2022年8月22日月曜日

ウラシマソウ-12 江戸後期-3,箋注倭名類聚抄,薬品手引草,百品考,草木図説,増訂草木図説,本草要正

 Arisaema urashima

文献画像はNDLの公開デジタル画像からの部分引用

 ★狩谷棭斎(1775 - 1835)箋注倭名類聚抄』(1827成立)

江戸後期の辞書注釈書.一〇巻.狩谷棭斎(えきさい) (1775 - 1835)著.文政一〇年(1827)成立.明治一六年(1883)刊.十巻本倭名類聚抄を底本とし,他本と校合,各項目に和漢の古書を引用して考証を施したもの.その博引旁証は,古辞書研究史上の白眉といわれる.箋注和名抄.

狩谷棭斎は江戸後期の考証学者.名は望之(もちゆき),通称は津軽屋三右衛門.江戸の下谷の書肆に生まれ,津軽家御用商人狩谷家(津軽屋)に入婿.屋代弘賢・市野迷庵などに師事して和漢の学を修め,律令の学に志し,さかのぼって漢唐注疏の学を修めた.浅草に移った晩年は松崎慊堂(こうどう)・北静盧などと交流,書誌学や制度文物の研究に大きな足跡を残した.著書としては『箋注倭名類聚抄』の他には『日本霊異記攷証』『本朝度量権衡攷』『古京遺文』など.全集9冊(1925年)がある.

この書の「十 草」の部に

虎掌 陶隱居云,虎掌,於保保曾美 ○下?本有和名二字四畔有
、如虎掌、故以名
證類本草下品引陶注云,形似半夏
但皆大,四邊有子如虎掌,又引唐本注云,此藥
是由跋宿者,其苗一莖,莖頭一葉,枝了
根大者如
拳,小者如鷄卵,都似扁柿,四畔有
圓牙,看如虎掌,故有此名,則知此誤蘇注
陶説也,但本草和名引與此同,蓋輔仁誤引,
源君承之也,圖經,初生根如豆大,漸長大似
半夏而扁,累年者其根圓及寸,大者如鷄卵
周匝生圓牙,二三枚或五六枚,三四月生
高尺餘,獨莖上有葉如瓜,五六出分布,尖而
圓,一窠生七八莖,時出一莖,作穗直上如
,中生一葉匙,裹莖作房,傍開一口,上下
尖中有花微青褐色,結實如麻子大,熟即白
色,自落布地,
一子生一窠
とある.多くの過去の文献を纏めているが,特に新しい知見はない.


江戸後期に出版された,薬物の名前と簡単な解説を記した★加地井高茂 薬品手引草』(1843)の
「上」の「奈」の部に「南星   テンナンセウ之」とあり
「下」の「口」の部に「虎掌(コシヤウ)   ナンセウ之,ブシ之」
「下」の「天」の部に「天南星(てんなんせう)   虎掌(こしよう)やまこんにやく 和●」とある.

「●=草冠++木」は何か,検索したが不明,「草木名」の造字か,「藥」の異字か?


 江戸時代後期の本草家・医師の山本亡羊(17781859)は,儒医山本封山の次男として京都に生まれる.父に儒医学を学び,16歳で小野蘭山に入門して本草学を学ぶ.医業のかたわら儒学,本草学を講義し,家塾を「読書室」と称して毎年のように「読書室物産会」を開催.この物産会は亡羊没後は子の榕室,弦堂に継がれ,文化5年(1808)から文久3年(1863)にかけて計48回開かれた.深い学識と篤実な人柄で門人は千数百人を数え,蘭山なきあとの京都本草学派の主導者となり,文政9年(1826)には江戸参府途次のシーボルトとも京都で会見している.彼の著作『百品考初編』(1838跋刊),『百品考二編』(1847序刊)は,日本においてよく使用される本草品の考定を纏めた書である.その★『百品考二編』の「巻上」には,

由跋
本草綱目,蘓恭曰,由跋是虎掌新根,大于半夏二三倍,四
畔未子芽,其宿根即虎掌也,韓保昇曰,春抽一莖,莖端
八九葉,根圓扁而肉白,李時珍曰,此即天南星之小者,
 即虎掌和名ウラシマサウノ小ナルモノナリ蘇恭
 カ説ニ從フベシ李時珍ガ天南星ト云ハ即虎掌ノコ
 トヲ指テ云フ李時珍ハ虎掌ト天南星ヲ一物トス
 ル故ナリ」とあり,ウラシマソウは虎掌の小さなもので,テンナンショウと同一だとした. 

★飯沼慾斎(1782-1865)『草木図説』(成稿 1852年(嘉永5)ごろ,出版 1856年(安政3)から62年(文久2))は,草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,木部10巻.


『草木図説』は記述文に,ラテン語の学名や時にオランダ語を加えている.リンネの分類に従っているため,『本草綱目』による配列より近代化されている.慾斎に大きな影響を与えたのは宇田川榕菴の『植学啓原』と伊藤圭介(
1803-1901)の『泰西本草名疏』である.後者はシーボルトに指導のもとツンベルクの『日本植物誌』の学名をアルファベット順に並べ,これに和名をあてたものである.リンネの分類体系のためには雄しべ雌しべの數を正確に数える必要があったことが,慾斎の花部の描写を丁寧で精密にし,図をより正確にした.
草部は1852年(嘉永5)ごろ成稿,56年(安政3)から62年(文久2)にかけて出版された.

『草木図説前編』の「巻之十九 第二十綱 第七目 多雄蕋」には,サトイモ科テンナンショウ属としては,以下の植物が記載されている.

「 テンナンセウ 天南星
マムシグサ叉ヘビノダイハチ 斑杖
マヒヅルサウ
ウラシマサウ 虎掌
ムサシアブミ
ユキモチソウ」

 ウラシマサウ 

一茎一大葉ニシテ花梗ヲ出シ.葉形マヒヅルサウト同フシテ差小.花形亦同ジケレドモ
茎短クシテ葉下ニアツテ彼ノ高ク葉上ニ出ルト不同.苞色黄白ニシテ暗紫点アリテ
裏面純暗紫.筒ハ淡白色.一種筒本青色ナルアリ.柱頭細シテ長ク曲リ垂ルヽコト一二
尺マヒヅルサウノ糸ノ長ニ倍ス.是釣絲ノ看アル処也.マヒヅルサウト此種トハ
茎籜*ニ線條アツテ蛇斑ナク.根塊ノ側ニ小珠ヲ生シテ苗ヲ簇生スルノ殊標アリ.
  按マヒヅルサウノ一種ニ属ス」とある.

*籜:本文では略字の「竹冠の下に択」を用いる.正字の「籜(竹冠の下に擇)」とは竹の皮,筍の皮,竹の皮の意.ここでは仏炎苞を包んでいた皮を意味すると思われる.

更に,「マヒヅルサウ

一茎一大葉ニシテ花ヲ生ス.天南星ノ二大葉ナラザレバ花ヲ不生ト異ナリ.花形草状略天南星ト
同フシテ.色淡緑ニシテ微ク紫暈アルノミ.蕋頭細ニシテ長キコトウラシマサウノ如クナレトモ.彼ノ長キニ不及.此
種花梗長シテ葉ノ上ニ出頗ル翔鶴ノ態アリ.故ニマヒヅルノ名ヲ
 按 天南星ノ一種ニシテ種名未詳」とも,マイヅルテンナンショウに関しての記述もある.

★牧野富太郎校訂の『増訂草木図説』(1907 - 22)「草部 巻十九」には
ウラシマサウ 虎掌
 Arisaema Thunbergii Bl.

テンナンセウ科(天南星科)Aracoe.」とあり,当時の一般的な学名と科名が付け加えられたが,記述文は,使用する漢字は旧字体や本字ではあるものの,慾斎の記述と同じである.
また,マイヅルテンナンショウに関しては,

マヒヅルテンナンセウ マヒヅルサウ
Arisaema heterophyllum Bl.
テンナンセウ科(天南星科)Aracoe

一茎一大葉にして花を生す.天南星の二大葉ならざれば花を不生と異なり.花形草状略天南星と
同ふして.色淡緑にして微く紫暈あるのみ.頭細にして長きことうらしまさうの如くなれとも.彼の長きに不及.此
種花梗長の葉の上に出頗る翔鶴の態あり.故にまひづるの名を
 按 天南星の一種にして種名未詳

〔補〕本種は九州に在ては諸處に野生す(牧野)」とある.
マヒヅルテンナンセウを本名としている.同名異物(ユリ科,Maianthemum dilatatum)があるからであろう.本文は慾斎の記述と同じであるが,慾斎の「蕋」を「」としている.これは牧野の誤りか誤植であろう.さらに,〔補〕として,牧野のコメントが追加されている. 


★泉本儀左衛門『本草要正』(1862)は,本草を中心とした和漢名辞典であるが,テフ () を「チョオ」,メウガ (茗荷) を「ミョオガ」のように,和名を発音表記とした点が特色.和名の方言や異名も記している.園芸植物の花銘を多数挙げるのも特色で,アサガオ130点,フクジュソウ131点,ツバキ236点などを記す.本来13冊だが,8冊のみ現存する.著者は江戸の人と思われるが,詳細不明.

この書の
「土部」に「虎掌 天南星             トラノヲ ヤマニンジン」
「天部」に「天南星 二葉なるものを云ふ.
       虎掌   一葉にして花の内よりひげ出る
       斑杖   莖に班文あり
       白南星  白花のものを云ふ
       蛇頭草  白南星の色黒きものを云ふ
       青南星  莖葉青く丈高くして青花を開く花遅し」
とある.性状的には虎掌がウラシマソウと分かるが,そうとは考定していない.

 牧野の『増訂草木図説』まで含めると,1920年当時までは,「虎掌=ウラシマソウ」が本草家の考定が一致するところであったようだ.

2022年8月11日木曜日

ウラシマソウ-11 江戸後期-2,有毒草木図説,動植写真,本草図譜,農家心得草

Arisaema urashima

★清原重巨(しげたか)は,当時毒性のあるとされていた植物百二十二種の図譜並に解説書『有毒草木図説』(1827)を編集した.本書の第一巻には四種のテンナンショウ属の植物が記載され,その中に「うらしまさう」の和名が付された「虎掌」もあり,短い記述文もある.

★大窪昌章『動植写真』(1827)は,昌章が観察した動植物のスケッチ集で,特に記述は見当たらないが,その描画は見事である.この書にウラシマソウの美しい図が載る.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜』は江戸時代屈指の植物図譜で,野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図を『本草綱目』の分類に従って配列している.この叢書の「毒草類」に「虎掌 うらしまさう」と記された大きな図があり,当時輸入されて,本草学者達に大きな影響を与えた,ヨハン・ウエインマン(1683-1741)の『薬用植物図譜』(1737-1745)による和蘭名が記載されている.

★大蔵永常『農家心得草』(1834)は農家の飢饉対策の書であるが,その中に飢餓の際,食してはいけない毒草を図(『有毒草木図説』から転載)入りで紹介しているが,その中に「虎掌 うらしまさう」が挙げられている.

 文献画像はNDL及びBHLの公開デジタル画像よりの部分引用

★清原重巨(しげたか,生没年不詳)『有毒草木図説』(1827)は,当時毒性のあるとされていた植物百二十二種の図譜並に解説書である.有毒植物に関するまとまった図説としては本邦初のものと言える.通常の著作本とは少々異なり,編者と図譜の画家は異なる.編者は舎人(とねり)重巨(じゅうきょ)(姓は清原,字名(あざな)は君規,又は武兵衛,)尾張藩世臣,藩主宗睦(むねむつ)の小姓から身を起こし,後四百石を禄した.当時尾張では,京都や江戸と並び称されるくらい,本草学が盛んで松平君山を筆頭として水谷豊文(ほうぶん),沼田正民,大窪昌幸らがおおいに活躍した.そうした多くの研究者,同好者三十九人に草木一品以上を受け持たせ,挿図並びに解説文の寄稿をもって成立した.

 本書の第一巻には四種のテンナンショウ属の植物 -「天南星(てんなんしやう)」「むさしあぶみ」「ユキモチサウ」「虎掌」- が収載され,「虎掌」には,「うらしまさう」の和名が付されている.図は次項,『動植写真』の著者,大窪昌章(18021841)で,繊細な線画で,植物の形態を正確に写している.

虎掌 こ志やう うら志まさう   本草綱目 
大毒あり深山陰地に春生じ天南星に似て其根圓塊葉まひ
づるてんなん志やうの如くして長く莖に白斑あり花中長蕋
を出し地に及ぶ誤りてこれを食すれば天南星に同じ懼べき
者なり」


 ★大窪昌章(18021841)は江戸時代後期の尾張藩士,通称舒三郎,号薜茘菴(二代),本草学者.名古屋の本草学研究会・嘗百社の一員で,1833年水谷豊文の没後同社を支えた.志村半兵衛吉昌の次男として生まれ, 1821年大窪光風(初代薜茘菴)の養嗣子となり,光風没後,1824年御目見して跡目を継ぎ,馬廻組,切米30俵となり,1838年大番組,切米50俵となった.印葉図の制作に優れ,多数の印葉図集が現存する.しばしば採薬に赴き,綿密な採薬記を残した.1841年死去し,1842年嫡子・大窪安治(三代薜茘菴)が跡目を継いだ.

 『動植写真』(1827)は,昌章が観察した動植物のスケッチ集で,特に記述は見当たらないが,その描画は見事である.伊藤圭介の孫で,所蔵者であった本草学者の篤太郎の注記が書末に挿入されており「尾張本草家大窪昌章自筆稿本 薜茘庵 動植〔物〕寫眞〔生圖譜〕ト假ニ命?ス 写本一冊」とあり,その図を「大窪氏ハ水谷助六翁ト同時代ノ人ニシテ殊ニ昆虫ヲ研究シソノ筆ニナレル草木実魚等ハ實ニ眞ニ迫ルノ妙アリ」と高く評価している.この書に「ウラシマ艸」と書かれた付箋が張られた図が収載されている.この付箋は,筆跡から所蔵した篤太郎によるものと思われる.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜』は飯沼慾斎『草木図説』と並び称せられる江戸時代末に作られた二大植物図譜の一つで,江戸下谷生まれの幕臣岩崎灌園の著作.野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図で,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って配列している.巻510は文政131830)年江戸の須原屋茂兵衛,山城屋佐兵衛の刊行.以下巻1196は筆彩の写本で制作,三十数部が予約配本され,弘化元(1844)年に配本が完了した.
 この叢書の「第3冊 巻22 毒草類2」にはテンナンショウ属の「虎掌 うらしまさう」,「一種 白南星」,「天南星 やまにんじん」,「一種 蛇頭草」,「一種 ゆきもちさう」,「一種 へびのだいばち」,「一種 むさしあぶみ」の七種の植物が「虎掌 天南星」の仲間として記載されている.その内,虎掌がウラシマソウと考定されている.


虎掌(こしやう)天南星(てんなんせう)

 時珍は宋の開寶本草の天南星を合せて一物とす然れども本草原始に虎掌と天南星を
分別すまた本草彙言に南星即虎掌同類異物と云此説に從いて二種とすべし

虎掌(こしやう)             おほほそみ 和名鈔             てんぐのはね 加州
                                          
ダラコニチュム 荷蘭*1 物印忙(うへいんまん)*2

處々山中にあり春月宿根より生ず一莖特生し頂に九葉又十一葉も周りつく葉莖の中ごろ
に花を生じて一瓣蓮花の如く紫褐色花の中に長き鬚を垂る根は半夏に似て大なり黄色
周りに圓き子を附して虎の掌に似たり故に此名あり」とある.

*1:荷蘭=オランダ
*2
:ヨハン・ウエインマン (1683-1741) ”Phytanthoza iconographia”『花譜』or『薬用植物図譜』(1737-1745
ヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマン(Johann Wilhelm Weinmann,日本では物印満,烏延異莫漫莫,ワインマン,ウエインマンとも記される)は,ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬剤師,植物学者である.10年間をかけて大著『薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia8巻を完成させた.江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に渡来し,本草学者達は蘭名を片仮名化したり,図を模写したり,考定したりした.幕府のお抱え医師であった栗本丹洲(17561834 年)がその著書『洋名入草木図』(1818,文政1)で八十六点も転写していることはよく知られている. 宇田川玄真訳述『遠西医方名物考』36巻(1822,文政5)は西洋薬物百科事典の嚆矢の精巧な図譜集であるが,植物(59)の大半がウエインマン『花譜』による.群芳園陳人『烏延異莫漫莫草木名』(1805,文化12)や,飯沼慾斎『物印満本草図譜訳名』(作成年不明)では,(全てではないが)図版の番号に対応するラテン語名称の読みを片仮名で記している.なお慾斎による 472 b “Dracunculus polyphyllus caule maculato” の読み仮名は「ダラニンコルス ポレーペーリヱス カヱレ マクヱラト」とある.ウラシマソウに対する慾斎の「ダラコニチュム」がどこから来たのかは見つけ出せなかったが,獨羅本文中に ” dracontium” の語がある.オランダ語訳の文中にあるのかも知れないが,調べられなかった.


★大蔵永常『農家心得草』(
1834)は農家の飢饉対策の書であるが,その中に飢餓の際,食してはいけない毒草を図(『有毒草木図説』から転載)入りで紹介しているが,その中に挙げられたテンナンショウ属の植物の図は,いずれも『有毒草木図説』から転載で,「虎掌(こしやう) うらしまさう」が「大毒あり」とあり,他に「天南星(てんなんしやう) やまこんにやく」「むさしあぶみ 天南星乃一種なり」「斑杖(はんぢやう) まむしさう」で,すべて「大毒あり」とされている.

大蔵永常(1768 -1861?)は,江戸時代の農学者で,宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人とされる.豊後国日田郡隈町(大分県日田市)生まれ.初め父と同じ蝋晒(ろうさら)し工場で丁稚として働いたらしいが,天明の大飢饉に際して現金化できる作物の必要性に気づき,大阪や江戸を中心に全国を旅し,農村の実態を研究した.やがて,米麦等の穀類の増産や副業的な特用作物の栽培と製造・加工等の多角経営を行うことを主張する.永常は未刊のものも含め,生涯で約80冊もの農書を執筆した.
 永常の死後出版された,集大成的な意味を持つ『広益国産考』(1859年刊)の「一之巻 總論」で永常は,「夫国を富しむるの経済ハ、まづ下民を賑し、而て後に領主の益となるべき事をはかる成ベし。第一成ハ下にあり、教ふるハ上にありて、定まれる作物の外に余分に得ることを教えさとしめバ、一国潤ふべし」と述べた(現代語訳 国(一藩)を豊かにするための方法としては、まず下々の人民の生活を豊かにし、その結果として領主の利益となるように計画すべきである。その計画をまず第一に実行するのは下の人々であり、それを教えみちびくのは上の人々である。普通に栽培されている作物以外のものを余分に作るよう教えさとすならば、一国の経済は豊かになる).このような開明的な思想には,渡辺崋山や大塩平八郎らとの交友関係の影響があったのかとも思われる.
 彼は,(1834)年(天保五)に『農家心得草』を出版した.この書は1783年(天明三), 1786年(同六)の飢饉のときの教訓をもとに,飢饉に緊急対応する手段を著した書で,その内容は,大きく二つに分けられる.前半部分には飢饉時の食料となる麦の栽培とその備蓄に関して,後半部分「有毒草木の事」は飢饉時に有毒植物を食べて死亡したり,病気になる人が出るのを避けるために,有毒植物の圖を掲載した.「有毒草木の事」の部分では,まず有毒草木図を掲載した理由を説明した.同時に,有毒草木図は「尾陽の或先生」の著作からの引用であることを断わったうえで,総数一七図,四三種におよぶ有毒草木を紹介した.尾陽の或先生,即ち清原重巨著『有毒草木図説』から転載した草木図についても,相当の手がはいっている.選び出した植物を縮小し,原著にある説明を省き,実用に適するように配列し直した.
 「有毒草木の事」には,「過去の飢饉の時のように春になって毒のある草木の葉・根,木の芽を食べて死ぬ者がまた出るのではないかと心配になり,ある学者を訪ね,有毒の草木の名前を書き出してくれるように頼んだ.しかし,有毒植物の名前を書き出すのははばかられると断わられ,計画を断念せざるをえなかった.」しかし,
「其後友人にこの事を語りけれバ,近き頃尾陽の
或先生其事を撰びたる書ありとて,とり出して
予に示す.是を閲するに,全く餞民毒ある草
木の芽を食し,又ハ牧童抔の誤て食せんこと
を愁ひ記したるとあれバ,是を写たらんにハなどか
咎め給ふべきとて,其内毒の多きものばかりを
撰び,縮図し出しぬ.」と述べて,重巨著『有毒草木図説』からの図を転載した.さらに「小毒とか微毒とされた植物には,日常的に口にするものが多い.これらの植物は,大量に食べた場合,あるいは,食合せをした場合に中毒を起こす.小毒の類は,一般的には,塩漬け,塩もみにする,ゆでて水につける,生のまま水にさらすなどの処理をすれば,食べられるものが多い.そういったものまで図をあげたのは,あくまで有毒植物をまちがって食べることがないようにとの一念からである.」と記している.
 この書は,漢字にはほとんど全て振り仮名が振られ,また挿絵も豊富で,農民が手に取りやすく,分かりやすい実用書として書かれている.