2006年5月 仙台市野草園 植栽 |
日本では,10世紀には渡来していたようで,984年(永観2年)に朝廷に献上された最古の医学書『医心方(いしんぼう)』に,和名は「コヤスグサ」であると,記されていて,この和名は 1617 年に刊行された日本最古の漢和辞典『倭名類聚鈔』にも受け継がれている.
一方「いちはつ(一八)」の名の初出は,故磯野教授によれば,『御湯殿上日記』の永禄六年 (1563) に「飛鳥井(あすかゐ)より、一八(イチハチ)參る」とあるのがそれで(未確認),また同時代の『節用集』にも「一八(イチハツ) 杜若類也」とある.
園芸用の花卉としては紫の二重と白の種があるとして,一八草の栽培法を記載したのは,日本最古の園芸書『花壇綱目』である.
薬草である「鳶尾」=鑑賞用「イチハツ」と明らかにしたのは,江戸時代前期に作られた絵入り百科事典の『訓蒙圖彙』で,「鴟尾(しび) 今按俗云いちはつ」と鳶尾の俗名がイチハツである事を絵入りで記録した.(以下,文献図は NDL のデジタル公開画像より部分引用)
『医心方』全30巻は第一巻がおよそ本草の総論,第三十巻が食物本草部分で,両巻とも『新修本草』からおもに引用している.しかし,第一巻の諸薬和名篇は『新修本草』の全品を記すため,約5分の1には和名が同定されていない.
中国書からの引用ではあるが,国産で和名もすでにある常用品に焦点を定め,編纂した日本化の特徴を見ることができよう.
その「第一巻 諸薬和名篇」の「第十巻 草下之上 卅五種」には,
「䳒尾 和名 古也須久佐」 とあり,傍注には「音縁」とある(左図).
従って,「䳒」は「エン」と読み,全体では「エンビ」,和名は「コヤスグサ」であるとする.「䳒」の現在の字は「鳶」.䳒:「載」の「車」を「鳥」につくる.
従って,「䳒」は「エン」と読み,全体では「エンビ」,和名は「コヤスグサ」であるとする.「䳒」の現在の字は「鳶」.䳒:「載」の「車」を「鳥」につくる.
★橘忠兼編『色葉字類抄』平安時代末期に成立した古辞書。橘忠兼編。三巻本のほか二巻本の系統もあり、また十巻本『伊呂波字類抄』もある。和語・漢語を第一音節によってイロハ47部に分け、更に天象・地儀など21門の意義分類を施した発音引き辞書である。イロハ引きの日本語辞書として最古。
当時の日常語が多く収録され、特に漢語が豊富に収録される。また社寺・姓名など固有名詞も収録される。それらの漢字表記の後に片仮名で訓みが注され、時に簡単な漢文で意味・用法が記されるものもある。
この書のエの部に
「鳶尾(エンヒ) コヤスクサ」とある(右図).和名のコヤスグサは,他の書にも記載されているが,一般的ではない.
★惟宗具俊『本草色葉抄』8巻 (1284) 内閣文庫本(1968刊).
平安の『本草和名』をさらに発展させた鎌倉中期の本草薬名辞典である.すなわち,漢音読みのイロハ順に配列した薬物につき,『大観本草』での記載巻次とおもな条文を記して検索の便がはかられている.また,それ以外の薬名も『本草和名』から転録するほか,独自に『本草衍義』
(1119) など各種漢籍より引用する.出典にあげられた文献は転録も含め約140種で,うち平安末以降に新渡来の中国医書が18種ある.
『本草色葉抄』はまたかなりの薬物に片仮名で和名を注記するが,『本草和名』の同定と相違する場合もある.これは『本草和名』が『新修本草』を底本としたのに対し,より博物的記載に富んで絵図も組み入れた『大観本草』を底本としたので,和産物との同定精度が上がったからといえよう.さらに丹波家系の宮廷医である惟宗具俊は,当時の日宋交易の増加で中国薬物の実物に接する機会が多かったであろうことも見のがせない.
この書の「ヱ」の部に
「●鳶尾 同十味苦平有毒主 癥瘕積聚.去水下三蟲
干而闊短不抽長莖花紫碧色根似高良亶皮黃肉白
一名烏園 鳶頭 藥名鳶尾根名なり 鳶根 根□なり
○鳶頭 鳶尾ノ根也 見上 ○鳶根 見上」
とある(左図).
この記述は中国本草書の全くの引用であり,日本にイチハツが栽培されていたのかは不明であるが,ここに記載するだけの意味があったからには,少なくとも輸入品は薬用として用いられていたのであろう.
★東麓破衲編『下学集』(1444)は,日本の古辞書の一つ著者は,序末に〈東麓破衲〉とあるのみで不明.京都東山建仁寺の住僧かといわれる.ただし,その成立には《壒囊鈔(あいのうしよう)》と密接な関係があると推定される.内容は〈天地〉〈時節〉以下18の門目を立てて,中世に行われた通俗の漢語の類を標出し,多くの場合それに注を加えてある.配列が《節用集》のようにいろは順でないから,語の検索には不便である.大まかにいえば,《節用集》のほうは《下学集》をいろは引きに改修したものである.
この書の「下之三 艸木門」に
「一八(イチハツ) 杜若(カキツハタノ)類也」とあり,これはこの時代には,実際に栽培がおこなわれ,花が見られたからであろう.
この記述は中国本草書の全くの引用であり,日本にイチハツが栽培されていたのかは不明であるが,ここに記載するだけの意味があったからには,少なくとも輸入品は薬用として用いられていたのであろう.
★東麓破衲編『下学集』(1444)は,日本の古辞書の一つ著者は,序末に〈東麓破衲〉とあるのみで不明.京都東山建仁寺の住僧かといわれる.ただし,その成立には《壒囊鈔(あいのうしよう)》と密接な関係があると推定される.内容は〈天地〉〈時節〉以下18の門目を立てて,中世に行われた通俗の漢語の類を標出し,多くの場合それに注を加えてある.配列が《節用集》のようにいろは順でないから,語の検索には不便である.大まかにいえば,《節用集》のほうは《下学集》をいろは引きに改修したものである.
この書の「下之三 艸木門」に
「一八(イチハツ) 杜若(カキツハタノ)類也」とあり,これはこの時代には,実際に栽培がおこなわれ,花が見られたからであろう.
★『御湯殿上日記』の永禄六 (1563) 年四月九日の記事に,「飛鳥井(あすかゐ)より、一八(イチハチ)參る」とあるそうだ(磯野教授.未確認).
御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき・お湯殿の上の日記)とは,御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記.禁裏(宮中)にある御湯殿の側に女官達の控えの間があり,そこに備え付けられていたといわれている.当番の女官によって交替で書かれたもので字体は女房文字(仮名文).稀に当代の天皇自身が代わりに書いたと思われる部分もあるとされている.
本来はいわば宮中の機密日誌(秘記)であり非公開のものであったが,後日の参考のために写本が作られる場合もあり,そのため正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている[2].特に戦乱の激しかった戦国時代の記録が残されているという点で貴重な史料である.また宮廷の女性達が用いていた文字や言語(女房言葉)の研究の分野においても貴重な資料となっている.
主に天皇の日常の動向が記述の中心であるが,宮廷行事や任官叙位,下賜進献などの宮中での出来事,皇族や女官の動向等,有職故実面や政治の表舞台には現れない記事も見られる.『群書類従』に慶長3年(1598年)分が収録されて以来,宮廷史・政治史の根本史料として注目されるようになった.
室町時代の古辞書である印度本系枳園本★『節用集』には,「一八(イチハツ) 杜若類也」とあり,語注には「杜若(かきつばた)の類(たぐひ)なり」とある(左図).
★源順『倭名類聚鈔』(1617)は江戸初期に成立した,漢語の名詞を意味によって分類配列し,一種の日用百科辞書的性格をもつ漢和辞典.10巻本と20巻本とがある.画像を引用した本は,元和3(1617)年頃那波道円が校訂・刊行した20巻本の古活字版で,源順の自序の前に元和3年付けの林羅山の序と道円の凡例とが付されている.
その「ヱ」之部に「鳶尾 本草云鳶尾一名烏園 和名古夜須久佐」とあり,コヤスグサが和名としてある.一名として挙げられている「烏園」は『本草綱目』の「鳶尾」の項に「本經
下品【釋名】烏園」とあるので,これを引用したのであろう(右図).
★狩野重賢画『草木写生春秋之巻』(1657 - 1699)は,優れた花木・草花図譜で,「春上・春下・秋上・秋下」の4巻から成り,夏と冬の巻は無い.
「秋下」末尾に「狩野織染藤原重賢画之」とあるので,狩野重賢が著者だが,狩野家の系図には見出せず,経歴などは不明.美濃の加納(かのう)での写生が多いので,加納藩と関係があったように思われるし,狩野は加納のもじりかもしれない.この巻物の「春下」に
「鳶尾 志也可 古也須久佐
萬治二年三月十三日
美濃扵(於の異体字)加納寫生
葉六二裏四」とあるが,描かれている植物は,現在云うところのシャガ (Iris japonica) .中国本草書の影響で,鳶尾(イチハツ)と射干(現在云うところのヒオウギ,Iris domestica) と,現在云うところのシャガ (Iris japonica) を混同していたものと思われる.萬治二年:1659年.
★狩野重賢画『草木写生春秋之巻』(1657 - 1699)は,優れた花木・草花図譜で,「春上・春下・秋上・秋下」の4巻から成り,夏と冬の巻は無い.
「秋下」末尾に「狩野織染藤原重賢画之」とあるので,狩野重賢が著者だが,狩野家の系図には見出せず,経歴などは不明.美濃の加納(かのう)での写生が多いので,加納藩と関係があったように思われるし,狩野は加納のもじりかもしれない.この巻物の「春下」に
「鳶尾 志也可 古也須久佐
萬治二年三月十三日
美濃扵(於の異体字)加納寫生
葉六二裏四」とあるが,描かれている植物は,現在云うところのシャガ (Iris japonica) .中国本草書の影響で,鳶尾(イチハツ)と射干(現在云うところのヒオウギ,Iris domestica) と,現在云うところのシャガ (Iris japonica) を混同していたものと思われる.萬治二年:1659年.
★松江重頼編『狗猧集えのこしゅう』(1633)
その「巻代三、○夏 巻一」に
「○一八(いちはつ)
すがりても名やいちはつの花の庭
千種(ちくさ)あれど、先(まづ)一はつの花野(の)かな 正満」とある.
「いちはつ」と「一初」を掛けて,夏一番に咲くとしたのであろう(左図).
★中村惕斎『訓蒙圖彙(キンモウズイ)』)は,江戸時代前期に作られた「絵入り百科事典」である.初版『訓蒙圖彙』は寛文6年(1666)に刊行された.以後,元禄8年(1695)には『頭書増補訓蒙圖彙』,寛政元年(1789)には『頭書増補訓蒙圖彙大成』が,それぞれ大幅な増補改訂を経て刊行されている.増補改訂の過程はこれからの研究を待つところであるが,このような改訂は「それぞれの時代に求められる姿へ装いを改めて行った歴史」(『月刊しにか』2000/3/1「江戸の百科事典を読む」勝又基)という風に捉えることが出来よう.
その初版 (1666) 年版と,1789年刊の『頭書増補訓蒙図彙大成』に,絵やレイアウトは異なるものの,
その初版 (1666) 年版と,1789年刊の『頭書増補訓蒙図彙大成』に,絵やレイアウトは異なるものの,
「鴟尾(しび)
今按俗云いちはつ鴟尾草(しびさう)也.○花ヲ名二紫羅傘(しらさん)ト一或は云鴨-脚-花(おう-きやく-くわ)亦通ニシテ名二蝴蝶花(こてふくわ)ト一」
と,同じ説明でイチハツが掲載されている(右図).
この書で初めて「鴟尾(しび)(鴟=鳶)」の俗名が「いちはつ」である事が記録されている.
なお,他の漢名「紫羅傘,鴨脚花」は『本草綱目』などの中国本草書に記載されている(後述).
この書で初めて「鴟尾(しび)(鴟=鳶)」の俗名が「いちはつ」である事が記録されている.
なお,他の漢名「紫羅傘,鴨脚花」は『本草綱目』などの中国本草書に記載されている(後述).
右図:中村惕斎 編『頭書増補訓蒙図彙大成』寛政1 [1789]
★水野勝元『花壇綱目』(1681) は,日本最古の園芸指南書で,これは中国やイギリスに並び世界的に見ても早期のものである.園芸を武道や詩歌,音楽などの諸芸道と同等の存在として列する著述が見られ,一種の修練の場と位置付ける.
その「巻上 春草之部」には,
「一八草 ●花紫同貳重白もあり咲比同 ●表土肥分植事何も右同前也」とある(左図).
咲比同:桜草 咲頃三月の時分也
表土肥分植事何も右同前:ばれん ●養土野土に肥土等分合て用也 ●肥は時々茶から干粉にして用なり ●分植は春秋之時分
(続く)
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