2006年5月 仙台市野草園 植栽 |
中国本草書の中で,最も日本の本草学に大きな影響を与えた『本草綱目』の和刻書では,「鳶尾」は「イチハツ」と考定された.
また,イチハツは,比較的乾燥したところでも硬質な地下茎が水を抑留して,長くその生命を保っている.根を緻密に張って生育する事から,茅葺屋根の棟に植えて,強風などによる破損を防いだ.このような利用法で,特に花時に青い花びらを翻す光景は,博物学者や園芸家の目を引き,多くの記録が残された.
中国の園芸書,陳扶揺著『秘伝花鏡』(1688)にも,「性喜高阜墻頭種則易茂」とある事から,原産地の中国でも高い阜(おか)や墻(かき)の背に生えることがあると見える.イチハツは,生えているところがたとえ乾くことがあっても,それに耐え,根を張る性質をもっているのであろう.
和文献の画像は「和漢三才図会」のそれを除いて,NDLの公開デジタル画像よりの一部引用
和文献の画像は「和漢三才図会」のそれを除いて,NDLの公開デジタル画像よりの一部引用
貝原益軒 (1630 - 1714) は,「養生訓」,「和俗童子訓」の著者であるだけでなく,歴史学者,地理学者として広く国中を見て回って旅行記を書き,博物学者として路傍の雑草,虫や小川の魚まで詳細に観察し「大和本草」に記述している.益軒はさらに,自宅の庭で花や野菜の栽培を実践していたことも知られている.
著書「花譜」と「菜譜」はこのような経験に基づいて肥料の与え方や移植の時期に至るまで植物の栽培方法について詳細に記載したものである.
著書「花譜」と「菜譜」はこのような経験に基づいて肥料の与え方や移植の時期に至るまで植物の栽培方法について詳細に記載したものである.
植物についての益軒の著述は寛文 12 年 (1672) に『校正本草綱目』の翻刻をした時に,その5巻に「品目」「名物付録」を執筆し,和名を校定したのに始まる.この頃から自宅で植物栽培を行ってきたと考えられる.
★貝原益軒『校正本草綱目』(1672) の本文では,鳶尾に和名は付記しなかったものの(左図,左方),「品目」では「鳶尾 イチハツ」と考定した(左図,右方).
元禄7年 (1694) には「花譜」が,宝永元年 (1704) には「菜譜」が発行された.「大和本草」の刊行はこれに続く宝永6年 (1709) のことである.「花譜」と「菜譜」は「大和本草」とともに,300 年前にどのような花が植えられ,どのような野菜が栽培されていたかを示す重要な文献である.
「鳶尾(いちはつ) 是かきつばなの類なり。関東にはこれを屋の棟
にうふ。大風に萱屋(かやや)乃棟を吹きあらされじとなり。叉
射干(からすあふぎ)とて野草あり。同じ類なり。紅黄なり。劣(をと)れり.」とある
薬草より,茅葺屋根の保持材として,興味があったようだ.「射干(からすあふぎ)」とは現在言うヒオウギ(檜扇、学名:Iris domestica)のこと.中国本草書では鳶尾を射干(ヒオウギ)と分けずにして記述していた.
花譜の著者★貝原益軒の大分地方の旅行記『豊國紀行』は元禄七年 (1694) の旅の記であるが,それには,
「別府のあたりには家のむねにしばをおき、いちは(ち)と云花草をうへ
て、風のむねを破るをふせぐ。武蔵國にあるがことし。風烈しさゆへと
(思る)。家毎にみなかくのごとし。」とある.
北九州市立小倉図書館所蔵の写本を底本とし、昭和十四年森平太郎氏によって刊行された刊本の頭注に「鳶尾草也。大正震災前まで、東海道線平塚駅附近及び箱根山中の農家に於て、屡々この風俗を目撃せり。別府に於ても明治十年頃までは、この古風俗を存したりと云ふ」とある。
編集委員代表 谷川健一『日本庶民生活史料集成第二巻 探検・紀行・地誌(西国篇) 全三十巻別巻一』(1969)
「一八 春末夏初。一初共いふ。花形杜若のごとく、六やうのやうニミゆる。白むらさきの二種あり」
と,園芸用花卉として収載されている.
★伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』(1699) には,単純ながらよく特徴を捉えた絵(左図)と共に
「○いちはつ
花色白と紫二種有、三四月にさく」との説明がある.
★貝原益軒『大和本草』(1709) の,「草之三 花草類」には,
似レ射干一花色紫碧不レ抽テ高莖ヲ俗呼二紫羅傘其根即
鳶頭亦入レ藥射干胡蝶花此類也 圖經叉曰人
家亦種ノ葉ハ似レ射干ニ而濶濶短與射干全ク別ナリ射-干ハ花-紅ニ
抽コトレ莖ヲ長○今案陳臓器蘓恭所ノレ説射干ハ倭名カラスアフ
キハ莖高ク花紅ナリイチハツハ莖短ク葉ヒロク花紫
ニ燕子花ニ似タリ綱目ニ鳶尾トアルハ是イチハツナ
リ蘓恭保昇カ説ヨシ時珍カ説不レ可レ據民家茅屋
ノ棟ニイチハツヲウヘテ大風ノ防キトス風イラカヲ不レ破
蝴蝶花モ此類ナリ又花白キアリ」と,中国の本草書(閩書=本草綱目)を引用したうえで,前著の二冊と同様,茅葺屋根の棟に植えて,大風の被害を防ぐとある.
江戸時代中期の政治家・朱子学者として知られる★新井白石(1657 – 1725) 著『東雅』(1709 脱稿)は,中国の《爾雅(じが)》にならったもので,《和名類聚抄》にみえる物名について語義の解釈をしたものである.この書の「巻十五草卉」に,
「鳶尾 コヤスグサ 倭名鈔*に鳶尾一名烏園.コヤスグサと註したり.義不レ詳.今俗にイチハツといふもの是也.是等の類の中,最初に花を開きぬれば此名ありといふなり.
此もの,葉を鳶尾といひ,根を鳶頭とも,鳶根ともいふと見えけり.今唐本草に據るに,此草處々有レ之.人家亦種.葉似二射干一而濶.短不レ抽二長莖一.花紫碧.根似二高良薑一
與二射干一花紅抽レ莖長.と見えたり.然るに李東璧本草には此即射干之苗.而非二
別一種一.肥地者莖長根粗.瘠地者莖短根痩.其花自有二數色一と見えたれども,此にしてカ
ラスアフギといひ,イチハツといふものヽの一種なりとも見えず.」とある.
名の由来としては,アヤメの類では一番先に咲くからとしている.李東璧本草**では,土地が肥えているか痩せているかで,色や根の大きさが異なるとあるが,これはおかしいと批判をしている.カラスアフギ(射干)は,ヒオウギの旧名で,葉の形状が似ているためか,中国本草ではよく同種とされていた.
*倭名鈔:和名類聚抄,前記事参照
**李東璧本草:明朝の李時珍著『本草綱目』.1578年(万暦6年)に完成,1596年(万暦23年)に南京で上梓.その数年後には渡来.
「鳶尾 いちはつ・こやすぐさ,イユン
ウイ
烏園
根を鳶頭と名づける
和名 古夜須久佐(こやすぐさ) 俗に伊知波豆(いちはつ)と云う
本綱、鳶尾は其の苗射干より低下(ひく)く、葉は地に布きて生じ、狀鳶の尾の如し。其の葉は
射干に似て潤短なり。長莖を柚かずして夏に花を開く。紫碧色、根は高良薑に似たり。節
大きく數箇相連なり、皮黄に肉白し。
根 苦く平、毒有り 之れを嚼めば人の咽喉を戟す。但し邪氣、鬼疰、諸毒を治す。
四物鳶頭散 鬼魅 邪氣を治す。鳶頭黄牙 即ち金牙、莨菪子、防-
葵 未と爲す、方寸七
酒にて服す。病人をして鬼を見せしめんと欲せば防葵一-分を増す。鬼を知らしめんと欲せば
又一分を増す。立処(たちどころ)に験あり。多く服すべからず。
△按ずるに、鳶尾は莖矮(ひく)く、形状は烏扇に似て艶(つや)
色は射干に似たり。但し烏扇は射干と共に、今の俗に
呼ぶ所の者と反翻して見るべし。三四月に短莖を抽き花を開く。形は燕子花に似て紫色、花の
底微かに白し。」と,本草綱目を引いて性状や薬効を述べた後,実際に見たであろうイチハツの花や葉を他の植物と比較しながら述べている.名の由来を,葉の生状が鳶の尾に似ているからとの本草綱目を引いている.また,「烏扇は射干と共に、今の俗に呼ぶ所の者と反翻して見るべし」と古来の射干はヒオウギ,烏扇はシャガだとしている.
槙島昭武(まきしま-あきたけ)は江戸時代前期-中期(生没年不詳)の国学者,軍記作家.享保年間(1716~1736)に歿.江戸の人.有職(ゆうそく)故実,古典にくわしく,享保(きょうほう)11年(1726)「関八州古戦録」をあらわす.名は別に郁.通称は彦八.号は駒谷散人.著作はほかに「北越軍談」など.
花卉だけではなく,有用な植物を記録した★伊藤伊兵衛(四代)政武著・画『廣益地錦抄』(1719) の「巻之五 藥草五十七種」には,
花形かきつはたに似たり
白と紫の二種有此るい
いろ/\多シ。杜若。花菖蒲。
あやめ。しやか。いつれも花形
似て花さく時節段々有り
鳶尾ハ花はやき事最一なれハ異名を一初草(イチハツ)と
いふ根ハせうかのことく大ク
年々ふとりつゝきて
鳥の頭(カシラ)に似ルとて鳶頭(エンヅ)
といひ葉ハ鳥の尾の如ク
とて鳶尾と名付ト云
本草に見へたり此草萱(かや)
家(ヤ)の棟(ムネ)に芝(シバ)を敷(シキ)て三尺
の間に一本つゝ植レハ段々
根はひこりて後ハみな
鳶尾のばかりからみ
百歳を經(ヘ)ても棟(ムネ)を
損(ソン)せす」
とあり,茅葺屋根の棟に芝を敷いた中にイチハツを植えると,根をはびこらせて絡み付き合い棟を守ると,まじないや縁起担ぎではなく,イチハツの性質を利用していると,庭師としての注意深い観察から,科学的な説明をしているのが注目される.
とあり,茅葺屋根の棟に芝を敷いた中にイチハツを植えると,根をはびこらせて絡み付き合い棟を守ると,まじないや縁起担ぎではなく,イチハツの性質を利用していると,庭師としての注意深い観察から,科学的な説明をしているのが注目される.
続く.
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