も多くつくられている.英名はToad Lilyで直訳すると「イボガエルユリ」.斑点が盛り上がっているのを,イボガエルの疣と見たからのだろうが,情緒に欠ける.漢名は「臺灣油點草」.

ホトトギスの名前は,花被に紫色の斑点が細かく散っているのが,鳥のホトトギスの胸の模様と似ているから.
大和本草には「ホトトキス 葉ハサギソウノ葉ニ似テ短小ナリ.スヂ多シ又篠ノ葉ニ似タリ.ツボミハ筆ノ如シ.花ハ秋開ク.六出アリ中ヨリ一蕊出テ又花ノ形ヲナセリ.毎ガクニ小紫點多シ.杜鵑ノ羽ノ文ニ似タリ.シホリ染ノ如シ.茎ノ高一二尺ニスキス.漢名不知」とある.

ルリタテハが食草として利用し,サナギがぶら下がっていることが良くある.窓際にサナギのついた茎を置いていたら,羽化の際にサナギの殻から液体がでて,窓枠のニスを溶かしてしまった.

Curtis Botanical Magazine Tricyrtis hirta ホトトギス (1863 石版手彩色)

2010年10月19日火曜日

アカヤシオ (2), 戻り咲き,返り咲きのメカニズム.フユザクラやジュウガツザクラ,アブシジン酸,

Rhododendron pentaphyllum var. nikoense
春3月に開花したアカヤシオがまた10月にいくつかの花をつけた.ツツジやサツキではこのような「戻り咲き,返り咲き」は珍しくはないが,アカヤシオでは初めて見た.これは今年の夏の猛暑と乾燥により葉がほとんど落ちてしまったことと関連がありそうだ.

毎日新聞(10月5日)によると,大阪府四條畷市では,遊歩道に沿って植えられたヤマザクラが季節はずれの花を咲かせ,長居植物園(大阪市東住吉区)などによると,夏の間に猛暑による水枯れなどで開花を抑制する葉が落ちてしまい,春先のような気候になったこの時期に花が咲いたとの事.

サクラにはフユザクラやジュウガツザクラの様に,春と晩秋と二回花をつける種がある.サクラは気温が30 度に達すると花芽をつくり始めるので,平年7月に暑い日が続くとつぼみの元をつくりだんだん大きくなる.しかし,秋に成長したのでは,花が木枯らしで飛ばされてしまうので,そうはならないように葉から分泌されている植物ホルモンのアブシジン酸が花芽の成長を止める.ところがフユザクラやジュウガツザクラは早めの9月には落葉してしまい,花芽にアブシジン酸がたまらないため,晩秋~初冬でも暖かい日が続くと花をつけて,冬の花見が楽しめる(左2010年1月皇居東御苑).

一方ソメイヨシノやヤマザクラなどの春の一期咲きのサクラでも,葉がアメリカシロヒトリの幼虫に食べられたり,台風で飛ばされたり,あるいは葉が病気で枯れたということになると,芽にアブシジン酸がたまらない状況で落ちてしまい,それである程度暖かい日が続くと,秋に花をつけてしまう.

庭のアカヤシオでも,夏の落葉によって同様のメカニズムで,3月に続き10月にも花が咲いたと思われる.今年の夏の猛暑と少雨は野菜の生育や動物や昆虫の生態に大きな影響を与えたと報じられているが,庭の花々にも影響を与えているので,来年の春が心配.なお,朝日新聞(2月19日)はアブシジン酸とその受容体、さらにたんぱく質の脱リン酸化酵素PP2Cが結合した複合体の三次元構造が明らかになり,干ばつや冷害など厳しい条件下でも農業をするために利用できる可能性が開けてきた.と報じた.

2010年10月16日土曜日

アマクリナム’ドロシーハンニバル’

X Amacrinum ’Dorothy Hannibal’南アフリカ原産の「アマリリス・ベラドンナ (Amaryllis belladonna) ホンアマリリス」と「クリヌム・ムーレイ (Crinum moorei ) ハマユウを含むハマオモト属」との属間交雑種なので名前もアマクリナム.その園芸種の一つ.
9月から110月ごろ,70センチほどの花茎を伸ばして散形花序をつける.花序ははじめ苞に包まれていて,開花時にはこの苞は紐の様に下に垂れ,花には芳香がある.ヒガンバナと同様に花の咲く時期には葉が見られないので,この類の“Naked lady”の別称もうなずける.花後,根元につやつやとした幅広い剣状の束生する葉を伸ばす.

色に品がないので家内にはあまり評判が良くないが,花の少ない季節に咲き,花期は長く,密植すると花束のように華やかで人目を引く.



おまけは米国 Indiana 州 Seymour の Dan-san から送ってもらった,彼の家の花壇に咲くナデシコの仲間.多分ビジョナデシコ(Dianthus barbatus 英名 'Sweet William')の品種,他にピンクの剣咲きのバラも咲いているようだ. 秋の Seymour もいいだろうな.


2010年10月14日木曜日

コスモス "イエローキャンパス"

Cosmos bipinnatus cv. ‘Yellow Campus'
心中をせんとて泣ける雨の日の白きこすもす紅きこすもす  与謝野晶子

コスモス(オオハルシャギク)はメキシコを中心とした中南米及び北米南部原産.図譜(銅版手彩色)を左下に示した Curtis “Botanical Magazine 1813” によれば,欧州では 1789年の10-11月にマドリッドの王立植物園で開花,1791年に A.J.Cavanilles によって記載された.また1812年にメキシコから英国にもたらされた種子からボイトンで咲いた花を元にこの絵が描かれた.
日本では,文久二年(1862)12月遣欧使節が持ち帰った250種に及ぶ種子類の1つにあった.

コスモスの花色といえば,栽培が開始されてから約150年間は,野生原種の花色である桃色,白色に加えて深紅色,およびそれらの組み合わせ模様からなる発色に限られてきた.ところが一人の日本人の遺伝・育種学者による変異体の発見,および根気強い育種学的研究と農学教育の継続が,世界で初めての黄色コスモスをわが国において誕生させることになった.その人が佐俣淑彦(よしひこ)博士(1919-1984)である.

1957年,当時研究に使用していた東京大学田無農場において,紅色の八重咲きではあるが花弁の一部が黄色である1株の変異体を発見し,この黄色を,一重咲きコスモスへと取り込む実験に着手した.佐俣博士は1984年6月に逝去したものの,その遺志は教授を勤めていた玉川学園の研究者に受け継がれ,30年後(春と秋の選抜で,約60世代後)にあたる1987年に,世界初の黄色コスモスが「イエローガーデン」の品種名で登録された.しかし,次第に形質の退化が見られるようになり改良した結果,1998年にはさらにはっきりとした黄色の品種として「イエローキャンパス」が作られた.他にも玉川大学では,オレンジがかった「オレンジキャンパス」,クリムゾンと黄色の色素が重なった「イエロークリムゾンキャンパス」,濃い赤色の「ディープレッドキャンパス」が開発されている.

なお,黄橙色,鮮黄色,濃赤色等の花を咲かせるキバナコスモス(Cosmos sulphureus )は葉の形が異なる別種で,Cosmos bipinnatus との間では種を作らない.最近はチョコレートコスモス (Cosmos atrosanguineus) や,属が異なるウィンターコスモス(Bidens laevis センダングサ属)も園芸店で入手できるが,これらには秋桜の別名が似合う Cosmos bipinnatus の優雅さがない.

昭和記念公園などの花畑がまだ有名でない10年ほど前に一度,サカタから購入した種から育てて,道行く人に珍しがられた.画像の花は,昨秋近くの花壇の種をいただいて今春播いて育てた.猛暑で水切れのせいかあまり勢いはよくないが,花の色はきれい.

2010年10月12日火曜日

アオマツムシ(メス)

Truljalia hibinonis 8月下旬から現れ,オスは木の上で「リー・リー」と高い声で鳴く.一生を木の上で送る.中国南部が原産地といわれる外来種.日本での初記録は1898年(明治31年)とも,1917年に東京で発見されたとも言われる.その後戦災で樹が減ったためか,アメリカシロヒトリ防除のための殺虫剤散布のせいか,一時減少したが,その後自動車のただ乗りを利用して,どんどん棲息範囲を広げている.

原産地中国の「王朝網絡 (http://tc.wangchao.net.cn/bbs/detail_636434.html)」によると
アオマツムシの中国名は「梨片蟋」又は「金鍾、天蛉、綠蛣蛉、銀琵琶」.主要分布地は中国南部,インド、フィリピン、日本、ベトナムで,

此昆蟲是一種森林性蟲類,喜棲息于高大的樹木上,常停留在樹枝上高聲鳴叫,不論白天、黑夜其鳴聲都婉轉動聽,叫聲如“句—句、句、句,句.....”一般是4聲一組,第一聲教長,後3聲短促,常常不停的重複著這種調門鳴叫著。其鳴聲高亢清脆,音色比蟋蟀美。

と樹上に住み夜に鳴き,鳴き声はコオロギと肩を並べるほど美しいとしている.“句—句、句、句,句.....”は ” りーり,り,り,り ”と読むべきか.


庭から家に入りこんで壁に留まっていた.背中の網目模様(翅脈)を見ると、かなり規則的なのでこれは雌.道理で鳴かなかった.
アオマツムシの存在に最初に気がついたのは都心近くの街路樹から聞こえてくる鳴き声.頭上から降り注ぐようだった.茨城県南部の当地ではこの数年来.庭の下草からはコウロギの声がきこえ,住み分けているようだ.夜も更けて気温が下ると鳴かなくなる.熱帯産で寒いのは苦手か.

2010年10月9日土曜日

ミズヒキ

Antenoron filiforme
わが二十 町娘にてありし日の おもかげつくる水引の花   与謝野晶子

「考えてみれば,こんな小さな花を観賞栽培する国は,日本をおいて,まずない」(湯浅浩史).
ヒマラヤ,中国南部と朝鮮半島、そして日本列島へと分布している多年草。長さが四〇センチ以上にもなる花穂に、点々と長さ2-3㍉の濃紅色の小さな花がならぶ.花に花弁はなく,四枚の蕚片と四本の雄蕊に囲まれた二花柱の子房からなりたっている。蕚片は上の3枚が赤く,下の1枚が白く,花穂を上から見下ろすと赤く,下から見上げると白いので,紅白の水引に喩える.

室町時代以前の書籍でこの草ににふれたのは知られていないが、雪舟の弟子で十六世紀の始めに活躍した長谷川等春の代表作『花鳥人物図』には描かれているとのこと.
江戸時代には多くの文献に記述され

貝原益軒『大和本草』 (1709)  「海根」が「水引」にあたると記していて,種が出来ても落ちない蕚片を花と同一視している(左図,右).

寺島良安『和漢三才図会』(1713)(左図,左)

伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719)巻之五 薬草五十七種 では
「海根」 田野に多く生ス葉毛蓼の葉に似大キく中に黒点少有花ほそながく二尺ばかりくれない穂のごとく也草花に水引草と云 とあり図(右図)も添えられている.

小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之十二 草之五 では
「海根」  詳ナラズ。
ミヅヒキサウニ充ル古説ハ穏ナラズ。其水引草ハ一名ハイトリグサ、汝南圃史二載ル所ノ金線草、一名重陽柳ナリ。山野二多ク生ズ。春、旧根ヨリ苗ヲ発ス。葉互生ス。形土牛膝ノ葉二似テ、長大ナリ。面背トモニ短毛アリ。苗高サ一尺許、秋二至テ茎頭及葉間二一尺余ノ細紅茎ヲ抽テ、極小ノ深紅花、稀二綴リ、ミヅヒキノ状ノ如シ。又白花モアリ、ギンミヅヒキ卜云。紅白雑ルヲ、ゴシヨミヅヒキ卜云。一種葉ノ中間黒斑相対シテ墨記草(イヌタデ)ノ如ク、八ノ字ノ形二似タルモノアリ。八幡水引卜云。又一種長葉ノモノアリ。又チャボミヅヒキアリ。矮茎短穂、地ニッキテ生ズ。

と何れも本草の「海根」がミズヒキに当たるとしている.

しかし現代の中国では「海根」とは言わないようで,金線草 九龍盤 水引草と呼び,乾燥した全草は根が赤くなることから「朱砂七」として薬用に用いている.

庭に野趣を与えるが,根を張り大株になる困り者になった.また思わぬ所から芽生えるので不思議に思っていたら,ミズヒキの戦略に乗って私たちが種を拡げていた.

長田武正著『野草図鑑 8 はこべの巻』 に
果実の柄には関節があり,さわるとここで切れて果実がぴんぴんととぶ。さらに花柱の先はかぎ形に曲がるので,動物体にひっかかって運ばれる。
とある.