2016年6月13日月曜日

マツバボタン-1 日本への渡来.天保度後蠻舶来草木銘書,植物渡来考,遠西舶上画譜,新渡花葉図譜,モース "Japan, Day by Day"

Portulaca grandiflora
2015年7月31日
原産地はブラジル及びその付近で,今では世界中で栽培され,帰化もしているが,歐州に紹介されたのは比較的遅い.1827年に,熱帯アメリカの植物を研究していたスコットランド人の船医 John Gillies, M.D. (1792–1834 によってブラジルの軽砂質地で発見され,英国王立キュー植物園に送られた.これを基に,1829年イギリスの植物学者 W. J. Hooker がカーチスの “Botanical Magazine” に記載し,現在も有効な学名を発表した(Blog-3).

現地ブラジルでは,11時の花 “Onze-horas”と呼ばれるが,それはこの花が早朝に開くが十一時に閉じるからである.雄しべに昆虫などが触れると刺激物に向かって曲がる.多肉質の葉が夕方から茎に沿って上向する一種の就眠運動をするなど,特異な草花として知られている(湯浅浩史『花の履歴書・マツバボタン講談社学術文庫 (1995)).

日本でも真夏の花として明治以降親しまれ,明治の時代小説家で,園芸家としても知られる前田曙山(1872 - 1941)は『園芸文庫』第2巻(1903)で,「マツバボタンは余りよく繁殖するので,卑俗の花とされるが,花は美しく,不遇だ」と述べ,また渡来当初は珍しく,西国のある大名が数十鉢を庭前に並べて展示,その鉢を守衛がうっかり倒したのでお手討ちになりかけた話を紹介している.また曙山は寛文年間(166173)にオランダより渡来したといわれているとしたが(追補-1),これは疑問で,幕末ころに米国か歐州から渡来し,その後花戸経由で各地に広がったものと思われる.

★群芳軒*花形簿』に収載されている『安政六年未三月東山邨 群芳軒所持 天保度後蠻舶来草木銘書』(1859)に「「一 ホルデユラカガランデフール スベリヒ(ユ)一種櫻咲本紅黄紫三種アリ」と書かれていて(左図.NDL),これを,白井光太郎は『植物渡来考』岡書院(1929)のなかでマツバボタンであるとしている(右図,NDL).

*群芳軒:調査中

一方,★伊藤圭介(1803 -1901)編著『植物図説雑纂・153冊)』には「マツバボタン、万延元年アメリカより、文久二年フランスより渡来」とあり,万延元年(1860)の渡米使節,文久2年(1862)の遣欧使節が持ち帰ったとしているマツバボタン-1 追補-2

★馬場大助*17851868)『遠西舶上画譜・第二巻』紙本着色 / 江戸時代・安政2年(1855)写 には,「亜米利加産/ホルーチカ
葉ハ佛甲艸*ニ似テ莖紫色 六月花ヲ開ク 五辧櫻花ノ形ニ似テ円ク花色ハ紅白朱紅滲紅薄黄?黄蒲橙モノ花○ヲ開ク 此草○天ヲ好ミ枝ヲ切○ハ忽チ根ヲ生ス」*オノマンネングサ,〇は読みとれない文字)とあり,花色は様々で,挿し芽で繁殖が容易であるとしている(左図,国立東京博物館).

*江戸後期の旗本,本草家.江戸生まれ.名は克昌,仲達,字は利光,通称は大助,号は資生圃.父は日光奉行馬場讃岐守尚之.文化91812)年家督を相続.美濃国釜戸(瑞浪市)などに所領2000石.西之丸目付のち西之丸留守居.本草を設楽貞丈に絵画を増島雪斎に学ぶ.天保81837)年幕命により関八州,伊豆を巡察.富山藩主前田利保が江戸で主宰した本草同好会赭鞭会の有力会員で,麻布飯倉の自邸内に多数の舶来植物を植え,それらを写生して『舶上花譜』をつくった.

★渡辺又日菴*(17921871)『新渡花葉図譜・乾』には,
ホルヒヱス
文久2年、大坂花戸ヨリ尾張ニ来
新舶來
一名 ホルテユラカガランテワルール トモ云由
小草ニシテ中輪.紫花.黄花.黄紅花四月頃ナリ
秋九月迄花アリ一日花也
白○色アリ実ヲ蒔チ色々ヲ生ス 又サシ木シテ活
馬歯莧菜ノ一種也」とあり,早くも1862年には,多くの花色の本品が大阪から名古屋に来ていた.また,スベリヒユの仲間と認識し,雌蕊と多数の雄蕊からなる花の拡大図が示されている(右上図,NDL).

『新渡花葉図譜 乾・坤』は尾張の渡辺又日菴(渡辺規綱*)が,乾(天保末年 (1844) から元治元年(1864)),坤(元治元年から明治初年(1868))まで,新たに渡来した植物の図を描き続けた画集.ここに図示したのは大正3年(1914)に伊藤圭介の孫伊藤篤太郎が母の小春(圭介の五女で,画才があった)に転写してもらった写本からの図である.

*渡辺又日菴, 実名:規綱(1792-1871) 江戸後期-明治時代の武士,茶人,三河奥殿(おくどの)藩主松平乗友の次男として生まれ,尾張名古屋藩重臣渡辺綱光の養子となり,文化14年家老となるが,翌年辞任し文政228歳で隠居・剃髪して兵庫入道と称し,茶道,作陶(宗玄焼)をたのしむ.本草学にも通じ,「本草図譜」などを著わした.

Japan, Day By Day. Vol.1
口絵
その後,花色の多さ・鮮やかさ,花期の長さ,強健さ,繁殖のしやすさなどが幸いして,日照が続いて花の少ない夏を華麗に彩る草花として日本各地に広がった.


大森貝塚を発見した帝国大学の初代動物学教授モースMorse, Edward Sylvester 1838-1925)の★Japan, Day By Day. Vol.1“ (1917) には,彼が 1877 7 月に日光を訪れた帰りに江戸に入って,人力車上から見た風景として “These people lead the gardeners of the world in the way they make the trees behave. The beds of flowers we passed in going through the country were beautiful, particularly the hollyhocks, and the dazzling masses of portulacas, and the blue hydrangeas with big clusters of blossoms. (私訳「このように樹木にいう事を聞かせる点では日本人は世界の庭師の第一人者である.この地方を旅行していて目についた花壇,特にタチアオイ,マツバボタンの眩い程の群落,大きな花のかたまりの青いアジサイは美しかった.」)とあり,渡来後 20 年を経ずして,マツバボタンが広く普及して道ばたにまで咲いていた事がわかる.
マツバボタン-2  別名,地方名.牧野植物図鑑・図説草木名彙辞典・日本植物方言集成 日照,爪,不滅
マツバボタン-1 追補-1 前田曙山『園芸文庫』 渡来時期,逸話
マツバボタン-1 追補-2 伊藤圭介『植物図説雑纂』,万延元年遣米使節 成瀬正典が導入か,モース “Japan Day By Day. Vol. 1“

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