Hypericum
monogynum
******文献画像は NDL の公開デジタル画像よりの部分引用********
ビヨウヤナギは花材としても用いられ,華道家の視点から花卉植物を記した中山雄平『剪花翁伝』には,ビヨウヤナギの繁殖・栽培法や水揚げ法が丁寧に記され,花材として人気があったことが伺われる.また,この項には癪に効果がある薬草として用いられているとある.
漢方薬品名便覧で,薬種の漢名をイロハ順で掲げ,和名・異名を注した★加地井高茂 [編]『薬品手引草』(1778) の「下巻 畿部」には,
「金絲桃(キンシタウ) びようやなぎ之」
とある.
★岩崎灌園(1786-1842)『本草図譜』(刊行1828-1844) は 飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』と並び称せられる江戸時代末に作られた二大植物図譜のひとつで,江戸下谷生まれの幕臣岩崎灌園の著作.野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図で,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って排列している.灌園(名は常正)は文化4年(1807)頃に起筆した『本草図説』を土台に,本書92冊(巻5~96:巻1~4は存在しない)を予約制で制作・配布した.最初は全巻を木版本として刊行する計画で,最初の4冊(巻5~8)を天保元年(1830)に刊行したが,費用調達が無理だったらしく,5年間の空白の後,筆写・手彩本とする方針に切り替え,天保6年に次の4冊(巻9~12)を配布した.以後は完結までこの方式を続け,天保13年(1842)に灌園が没した後は子息信正が継ぎ,弘化元年(1844)に配布を完了した.全体で草木2920品を取り上げるが,動物・鉱物は扱わない.灌園は幕府の徒士(かち)という小身だったが,若年寄堀田正敦(1758~1832)に見出されて,『古今要覧稿』の草木部の執筆を担当したり,薬園の設置を許されたりと,活躍の場を与えられた.
筆彩の写本であるため,巻11 以降の『本草図譜』には,出来栄えが劣っていたり,絵の一部(枝の数など)を省略した本も見受けられる.下図,左端図は田安家への配布本であり,全面的に優れている.中央図は本多豊後守助賢(信濃飯山藩の第6代藩主,1791~1858)に配本されたもので,右端図は大正五年から本草図譜刊行会が刊行した印影書である.
この叢書の「巻之十九 隰草類 連翹(??をとぎり)」の部に
「一種 金絲桃(きんしたう) 三才圖會
びやうやなき
金絲海棠 廣東新語
小木細莖葉は水楊*に似て花は大翹**に似て
蘂長し黄色なり實も又大翹と同じ三才圖會
に云如テレ桃而心ニ有二黄鬚一鋪キ二散ル花外ニ若ク一金絲ノ
然リ亦根ノ下劈開分種畫譜ニ所レ言亦同」とある.
水楊:ネコヤナギの別称.Salix gracilistyla
大翹:トモエソウHypericum ascyron?
上のビヨウヤナギの図を見ると,田安本は色が鮮明で,花絲やその先端の葯の描写も明瞭である.更に本多本と比べると,葉脈の数や葉の配置,幹の形状などが異なり,より描写に優れている.
★飯沼慾斎『草木図説後編』(1832)
慾斎 (1783 – 1865) は医者であるが,偉大なナチュラリストでもあった.世情騒然たる幕末,大垣郊外の静かな五十歳を過ぎて別荘平林荘に隠棲し,こつこつと飽くことなく植物の花の構造を顕微鏡で調べて分類し,リンネの分類法に準拠して記載文と図を作製し続けた.そして,わが国で最初の科学的植物図鑑『草木図説』草部二十巻,木部十巻を編んだのである.草部は安政三年 (1856) から自費出版されたが,木部その他は未刊に終わった.
その木部の写本には
「第十八綱
第三目
ビヨウヤナギ
金絲桃
ビヨウヤナギ 金絲桃
葉金絲梅ニ似ニテ大ニシテ差軟枝梢分岐シテ五月花ヲ開ク蕚
五葉花弁亦金絲梅ニ似テ大ニ子室椎子状一柱長ク頭五
ニ分レ鬚蕋細シテ尤長ク弁上ニヒロガリ浅黄葯アリソノ数多
シテ難算概ルニ金絲梅ト同属異種
第三十四
Hypericum monogynum. Eenuymge hyperinum
ヒベリエム モノギヌム 羅 ヱーンラヱーヒヘ ヒペリユム 蘭
とある.
★中山雄平著,松川半山画『剪花翁伝』 (1847著,1851出版) ,他の園芸書と趣の異なり「いけばな」をたしなむ人々に焦点を当てて執筆されている特異な書.「いけばな」愛好者のための実践的な花井栽培ハンドブック,切り花取り扱い技法ハンドブックとでもいうべき内容と性格とをそなえており,伝統的な「いけばな」文化の中心地である京・大坂ならではの地域性豊かな,かつ質の高い近世園芸書として評価することができよう.切花栽培法を四季に分け,各草木の特色,開花時期,品種などについても記す。その意味でも本書が,数多ある近世園芸書のなかでも異色な存在であることは間違いない.
中山雄平(生没年不明)江戸時代後期の園芸家.大坂の人.他に『草木保育剪伐法』が明治28年に出版されているが,内容は図版も含めて『剪花翁伝』と同一.
松川半山(1818 - 1882年)江戸時代後期から明治時代にかけての大坂の浮世絵師
『剪花翁伝 夏 五月開花之部』には,花色,花形,開花時期,生育に適した土地,施肥時期や繁殖法と共に,生け花に使うための切る時刻や水揚げ法が丁寧に記されている.また,葉が「癪」の特効薬とされているともある.
天(つゆ)より半月(はんげつ)計(ばかり)もあり.方,半陰(かげ).地,半
湿.土,回込.肥,大便,寒中に入べし.
株(かぶ),九月中に分植(わけうゝ)べし.
●(遷のしんにゅうを扌(てへん)に)(さしき),春ひがんに枝三寸許に剪て,少し
斜(すぢかい)に(さし)て,即時(そくじ)に日(ひ)覆(おほい)すべし.後(のち)に
指頭(ゆひさき)をもて土(つち)の乾(かハき)・湿(しめり)を圧(おし)て試(こゝろミ)るへし.指形(ゆびあと)の速(すミやか)にふかく入(いる)ものハ可(よき)也.堅(カた)くして指点(ゆびあと)なきものハ既(すて)に乾(かハ)ける也.此時(とき)水(ミつ)を
湊くべし.後(のち)に又(また)乾堅(かたく)なる時(とき)ハ,淡小便を
灌(そそ)ぐべし.寒中には大便を入べし.葉ハ
柳(やなぎ)に似て,枝は飴(あめ)色也.葉,長くして丸
からず.積気(しゃくき)を治(ぢ)するに妙(めう)なりといへり.
花剪(はなきる)の時(とき)は,日の出(いづ)るまでによし.其後(そのヽち)
ハ花(はな)いたむなり.升水(ミつあけ)ハ,切口より上に
鑢(やすり)をかけて扦(さし)おくべし.」とある.
現代語訳「○びようやなぎ 花は一重咲きで,黄色.開花は五月の梅雨から半月ばかり咲きつづける.半日陰の半湿りの土地を好む.土壌は回塵がよい.肥料として寒中に大便を施す.九月の中,すなわち霜降のころに株分けをする.
挿し木は,春の彼岸ころに,枝を三寸くらいに切って少し斜めに挿し,日が当たらないようにすぐに覆いをする.その後で,土の乾き具合,湿り具合を,指先で土を押してみて計る.指がすぐに土に深くはいる間はそのままでよい.かたくなって指がはいらなかったら,土が乾いてしまっているのである.このときに水をかける.その後また土が乾いたら,薄めの小便を施す.寒中には大便を施す.葉は柳の葉に似ていて,枝はあめ色である.葉は長めで丸みがない.癪(しゃく)の治療に効果があるという.
切り花にするときは日の出前に切り取る.日の出後に切ると,花がいたむものである.水揚げは切り口より上部にやすりをかけて活ける.」
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