2019年1月30日水曜日

ホトトギス (9) 歐文献-3,欧州への移入.シーボルト,フォーチュン,スタンディッシュ

Tricyrtis hirta
日本特産のこの植物を最初に欧州に紹介したのは,出島の三学者の一人,ツンベルクであった.彼は出島のオランダ商館の医師として滞在した一年有余の間に観察・採取した植物について著した “Flora Japonica” のなかで,ホトトギスを Uvularia hirta と記録した.このラテン名はシーボルトの校閲を経て,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』にホトトギスと考定され,前々記事に述べた如く飯沼慾斎は之に従った.
シーボルトが滞日中 (1823 - 1829) 1826 年に★ナサニエル・ウォーリッチ(Nathaniel Wallich, 1786 - 1854)が,ネパールの植物誌 Tentamen Florae Napalensis Illustrataeを刊行し,そこにネパール産のホトトギス類の一種  Tricyrtis pilosa Wall.” Type species とする新たな属 Tricyrtis Wall.”(ホトトギス屬)を記載した.この記載には Uvalaria hirta, Thunb. japon . p. 136?” とあり,ウォーリッチはツンベルクの Uvalaria hirtaがこの種の別名である可能性を示唆し,多くの文献がこの見解を踏襲していた.

ホトトギスが Tricyrtis pilosa Wall. と異なることが確認されたのは,欧州で栽培され,観察されてからである.
日本から欧州にホトトギスをもたらしたのは,シーボルトと,英国の育苗家 John Standish から極東の観賞価値の高い植物を移入すべく派遣されたロバート・フォーチュンの二人で,奇しくも同じ 1862 年に,前者は欧州大陸に,後者は英国に生植物を到着させた.
フォーチュンが移入し,スタンディッシュの育苗園で栽培された個体が,Tricyrtis pilosaとは異なることを見いだしたのは王立キュー植物園の W. J. フッカー (Sir William Jackson Hooker) で,現在も有効な学名 Tricyrtis hirta 1863年に付けた(次記事).

シーボルトの最初の滞日は,1823 – 29 年で,出島のオランダ商館の医師として活動.当時の欧州の医学・科学の知識を伝え,また,日本の植物・動物の標本を多く収集し,また一部は種子や球根などを欧州に送った.
一度は国外追放の処分を受けたものの, 開国後の 1858 年に処分の取り消しを受けて,二度目の訪日を果たした (1859).そのおり,以前医学の塾を開いていた長崎の鳴滝に屋敷を構え,植物園を拓き,数多くの日本産植物を栽培した.

1863年の帰国に際し,彼は前もって,鳴滝の植物園から数々の植物を,1842年に設立したライデンのライデンの「気候馴化園 Jardin d'acclimatation」(左図)に送った.その際には出島の植物園から数多くの日本植物をオランダへ発送した経験を生かして,多くの植物を生かしたまま送ることに,成功した.
『一八六三年。ライデンにおけるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの気候馴化園で栽培された日本と中国の植物と種子。説明付目録と価格表 “1863. Catalogue raisonné et prix-courant des plantes et graines du Japon et de la Chine, cultivées dans le jardin d'acclimatation de Ph. F. von Siebold, à Leide”』(ライデン,1863年刊)には,「・ユリ科 サルトリイバラ・ハガクレギボウシ・トウキボウシ・ギボウシ・ノシラン・オモト・キチジョウソウ・ホトトギス・テッポウユリ・スカシユリ」とある(石山 禎一『シーボルト 日本の植物に賭けた生涯』(2000).このカタログのホトトギスの名称がどのようなものであったかは未確認だが,腊葉標本には Tricyrtis pilosaの名称が使われている.(右図,右下.牧野標本館,シーボルトコレクション,左はヤマホトトギス)

また,M. J. M. Christenhusz ”De botanische introducties van Philipp Franz von Siebold” Dendraflora nr 37 (2000) “De bekendste tuinplanten. Von Siebold heeft veel bekende tuinplanten ingevoerd. Hieronder volgt een lijst van de bekendste tuinplanten:” のリストにも,Vaste planten: 多年生植物 の一つとして “Tricyrtis hirta” が記載されている.

一方,1858年からアメリカ政府との契約により中国で茶の木の調査をおこなっていたフォーチュン (Fortune, Robert, 1812 –1880) は,日本が長崎,横浜,箱館(のち函館)三港の開港に踏み切ったとの情報を得て,日本訪問を計画する.彼はアメリカ政府だけでなく,英国の育苗家スタンディッシュからの園芸植物採集の依頼も同時に引き受けていたからである.1860(万延元)・1861(文久元)年に来日し,ちょうど再来日していたシーボルトを鳴滝塾に訪ねた.

Aucuba japonica Curtis's Botanical Magazine
1809 & 1865
彼は滞日中,多くの植木屋,農家や寺の庭先をねらって訪れて,観賞用の園芸植物を収集した.もちろん当時外国人の行動は制限付きで,自由に山野に分け入ることができなかったから,限られた条件と期間内に珍しい植物を収集するには,この方法が一番効率的だった.経験を積んだプラントハンターならではの方法である.
こうして西洋人の好みにかなう,キク,ユリ,ツツジ,ヤマブキ,モモなど花の美しい園芸植物を各所で手に入れた.1861年の1月と帰国時の10月には,日本や中国で入手した価値の高い園芸花卉を,ウォードの箱 (Wardian case) を用いて英国のスタンディッシュへ送った.
訪日の大きな目的の一つは,当時英国にはドイツ人の植物学者 John Græffer (1746 –1802) 1783 年にもたらした雌株(左図,左)しかなかったアオキの雄株を入手し,本国へ送り赤い実を付けさせることであった.各所で雄株や斑入りのアオキを収集して英国に送り,受け取ったスタンディッシュは,人工授粉によって真っ赤な実をつけたアオキを生産し,これは 1864年のケンジントンでの展示会で大センセイションを巻き起こした(左図,右).おかげで,雄木は雌木の100倍以上の値がつき,また受粉用の雄木の鉢植えのレンタルまであったとの事である.(A. M. Coats "Garden shrubs and their Histories"  (1963))
直接の記録はないものの,学名の原記載文献 (Curtis's Bot. Mag. t. 5355 (1863))にフォーチュンが日本で収集し,スタンディッシュが栽培したホトトギスが学名のタイプであることが記されているので,この移入によってホトトギス(の根茎)が運ばれて行ったことは確実である.

フォーチュンに依頼して,日本や中国の園芸植物を蒐集させたスタンディッシュ (John Standish, 1814 - 1875) は,ヨークシャーに生まれ,父親がランズダウン侯爵の森林監督官であった関係で,侯爵のボーウッド館で庭の見習いを務め,後にAndrew Towardの下でBagshot Parkで主任を務めた.
まだ,20歳代の 1830年代に彼はサリー州バグショット (Bagshot) に自分の育苗園を設立し,カルセオラリア(Calceolaria, キンチャクソウ)のブリーダーとして知られるようになった.(左図,左.Paxton's Magazine of Botany, and Register of Flowering Plants, 9 p75, Calceolaria Standishii
そのほか,シャクナゲ,クレマチス,グラジオラス,フロックスの育種にも才能を発揮した.しかし,彼に最初に名声をもたらしたのは,フクシア ‘Globosa’ F. fulgens の交配種の作出であり(左図,右 ibid, 11 p33, Fuchsia Standishii),この品種を通して,彼は当時の一流の園芸植物学者,ジョン・リンドリー(Lindley, John 1799 - 1865)の知遇を得た.

1847年に,チャールズ・ノーブル (Noble, Charles, 1817 - 1898) と共同で園の経営を始めた.フォーチュンは翌年,インドへ茶畑を導入することを目的とし,中国の調査探検を始めたが,おそらくリンドリーの助言により,スタンディッシュはフォーチュンに観賞用草木の採集・送付を依頼した.
ノーブルとのパートナーシップはたった10年しか続かなかった - 2つの太陽が同じ地平線に輝くことはできません」と,スタンディッシュがこの分裂を説明したと言われている.解散は1856年の秋に起こり,その後間もなくノーブルはSunningdale駅の近くに,現在のSunningdale育苗園である,彼自身の育苗園を設立したと発表した.一方,スタンディッシュは1864年までバグショット育苗園を継続経営した.
Horticultural Gardens at South Kensington 1861 by William Leighton Leitch (1804-83)
the Royal Collection Trust
18616月,サウスケンジントンで開かれた王立園芸協会の展示会(the R.H.S. Show)に,彼は同年の1月,上海からフォーチュンによって送られて,数日前到着した日本の植物を展示した.これ等の植物は「生まれながらに Bagshot の純粋な空気に浸っていたかのように,新鮮で健康に見え,そして長い不快な航海を全く知らないようだった.」とある.その中には,コウヤマキや,斑入りでないアオキの雄木,雌木が含まれていた.
フォーチュンは1861年秋の帰国時にも,上海経由で多くの日本の植物をスタンディッシュに送った.直接の証拠はないものの,この二回目の輸送でホトトギスの根茎が英国に送られたのであろう.
スタンディッシュはその後,以前に取得していたアスコットの近くの80エーカーの不毛の土地に,まったく新しい施設 ”The Royal Nurseries of John Standish and Co.” を設立し,多くの観賞価値の高い園芸品種を作出し,高い評価を得た.

2019年1月23日水曜日

ホトトギス (8) 歐文献-2,Tricyrtis pilosa, Wallich, Hooker, David Don, Macbride

Tricyrtis hirta
日本特産のこの植物を最初に欧州に紹介したのは,出島の三学者の一人,ツンベルクであった.彼は出島のオランダ商館の医師として滞在した一年有余の間に観察・採取した植物について著した “Flora Japonica” (1784) のなかで,ホトトギスを Uvularia hirta と記録した.このラテン名はシーボルトの校閲を経て,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』(1829) にホトトギスと考定され,前々記事に述べた如く飯沼慾斎は之に従った.
しかし,シーボルトが滞日中 (1823 - 1829) 1826 年に★ナサニエル・ウォーリッチ(Nathaniel Wallich, 1786 - 1854)が,ネパールの植物誌 Tentamen Floræ Napalensis Illustratæを刊行し,そこにネパール産のホトトギス類の一種  Tricyrtis pilosa Wall.” Type species とする新たな属 Tricyrtis Wall.”(ホトトギス屬)を記載した.
T. pilosaの記載には Uvalaria hirta, Thunb. japon . p. 136?” とあり,ウォーリッチはツンベルクの U. hirtaT. pilosaと同一種の可能性を示唆していた.ホトトギス(U. hirta)と仮に同定する見解は,ホトトギスが 1860 年代に,R. フォーチュンやシーボルトによって歐州に移入され,栽培され,生体を比較することができるまで続いた.
なお,「ホトトギスのなかまの外花被片はみな基部の背面がふくらみ,ここに蜜がたまっている.属名トリキルティスは「3つのせむし」の意だという.」とある.(長田武正『野草図鑑(2)ゆりの巻』(1984) p. 153
欧州文献図は B. H. L.,植物図譜は Plantillustrations のネット公開画像より引用.

ナサニエル・ウォーリッチNathaniel Wallich, 1786 - 1854)は,デンマーク生まれで,イギリス東インド会社のためにインドで働いた外科医,植物学者.インドやヒマラヤ産の多くの植物をヨーロッパにもたらした.デンマーク王立外科医アカデミーで資格を得て,インドのベンガルのセランポールのデンマーク人入植地に医師に任命され,180711月にセランポールに到着した.ナポレオン戦争による国際情勢はデンマークの植民地をイギリスが占領することになり,セランポールのデンマーク植民地Frederiksnagoreも,占拠され,ウォーリッチは捕虜となった.1809年に学識が認められて仮釈放された.
1813年までにインドの植物や植生に強い関心を持ち,ネパール,西ヒンドスタン,ビルマの探検を行った. 1814年にアジア協会の理事会に博物館の設立を提案する手紙を書き,自らのコレクションを協会に寄付し,協会のために働くことを申し出た.協会は申し出を受け入れ,博物館を設立しウォーリッチを名誉学芸員に任命し,その後,アジア協会の東洋博物館の監督官になった.
博物館はウォーリッチの指導や,収集家たちの協力で充実したものになった.協力した収集家の多くはヨーロッパ人であったが,インド人のBabu Ramkamal Senもいて,Ramkamal Senは後にアジア協会のインド人事務局長となった.
その後,コルカタの東インド会社の植物園の監督にも任命され,1817年から1846年に引退するまで,植物園の常任職員として,植物園で働いた.1837年から1838年の間はカルカッタ医学学校の植物学の教授も勤めた.

★ウォーリッチ"Tentamen Floræ Nepalensis Illustratæ" (vols I-II, 182426) 61 ページには,(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k976214/f48.item

 “TRICYRTIS, Wall
Perianthum inferum, subscampannulatum, hexaphyllum: folila exteriorum tria
basi gibboso-saccata. Stamina longitudine perianthii, ejusdemque basi inserta. An-
theræ anticæ, nutantes. Stylus divaricato-trilobus. Stigma sex, uncinata. Cap-
sula perismaica, trilocularis, polysperma, apice dehiscens. Semina plana.
            Class Linneana. Hexandria monogynia
            Ordo naturalis. Lilia, Juss
            Habitus: Planta gracilis, ereeta, caule subsimolici, fullis cordatis, sessilibus,
Amplexicaulibus. Flore erminales, pauei, pulehri, basi gibblerubus tribus, prominen-
tibus notai (unde nomen.)” 
と,トリキルティス属の特徴が記述され,62ページには,そのタイプの Tricyrtis pilosa (ヒマラヤホトトギス 仮称)が記述されている.

“TRICYRTIS PILOSA, Wall. TAB. 46
Uvalaria hirta, Thunb. japon . p. 136?
Legi in montibus Sheopore et Chandagiry, florentem Junio et Julio, fructigeram
Septembre.
            Herba erecta, (以下略)

注目すべきは,文頭に赤字で示すように,T. pilosaとツンベルクの『日本植物誌』に記載されていた Uvalaria hirta とが同一種である可能性が示唆されている事である.
残念ながら, On line で閲覧できるこの書のヒマラヤホトトギスの図譜 (TAB. 46. https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k976214/f50.item,下図,左) は不鮮明であったが,後にカーチスのBotanical Magazineに描かれた(下図,右)本種はホトトギスとよく似ている.

ヒマラヤホトトギスをホトトギス(Uvalaria hirta)と仮に同定する事は,ホトトギスがフォーチュンやシーボルトによって歐州に移入され,栽培され,生体を比較することができるまで続いた.

ウォーリッチから24年後、19世紀の英国最大の植物学者であり探検家の一人で,Charles Darwinの親友である Joseph Dalton Hooker 卿がウォーリッチの足跡をたどった. 1850年に彼はヒマラヤとインドのシッキム州の探検中にウォーリッチの Tricyrtis pilosa を採集し,その種を父親の英国のキューガーデンのディレクターだったウィリアム・ジャクソン・フッカー (William Jackson Hooker) 卿に送った.
このヒマラヤホトトギスを Royal Kew Garden で栽培し,美しい絵で紹介した Curtis’s Botanical Magazine, vol. 82: t. 4955 (1856) に W. J.  Hooker (1785-1865が書いたテキストにも,
”If this is not a plant which strikes the eye from its beauty, it
can scarcely fail to do so from the peculiar form and colouring
of the flowers. Dr. Wallich, its discoverer, thinks it may be
identical with the Umilaria hirta of Thunberg ; if so, it is a native
of Japan as well of Himalaya, in the mountains of Sheopore
and Chandagiry, where Dr. Wallich saw it; but it has
probably an extensive range in Himalaya, for it is abundant in
Sikkim-Himalaya, where Drs. Hooker and Thomson detected it,
and whence they sent seeds to the Royal Gardens of Kew.” ある.

現在このヒマラヤホトトギスの正名(correct name)は Tricyrtis maculata (D. Don) J. F. Macbr. である.この maculata という種小名は,ウォーリッチが "Tentamen Floræ Nepalensis Illustratæ" に記載する一年前に,この植物を ★D. Don (David, ダヴィット・ドン, 1799 - 1841) Prodromus florae Nepalensis” (1825) Compsoa maculate として記載したことを,1918 年に,Macbride (James Francis, 1892-1976) が見い出して ” Contr. Gray Herb.” に発表したからで,『国際藻類・菌類・植物命名規約』の「優先権」に基づいて,この学名が優先されたからである.
但し,属名の Compsoa が使われていない理由は,はっきりしなかったが,Tricyrtis が広く使われていたので,この属名が「保存名 conserved name」にとして優先されたからであろうか.

スコットランド人の David Don は針葉樹の研究家として名高いランバート(Aylmer Bourkeエィルマー・バーク, 1761 1842) の司書を務め,本人はインドへは足を運ばなかったものの,カルカッタ植物園の植物学者Francis HamiltonNathaniel Wallichによるコレクションに基づいて,Prodromus floræ Nepalensisを編集した.
この書の p50-51 に,
COMPSOA.
Perianthium campanulatum, hexaphyllum, basi tubulosum
foliolis oblongis, apice incrassatis; exteriorbibus tribus basi
gibboso-saccatis. Stamina 6, æqualia: filamenta subulata,
compressa, glabra, basi dilatata ac subconnata: antheræ
ovali-oblongæ, peltatæ, extrorsæ, dupliei rima longitude-
nali hiantes. Ovarium elongatum, triquetrum, staminibus

LILIACEÆ. -51
longius, sensim in stylum breve desinens. Stigmata 3,
longa, subtrigona, recurvato-patula, apice dichotoma !
revolute. Capsula (immaturam solum vidi) triquetra, longa
(uncialis), fere siliquæformis, trilocularis : loctdis poljsper-mis. Semina angulata, fusca, simplici serie secus axin di-
gesta.
Herba tota hirsute, radice fibrosa perenni. Caulis tripedalis,
teres, strictus, foliosus, apice ramostis. Folia elliptica, acu-
minata, basi cordata amplexicaulia, 4-5 pollices longa,  sesqui
v, biunciam lata. Pedunculi dense pubescentes, uniflori, in
apice ramulorum gemini, Flores facie et magnitudine
Uvulariæ, cernui, albi, intus maculis numerosis purpureis
notati.
Obs. Nomen a χομψός, elegans.

1. C, maculata.
Hab. in Nepalia. Wallich.

とあり,ヒマラヤ産の斑点のある花をつけるユリ科の草本に,ウォーリックが採取した多年生植物をタイプとして,新たな COMPSOA 属の C. maculate と命名した.

この先行文献による命名は長らく蔑ろにされていたが,米国の植物学者マクブライド(Macbride, James Francis, 1892-1976) によって Contr. Gray Herb. 53: 5. (1918) に公表され,現在の正名に反映された.

"CONTRIBUTIONS FROM THE GRAY HERBARIUM OF HARVARD
UNIERSITY. – NEW SERIES No. LIII
BY J. FRANCIS MACBRIDE

Trycyrtis maculata (D. Don), comb. nov. Compsoa maculata D.
Don, Prod. Fl. Nepal. 51 (1825). T. pilosa Wall. Tent. Fl. Napal.
ii 62 (1862)
In spite of the fact that Hooker, Baker and others have agreed on the identity of the plant of D. Don and that of Wallich they have failed to take up the former's name which has priority.”
とある.

2019年1月12日土曜日

ホトトギス (7) 歐文献-1,Uvularia,ツンベルク『日本植物誌』,リンネ『植物の属』『植物の種』,マレー『植物王国の体系』,伊藤圭介『泰西本草名疏』


Tricyrtis hirta
日本特産のこの植物を最初に欧州に紹介したのは,出島の三学者の一人,ツンベルクであった.彼は出島のオランダ商館の医師として滞在した一年有余の間に観察・採取した植物について著した “Flora Japonica” のなかで,ホトトギスを Uvularia hirta と記録した.このラテン名はシーボルトの校閲を経て,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』にホトトギスと考定され,前記事に述べた如く飯沼慾斎は之に従った.
欧州文献図は B. H. L.,植物図譜は Plantillustrations,和書図は NDL のネット公開画像より引用.

ツンベルク (Thunberg, Carl Peter. 1743-1828) は,ウプサラ大学で9年間,リンネの下で医学・植物学などを学び,1770年「坐骨神経痛について」の論文で医学博士になった.後にウプサラ大学医学・植物学教授となり,同大学学長を務めたリンネの第一の高弟でリンネに続く時代の最も優れた自然観察者といわれる植物学者であった.
出島のオランダ商館の医師として日本に赴任したツンベルクは, 1775 – 1776年と12カ月ほどの滞日の間,長崎を中心とした九州と江戸参府の際の東海道(主に箱根付近)での植物採集しかできなかったが,日本の植物についての多くの本と論文を発表した.ツンベルクは日本の植物の腊葉標本を持って帰り,それを基に図譜を作り,さらにケンペルが残した資料を基に日本の植物を研究した.
なかでも彼の最高の研究成果である『日本植物誌』(Flora japonica1784.原書ではFlora Iaponica)は,師リンネの定めた分類法と学名(「二名法」)を用いたわが国植物学上の画期的な著作で そこには812種の日本の植物(長崎の植物300種,箱根の植物62種,江戸の植物43種など)と,同定に至らなかった植物101分類群が記載されて,新属26,新種418が発表され,日本の植物がヨーロッパに広く紹介された.別刷り銅版画39図を収め,個々の植物には植物学的記述のほか,日本名,その俗名,採集地,花期,効用などが調べられている.
また,精密な単色銅版の日本植物図譜 “Icones plantarum Japonicarum I – V” (1794-1806) も出版している.

★ツンベルク日本植物誌 Flora Japonica” (1784) p135-136 には,彼が “Uvalaria” 属とした三種の植物が記載されている(左図,左側)が,その一つ U. hirta はホトトギスである.この “Uvularia” 属は北米に分布するユリ科の植物で,日本には自生せず,ツンベルクの分類は後に誤りと判明したが,ホトトギスを含め二つには彼の命名した種小名が残った.

HEXANDRIA. Monogynia. 135
UVULARIA.
sessilis.               U. foliis seslilibus oblongis. ,
Uvularia sessslifolia. Linn.sp. Pl. p. 437.
Iaponice: Sasa Iuri.
Crescit in insula Nipon.
Floret Maio. Iunio.
Radix fibrosa fibris longis.
Caulis striato angulatus, erectus, glaber, pedalis, super-
ne bifidus vel trifidus ; ramis subfaitigiatis , diva-
ricato-erectis
Folia sessilia, alterna, ovata et oblonga, acuta, Integra,
nervosa, glabra, pollicaria et ultra.
Flores terminales, pedunculati, solitarii vel bini, cernui.
Corolla campanulata, alba.
                            
cirrho                  U. foliis sessilibus cirrhosis.
sa.                       Iaponice : Bai Mo.
                             Caulis teres, articulatus, striatus, glaber, simplex,
erectus.
Folia ex eadem gemma duo, seisilia, linearia, apice
cirrhosa, integra, glabra, digitalia.
Flores e gemma foliorum, pedunculati, cernui.
Pedunculus reflexus, uniflorus, unguicularis.
Petala 6, oblonga, ltea, subpollicaria.
Filamenta sex, germini inserta, aiba, corolla duplo
breviora.
Antherae oblongae, didymae, inclusae.
Stylus unicus, corolla paullo brevior, staminibus lon-
               gior
Stigmata tria, reflexa.
                                          
hirta                    U. foliis amplexicaulibus hirtis, caule villoso.
Iaponice: Iamma Fotogis.
Crescit iuxta Iedo.
Caulis teres, pilis longis densis valde hirsutus, erectus,
crassitie calami, pedalis.
Folia alterna, amplexicaulia, cordata, oblonga, acumi-
nata, nervia, patentia, viilosa pilis brevissimis,
bipollicaria.
Flores non vidi.
また,“Icones plantarum Japonicarum II” (1800) には,U. cirrhosa の美しい図が掲載されている(左上図,右側).

なお,ツンベルクが記載した上記三種の現在の標準的な学名と和名は次の通りである.
              U. sessilis            Disporum sessile D.Don ex Schult. et Schult.f.          ホウチャクソウ
              U. cirrhosa           Fritillaria thunbergii Miq.                                            バイモ
              U. hirta                Tricyrtis hirta Hook.                                                    ホトトギス

ツンベルクがホトトギスの属とした Uvuralia 属は,主に北米に分布するユリ科の多年草で,★リンネが『植物の属 Genera plantarum (1737) に記載した属であり,Uvularia perfoliata L. Type species とする.(左図)

★リンネの『植物の種 Species plantam(1753) には,U. amplexifolia, U. perfoliata, U. sessilifolia, の三種がUvuralia 属として記載されている.
その内,U. amplexifolia はその後,ユリ科タケシマラン属の種とされ, Streptopus amplexifolius (L.) DC. (オオバタケシマラン)が現在の標準的な学名(・和名)となっている.

Streptopus amplexifolius (L.)DC. [ as Uvularia amplexifolia L.]
Flora Danica [G.C. Oeder et al], fasicle 26, t. 1515 (1761-1883)
Uvularia sessilifolia L.
Meehan, T., The native flowers and ferns of the United States in their botanical, horticultural, and popular aspects, vol. 2: p. 173, t. 44 (1878-1879)
Uvularia perfoliata L.
Redouté, P.J., Les Liliacées, vol. 4: t. 184 (1805-1816) [P.J. Redouté]

これ等の植物はホトトギスとはその性状,特に花の形状は全く異なっている.
ツンベルクがこの属にホトトギスを入れたのは,彼がホトトギスの花を見ておらず,葉の性状のみから属を決めたからと思われる.“Flora Japonica” U. hirta の項には Flores non vidi.” とあり,また,ウプサラ大学に残されている彼が採取したU. hirta の腊葉標本には花が着いていない.

しかし,この学名はリンネの弟子の★マレー(Murray, Johan Andreas. 1740 - 1791)がリンネの『自然の体系』(Systema Naturae)の14版を,自らの序文をつけて出版した『植物王国の体系 Systema Vegetabilium(1784) 325 頁には,

412. UVULARLA; Cor. 6-perala, erecta: Nectarii fo-
436.                     vea baseos petali. Filamenta
brevissima.
amplexifo-           1. U. foliis amplexicaulibus — mollibus, caule
lia.                           glabro M. Corollae Medeolae asparagoidis.
hirta.                   2. U. fol. amplexieaulibus hirtis, caule vilioso,
Thunb japon. mspt. M.
perfoliata.           3. U. fol. perfoliatis.
sessifolia.            4. U. fol. sessilibus, — absque cirrhis. M.
cirrhosa.              5. U. fol. sessilibus cirrhosis. Thunb. jap. mspt. M.

と五種の植物が記載され,リンネの『植物の種 Species plantam(1753) の三種に加え,ツンベルクが “Flora Japonica” に記したホトトギスを含む新種二種が,そのまま入れられている.

★伊藤圭介(1803-1901)の『泰西本草名疏(1829) は,シーボルトの指導のもと,上記ツンベルクの『Flora Japonica 日本植物誌』のラテン名をアルファベット順に並べ,これに和名をあてたものである.この書の「下二十四丁」には

UVULARIA SESSILIS. LINN
ハウチヤクサウ 萬壽竹〇
    タウチクラン
サヽユリ

- - - - - - - -  CIRRHOSA. TH 〇云TRITILARIA?] ハルユリ 貝母

- - - - - - - -  HIRTA. TH                           ホトヽギス 油點草

と,ツンベルクの “Flora Japonica” Uvularia 属の三種に和名が考定されている.

この考定が飯沼慾斎の『草木図説』に受け継がれたのは,前記事の通りである.なお, TH Thunberg の略であり,また,「〇云」はシーボルトのコメントであるが,当時国外追放されていたシーボルトの名を出すのを憚って〇とした.この[TRITILARIA]は調べたが判らなかった.TRICYRTIS]の聞き違えか?

飯沼慾斎の『草木図説前編』においては,ホウチャクソウのラテン名は, ツンベルクの『Flora Japonica 日本植物誌』の「Uvularia sessslifolia (ユフラリア セツシリホリア)」のままとした.
一方,バイモのラテン名に関しては,「按「フリチルラリア キーヒチスブルームの属たることは.林氏并鐸氏物印満氏等の圖説に昭然たれとも.諸書中的當の種不載.春氏「ユヒュラリア」の属とするは不隱.西勃氏亦駁之」(西勃氏:シーボルト)と,して,Uvularia 属に入れることには,疑問を呈した.

シーボルトが滞日中 (1823 - 1829) 1826 年に★ナサニエル・ウォーリッチ(Nathaniel Wallich, 1786 - 1854)が,ネパールの植物誌 Tentamen Florae Napalensis Illustrataeを刊行し,そこにネパール産のホトトギス類の一種  Tricyrtis pilosa Wall.” Type species とする新たな属 Tricyrtis Wall.”(ホトトギス屬)を記載した.
この記載には Uvularia hirta, Thunb. japon . p. 136?” とあり,ウォーリッチはツンベルクの Uvularia hirtaが,この種と同一である可能性を示唆していた.(次記事)