2010年11月19日金曜日

スプレーギク(2)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (2)

続き
キクの栽培は四世紀の終わり頃中国から日本に伝えられ,七九七年*1にミカド個人の紋章となって*2,この紋章は以後皇族のみに使用が限られるようになった*3.この花をたたえる詩をミカド自らがつくり*1,また菊花勲章*4はミカドが与える最高のものであった.キクの栽培は皇居や貴族の家の庭でのみ許されていた.今日も用いられている日本の国旗は,一般にはそう思われているようであるが,日の出ではなく,まん中の花盤の周りに十六枚の花びらをつけたキクなのである〔旭日旗のことを指している〕*5.
こうした東洋での栽培事情を知れば,一六八八年には早くもオランダでマトリカリア・ヤポニカ(Matricaria japonica)という名前でわずかながらもキクの園芸種が栽培されていたのに,イギリスに到着したのがやっと十八世紀の終わりであったという史実を思い返すと屈辱的な気持ちになる.一七六四年にはチェルシー薬草園で小さな黄色の花びらを持ったキクが栽培されていた記録があるが,その後間もなく姿を消してしまった.

*1 桓武天皇 天平9年(737年) -延暦25年3月17日(806年4月9日)の時代.キクが園芸的に栽培され,「菊花観賞」が宮廷儀礼の重要な部分として行われるようになるのは,桓武天皇が平安遷都を成功させた延暦十三年(794)以後のこと.菅原道真編『類聚国史』(892年成立)卷七十五「歳時部」六の曲宴の項によると,平安京遷都から三年目の延暦十六年(797)十月十一日,宮中において開催された曲水宴の席上において,桓武天皇がキクを題材にした,次のような即興の和歌を朗詠した.
 己乃己呂乃.志具礼乃阿米爾.菊乃波奈.知利曽之奴倍岐.阿多羅蘇乃香乎.
 コノゴロノ シグレノアメニ キクノハナ チリゾシヌベキ アタラソノカヲ
また,同書卷七十四「歳時部」五の九月九日の項には,桓武天皇の子の平城天皇の大同二年(807)頃には,九月九日の重陽の節供に菊花宴を開くことが恒例になり始めていたことが記述され,8世紀末から9世紀初めには中国原産のキクが日本の宮廷社会に根を下ろしていったことが分かる.

*2 鎌倉時代の後鳥羽上皇(治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日)はことのほか菊を好み,自らの印として愛用した.その後,後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し,慣例のうちに菊花紋,ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した.

*3 「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは,1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による.親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し,十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした.また,1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で,皇族以外の菊花紋の使用が禁止され,同第286号で,皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた.その後,1926年(大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条[4],第13条[5] によって正式に定められている(From Wikipedia).

*4 最高位である大勲位菊花章頸飾及び大勲位菊花大綬章

*5 1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、日章旗が正式に国旗として定められた。

Pannemaeker “LA BELGIQUE HORTICOLE” Chrysantheme Du Japon “Stantead Surptise” 1800’s(伯)多色石版



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