2016年10月6日木曜日

ヒマワリ (11) 歐州最初の観察記録,Cortuso in Mattioli “De i discorsi di m. Pietro Andrea Matthioli - - -“, “Pianta Massìma” .太陽の運動に伴って向きを変える.初めて茎と花を食べてみた. サクラソウモドキ

Helianthus annuus
1991年 8 月
欧州で最初に咲いたヒマワリは,マドリードの王立植物園で,南米から送られてきた種から育てられた個体とされているが,その成長を植物学者として観察し記録に残したのは,イタリアのパドヴァ植物園のコルツッソIacom Antonio Cortuso or Giacomo Antonio Cortusi, Cartusi, 1513 - 1603)であり,彼がイタリアの植物学者ピエトロ・アンドレア・マッティオリPietro Andrea Mattioli or Mattiolus, 1501 - 1577)に送った手紙で,マッティオリの『ディオスコリデス注釈De i discorsi di m. Pietro Andrea Matthioli Sanese, ... nelli sei libri di Pedacio Dioscoride Anazarbeo ---)』の1573年版に収載されている(1568年版にあるとの情報もあるが,確認できず).
この中で,コルツッソは,初めてこの植物 "Pianta Massìma" の若い茎が太陽に向かって向きを変えることを記録に残した.それまでは,ヒマワリの花が東に向かって咲いている事は欧州でも知られていて,その一般名のいくつかはこの現象に由来していたが,動くことは認識されていなかったようである.

マッティオリ『ディオスコリデス注釈』 1585年版 BHL/IA
この手紙は,マッティオリの『ディオスコリデス注釈』の1585年版にも収載されているので,上図に示す.

なお,ヒマワリの性状についての重要な情報は,図がある 5 ページ目に記述されているので,その記述部分を色別で示し,概訳を同じ色で示した(訳に自信なし).

その手紙で,コルツッソは,「実際の “Pianta Massìma (Maximum plant)” を写生した圖をつける.
クルシウスから貰った種を
暖かい時期に播いた所,目を見張る速度で育ち,6ケ月で 120 パルミ*(di cento & vinti palmi, 3.5 – 4.0 メートル)に達した
幹の天辺に大きな花を一つつけ,その花はモミの木の樹脂のような匂いがする.
(花は若いうちは)朝には日の出る方に向いていて,太陽の運動と共にその向きを自発的に変える運動を,実ができるまで毎日繰り返す.
また,若い茎や花?を油と塩で調理すると,その味は,アーティチョークやアスパラガスに優るとも劣らない.この植物を食べる試みをしたのは,私が初めてであろう.」と言っている様だ(要確認).
*palmi: 15-16世紀イタリアの長さの単位で,掌由来,地方によって異なり,1 palmo (palmi の単数形)は,Naple で 26.45 cm,Florensで 29.15 cm,Venice で 37.74 cmとされている.

コルツッソが記録したヒマワリの花の首振り運動についての興味深い深い報告が,最近発表された.米カリフォルニア大(University of California - Davis)の研究チームが, 2016年8月5日付の米科学誌サイエンスに掲載した論文で,「ヒマワリ (4/4)  キルヒャーのヒマワリ時計 向日性,何故東を向くか? 体内時計の関与」にその概要を記した.

コルツッソは当時の多くの植物学者達と交流していたが,中でもマッティオリとは親交があり,マッティオリの『ディオスコリデス注釈』の1565年版には,前文には 6 箇所,本文中では 30 箇所のコルツッソへの言及があり,また,コルツッソがアルプスで採集し,マッティオリに提供したサクラソウ科の珍しい植物に,コルツッソの名前を付けた(1565 年版『ディオスコリデス注釈』 p986,下図1).

Cortusa matthioli  1. Mattioli,   2. Clusius,   3. Gerard,   4. Curtis's Botanical Magazine, vol. 25 t. 987 (1807)  (BHL)
その後,この植物はクルシウスによって,二人の名を連ねた“Cortusa matthioli”と命名され(Clusius, C., Rariorum plantarum historia, vol. 1, fasicle 3, p. 307, fig. 1 (1601),上図2),広く知られることとなった.本ブロクでも度々言及している16世紀の英国の本草家ジェラルド(John Gerard aka John Gerarde, 1545 1611 or 1612)の“The herbal, or, General Historie of plantes 『本草あるいは一般の植物誌』”(1597) p 645” Bears Ear” の項においても,その図には “Sanicula Alpina Clusii, siue Cortusa Matthioli. Beares eare Sanicle.” と記されている(上図3).

Species Plantraum (1753) BHL
この名称はリンネに引き継がれ,『植物の種 “Species Plantraum” (1753)』に,
CORTUSA.
matthioli.
1. Cortusa calycibus corolla brevioribus.
Cortusa foliis cordatis petiolatis. Hort. cliff. 50. Roy. lugdb. 414.
Cortusa matthioli. Clus. hist. 1. p. 307.
Sanicula montana latifolia laciniata. Bauh. pin. 243.
Habitat in alpibus Austriæ, Sibiriæ.
と,属名と種小名として記載され,現在でも有効な学名として,二人の交友が記念されている.

2016年9月24日土曜日

ヒマワリ (10) 歐州 17 世紀の塗り絵,Crispijn de Passe 『花の園』,江戸時代の絵手本,橘保国『絵本野山草』,河村琦鳳画『琦鳳画譜』

Helianthus annuus  CHRYSANTH: PERVVIANVM MAIVS ET MINVS
Crispijn de Passe 『花の園 “Hortus floridus”』 (1614) (Biblioteca Digital del Real Jardin Botanico de Madrid)
ヒマワリが歐州に渡来してしばらくは,物珍しさと花の豪華さ,草丈の高さで大きな人気を博した.多くの植物図譜に描かれたが,初期の銅版植物画集として名高いクリスピン・ド・パスCrispijn de Passe, 1590-)の『花の園 “Hortus floridus”(1614) にも二種のヒマワリが描かれている.この図集は植物図譜,兼,塗り絵・絵手本として作成されていたようで,線画の図には植物の説明と共に,植物のそれぞれの部位に塗る絵具の色を細かく指定している.
日本でも画家の絵手本として,橘保国絵本野山草』及び河村琦鳳琦鳳画譜』に収載されている所を見ると,実際には見ることがなくても描く画家の需要があったのかと思われる.

クリスピン・ド・パス(クリスペイン・ファンド・パス,またはクリスピヌス・パセウス)は,オランダの有名な彫版師の家系の出身であり,たぶん1590年ごろケルンで生まれた.いずれにせよ,1614年,すべてをビユランで彫版した二百点以上の図が入った長方形クォート判の『花の園』が出版された時点ではまだ非常に若かった.というのはこの著作はクリスビンの「最初の成果」と評されており,クリスピンはその後五十年以上は生存していた.一六一七年に,それまで五年間生活していたユトレヒトを去り,パリに赴いて,父親の彫版工房の代表者として定住した.パリでクリスピンは,王宮の小姓や上流階級子弟の教育のための「マネージュ・ロワイヤル」の絵画の指導教授に任名された.その後の十二年間に多数の書物のために図版を彫ったが,もっとも重要な作品はA・ド・プリユヴィナルの騎士たちに乗馬の手法を教える『マネージュ・ロワイヤル』(Manegie Royal, 1623年)の挿図である.晩年は,オランダで家族とともに過ごし,ほとんどまとまった仕事はしなかった.そして,どうやら,発狂して死んだらしい.1)

この書の主要部は四章に分けられていて四季に対応している.図に添えられている短い説明文は,初版はラテン語であったが,フランス語,オランダ語,そして英語の説明文をもつ版が直ちに現れた.

その秋の部には,大小二種のヒマワリが描かれている(冒頭図).

“CHRYSANTH: PERVVIANVM MAIVS ET MINVS,(大・小二種のペルーから来たキク)の表題のもと,
「ヒマワリ “Chrysanthemum Peruvianum (ペルーの菊)” は巨大な一年草で,非常に背の高い茎を持っているので,イタリアでは pianta massima (最大の植物)” と呼ばれる.ペルーやアメリカの地方で見出され,そこからもたらされた.マドリードの王立植物園に播種された時には,24フィートの高さに成長した.またイタリアのパドアでは40フィートに達したと記録されている.しかし,我々の住む地方(In nostris a Provintiis,北海沿岸低地帯(the Low Countries))では,背の高い人の背を越すことは稀であり,冬になるまで秋を生き延び,寒気の厳しさに順化されたとしても,完全に成熟した花をつける事はない.これは腕の太さの直立した幹を伸ばす.葉は非常に広く縁には鋸歯がある.


左:Chrysanthemum segetum.Svensk botanik vol. 7: t. 496 (1812)
(from Plant Illustrations), 右:着色圖
花の形はある程度 Chrysanthemo vulgari (corn marigold)*” の花に似ているが,すっと大きく素晴らしい豪華さを授かっている.中心部の花盤または円形部の直径は1フィートを2から3インチ越え,独立した花辧でぐるりと囲まれている.この花弁は,Lilij purprei maioris**, (greater purple lily)”  のそれに似ているがもっと大きく,黄金色をしている.最終的には,これらの花辧は散って,縦長の平べったい種が中央の黄色い円形部に残る.でこぼこした鬚根はあまり発達していない.この花は太陽に向かって自ら向きを変えるといわれている.あまり不快ではない匂いを発する.
小型ヒマワリ Minus Chrysanthemum Per 7から8フィートに達することは稀である.幹からは枝を出し,その枝には時々花をつける.」(私訳)の説明文がある.

Lilium purpureum maius
(L) Dodoens "Stirpium historiae pemptade" (1583)
(R) Besler "Hortus Eystettensis"(1620)
* Chrysanthemo vulgari (corn marigold): Glebionis segetum, アラゲシュンギク

** Lilij purpurei maioris, (greater purple lily):ドドネウスのヒマワリの記述文でも花弁の形の基準とされている.
ドドネウスの「ペンターデス植物誌」の p 198-199 “LILIUM purpureum majus. minus” の項と図もあり,欧州原産の花径が4-6㌢の小型のユリ,Lilium bulbiferum (Orange lily) と思われる(左図.左).記述文には花色について,"colore vero rubro ad croceum inclinante multis exiguis nigris quasi punctulis, literarum quarundam veluti rudimentis, respersi:(色は赤から黄色で,まるで初学者が文字をいい加減に書いたような黒い斑点がある(私訳)"とある.
このユリの花色がオレンジ色なのに,LILIUM purpureum (紫百合)と呼ばれているのは,ローマ時代からの伝統で,”Pliny has quite a long section (IX, 124-141) dealing with purpura. It is plain from this that the colour referred to was usually a deep red tinged with more or less blue, our " purple " in fact, the most esteemed variety being like clotted blood.” Loeb PLINY: NATURAL HISTORY, BOOK XXIV. RACKHAM (1945))とあるように,「purple, 紫」は広いスペクトルを持っていて,この花の色はその範疇に入っていたから,古くからこのような名で呼ばれていたのであろう(上図右:Besler "Hortus Eystettensis"(1620)).

“CONTENANT LA DESCRIPTION DES COVLLEVRS DES FLEVRS. DE L’AVTOMNE” で,「ヒマワリ(the mary golde of some and the lesser marigolde of peru)」には,読者には次のような塗る色の指示がある.「ぐるりと出ている舌状花(リーブス)は,にごりのない鮮黄色(マスティコット)で,もし鮮黄色が強烈でなければラック赤を少し添えて調節しなければならない.そして光沢感を出して,くすんだ黄色で陰影をつける.その内側の部分は漿果類(ベリー)にみられる黄色でなければならず,その部分で突き出ている頂点の星々〔筒状花〕は舌状花と同じ色になるよう配慮されねばならず,さらに内側の褐色環はこの花のすべての色彩のうちではもっとも沈んだ色合いである.黄色の舌状花の背後の総苞(リーブス)はきわめて明瞭に表現せねばならない.というのはそれらは緑色だからである.これらの総苞(リーブス)と軸枝の部分は黒ずんだ黄色および灰色で陰影をつけねばならぬ.そして白色や鮮黄色を上にぬらなければならない.」(英訳本からの和訳)1) と非常に細かい.
この指示に従って色が塗られた図と思われる絵を示す.
1)    ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房 (1986) の記事(一部改変あり)

日本でも江戸時代に絵師のための手本として刊行された書籍に,ヒマワリは収載されている.

★橘保国『絵(画)本野山草』(1755)には「「丈菊」日向葵(ひうかあをひ)といふは、長(たけ)七八尺、花の大さ七八寸、色黄にして春菊に似たり。かたち、岩畳(がんでう)に見えて柔なり。此はな、朝は東に向ひ、日中には南に回り、夕陽の比(ころ)は西にむかひ、大陽を追ふ。よって、日草とも名つく。合歓木(ねふりのき)は夕に葉をたゝみ、朝に開く。其外、朝に開き、夕に葩(はなひら)を抱(かかゆる)花多し。丈菊ひとり、大陽にむかひ回る。東坡(とうば)の詩に、李陵衛、律陰山二死ス。葵花ノ大陽ヲ識ルニ似ズ、と云にひとし。七八月花。」とある(左図).
左:シュンギク, 右:画本野山草 高麗菊(春菊)
しかし図では多くの枝を打ち,花弁の先が丸く,むしろ現在メキシコヒマワリと呼ばれる近縁種に似ている.また,他の図には時々ある花弁や茎葉の色の指定はない
ただ,橘保国の記述や絵には間違いがあることが知られている.また「本書は全163項目から成るが,うち半数の82項が菊池成胤★『草木弄葩抄』(1735) の記文の全部あるいは一部の転写である(磯野直秀).」しかし,『草木弄葩抄』には「丈菊(日車)」の項は見出せなかった.

もう一つ,ヒマワリが描かれた絵手本本は,★河村琦鳳(1778-1852)画の『琦鳳画譜(一雲道人序 吉田新兵衛板1824〉で,何度か版を重ねたこの書で,植物のみを描いた図譜は,全三〇図譜の内,このヒマワリ図だけで,他は植物と動物,働く職人,龍や虎,神話上の人物などである.この図は P Hulton & L Smith ”Flowers in Art -From East and West”, British Museum Publications Ltd. (1979) モノクロながら British Museum 所蔵の,注目すべき日本のボタニカル・アートの一つとして掲げられている(p 104).

2016年9月19日月曜日

ヒマワリ (9) 歐州最初の図版 ドドネウス"Florum et coronariarum odoratarumque nonnullarum herbarum historia" 1568

Helianthus annuus
2001年8月
Dodoens, 1553 trium priorum
de stirpium historia (BHL)
欧州で出版された書で,最初にヒマワリの図が掲載されたのは,『本草書 Cruijdeboeck』でよく知られているフランドルの本草家,ドドネウスRembert Dodoens (1517 – 1585))の Florum et coronariarum odoratarumque nonnullarum herbarum historia, (Antwerp, 1568)” とされている(例えば,F. Egmond ”The World of Carolus Clusius, Natural History in the Making, 1550-1610” (2010),但しこの書では,該書の出版年を1569 年としているが).

彼はこの書を当時フランドルを統治していたスペイン王室にフランドルの法律顧問として仕えていた,縁戚の Ioachim Hopperus (Joachim Hoppers 1523-1576) に献呈した.Hopperus は任地マドリードから,園芸愛好家の妻,Christine Bertolf (? – 1578以降) に,当時西スペインと呼ばれていたアメリカ大陸から渡来した植物を育てていた庭園で得た種子や情報を送っていた.
Christine からの情報や種子はフランドルのみならず,欧州の本草家や園芸愛好家間のネットワークを通じて広く行き渡った(上記文献).その一つがヒマワリの種子と図である.

ドドネウスの  ”Florum et coronariarum - - “ (1568) のp290 には,” AD LECTOREM EPILOGVS. (EPILOGUE TO THE READER)” の章があり,そこには,「この書を改訂するにあたって,二つの重要な植物の画像を入れる事とした.
Chrysanthemum from Peru Asphodelus palustris である.
尊敬すべきChristine Bertolf Chrysanthemum from Peru に我々の注意をうながした.この画像はスペインより,王のオランダの法律に関する顧問である彼女の夫のヨアヒム・ホッパースから彼女に送られてきた.」(私訳)と,Christine から得られたヒマワリの絵を(木版に起こして)挿入することが記されている.
Florvm, et coronariarvm ・・・(1568)  (BHL)
更に p. 294-295 には,
Chrysanthemum from Peru は驚くほど背の高い植物で,目を見張るほど大きな花をつける.この植物はペルーや他のアメリカの各地で見ることができる.マドリードの王立植物園で育てられたものは,24 フィートの高さに達し,太い幹は直立し,キク(Chrysanthemum)のに似ているがはるかに大きな葉をつけた.
花の直径は 1 フィートより大きく,重さは 2 3 オンスより重い.花の周りには紫のユリに似ているがそれより大きな花弁(舌状花)がついていて,黄金色である.人々は(この花盤の周りの黄金色の舌状花が)太陽の輝きに似ているので,Indian sun [nebloem] と呼ぶ.
我々はこの植物を J. Braicion* 氏の庭で見ることができたが,そこでは高さ 10 12 フィートにしか達しておらず,葉はやや下を向いて垂れさがり,スペインのそれより大分小さかった.冬が近かったので,成長がよくなかったのであろう.
実際イタリアのパドヴァでは,この植物はスペインのより大きく,40 フィートの高さまで達した.もっとも経験に富み,学識豊かなパドヴァ在住の Antonio Cortusi** 氏によれば成熟した花に花粉は着かないとの事であった.氏の薬草園は非常に手入れが行き届いている事が知られているので,この植物も適切な世話をされていると考えられる.
彼(Cortusi氏)は,若い葉柄は毛を除いた後で,塩と油を加え,グリルでローストするとおいしく食べられることが経験上分かっている.またその花盤はアーティチョークと同様に賞味でき,味はアーティチョークに優るとも劣らない.更に性欲を刺激する効果もあると書いている.」
(私抄訳:羅→蘭***→英****→和)との記述と共に,Christine から得られたスペインで咲いた立派なヒマワリの図が掲げられている.

* J. BraicionJean de Brancion (circa 1520-1575) はハプスブルク家に出入りしていた法服貴族(Noblesse de robe)で,1550 年代にはメヘレン(現在はベルギーのアントウェルペン州の都市.フランス語名ではマリーヌと呼ばれる)に立派な庭園を持ち,異国の植物を育てていた.
** Antonio CortusiGiacomo Antonio Cortuso (15131603).イタリア,ボローニャで私的な薬草園を造り,その後ボローニャ大学の植物園の園長も務め,欧州有数な植物園に拡充した.1568年には種から育てたヒマワリにイタリアで最初の花を咲かせ,その成長の観察し,太陽を追う運動する事をマッティオラに報告した(後の記事).また,この園ではジャガイモやセイヨウトチノキもイタリアで最初に育てた.
***羅→蘭:based on 1569 edition ” Christine Bertolf en Dodonaeus Netwerken in de zestiende eeuw 24 januari 2015
****蘭→英:Google 翻訳

ドドネウスの上記著書の第二版 Florum et coronariarum - - , Altera editio “  (1569) に於いても,p304-309 に第一版と同一の文章と図が載せられている.

しかし,ドドネウスの本草書の集大成ともいうべき ペンターデス植物記 Stirpium historiae pemptades sex, sive libri XXX.”(1583) p 264 “CAP. XXII, De Chrysanthemo Peruuianoの章では,Ioachim Hopperus, Christine Bertolf, Braicion, Cortusi 等の個人名は記載されず,性状の記述が主となっている.新たに,小型の枝分かれする種があること,ドイツで栽培すると大きくならないことが加えられ,更にプリニウス博物誌二十一巻の bellioが参照されているが(記事後部),ヒマワリがこれとして良いかは疑問としている.更に食すると「催淫効果」があるとした部分は,やわらげられ「強壮効果」とされている.

この記述は同書の 1616 年版にも引き継がれた.また,ドドネウスの死後,1644 年に出版された『本草書 Cruijdeboeck』の最終版においても,この図版が使用されているが,記述文が古オランダ語であるため,その内容が『ペンターデス植物記』と同様であるか否かは確認できなかったが,少なくとも個人名は記載されていない.

ドドネウスの本草書のヒマワリの挿図を年代順に左から右に並べるが,見る通り全て同一で,Christine Bertolf から貰った圖を使い回しをしている.
From left to right 1568 ”Florvm et coronariarvm” p295, 1569 ”Florum et coronarium” p307,
1583 ”Stirpium historiae pemptade” p264, 1616 ”Stirpium historiae pemptade" p264, 1644 "Cruydt boeck" p421 (BHL)
“PLINY: NATURAL HISTORY”, BOOK XXI
“at, Hercules, petellio ipsa nomen inposuit, autumnali circaque vepres nascenti. ei tantum color est commendatus, qui est rosae silvestris, folia parva, quina; mirumque in eo flore inflecti cacumen et e nodis intorta folia nasci parvolo calice ac versicolori luteum semen includentia. luteo et bellio, pastillicantibus quinquagenis quinis barbulis. coronant pratenses hi flore; at sine usu plerique et ideo sine nominibus, quin et his ipsis alia alii vocabula inponunt.”

English translation by H. Rackham,  (1945)
“But—by heaven!—Italy herself has given (petellium.) the petellnium its name, an autumn flower growing near brambles and esteemed only for its colour, which is that of the wild rose. It has five small petals. A wonderful thing about this flower is that the head bends over, and from the joints grow a curved petals inclosing yellow seed forming a small corolla of several colours. The bellio too is yellow, with fifty-five lozenge-shaped little beards. These meadow flowers are used for chaplets, but most of such flowers are of no use and therefore without names. c Nay, these very flowers are differently named by different people.”

和訳:大槻真一郎編『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』八坂書房 (1994)
「二五 ペテリウム、ベリオ
49 しかし神にかけて、ペテリウム(未詳)にはイタリア自身が名を与えた。これは秋の花であり、イバラのしげみの辺りに生育し、花の色のためだけに重んじられた。その色は野生のバラの色である。小さな花弁が五枚あるが、この花の不思議なことは、先端のところが内側に曲り、節のところから花弁がまくれて生えていることで、とても小さい色とりどりの杯をなして、黄色の種子(ここでは雄しべのこと) を囲んでいる。
べリオ(未詳の牧場植物)も黄色で、ぶつぶつした五五本のひげがある。この花は草原に生え、花冠にする。ところで、きわめて多くの花は役立てられることもなく、それゆえに名前もない。だがむしろ、こうした花々こそ、人それぞれがつけたいろんな呼び名をもっているものである。」


2016年9月13日火曜日

ヒマワリ(8) 欧州最初期の記述.ニコラス・モナルデス.ジョン・フランプトン,フランシスコ・エルナンデス.食料・催淫作用

Helianthus annuus
2001年7月 Helianthus annuus cv. Sun rich lemon 
原産地は北西アメリカ.中央アメリカで栽培品種化され広がったと考えられ,紀元前からアメリカ大陸では食用作物として重要な位置を占めていた.ペルーでは黄色い花と形から太陽神の象徴として大事にされ,古いインカの神殿には彫刻がよく見られ,司祭や太陽神につかえる尼僧が金細工のヒマワリを身につけていた.この花を初めて見た西欧人は1532年にペルーへ進攻したFrancisco Pizarroで,スペインの進駐兵はインカの尼僧が胸につけていた黄金製の大きなブローチを貴重な戦利品とした.ペルーに多いので marigold of Peru とも呼ばれたこの花は,16世紀はじめに種が持ち帰られ,ダリアやコスモスなど,新世界の植物が最初にそだてられたことで知られるマドリード植物園で栽培が始まった.
エルナンデスの書にあるよう,米大陸では,食用・藥用としても用いられていたが,欧州ではもっぱら花の巨大さ・豪華さが注目を集めた.

1569年にスペインのニコラス・モナルデスNicolas Monardes, 1493 - 1588)がアメリカ大陸の植物に関する最初の本★“Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales (我が西インドより渡来した物の薬物誌)” を出版したが,その中にヒマワリ(LlBER TERTIVS. 21DE HERBA SOLIS)が出てくる.(下図,左端:表紙,右端上部:本文).これが歐州最初のヒマワリの記述とされている.

その後,この書をジョン・フランプトンJohn Frampton, 16世紀後半に活躍した翻訳家)が 1577年に英語に翻訳して★Joyfullnewes out of the New-found Worlde, Amerikaanse planten en medicijnen.(新発見の世界からきた楽しい知らせ-アメリカの植物と薬物)” という題で出版した(下図,中央部:1596年版の表紙,右端下部:本文).

フランプトンは原著の「太陽草 "Hearbe of the Sunne”」の章を
“Of the hearbe of the Sunne.
This is a notable hearbe, and although that nowe they sent mee the seede of it, yet a few yeeres paste we had the hearbe here. It is a strange flower, for it casteth out the greatest Blossomes and the moste particulars that ever have been seene, for it is greater then a greate Platter or Dishe, and hath divers coloures. It is needefull that it leane to some thing, where it growth, or els it will bee alwaies falling. The seede of it is like to the seedes of a Mellon, somewhat greater, the flower dooth turne it selfe continually towardes the Sunne, and for this cause they call it by that name, as many other flowers and Hearbes doo the like: it sheweth marvelleus faire in Gardens.” と英訳している.
「これは注目すべき植物である.彼らが種を送ってきてから,ここで数年育てている.これは,変わった花である.というのは,とても大きな花をつけるからである.しかもこれまでに見たこともないほどの特徴は,平皿や大皿よりも大きい花をつけ,変わった色の花をつける事である.成長したら支柱に寄りかからせる事が必要で,そうでないといつも倒れてしまう.種子はメロン(ウリ)の種のようで,幾分か大きい.花は自分自身で,常に太陽の方向を向くので,その名(hearbe of the Sunne, 太陽草)があるが,多くの花や植物が同様の行動をとる.庭園の中で見ると非常にすばらしい(私訳)」とありモナルデスが 1569 年より数年前に種を入手し,育てていた事がわかる.
また,花の大きさ・豪華さに力点を置いていて,種が食べられることは,分からなかったらしい.さらに,花が太陽を向いて咲くのが名の由来とは言っているが,若い花や蕾の運動については言及していない.

Rerum medicarum Novae Hispaniae - - (BHL)
また,書籍としての刊行は17世紀ではあるが,執筆者の死亡年から,原稿が上記記録と同時期と思われるのは,スペイン王フィリップ二世のために,15701575年にメキシコの動植物探索を行ったスペイン人の医師フランシスコ・エルナンデス・デ・トレド(Francisco Hernández de Toledo, 1514 1587) の著作で,彼の死後 1651年にローマで出版された★"Rerum medicarum Novae Hispaniae thesaurus, seu plantarum, animalium, mineralium mexicanorum historia"1651)には,“De CHIMALATL* PERVINA, Flore Solis” という名で,メキシコでの名称(CHIMALATL),食用や藥用として用いられ,催淫作用があることを述べ,更に茎が一本で大きな花を一つつける種と,枝分かれしていくつかの小ぶりな花をつける種(Flore solis minor)の二種のヒマワリが絵と共に記載されている.
*かつてアステカ人や周辺のインディオが使っていたナワトル語(nāhuatl)でヒマワリの意.

即ちこの書の p 228, Cap XV De CHIMALATL PERVINA Flore Solis の項には(左図)(以下私訳)
CHIMALATL Peruina, あるいは Anthilion また,太陽花(Florem Solis)と呼ばれる.
葉は裏面が白っぽく大きく,鋸歯があり,形はイラクサに似ている.
莖は一本で 15 フィート程に直立し,幹は腕の太さで中空で,緑色をしている.
先端には 9 インチ程の大きさの円形で,周りに黄色い花弁がついていて,中心部は赤色を帯びた,黄金色に輝く花をつける.(中心部は)花粉が満ちて黄色になっている小さな花が,まるで蜂の巣のように順番に従って置かれている.
種はメロンの種に似た形で,やや丸く,柔らかい.根は塊状根である.
種子は食用になるが,多食すると頭が痛くなる.しかしこの種子は胸の痛みや胸やけも治療する.これを砕いて,ローストしてパンに混ぜる人もいる.また,催淫作用があるとも言われている.
また,柔らかい葉の毛を取って,地方の平野や森林地で生育するが,特に森林地の畠で大きく育つ.
別の種が観察された.幹は短く細く,二三本もしくはそれ以上の枝を出し,夫々の先端に前の種に似た花をつけるが,ずっと小さい.

Flos Solis:欧州に渡来してから数年たつが,(詳しいことは)殆ど知られていない.しかし多くの,葉のサイズや,花や,高さや厚さ,時々白い花が見られる花の色などでの変種が認められる.クルシウスの著作とともに,モナルデスの著作の 68 章を参照するとよい.
とある.
なお,最後の斜体の文は出版時(1651年)に編者,イタリアのアッカデーミア・デイ・リンチェイの会員,コロンナ(Fabio Colonna)らによって追加されたと思われる.
また挿図は,現地人の3人の画家,Baptized Antón,Baltazar Elías,Pedro Vázquez に描かせたとある(J-Wiki).

また,★ウィルフリッド・ブラント,森村健一訳『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』(1986)八坂書房 の「第6章 木版画の衰退」には「スペインのフェリぺ二世の侍医、フランシスコ・エルナンデスの遺著『宝庫』(Thesaurus 一六五一年)の中に、ダーリア、すなれちエルナンデスが [cocoxochitl] と名づけた花の興味深い図が載っている(図49)。メキシコではその時すでに一重も八重も含めてさまざまな花色のダーリアが栽培されていた。エルナンデスは一五七一年から一五七七年までメキシコにおり、アヤメ科のティグリディアも初めて図示されたが(図49・左*)、こちらの方は十八世紀末にいたってやっとヨーロッパに導入された。(中略)何百点ものエルナンデスによる植物図が、かつてはエスコリアル*に保有されていたが、一六七一年の火災で焼失した。」とある.
*エスコリアル:スペイン,マドリード近郊にある王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院

上図の種が Helianthus var. macrocarpus, the giant sunflower (cultivated for its edible seeds),下図の小さな種は H. lenticulari, the wild sunflower もしくは H. annuus var. annuus, the weed or ruderal sunflower と考えられる.

種が食用となるが,多食は頭痛を誘起するとの記述は,中国の★王路『花史左編』(1617と,また,花の中央部の管状花の配列が,蜂の巣と似ているとの記述は,後世の欧州本草書や,中国の★呉其濬 (1789-1847)『植物名實圖考』(1848) の記述と一致して,興味深い.なお,エルナンデスの書以外の欧州の古い本草書には,種を食用にするとの記述は認められない.