2022年6月30日木曜日

ウラシマソウ-6 島田充房・小野蘭山『花彙』,山本亡羊『新校正 花彙』,サバティエ ”Botanique japonaise : livres Kwa-wi”, 佐波一郎

島田充房・小野蘭山『花彙』(1759-65)はまず1759年に,松岡玄達の弟子島田充房(生没年未詳)が「草之一」「草之二」を出版,ついで兄弟弟子だった小野蘭山(17291810)が1763年に「草之三」「草之四」「木之一」~「木之四」を追加して完成させ,明和2年(1765)に8冊本として刊行した.各冊が25品ずつ,総計200点の草花・花木の図説である.蘭山担当分は図も蘭山が描いており,葉の表面を白,裏面を黒で示す工夫をしている.正確な図が多く,記文も要を得ているので,本邦で初めての植物図鑑らしい図鑑と評されている.

また,本書は,記文だけだが,1866年から1871年まで日本に滞在し『日本植物目録』を出版したポール・サバティエが,横須賀滞在中に入手,1972年に仏訳版を執筆し,1873年にパリで出版している(Botanique japonaise : livres Kwa-wi / [par Yōnan] ; traduits du japonais, avec l'aide de M. Saba, par le Dr L. Savatier”).

1843年には,蘭山の門下だった山本亡羊が『新校正 花彙』8冊を出版した.これは,初版の版木を用い,草25品・木26品の名称を改訂したもので,記文の追加は少ない.

 ★島田充房・小野蘭山『花彙』(1759-65)の第一巻には,「由跋 ムサシアブミ」が,第四巻には「蛇頭艸 マムシサウ」がそれぞれ趣のある図と共に記載されている.『新校正』では,前者の名称が「武蔵鐙」に変更され文末に亡羊のコメントが追加され,後者には,別名として「天南星」が付け加えられている.「由跋」においては,虎掌は由跋(ムサシアブミ)の古根であるとした.


第一巻「
由跋(ユバツ)     ムサシアブミ

-- 蘓恭 -跋ハコレ- - -夏ヨリ大ナルコト
一二倍 - (イマタ)-芽アラス 宿根(フルネ)ハ即チ-
今按ズルニ由跋初生天南星ノ葉ニ類シ三葉ニシテ甚(ハナハタ)
光沢(ツヤ)アリ四五月花ヲ開ク南星ニコトナルコトナシ根円
扁ニシテ肉白シ」


第四巻「蛇頭艸(ジヤトウサウ) マムシサウ    藥性奇方
-邊山-谷背-陰多クアリ三-月宿-根ヨリ苗ヲ生ズタダ一-茎直
上ス高サ三--尺葉互-生ス凢ソ一-梗両-椏五-七葉分-布シテ爪ノ如
シ形鬼-(コンニヤク)-葉ニ類ス三-四月芲ヲ生ス乃チ莖梢ニ在リテ一-
ヲ生ズ匙-(サジノカシラ)ノ如ク尖リ長シ上ノ圓カニ長-心ヲ葢ヒ下ハ莖ヲツヽンデ
-房ヲナス由-(ムサシアブミ)-芲ノ形ニ似タリ青-白ナイシ間-(シマスジ)アリ秋ニ至テ外房
-腐シテ内-心漸ク長-大ナリ紅-朱纍-々トシテ穂ヲナス樟--(ヤマゴボウ)
ニ彷-彿スマタ観ルニ堪タリ莖-幹淡--色ニシテ白-斑白-斑アリソノ紫-
斑ノモノハ斑-(ヘビノダイハチ)ナリ」

★山本亡羊『新校正 花彙』(1843)においては,「由跋(ムサシアブミ)」の題名が「武蔵鐙(ムサシアフミ) 和品」に,また,文中の「由跋」が「武蔵鐙」に変更され,文末に「疑クハ此類ナラン」と亡羊のコメントが付け加えられた.一方,「蛇頭艸」の項では別名として「天南星」が付け加えられ,更に本文中の「由跋」が「武蔵鐙(ムサシアフミ)」に変更された.

   サバティエ(ポール・アメデ・ルドヴィク,Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830 1891)はフランスの医師・植物学者で,お雇い外国人医師として横須賀造船所に1866年から1871年まで日本に滞在し,また1873年から1876年に再度滞日した.自ら横須賀や伊豆半島で植物採集を行った他,植物学者伊藤圭介や田中芳男などと交流し,また標本を入手した.帰国後,フランシェ(アドリアンAdrien Franchet, 1834 - 1900)との共著で『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) 1873-1879年に出版した.

 彼が出版した「花彙」の仏語版★ Botanique japonaise : livres Kwa-wi1873 のためのフランス語訳には,彼の日本での植物採集に協力した佐波一郎(さばいちろう,M. Saba1854 - 1937)が協力した.

その序文には,

“La traduction du Kwa-wi n'est que le commencement
d'une série de publications que je me propose de donner plus
tard, afin de faire connaître en Europe les progrès de la
botanique au Japon et son état actuel.

C'est grâce au concours d'un de mes élèves, M. Saba, que
j'ai pu exécuter cette traduction, dontles difficultés n'échapperont
à aucun de ceux qui sont versés dans la connaissance
de la langue japonaise.”

この書の正式名称は Botanique japonaise : livres Kwa-wi / [ par Yōnan ] ; traduits du japonais, avec l'aide de M. Saba, par le Dr L. Savatier,...という名で,原著者とされている Yōnan” とは,原本の巻頭の序文の文末にある,「雍南 充房」に由来し,仏語版ではフランス流ローマ字で, “Yōnan Den Teroufsa” と記されている.


花彙序

同好之士捜索百草于山于野一携此圖即庶幾莫望洋之歎乎

寶暦己卯春
     雍南田充房書」

“PRÉFACE DE L'AUTEUR

Les hommes qui ont le même goût que moi et récoltent
des plantes dans les montagnes reconnaîtront facilement
quelles sont ces plantes, en les comparant aux figures, et
n'en auront pas seulement une idée vague, comme il arrive
quand on regarde la mer.

  Au printemps de Ohoréki (1759).

               YONAN-DEN-TÉROUFSA.”

この著者名は,佐波氏が発音した通りに記録されたと考えられるが,出版当時は中国風が流行していた頃であるから,風光明娼な京都を中国・雍州に擬していたので,「雍南」は京の南のことで,充房の居住していた所由来の雅号であろう.また田は島田の島を略して中国風にしたものである.ただ,名前の「充房」をテルフサと読んでいるのは,現在汎用されているミツフサ(Web NDL Authorities - 国立国会図書館)とは,異なっている.

“HERBACEÆ

— 1er VOLUME —

15. You batz'; Moussachi aboumi.

On dit dans le livre Too hon Soo tai que cette plante est deux
fois plus grande que Kochio Sin kou han gué. On ne connaît pas
encore le fruit. Les racines s'appellent Ko Soo. La feuille de cette
plante ressemble à celle de Tennan Seï; elle a trois divisions,
luisantes. Au quatrième ou cinquième mois, elle donne des
fleurs comme celles du Tennan Seï. La racine est aplatie, blanche
à l'intérieur.
Arisæma ringens Schot. — Conf. Soo bokf, vol. XIX, tab. 20, sub.

Mousasi aboumi.*1

*1:飯沼慾斎(1782-1865)『草木図説前編(草部)』巻之十九 二十丁 ムサシアブミ

 

“HERBACEÆ

— IVe VOLUME —

10. Djia too soo; Mamouchi soo.

Extrait de Jakou see kihoo.

Se trouve dans les lieux ombragés des montagnes et des val
lées. Au troisième mois, la racine donne une tige droite, de deux
à trois chakous, à feuilles alternes. Chaque pétiole porte deux
feuilles composées de trois à cinq folioles, comme celles de
Youri. Ces feuilles ressemblent à celles du Koni yakou. Au troisième ou quatrième
mois, la tige donne une fleur, renfermée
dans une espèce de feuille (spathe) qui est comme la tête d'une
cuiller, mais longue, recourbée au milieu, et pointue au sommet;
en bas elle recouvre la tige : elle est, comme celle du Moussachia
boumi, verte, à nervures blanchâtres. En automne, le
spathe jaunit et meurt; l'intérieur de la fleur s'allonge, et donne
des fruits rouges, nombreux, comme ceux du Yama gobo (Phyto-
lacca Kæmpferi), très-jolis. La tige est d'un vert clair taché de
blanc. Il y a une variété à taches violettes, qu'on appelle Hébi no
daï atsi.
Arisæma Japonicum Thunb. — Conf. Soo bokf, vol. XIX, tab. 16.*2

*2: 飯沼慾斎(1782-1865)『草木図説前編(草部)』巻之十九 十六帳 マムシグサ

 

「黒船写真館70 佐波一郎 横須賀製鉄所 黌舎(こうしゃ)の第1回卒業生(http://kurofune67.cocolog-nifty.com blog 2015/04)」より抜粋+追加

1854,佐波一郎は佐倉藩士藤井喜一郎の次男として江戸小川町で生まれ,名は鐁次郎であったが,のち叔父佐波銀治郎の養子となり,佐波一郎と改名. 
1867
,横浜に出て仏語学伝習所に入り,フランス語を学ぶ.翌明治元年に横須賀製鉄所附属黌舎に入るが,新政府により廃止となり,明治3年に再置されると再び入学し寄宿舎生活のなか,フランス人教師からフランス語をはじめ数学,物理学,造船工学などを学んだ.官営工場の横須賀製鉄所に赴任したフランス人医官でサヴァティエも教官の一人と考えられる.
1871
,一郎は第1回卒業生となり,直ちに技術見習仰付となり,15等出仕で技術官表にその名が見えている.
 この頃サヴァティエに随行し,横須賀および近郊の植物採集を行っていて『花彙』の仏訳に協力したのもこの頃と思われる.
1874
,伐木技師デュポンに艦材視察のため訳官として随行,日本各地の官有林を見て廻り,その選定や調査に従事した.あわせてサヴァティエから依頼された植物採集も行う.
1877
,黌舎の教師となり,技術者養成に当たった.
1822
,海軍一等工長となり,造船課工場長,船台工場長を歴任
1886
,6月,横須賀造船所勤務を免ぜられ海軍省に出向し,程なく11月にフランスに3か年の出張を命ぜられる.
 これは海軍省がフランスに発注した3景艦のうちの,「松島」「厳島」2艦の造船監督をするため.
1892
,10月になって帰国した.建造工事が予定より遅れ,約6年にも及ぶフランス滞在であった.帰国すると間もなく,呉鎮守府造船部に転職.
1896
,10月に海軍技師に昇任,造船科主幹や造船課造船工場長などを務めて艦船建造に尽くし,あわせて海軍兵学校機関術教官をも兼ねていた.
1900
,海軍艦政本部が新設されると東京に戻り,本部員として軍艦の設計などに携わる.
1908
,高等官3等に昇進,同時に休職となり,海軍造船所を去る.
1911
,フランス資本の日本オキシジェーヌ会社(のち帝国酸素会社)の顧問となり,得意のフランス語と技術をもって,社業を大きく発展させたといわれます.
1923
,同社の東京支店長に就任(70歳)
1928
.5月,フランス政府は永年にわたりフランスに関係し,帝国酸素の事業に貢献した佐波一郎に対し,レジオン・ドヌール勲章を授与.同年,同社を退職.
1937
,東京麻布滝土町の自宅で永眠.享年 84 歳.

2022年6月25日土曜日

ウラシマソウ-5 江戸中期-3 用薬須知,草木弄葩抄,ウラシマソウ(うらしま(満)草)初出

Arisaema urashima

松岡恕庵(1668-1746)は稲生若水門の逸材として,その学風を継承発展させ,その門から小野蘭山を輩出して,わが国本草学の形成に功績のあった人として知られる.恕庵の代表著書である★『用薬須知』は正徳二年(1712)の自叙があり,この年が一応の成稿年とみられる.享保十一年(1726)に刊行された.この書は,日用薬物三二○種について薬物ごとに臨床医に役立つ撰品の知識が簡潔に述べられている.
 この書の「巻之一草部」に「半夏」「天南星」の項が,「巻之二草部」に「由跋」の項がある.


半夏 和不シテ而生ス一種大--夏ト稱スルモノ其根-
塊極メテ大葉亦濶大ニシテ紋縷(スヂ)且光ル非半夏-跋ナリ
南星ノ一種也不

「天南星 山コンニヤクト名ク相-似テ非ナル者アリ斑-
ト云形-狀大-抵相-似テ粗-大莖ニ紫斑紋アリ其實
大ニシテ千年(ヲモトノ)○(草冠+昷)實ノ如シ毒尤甚シ不藥用
星ハ莖ノ色ウス色或白色ニシテ斑(フ)白シ實モ亦小粒
大半夏ト称スルハ是上ニ言ヘル由跋ナリ藝花屋(ウエキヤ)ニ武
蔵鐙(アブミ)トモ呼フ叉近世北斗草ト称スルアリ葉似
稍大ニ深緑色是亦其類ナリ」

由跋 南星ノ一種ナリ種--家ニテムサシアフミト
云フ和方中ニシバキリノ根ト云テ根ヲ用イ瀉藥
也此物綱目諸説混ス群芳譜明*ニ辧セリ
」とある.

参照されている*群芳譜』は,明の王象晉の著書『二如亭群芳譜』を基に,汪灝・張逸少・汪・黃龍睂等が改編擴充した百卷からなる園芸書『佩文齋廣群芳譜』(1708)の事と思われ,この叢書の「卷九十七 藥譜五」の「天南星」の項には,本草綱目の一部改変した「虎掌」の引用で,虎掌,天南星,由跋の違いを「蘇頌曰天南星即本草虎掌也小者名由跋.李時珍曰虎掌因葉形似之天南星因根圓白,形如老人星狀,故名」と述べられている.

 故磯野慶大教授によると★菊池成胤?『草木弄葩抄』(1735)が,ウラシマソウの初出文献である.

 この書は知名度は低いが,先行する『花壇綱目』や『花壇地錦抄』より記載がはるかに詳しい園芸書で,草類だけを載せる.著者名は明記されていないが,序文の筆者菊池成胤(浪華の人)と思われる.現存本は上巻のみであり,これには図が一つも無い.凡例によれば図集を下巻として出版するとあるが,刊行された形跡は認められない.見出し数は209だが,同一項に類品を挙げる場合が少なくないので,総品数はこれよりかなり多い.ただし,品種の多いキク・シャクヤク・ボタン・ユリは載せていない.新出品はあけぼの草・いわかがみ草・うらしま草・君かげ草(現スズラン)・なるこゆり・水芭蕉(すべて原記載名)など,15品ほど.注目されるのは,斑入(ふいり)品が30ほど挙げられている点で,江戸時代園芸の大きな特徴である斑入嗜好がすでに始まっていたとわかる.「斑入」の用語も2カ所で初出する.
 この書の「雪もち草」の項に,その類として「ウラシマソウ」が記されている.


雪もち草

花のかたち中心(まんなか)同しいつる舌いろ黒紅すこしかすりあり
同じのち色はしの????極しろし舌な??ささ丸き
しんあつき雪白にして甚見るなり
あつく?やあり又雄?ちといふあり雪もちよりは花大に
見ゆるなりを   せうなるその中 (大はんげ)天南星(やまこんにやく)
虎掌(大なくさ??)斑杖(小なくさ??)むさし阿ふミうらしま(満)かふり草させん
草小斗草皆おなじるいなりかふり草はかたち冠の如し
ざぜん草は同しひら?くあつし小斗草は??しの?ちより
??ながきひけ出る皆秋の末に実をむすふ色あかく玉蜀黍(なんはきび)
のことく玉極みるなり花のかたち尖ていおなじ雪もち草
みなうちの???なり又く?んぎ草とも同じ草ともいふ」とある.

注目すべきは,この類は秋になると「玉蜀黍トウモロコシ」のような赤い実をつけるとある事で,テンナンショウ属の果実の形容としては貝原益軒『大和本草』(1709)にもあり,江戸初期から廣くトウモロコシが知られていた事を示す.
 テンナンショウ属の果実は赤く特異な形状が鑑賞用としても高く評価されているが,その形容としては,トウモロコシのほか,ザクロ,オモト,ヤマゴボウ等があり,興味深い.

2022年6月7日火曜日

ウラシマソウ-4 江戸中期-2 『地錦抄』シリーズ,テンナンショウ属.天南星(ウラシマソウ),白天南星,雪持草,武蔵鐙

Arisaema urashima


  良安が『和漢三才図会』で「△思うに,虎掌とは本名である.『和名抄』にも虎掌の名はあるが,天南星の名はない.そもそも天南星の名は唐のときから始めていわれるようになったのは明らかである.今では却(かえ)って虎掌の名を識(し)っている者はいない.」と述べたように,江戸時代の日本では,本草を除いては,「天南星」の方が一般的であったと考えられる.この植物は薬種としてのみならず,花や実を楽しむ花卉としても栽培された.

元禄期の江戸の園芸ブームを支え,一番の植木屋と言われた染井(現在の豊島区駒込付近)の種樹家,伊藤伊兵衛親子(三代,三之丞.四代,政武)は,総合園芸叢書『地錦抄』シリーズを刊行した.実際に育てた草木花卉の園芸植物の種類や特徴,栽培方法を記述し,特徴を捉えて描いた図も添えられている.それらの図は,上手とは言えないものの,それまでの本草書が中国本草書の記述や図を引き写ししていたのとは異なり,実際の植物を観察しているため,それぞれの特徴がよくとらえられている

元禄期に伊藤伊兵衛が出版した★伊藤伊兵衛(三之丞)『花壇地錦抄』(1695)は,総合的園芸の実際書として古典園芸書中の白眉.この書籍には図はないが,元禄の世を風靡したボタン,シャクヤク,ツバキ,サザンカ,ツツジ,サツキ,ウメ,モモ,カイドウ,サクラなどの花木を始め草本ではキク,ナデシコ,ユリ,ラン,アサガオなど種類と品種の特徴が記され,植え替え,培養土,肥料,草木の種類別の栽培ポイントが明らかにされている.この書の「四,五 草花春之部」には,「天南星」が記載され,『草花絵前集』と『広益地錦抄』を参照すれば,「花白とむらさき」のむらさきはウラシマソウの事と分かる.

上書には絵がなかったが,そのいくつかの植物の絵を収載した★伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』(1699)には,天南星として,ウラシマソウと白天南星(マムシグサの白花種?)の図が描かれている.

★伊藤伊兵衛・政武『増補地錦抄』(1710)は,文字通り,先行の『花壇地錦抄』(1695)を補い,新しい項目や上記二書では描かれていなかった植物の図を増やした書である.故磯野慶大教授によれば,この書がムサシアブミとユキモチソウの初出文献である.

★伊藤伊兵衛・政武『広益地錦抄(1719) には,観賞用の植物だけではなく,薬用植物も多く取り上げられている.この書にも天南星として,『草花絵前集』から転載されたウラシマソウとユキモチソウが描かれていて,説明文は『草花絵前集』のそれより詳しい.

★伊藤伊兵衛・政武『地錦抄附録』(1733)は,特に外国産の園芸植物を図と共に多く収載し,正保以降享保年間までに「渡り来る」花木・草花を挙げたのが特色である.これは植物渡来年譜の嚆矢である.もっとも,日本への渡来年というより,江戸に入った年代と受け取る方が妥当らしい.この書にはユキモチソウが描かれていて,新たに描かれた図はより正確で美しく,説明文は『広益地錦抄』のそれより詳しい.また,ユキモチソウは元禄年中に渡来したとある.

★『花壇地錦抄』(1695)の「「四,五 草花春之部

名の下ニ初中末の三字有ルハ春の季を三段トすたとヘハ正月より花咲くるひを初と云二月ニ花咲くを中といひ三月ニ咲くを末と斷ル四月より夏草のふんニしるす」には
天南星(てんなんしやう) 葉ハこんにやく草のごとく花白とむらさき有藥種ニつかふ之」
とあり,更に育て方を書いた「草木植作様伊呂波分」の【て】の部には
てんなんしやう 植替二八月野土ニ忍土まぜてよしくたし肥用べし」とある.この育てるのに適した土と肥料については「草木種土之事」「○草木用ル肥之事」の項に

「野土:原地の竹やぶをほりてさらさらとしたる黒土也
忍土:深山に數年木の葉うづもれて自然に黒土となりたるを云叉塵塚のくさりて土と成たるもいふ叉木葉を土中にうつむる事半年にして取り出せば土と成これも忍土と云」
「くだし肥:下糞一桶ニ水二桶入レ五十日程置て青き水のことくに成たる時用ル」とある.

★『草花絵前集』(1699)は,三代目伊藤伊兵衛伊藤伊兵衛三之丞(?-1719)が描いた原画を子息の政武(16671757)が編集・刊行した.本書は園芸植物120品(各巻40品)の図説で,半丁(1頁)に1~2品の図を描き,花色・花期などを短く注記する.

 この書には,二種のテンナンショウが描かれていて,その内の「天南星」はウラシマソウと,「白天南星」はマムシグサの淡色種のように見える.この両図は『広益地錦抄』に転写されている.ウラシマソウもマムシグサも,観賞用価値が高いとして庭に育てられていた事が分かる.

「○天南星(てんなんしやう)
色くろべに、三四月にさく」

「〇白天南星
色うす白し、三四月にさく。九十月、くれないの
実をむすぶ、其色珊瑚のごとし」とあり,実の美しさも高く評価している.

★『増補地錦抄』(1710)の「巻之六」には

  「武州鐙(むさしあふみ)初夏 天南生の葉のごとく花も似て少ちがひあり
 雪もち草 夏初 形も葉も天南生のごとく花の中に丸者有りて白し」とあり,雪もち草の図が掲げられている.故磯野慶大教授によれば,この書がムサシアブミとユキモチソウの初出文献である.

★『広益地錦抄』(1719)には, 目録に従えば,巻之四に56種,巻之五に57種,巻之六に33種,巻之七に45種.計191種の薬草が記録されている.多くは,性状の外,花や実の観賞用の観点からの評価はされているが,薬効の記述はほとんどない.

その「巻之四薬草五十六種」に,『草花絵前集』からの「天南星」と「白天南星」が転載されていて,
南星(なんせう) 春はへ出に一莖葉葉をひらくととも
に花出る高サ五六寸より壹尺まで一莖一花な
りはなハ異形にて外うす青く内黒紫花のしべ
ハ蛇(ヘビ)(ヲ)尾のごとく成黑き物長ク出ル實ハなし
叉一種白なんせうと云一花二莖にまた出ル花
形ハ少ちがひ有り内外共ニ青シ花しべハ丸ク
白く實(ミ)有とうもろこしのかたちで秋極朱の色
にあかくながめあり」とある.「南星」の方には,「内側から黒紫色の蘂が蛇の尾のように出る異形の花がつく.実はつかない.」とある.

仏炎苞の内部の花柱から出る付属体を「黒紫色蛇の尾のような蘂」と見ていると思われる.「実はつかない.」とあるのは,観察したのが雄株の状態のウラシマソウだったと考えれば納得がいく. 即ち,テンナンショウの類は,地下部の大小により花には雌雄の別があり,それぞれ違った株につくが,同一の株でも栄養状態によって,どちらかの株に性転換できる偽雌雄異株の変わり者である.これはテンナンショウ属の多くに共通する性質であるが,最初に咲くのは雄花,重量が増すと雄花と雌花両方つき,さらに一定重量をこえると雌花だけになる.秋には小さなトウモロコシのような形の果実が赤く熟す.すると球茎は小さくなり,雄に戻る.また球茎は子いもをつけて栄養繁殖もする.それが多い場合も雄に戻る.同一の株でも雌と雄の問を行ったり来たりする.

 ★『地錦抄附録』(1733)の「巻之一 △草花の部」には

雪持草(ゆきもちさう) 葉形花形共に天南星(てんなんしやう)に似て又かは
りたる物也花の色五色なり花の外の方黒
きほどの紫にて内は雪のごとくに白し花
中より丸き真出る雪の如く白し花の上に
立のびたる葩(はなびら)ありて内はうす紫色外は青
き筋とこびママげ?か茶色の筋とまじりて縞のごと
くなり珍花なかめたえず花盛り久しきも
の也三四月咲植て愛賞すべし」とあり,長期間珍しい色合いの花を楽しめるとして,植える事を推奨している.

また,「巻之三 花形図色付 草木異國ヨリ渡リ来ル年記」の巻の「△元禄年-中来品々」の項に,「一.天竺蓮華(テンチクレンゲ),一.木槵子(モクゲンジ),一.椿樹(チンシユ) 今云きやんちん」と共に「一.雪持草(ユキモチサウ)」が挙げられている.勿論ユキモチソウは日本特産なので,1688年から1704年頃の間に西国から江戸に入ったのであろう.