2013年4月26日金曜日

サクラソウ (20) 白鷹,真如の月,笑布袋,浮間白


Primula sieboldii cv’s
左上より右下へ,白鷹,真如の月,笑布袋,浮間白

地植えにした白鷹
白鷹
品種名仮名;はくたか,表の花色;乳白色,裏の花色;極淡紅紫色,花弁の形;重ね,花弁先端の形;,花容;平咲き・受け咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;中,作出時期;昭和,類似品種;白鷲,その他;花弁に隙間がない,「白鷲」より小型

真如の月
品種名仮名;しんにょのつき,表の花色;白,裏の花色;薄桃,花弁の形;広,花弁先端の形;桜,花容;浅抱え咲き,花柱形;僅長柱花,花の大きさ;大,作出時期;江戸後期,類似品種;藤の里,その他;丈夫で葉が大きい

「笑布袋」
品種名仮名;わらいほてい,表の花色;とき色・紅絞り,裏の花色;とき色,花弁の形;,花弁先端の形;深かがり,花容;浅抱え咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;大,作出時期;江戸後期,類似品種;,その他;

「浮間白」
品種名仮名;うきましろ,表の花色;純白,裏の花色;純白,花弁の形;細,花弁先端の形;さくら弁,花容;平咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;中,作出時期;江戸後期,類似品種;,その他;東京都の自生地「浮間ヶ原」で発見された野生白花種.

リンクされていない品種は,このブログでは初出.
「浮間白」以外の品種データは「埼玉県と緑の振興センタークラソウ品種一覧」のHP(http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sakurasou/901-20100106-170.html)より許可を得て引用

サクラソウ (21) 異端紅 作出者:伊丹清氏,大乗院寺社雑事記,宴遊日記,嬉遊笑覧

サクラソウ (19) 槇の尾,松の雪,雪月花,駒止

2013年4月21日日曜日

サクラソウ (19) 槇の尾,松の雪,雪月花,駒止


Primula sieboldii cv’s
2013年のサクラソウ (2)  槇の尾, 松の雪, 雪月花, 駒止
左上より右下へ

「槇の尾」
品種名仮名;まきのお,表の花色;桃色・底白,裏の花色;桃,花弁の形;広,花弁先端の形;桜,花容;星咲き,花柱形;長柱花,花の大きさ;大,作出時期;江戸後期?,類似品種;人丸・衣通姫,その他;葉大型・6弁花咲きやすい・繁殖少

松の雪
品種名仮名;まつのゆき,表の花色:白・花弁の先端緑斑,裏の花色:白・花弁の先端緑斑,花弁の形:広 かがり,花容:浅抱え咲き・受け咲き,花筒の色:淡緑色,花柱形:長柱花,花の大きさ:中,作出時期:江戸後期,類似品種その他:青葉の笛・柳の雪,性質強く繁殖良・庭植に適している.

「雪月花」
品種名仮名;せつげつか,表の花色;純白,裏の花色;純白,花弁の形;,花弁先端の形;かがり,花容;平咲き・受け咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;中,作出時期;江戸後期,類似品種;,その他;雪の結晶のような花形が特徴・花茎が長い

駒止
品種名仮名;こまどめ,表の花色;淡いとき色,裏の花色;淡いとき色,花筒の色;とき色,花弁の形;重ね,花弁先端の形;桜,花容;平咲き・受け咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;中,作出時期; ,類似品種; ,その他;

リンクされていない品種は,このブログでは初出.
これらの品種データは「埼玉県と緑の振興センタークラソウ品種一覧」のHP(http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sakurasou/901-20100106-170.html)より許可を得て引用している.
「花容」「花弁の形」については,http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2010/04/blog-post_05.html の図を参照ください.

2013年4月19日金曜日

サクラソウ (18) 白滝,十二単,南京小桜,青葉の笛

Primula sieboldii cv’s
2013年のサクラソウ 白瀧,十二単,南京小櫻,青葉の笛

庭のヤエベニシダレが終わって,サクラソウが咲きだした.今年一番早かったのは地植えの原種系(左図),その後に「松の雪」以降続々と鉢植えのサクラソウが.去年より花つきが悪い株が多いように感じられる.近くのホームセンターでは7号ほどの大鉢に大きく育てたサクラソウを売っている.華麗ではあるが,楚々とした可憐な山草のイメージがなくなり,悲しい.

地植えにした原種系サクラソウ
トップ画像,左上から右下に

「白滝」 品種名仮名;しらたき,表の花色;白,裏の花色;白,花弁の形;広,花弁先端の形;深かがり,花容;狂い咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;中,作出時期;不明,類似品種;母の愛・喰裂紙・山下白雨,その他;花茎が短い・早咲き

「十二単」 品種名仮名;じゅうにひとえ,表の花色;曙白,裏の花色;紅,花弁の形;広,花弁先端の形;浅かがり,花容;深抱え咲き,花柱形;長柱花,花の大きさ;大,作出時期;江戸後期,類似品種;玉芙蓉・紅女王,その他;芽長淡桃色・繁殖良・花着き多

南京小桜品種名仮名:なんきんこざくら,表の花色:紅色・目白,裏の花色:紅色・爪白,花弁の形:細,花弁先端の形:梅,花容:受け咲き,花柱形:短柱花,花の大きさ:小,作出時期:江戸中期,その他:もっとも小型・芽は太い. (http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2011/05/14.html

「青葉の笛」 品種名仮名;あおばのふえ,表の花色;白地に緑斑入り,裏の花色;白地に緑斑入り,花弁の形;不整,花弁先端の形;,花容;平咲き・受け咲き,花柱形;長柱花,花の大きさ;中,作出時期;江戸中期?,類似品種;松の雪・柳の雪,その他;野生品に近い古典的な品種

リンクされていない品種は,このブログでは初出.
これらの品種データは「埼玉県と緑の振興センタークラソウ品種一覧」のHP(http://www.pref.saitama.lg.jp/site/sakurasou/901-20100106-170.html)より許可を得て引用

2013年4月17日水曜日

アセビ (5/5) ツンベルク,英国・米国の園芸種, 属名の由来

Pieris japonica
ANDROMEDA JAPONICA By W. ROBINSON in
“THE GARDEN, AN ILLUSTRATED WEEKLY JOURNAL” (1878)多色石版

Thunberg "Flora Japonica"
日本産のアセビを海外に紹介したのは,江戸時代に長崎の出島に滞在した医師,ツンベルクで,『日本植物誌』(1784年)に Andromeda Japonica という学名をつけ,日本名として「シシクワズ」「シシガクレ」をあげている.これは長崎県の方言で,シシはシカのことであるが,ツンベルクはこの「シシ」を「ライオン」と誤解していた節がある(左図).

アセビ属(ピエリス)は発見されて以来,1834年にデヴィッド・ダンが新しい属を作るまでは,ヒメシャクナゲ属(アンドロメダス)に分類されていたので,このような学名がつけられた.

アセビ属には一〇種ほどがあるが,一種を除き,ヒマラヤから日本など,東アジア地域に産し,ただ一種アメリカアセビ(Pieris floribunda)が北アメリカ東南部に分布する.アセビ属も「東アジア・北米隔離分布」の一例である.

ヨーロッパに最初に紹介されたのはこのアメリカ産で,1821年までには英国にフィラデルフィアの園芸家ジョン・リオンによって導入されたと言われている.しかし,庭木としては東洋産の方が美しさに勝る.
詳しい経過はわからないがアセビ(Pieris japonica)は,1870 年までにはイギリスで栽培されるようになっていたことがわかっている.これは耐寒性があるが,温暖な地域の方が大きく育つ.三月,四月に花が開くので,時に悪天候のために花が駄目になってしまうこともあった.

ヒマラヤアセビ CBM tab. 8283 (1909)
ピエリスの中で一番美しいとの評価を得たのはフォルモーサ種(P. formosa)で,1858年に紹介されたヒマラヤ産の種である.イギリスの南西部でこの灌木は 20 フィートにまで成長するが,かなり寒さに弱いのでその他の地域では十分な保護が必要である.また,当初別の種であると考えられていたが,魅力的な斑点斑点をもつ変種のフォレスティー種の種子はプラントハンターのジョージ・フォレストが 1910 年頃に雲南からイギリスに送ってきた.

フォレストは,種子及び苗木を扱うビーズ商会の創始者,A・K・バリーの依頼によって収集したのである.寒さよけの設備がある庭では,この園芸種の炎のように赤い葉が比較的大きな白い花と同時に姿を現す.もっと寒い地域では,花のつぼみは秋にできるが,春になる前に落ちてしまいやすい.しかし赤い色の若葉は灌木を美しく飾る.

日本原産のアセビの耐寒性は交配親としての貴重である.英国のサリーのサニングディル種苗園で偶然に見つかった種,これは赤い葉が出る変種のフォレスティー(P. formosa var. forrestii)と耐寒性に優れたヤポニカ種との交雑であると言われているが,これには姿に似合った“森の炎”(Forest Flame)という名前が与えられている(左図).

また,米国においては,アメリカアセビ(P . floribunda)とアセビ(P. japonica)の交配種 'Brouwer's Beauty' などが,耐寒性に優れ,赤い新芽が美しく,グンバイムシに対する抵抗性が高いので,庭園樹としての評価が高い.

属名の Pierisギリシア神話に登場する地名ピエリア (Pieria) によっている.ダンがなぜピエリスを選んだのかについては何も述べていないが,文芸,美術を司る九人の女神,ミューズに由来すると考えられる.ミューズを崇める信仰は,オリンポスの北麓にあったピエリアという土地から起ったとされ,それゆえムーサはピエリデスとも呼ばれたらしい.九人のミューズがピエリスと呼ばれた理由はギリシアのテッサリア地方にあるピエラと呼ばれる場所でミューズが生まれたからであるとも言われるし,同じくテッサリアにあるミューズにとって神聖なピエルス山からその名前がついたとも言われている.その他,金持ちのテッサリア人ピエリウスの九人の娘がピエリスと呼ばれていたが,娘らはミューズと音楽の腕くらべをして負けたのでカササギに変えられてしまったという神話もある.

アセビ(4/5) 毒性・ウマ・シカ・『毒草を食べてみた』・ヒツジ・ヌートリア,殺虫薬

2013年4月11日木曜日

アセビ(4/5) 毒性・ウマ・シカ・『毒草を食べてみた』・ヒツジ・ヌートリア,殺虫薬

Pieris japonica
園芸種 アケボノアセビ Pieris japonica f. rosea
ウマやシカはアセビの葉や茎を食べない.この植物に毒性物質が含まれているからである.
お水とりを拝観するため訪れた奈良東大寺で,正倉院の脇を通りかかったとき,背の低いアセビの植え込みがあるにもかかわらず,多数のシカがちんちんのような格好で立ち上がって,高い位置にあるカシ類の葉を食べているのを見た.このような圧力で春日山にはアセビの純林があるとの事である.また,母シカが仔シカにアセビの葉が食べられないと教えるという話もあるが,真偽のほどは定かではない.

江戸時代の文献では,アセビの毒性について,東麓破衲編『下学集(下)』(1444)「馬此ノ葉ヲ食シテ則死ス」,伊藤伊兵衛『花壇地錦抄(三 冬木の分 ○笹のるひ)』(1695)「馬此葉ヲ食スレハかならず死ゆへに馬酔木といふ」,貝原益軒『大和本草(巻之十二 雑木)』 (1709)「微毒アリ 馬此葉ヲクラヘハ死ス」,寺島良安『和漢三才図会(巻第八十四 灌木類 』(1713頃)「相伝フ馬此葉ヲ食ヘハ酔フ」,小野蘭山『本草綱目啓蒙(巻之三十二 木之三 灌木)』(1803-1806) 「モシ牛馬コノ葉ヲ食へバ酔ルガ如シ。故ニ馬酔木ト云。鹿コレヲ食へバ不時ニ角解ス。」とあり,ウマは酔ったり死んだり,シカは角を落とすとある.

日本における動物に対する毒性の報告・文献は見当たらなかったが,米国における類縁植物注1)を摂食したヒツジの中毒状況が,植松黎『毒草を食べてみた』(文藝春秋社,2000)に記されている.

「アセビ」の項より引用すると,「1979年8月、アメリカのカリフォルニア北部シャスタというところでおこった事故は、道に迷った羊たち注2)がアセビの仲間である野生種注1)を食べたものだった。広い牧草地のなかにはまだ野生種が多く生えていたのだった。群のすべてが食べたかどうかわからないが、様子がおかしくなったのは二百頭のうちの二十頭だった。羊たちは大量のよだれを流し、激しい下痢とおう吐をくりかえした。そして、悶絶しながら腸から大量出血するという悲惨な状態に陥り、二頭が命を落とした。
死んだ注2)を解剖してみると、胃に葉っぱの断片が残っていた。胃の炎症は少なかったものの、毒が胃壁の神経系に作用したことがおう吐をひきおこした原因ではないかとみられた。また、呼吸器が炎症をおこしており、心臓のまわりには大量の出血があって、表面にあらわれないダメージがこの毒の恐ろしさを物語っていた。」

またこの項には,体重1キロあたり葉っぱ2、3グラムを食したヌートリアが中毒したこと,さらに,「基本的に、動物がアセビやツツジ科の植物をさけることは、実験によって明らかにされている。モルモットはほかに餌がなく、飢えていたときのみむりやり葉を食べ、ウサギは、はじめパクついたがすぐにおかしいと思ったのか、食べるのをやめてしまったという。そして、中毒症状はどの動物もさきに挙げた羊と似ている。」とある.

Thomas C. Fuller, Elizabeth May McClintock "Poisonous plants of California" (1986),  p132 'Rhododendron occidentale. Western Azalea' に基くと,
注1)植松氏のいう「アセビの仲間である野生種」は,正確には,「シャクナゲの野生種(Rhododendron occidentale」とすべきではないかと思われる.
注2)「」は「ヤギ」とすべきではないかと思われる.

一方,小野蘭山『本草綱目啓蒙(巻之三十二 木之三 灌木)』(1803-1806) に「又菜園ニ小長黒虫ヲ生ズルニ、コノ葉ノ煎汁ヲ冷シテ灌グトキハ虫ヲ殺ス。」とあるように,この毒性は各種の昆虫にも強く働くので,日本では,粉末および葉を煎じた煎汁を農用殺虫薬として,また,牛馬の皮ふ寄生虫防除に古くから用いられて来た.たとえば,アリマキ退治には,生葉に十倍量の水を加えて半量に煎じたのを,十倍ほどに薄めた液を使った.が,今日ではあまり使われていない.

中国の马醉木(梫木)Pieris polita W. W. SM. et J. F. JEFF. は,アセビに類似しているが,花序がたれ下らず直立し,穂状になる.中国でもアセビと同じようにこの木の葉を煎じて農用殺虫薬としている。

有毒成分としてジテルペノイドの asebotoxin-Ⅰ, -Ⅱ, -Ⅲ および grayanotoxin-Ⅲ が知られ,ほかに asebotin, aseboquercitrin, asebopurpurine, taraxerol などが葉から見出されている.

アセビ(3/5)下学集,多識編,花壇地錦抄,大和本草,和漢三才図会,薬品手引草,物品識名,本草綱目啓蒙

アセビ (5/5) ツンベルク 英国・米国の園芸種 属名の由来

2013年4月8日月曜日

アセビ(3/5)下学集,多識編,花壇地錦抄,大和本草,和漢三才図会,薬品手引草,物品識名,本草綱目啓蒙

Pieris japonica
アセビの園芸種,アケボノアセビ Pieris japonica f. rosea
江戸時代の本草書・辞典・百科辞書における「アセビ」に関する記述は以下のものが見つかった.『本草倭名』にも記載があるとの事だが(木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』柏書房 1991),残念ながら見つけられなかった.
内容的には,この木の葉を食べると,馬は死ぬ,或は酔うとか,鹿の角が落ちるとかの毒性の記述が多い.観賞用の花木としては,伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』に「花ハ青白ク黄色の様にてふぢのことくこさがりて見事成物」とあり,評価は高い.

漢名は「梫木」としているが,これは誤用で,アセビは日本特産.「梫木」は中国原産で類縁の Pieris polita W. W. Sm. et J. F. Jeff.
また,多くのアセビのブログで『枕草子』に「あせび」として載っているとしているが,これは下に示す『本草綱目啓蒙』の記述をそのまま引用したものらしく,調べた限りにおいては,『枕草子』にそのような記載はない.

courtesy to NDL, WUL & 中村学園
★東麓破衲編『下学集(下)』(1444)
馬酔木(アセホ)馬此ノ葉ヲ食シテ則死ス 故ニ馬酔木ト云フ 和歌有リ 取繫玉田横野放駒躑躅馬酔花發(トリツナゲ タマタノヨコノ ハナレコマ ツヽジアセホノ ハナヤサクラン)云云 (左図,右端)

★林羅山『多識編(巻之三)』(1612) (再版 1630,1631) 
梫木 拾遺(左図,右より二つ目)

★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄(三 冬木の分 ○笹のるひ)』(1695)
馬酔木(あせほ)(木春末) 葉ハしきミのちさきやうにて花ハ青白ク黄色の様にてふぢのことくこさがりて見事成物 馬此葉ヲ食スレハかならず死ゆへに馬酔木といふ 和歌にとりつなけ玉田の横野はなれ駒つゝしあせほの花やさくらん

★貝原益軒『大和本草(巻之十二 雑木)』 (1709)
馬酔木(アセホノキ) 葉ハ忍冬ノ葉ニ似タリ 又シキミノハニ似テ細也 味苦ク渋ル 春ノ末青白花開テ下ニサガル 少黄色ヲ帯フ 微毒アリ 馬此葉ヲクラヘハ死ス 西土ノ俗ハ此木ヲヨシミシバト云(上図,中央)

★寺島良安『和漢三才図会(巻第八十四 灌木類 』(1713頃)(右図)
馬酔木(あせぼのき) 阿世美 俗に阿世保という。
△思うに、馬酔(あせび)の木は山谷に生える。高いものは二、三丈、小さなものは一、二尺。みな枝葉はよく茂る。その葉は狭長でやや鋸歯で浅緑色。硬(こわ)くて枝椏(また)に群がり生える。
九、十月に花芽を出す。春に小さい白花を開き、房を作って子を結ぶ。子もまた房を作り、一子の中に細子が多くある。一年中凋まないので人家の庭砌(にわさき)にこれを植えて賞玩する。伝えによれば、馬がこの葉を食べると酔う。それでこういう名がある、という。
(夫木)取りつなげ玉田横野のはなれ駒つつじかけた(のし)にあぜみ花さく(さきけり) 俊頼
(現代語訳 島田・竹島・樋口,島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫)

★岡林清達・水谷豊文『物品識名(乾)』(1809 跋)
アセビ 馬酔木 梫木(上図,左端)

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(巻之三十二 木之三 灌木)』(1803-1806)
梫木 アシミ(万葉集) アセボ,馬酔木,アセミ、イハモチ,アセビ(枕草子*,土州),アセモ,アセブ,ヱセビ,ヨシミ,ヨシミシバ,ヨネバ,アシブ,ヒサゝキ,ドクシバ,カスクイ,ヲナザカモリ,ヲナダカモリ,テヤキシバ,アセボシバ,ヨセブ,ゴマヤキシ,シャリシャリ
山中ニ五六尺ノ小木多シ。年久シキ者ハ丈余二至ル。葉形細長ニシテ鋸歯アリ。柃(ヒサカキ)葉ニ似テ、薄ク硬シ。互生ス。冬凋マズ。春枝頂ニ花アリ。色白ク綟木(ネジキ)花ノ形ノ如シ。穂ノ長三寸許、多ク集リ垂。後小子ヲ生ズ。亦綟木子ノ如シ。モシ牛馬コノ葉ヲ食へバ酔ルガ如シ。故ニ馬酔木卜云。鹿コレヲ食へバ不時ニ角解ス。又菜園ニ小長黒虫ヲ生ズルニ、コノ葉ノ煎汁ヲ冷シテ灌グトキハ虫ヲ殺ス。

*この記述から枕草子にアセビが記載されているともされているが,『枕草子』原文を2つのソースで検索したが,「アセビ」「あせび」「あしび」「馬酔木」は見つからなかった.

★加地井高茂 [編]『薬品手引草(下)』(1843)
あせぼ 馬酔木(バスイボク) アセビ(上図,左より二つ目)



左図:「梫木」(アセボ)
幸野楳嶺『千種之花』(1891,多色木版).著者は明治期,日本画京都画壇の巨匠.全国に多くの門人を抱えた.此の画集は弟子達の手本として描かれた.

2013年4月1日月曜日

アセビ (2/5) 宮沢賢治, 堀辰雄「浄瑠璃寺の春」「十月」「辛夷の花」「死者の書」

Pieris japonica
撮影:20083月 奈良,浄瑠璃寺前
月あかりまひるの中に入り来るは 馬酔木の花のさけるなりけり
宮沢賢治 1921年(大正十年) 4月 奈良公園にて
アセビを最も愛した近代作家は堀辰雄1904年(明治37年)- 1953年(昭和28年).彼は昭和18年(1943年),『大和路・信濃路』と題した連作を『婦人公論』に掲載した.さらに,昭和213月には,その名もずばり『花あしび』を出版したが,それは,『大和路・信濃路』の中の「十月」・「古墳」・「浄瑠璃寺の春」・「死者の書」に,昭和19年発表の「樹下」を加えて一冊にしたものである.いかに彼がアセビを愛していたかが分かろう.

『大和路・信濃路』は,堀辰雄が室生犀星夫妻の媒酌で結婚した愛妻多恵(旧姓加藤)とともに,奈良・長野を旅した際の紀行であるが,そこには,万葉人の愛した馬酔木の花盛りを,万葉の地奈良で見た感激が叙情あふれる文で記されている.

2009年6月 奈良ホテル
 「十月
 一
 十月                        一九四一年十月十日、奈良ホテルにて

 くれがた奈良に著いた。
(中略)
(十月十一日)夕方、唐招提寺にて
 いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いてゐる。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「或門のくづれてゐるに馬酔木かな」といふ秋櫻子の句などを口ずさんでゐるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此虞に来てしまった。
(後略)

辛夷の花
「春の奈良へいって、馬酔木の花ざかりを見ようとおもつて、途中、木曾路をまはつてきたら、おもひがけず吹雪に遭ひました。……」
僕は木曾の宿屋で貰った繪はがきにそんなことを書きながら、汽車の窓から猛烈に雪のふつてゐる木曾の谷々へたえず目をやってゐた。
(後略)

浄瑠璃寺の春
この春、僕はまえから一種の憧れをもってゐた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいやうな旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸つとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたはらに、ちょうどいまをさかりと咲いてゐた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
(中略)
2008年3月 浄瑠璃寺
九体阿弥陀堂
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はひりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いてゐる。」と僕はその門のかたはらに、丁度その門と殆ど同じくらゐの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしてゐるのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意さうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見てゐたが、しまひには、なんといふこともなしに、そのふつさりと垂れた一と塊りを掌のうへに載せたりしてみてゐた。
どこか犯しがたい気品がある、それでゐて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいやうな、いぢらしい風情をした花だ。云はば、この花のそんなところが、花といふものが今よりかずつと意味ぶかかった萬葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもつと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられてゐたのだ。―そんなことを自分の傍でもつてさつきからいかにも無心さうに妻のしだしてゐる手まさぐりから僕はふいと、思ひ出してゐた。
(中略) 
2008年3月東大寺
その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰つてきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとづれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせつかく此處まで来てゐるのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いてゐるほうへはうへと歩いて往つてみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるやうな氣のするほどだった。だが、もうすつかり疲れ切ってゐた僕たちはそれにもだんだん刺激が感ぜられないやうになりだしてゐた。さうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんといふこともなしにかうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさへ、すこしももう考へようともしなくなってゐるほど、―少くとも、僕の心は疲れた身體とともにぼおっとしてしまってゐた。
突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない?ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びてゐたわ。……」「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやってゐたが、「さういへば、すこうし……」
さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしてゐる心のうちに、けふの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。
(了)

☆彼のアセビに寄せる感慨「何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。」が,万葉人が,馬酔木を人を偲ぶよすがとした花とよく似ている事に,アセビの魔力を感じる.

死者の書
古都における、初夏の夕ぐれの封話
(中略)
主 しかし、君はもう大抵大和路は歩きつくしたらうね。
客 割合に歩いたほうだらうが、ときどきこんなところでと、― 本當に思ひがけないやうな風景が急に目のまへにひらけ出すことがある。
この春も春日野の馬酔木の花ざかりをみて美しいものだとおもつたが、それから二三日後、室生川の崖のうへにそれと同じ花が眞つ白にさきみだれてゐるのをおやと思って見上げて、このほうがよつぽど美しい気がしだした。大来皇女の挽歌にある「石のうへに生ふる馬酔木を手折らめど……」の馬酔木はこれでなくてはとおもった。さういふ思ひがけない発見がときどきあるね。まあ、そんなものだけをあてにして、できるだけこれからも歩いてみるよ。― だが、まだなかなか信濃の高原などを歩いてゐて、道ばたに倒れかかつてゐる首のもぎとれた馬頭観音などをさりげなく見やって、心にもとめずに過ぎてゆく、といつたやうな気軽さにはいかない。
(後略)

アセビ (1/5) 万葉集・源俊頼・藤原信実・伊藤左千夫・子規

アセビ(3/5)下学集,多識編,花壇地錦抄,大和本草,和漢三才図会,薬品手引草,物品識名,本草綱目啓蒙