2010年11月23日火曜日

スプレーギク(3)

Chrysanthemum x morifolium cv’s Spray mum (3)
(続き)
 一七八九年にマルセーユのブランカールという商人が三種の園芸種を輸入した.それは白,スミレ色,紫色のキクだけが生き残った.そのうちの一本が一七九三年頃にキュー植物園に入った.その時はうまく根付き,立派に育った.このキクがイギリスで最初に展示されたのは一七九六年コルヴィール氏のチェルシー種苗園の展示会であった(左図:Curits’ Botanical Magazine, 1796,Chrythanthmum indica,銅版手彩色).
 最初は,種子も株もすべて輸入されていた.ロンドン園芸協会の要望に従って,東インド会社の広東代表ジョン・リーヴィス氏が送ってきたものもあった.一八二〇年から一八三〇年にかけて,およそ七十種類の園芸種が導入されたが,その中には「真紅のラナンキユラスの花に似たキク」があり,中国人はこの花のことを酔っ払った婦人と呼ぶが,それはおそらく「それがバラ色をしているためであろう」とザビーネは一八二六年のロンドン園芸協会『会報』に書いている.
 一八三二年にイギリスで初めて種子が採れた.そしてその後,キクの栽培はジャージーの重要な産業になった.ジャージー島では,一時期四千種類もの違ったキクの変種が栽培されていたと言われる.最初のキクの品評会は一八四三年にノリッジで催された.そしてストーク・ニューイングトン協会,後の英国菊花協会が一八四六年に創設された.

同じ年に,ロバート・フォーチュンがチユーサン・デージーと呼ぶキクをイギリスにもたらした.これが小形のポンポン咲きの親である.ポンポン咲きのキクはたいそう人気が出て,とくにフランスでは人気が高かった(この名前はフランスの兵士の帽子につけているポンポンから取ったと言われている).ビートン夫人は一八六五年に「人々に愛好されているこの小形の種類が導入されたことは,キクの栽培がイギリスで再び盛んになったことに少なからず貢献した」と書いている(右図:Lemaire, 1861, Chryanthemes nains piecoces, 多色石版).
 その頃,キクの栽培は一時的に下火になっていたらしい.グレニーはその理由を「開花時期が遅いのと,色が明るいこと以外推薦できる点はない.匂いはないし,その上栽培を薦められるようなよい性質も持たず,言えるのは下の方から葉が無くなってとても醜くなることである.戸外では棒の支えが必要で,それがないと倒れてしまう」からであると言っている(とひどい言われようだが,キクは仄かだが良い香りがするし,挿し木や適切な摘芯をすればコンパクトになる.文句を言う前に日本の芸術的な仕立て方を学ぶべきであったろう) .

(続く)

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