渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル(1826) |
左図のホトトギスの標本に添付されたラベルのように,ミクエルが作成したラベルでピエローが採集者とされた標本の本当の作成者は,ハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich
Bürger, 1806 - 1858)であり,ジャワでピエロー (J. Pierot) とビショップ (G. Bisschop) によって購入され,その後,ビショップによって 1944 年にライデン大学に売却されたと考えられている.
ビュルガーはハーメルンで生まれたユダヤ系ドイツ人で,後にオランダに帰化した.父親は商人であったが1817年に破産し,1821年に没した.ゲッチンゲン大学で数学と天文学を学んだ.ドクトルと呼ばれることもあったが,学位を得た証拠はない.1824年にビュルゲルはインドネシアのバタヴィアに移住し,1825年1月14日に薬剤師の資格を得た.
オランダ政府に雇われて,1825年に薬剤師としてシーボルトを補佐するために,画家フィレネーフ(Carl
Hubert de Villeneuve, 1800 - 1874) とともに日本に赴き,長崎の出島に滞在し,化学分析や生物研究を行った.また,出島をでて博物資料の採取や往診をするシーボルトに助手として同道した.
シーボルトの門人,伊東昇廸(1804 –
1888)の『文政九丙戌歳猛夏嵜陽日簿』によれば,
「文政九年〔一八二六〕(五月)
二十一日青天、シーボルト採薬ニ出タリ。花園(シーボルト居所ノ名)別段親近ノ諸生四人(余等四人シーボルトノ借重ヲ得テ、別段親近ヲ命セラル)通詞及稲部〔小過詞並稲部市五郎〕クロス〔ブギース人オルソン〕等ナリ。稲部、クロス等ハ鳴瀧ヘ置キ一本木ヘ行ク。植木屋某〔シーボルト記述のサカヤ・セーベーか〕カ饗ニ柑八種ヲ出ス。大ナルハ柚ノ如シ。色赤實ナリ。皮厚シ枳ノ如シ。味甘淡ヒルケル(筆官ナリ)〔ビュルゲル〕大食ニテ小男ナレトモ、大柑八ヲ食セリ。今日ハ都テ阿蘭陀人ノ馳走ニナルナリ。鳴瀧ハシーボルトカ金ヲ出シテ買取リシ地所ニテ、別荘ヲ建置キ療治製薬等ノ所トセリ。長崎府外ニシテ閑寥ノ所ナリ。今ハ抱ヘノ妓ソノ木〔シーボルトの愛妻其扇、楠本滝〕トイヘルニ輿ヘタリ。」と,小男ながら大食漢とある(石川禎一『シーボルト
日本の植物に賭けた生涯』(2000)).冒頭図を見ても,やせ形で身長も高くはないように見える.
また1826年のシーボルトの江戸参府にも同道し,彼の活躍ぶりは、まさにシーボルトの右腕と呼べるものである。彼がシーボルトに付き従い、その調査・研究活動をよく助けた様子は、1826年の江戸参府の日記などに散見される。
シーボルトの江戸滞在中は,旗本の博物学者設楽芝陽(設楽市左衛門,1785 – 1838,(d.hatena.ne.jp/rekisinojyubako/20060413),或は 松平貞幹,1776 – 1824 (http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/112teikan.html)
の説があるが,後者なら死亡年後になる)からの依頼でシーボルトとともにいわゆる「本草」の鑑定をおこない,化石を含む鉱物については彼が解答を与えている.このときの記録は「シーボルトの草木鑑定書,附ヒルヘル薬石解答」(ヒルヘルはビュルガーのこと)として知られている.冒頭図はこの際,当時の定宿「長崎屋」で試料鑑定を行っている様子を,渡辺崋山がスケッチした物(from Masuzo Uéno “A JAPANESE PORTRAIT OF HEINRICH BÜRGER” (1975))である.
シーボルトは追放される際,ビュルガーを後継者に指名し,「出島に設けた植物園に一時的に植込み、私がまだ細かく調べていない植物で〝よく分からない植物〞Nr. 1(ラテン文)と記したラベルを付けてあります。植物類の世話は日本人の庭師に委ねなさい。私はバタビアに到着したならば、日本から到着した植物を収容するための植物園の設置を政庁にとくに進言するつもりでいます.」(石川禎一『シーボルト
日本の植物に賭けた生涯』(2000))と指示したほど,その能力を信頼していた.
ビュルガーは日本の博物学資料の収集を続け,バタビア経由でオランダに送り,シーボルトの日本研究において重要な役割をはたした.ビュルガーは標本の採取だけではなく,日本の植物の種子や球根をライデンに送っている.
その後ビュルガーは,1832年に一旦ジャワに戻り,1834 年に再び日本に来たが,翌1835年に日本での職を解かれ,ジャワでの事業に従事した.
“Contributions to the history of botany and exploration in Malaysia. 8—9
8. Heinrich Bürger (? 1806—1858), explorer in Japan and Sumatra”
M. J. van Steenis-Kruseman (Oegstgeest), BLUMEA VOL. XI, No. 2 (1962)
には,“Between the years 1830 and 1835 Bürgerr sent large Japanese zoological and botanical collections to Leyden, which were shipped from Batavia, together with those of the "Natuurkundige Commissie" (Commission for Natural Sciences, operating in the Dutch East Indies since 1820).” (? 1806—1858), explorer in Japan and Sumatra”
M. J. van Steenis-Kruseman (Oegstgeest), BLUMEA VOL. XI, No. 2 (1962)
“Between the years 1830 and 1835 Burger sent large Japanese zoological and botanical collections to Leyden, which were shipped from Batavia, together with those of the "Natuurkundige Commissie" (Commission for Natural Sciences, operating in the Dutch East Indies since 1820).”とある.
また,1840 - 43年にヨーロッパに一旦帰還していたビュルガーが,詩人のハインリッヒ・ハイネ (Christian Johann Heinrich Heine, 1797 - 1856) と面会し,「ハイネの詩が彼によって日本に紹介された.ハイネはゲーテより早く,日本で最初に詠われた西欧の詩人である」と,彼を喜ばすような会話を交わしたということが,ハイネの1854年に書かれた『告白 Geständnisse』という文に記載され,そこにはシーボルトの名前も言及されている(記事末に原文を引用).
“Contributions to the history of botany and exploration in Malaysia. 8—9
8. Heinrich Bürger (? 1806—1858), explorer in Japan and Sumatra”
M. J. van Steenis-Kruseman (Oegstgeest), BLUMEA VOL. XI, No. 2 (1962)
には,“Between the years 1830 and 1835 Bürgerr sent large Japanese zoological and botanical collections to Leyden, which were shipped from Batavia, together with those of the "Natuurkundige Commissie" (Commission for Natural Sciences, operating in the Dutch East Indies since 1820).” (? 1806—1858), explorer in Japan and Sumatra”
M. J. van Steenis-Kruseman (Oegstgeest), BLUMEA VOL. XI, No. 2 (1962)
“Between the years 1830 and 1835 Burger sent large Japanese zoological and botanical collections to Leyden, which were shipped from Batavia, together with those of the "Natuurkundige Commissie" (Commission for Natural Sciences, operating in the Dutch East Indies since 1820).”とある.
また,1840 - 43年にヨーロッパに一旦帰還していたビュルガーが,詩人のハインリッヒ・ハイネ (Christian Johann Heinrich Heine, 1797 - 1856) と面会し,「ハイネの詩が彼によって日本に紹介された.ハイネはゲーテより早く,日本で最初に詠われた西欧の詩人である」と,彼を喜ばすような会話を交わしたということが,ハイネの1854年に書かれた『告白 Geständnisse』という文に記載され,そこにはシーボルトの名前も言及されている(記事末に原文を引用).
彼が作成した標本は,その後ジャワでピエローとビショップによって購入され(この経緯は不明),1944年1月,ビショップによってライデン大学に売却された.ミクエルが書いた植物標本館のラベルにはピエローがコレクターとして記入されたと考えられる.
この腊葉標本に付けられたラベルの,流麗な筆跡(誰の筆跡かについては,幾つかの可能性があるが,ビュルガーではないようだ)で書かれた採集地などから,オランダ商館館長の江戸参府に伴う旅行途上で採集され作成されたと考えられるが,ビュルガーがシーボルトに同行した 1826 年の参府中ではないと考えられる.シーボルトは資料の所有権には厳しい態度をとっていたので,助手とみなしていたビュルガーが作成した標本を,ビュルガーの自由にさせたとは考え難い.
一方,1830 年のへルマン・フェリツクス・メイラン (Germain Felix Meijlan, 1775 - 1831) が家斎に拝謁した1830年2月8 日- 6月3日の江戸参府には,希望したにもかかわらず,ビュルガーの同行には役人の許可が得られず,参加していなかった.
これらの事実から,ビュルガーの腊葉標本は,彼と同時にシーボルトの助手として来日し,メイランの参府に同行した画家フィレネーフが採集した標本に基づくのではないかとの説もある.
ハイネ(Heinrich Heine,1797 – 1856)は,ドイツ歌謡の名曲『歌の翼に
Auf Flügeln des Gesanges』や,『ローレライ der Loreley』の詩人としても,有名だが,かれは『告白
“Geständnisse Geschrieben im Winter 1854”』の第9章に,「十二年ほど前,友人のリガから来た H. Woehrman の紹介で,プリンスホテル (Hôtel des Princes) で,私との面識を熱望していたオランダ出身のビュルガー博士 (Dr. Bürger) に面会した.彼はライデンでシーボルト (Seybold)
の偉大な日本関係の出版物に関与している人物で,30年程,過ごした長崎から帰ってきたばかりであった.彼が言うには,私の詩を日本語に訳して日本人の青年に伝え,かくしてヨーロッパの書物としては日本で最初の翻訳が誕生した.これについては英文の『カルカッタ評論
Calcutta Review*』に膨大な記事が出ているそうだ.ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が中国で大変な評判をとっているそうだが,私は日本での名声はフィンランドでの名声と同様気にはしない.」と書いている.しかし,” Calcutta Review” には,このような記事はないようで,ビュルガーによってハイネの詩が和訳された事実は確認できていない.
Heinrich Heine:
Geständnisse (1854) - Kapitel 9
Nein, ich will keiner
heuchlerischen Demut mich hingebend, diesen Namen geringschätzen. Man ist viel,
wenn man ein Dichter ist, und gar wenn man ein großer lyrischer Dichter ist in
Deutschland, unter dem Volke, das in zwei Dingen, in der Philosophie und im
Liede, alle andern Nationen überflügelt hat. Ich will nicht mit der falschen
Bescheidenheit, welche die Lumpen erfunden, meinen Dichterruhm verleugnen.
Keiner meiner Landsleute hat in so frühem Alter wie ich den Lorbeer errungen,
und wenn mein Kollege Wolfgang Goethe wohlgefällig davon singt, »daß der
Chinese mit zitternder Hand Werthern und Lotten auf Glas male«, so kann ich,
soll doch einmal geprahlt werden, dem chinesischen Ruhm einen noch weit
fabelhaftern, nämlich einen japanischen entgegensetzen. Als ich mich vor etwa
zwölf Jahren hier im Hôtel des Princes bei meinem Freunde H. Wöhrman aus Riga
befand, stellte mir derselbe einen Holländer vor, der eben aus Japan gekommen,
dreißig Jahre dort in Nagasaki
zugebracht und begierig wünschte, meine Bekanntschaft zu machen. Es war der Dr. Bürger, der jetzt in
Leiden mit dem gelehrten Seybold das große Werk über Japan
herausgibt. Der Holländer erzählte mir, daß er einen jungen Japanesen Deutsch
gelehrt, der später meine Gedichte in japanischer Übersetzung drucken ließ, und
dieses sei das erste europäische Buch gewesen, das in japanischer Sprache
erschienen – übrigens fände ich über diese kuriose Übertragung einen weitläufigen
Artikel in der englischen Review
von Kalkutta. Ich schickte sogleich nach mehreren cabinets de lecture,
doch keine ihrer gelehrten Vorsteherinnen konnte mir die Review von Kalkutta
verschaffen, und auch an Julien und Paultier wandte ich mich vergebens –
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