2011年7月2日土曜日

ジャガイモ(4/6) Potato Famine, ジャガイモ飢饉

Solanum tuberosum一方英国でも,potatoに対する正しい認識は年と共に深まり,1633年にはロンドン王立協会がこれに注目して,飢餓に備えてその栽培を奨励した.Ralegh が先鞭をつけたアイルランドでの栽培は,ようやく17世紀末ごろから盛んとなったが,18世紀に入ってからも,R Bradley : Historia Plantarum Succulentarum(1716)には‘inferior to skirrets (carrots) and radishes’ と見えている.1725年にはスコットランドへも伝えられた.が,最初はやはり偏見に災いされて,聖書に見えない不浄の植物として1728年には法によって禁止され,その法が解かれたのはようやく1760年のことであった.イングランドでも,庶民の野菜としてようやく普及したのは18世紀中ごろからで,White : Selborne(1789)には次のように見えている.-
They have prevailed by means of premiums within these twenty years only, and are much esteemed here now by the poor,Who would scarcely have ventured totaste them in the last reign.-‘To Barrington,XXXVII.
(ジャガイモの栽培が奨励金つきで盛んになったのはようやくここ20年のことで,前王のみ代には食べてみようともしなかった当地の貧民たちが,今ではとても重宝しています.)

特に小麦の栽培が安定しなかったアイルランドでは,貧しい小作農民達の主食として広く普及したが,一つの品種に依存しすぎたため,1845 年には大病害が発生し,翌年にはそれがアイルランド全域にひろがって,イングランドも含めて 100 万人もの餓死者を生んだ.特にアイルランドでは,地主達の殆どがイングランドに在住していた不在地主だったため,自らの地代収入を心配するあまりアイルランドからの食料輸出禁止に反対するなどして,餓死者が出ているにもかかわらず,食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた.

最終的には,アイルランドの人口の少なくとも 20% が餓死および病死,10% から 20% が国外へ脱出した.また,これにより婚姻や出産が激減し,最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだ.
さらにアイルランド語話者の激減を始め,民族文化も壊滅的な打撃を受けた.ジャガイモ飢饉(Potato Famine)として有名なこの飢饉は後代にまで大きな影響を及ぼし,米国へ多数の移民をもたらすとともに,現在まで続く北アイルランド紛争の遠因ともなった.

1997年に英国のトニー・ブレア首相は,アイルランドで開催されていた飢饉の追悼集会において,1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め,謝罪の手紙を読み上げた.

なお,原因はジャガイモ疫病菌 Phytophthora infestans と判明し, 1885年にワインの産地であるフランスのボルドー大学の教授だったミヤルデ(ミラードとも Pierre-Marie-Alexis Millardet)によって発明されたボルドー液でようやく救われた.

ジャガイモ(5/6) Burbank, J. F. ケネディー, マリリン・モンロー

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