Nerine sarniensis
出島の三学者の一人で,最も早く来日したドイツ人博物学者,エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651 - 1716)は,ヒガンバナ(石蒜)をガーンジー・リリーと考定して,その著書『廻国奇観』 ”Amœnitates Exoticæ” ( 1712) に記述した.この誤考定は J. Douglas 著のガーンジー・リリーのモノグラフ “Lilium sarniense or, a description of the Guernsay-lilly” (1725) に記載され,,リンネも,滞日中のシーボルトも踏襲した(後述).
NOMINA & CHARACTERES SINICOS; / intermixtis, pro specimine, / quarundam plenis descriptionibus, / unà cum Iconibus.
の,“Catalogus Plantarum / FASCICULI V. / in quinque Classes distribute, / quarum exhibit” の “CLASSIS IV. / Plantae specioso flore conspieuæ.” (第四類 観賞用花卉)の章に
[石蒜] Seki san, vulgo Sibito banna, aliis Doku Symira, id est venenosa Symira ob bulbum venenosum dictus: Narcissus Japonicus flore rutilo Cornuti.
とあり,次に
Kui Symira, id est, Symira edulis. Asphodelus, caule pedali striato, floribus
hexapetalis purpurascentibus densissime spicato.
とある.
ツルボ Barnardia
japonica (Thunb.) Schult. et Schult.f. 茨城県南部 11月, Asphodelus
albus Miller, Passe, C. van de, Hortus floridus (coloured plates), t. 36 (1614),
Asphodelus ramosus L., Redoute P. J.,
Liliac. vol. 6, t. 314 (1805)
石蒜:セキサン:俗名シビトバナ,別名ドクシミラ.つまり有毒なシミラ.鱗茎が有毒なのでこう呼ばれる.コルーヌのいう赤花日本水仙.
クイシミラ:つまり食用シミラ.ツルボランの類(Asphodelus),溝のある花莖に紫色の六瓣の花を密集してつける.
とあり,食用ともされるツルボ(シミラ)に対比され,ヒガンバナ(ドクシミラ)は,鱗茎が有毒で食用に不適なシミラと呼ばれ,漢名「石蒜(セキサン)」,俗名で「シビトバナ」とも呼ばれる.と日本での状況を述べ,これはコルーヌ(ジャック=フィリップ・コルニュ,Jacques-Philippe Cornut)が,1635 に著した “Canadensium
plantarum” に記した(日本からガーンジー島に渡来したとされる)Narcissus Japonicus flore
rutilo である.とした.
さて,ケンペルの言う,ヒガンバナとツルボの和名だが,八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001)は,ヒガンバナの地方名として,しにとばな 滋賀(湖西).しびっとばな 和歌山(那賀・日高・海草).しびとぐさ 福島(相馬).しびとっぱな 埼玉(入間).しびとはな 武蔵 中国.しびとばな 仙台,尾張,京都,丹波,長州,周防,土佐,宮城(仙台市),山形(庄内),福島(相馬),埼玉(秩父・入間),新潟 三重(北牟婁),滋賀 京都(何鹿),兵庫(赤穂・淡路島),和歌山(和歌山・海南・海草・那賀・日高),広島(豊田),山口(浮島・吉敷・大津),徳島,大分(東国東・北海部)が収載している.
また,ケンペルの言う「ドクシミラ」との関連性が想像できる すびら 大分(大分・大野).すびらのはな 大分(大分・大野).どくずみた 唐津.とくすみら 肥前.どくすみら 肥前.どくずみら 宮崎(日向市)の地方名も載せている.また,ネットサイトの「ヒガンバナの別名(方言)」(http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higan_name.html)には総数1023 の方言が記載されているが,その中にはドクシミラ,ドクシュバナ,ドクシヨウバナ,ドクジラメ,ドクスミタ,ドクズミタ,トクスミラ,ドクスミラ,ドクズミラ,ドクズミレがある.
一方,ツルボの地方名としては,『日本植物方言集成』中には,ずいべら 筑紫.すがな 和歌山(新宮).すっな 鹿児島(加世田市).すなか 和歌山(東牟婁).すびら 長崎(壱岐島),すみな 鹿児島(長島・鹿屋・出水),すみら 熊本(玉名),宮崎(児湯),鹿児島(国分・出水・姶良・薩摩).すんな 鹿児島(川辺・姶良)とあり,ケンペルの言う「シミラ」との関連性が想像できる.
さらに,貝原益軒『大和本草』(1709)巻之九 草之五 雑草類「綿棗児(ツルボ)」に,「是をすみれと云は誤れり」とあるのは,ツルボがスミレと呼ばれていたことの証拠となろう.
柿原申人『草木スケッチ帳Ⅲ』東方出版(2002)の,ツルボの項には「一六〇三年年に(ポルトガル宣教師によって)長崎で編まれた『日葡辞書』のスミレの項には、次の二つの訳が載っている。一つは「ある花の名」、二つ目は「この名で呼ばれるある草、その根はニンニクに似ていて食用にされる」。これも岩波版は両方とも今のスミレに当てている。だけど後者の「根はニンニクに似て」は、今のスミレであるはずがない。しかしこの後者のスミレもツルポと考えれば、球根である点と食用になる点でどんぴしゃりである。」とあり,ツルボが「スミレ」或はそれに類した呼ばれ方をしていたと考えられる.
また,栗田子郎「ヒガンバナの民俗・文化誌」(Ⅴ)~ヒガンバナ渡来説再考:その3~,<里呼び名が示唆すること>で,ヒガンバナの方言に近畿地方以西に広くスミラ系統の名があることから,スミレ=ツルボ説を導き出している.
ツルボが食用になるとは言っても,相当の前処理が必要で,斎藤たま『暮らしのなかの植物』論創社(2013)には,(斎藤氏は)「この根の芋を、私は一度試食に及んだことがある。(中略)ちょうど春先で、葉が一〇センチぐらいになっているのを掘った。根の玉は中指の頭ていど、大きなラッキョウというところである。薄茶色の皮をかぶっている。煮るほどのこともないから、いろりの火のめぐりに埋けて焼いてみた。しばらくして出したら、中指が小指ほどに小さくなっていて、百合根やニンニクが餅のような白きになるに対して、これは全体透る、白菜の茎のごとき色合いである。幾分ねっとりはしているものの、歯ざわりにはやはり白菜の茎に似たようなシャリッとしたところがある。一口、二口かじってみて、割合いけると思った。あくの強さはまるでなくて、それどころか百合根に似た甘い香りさえあった。しかし、飲みこんだ次の二、三秒後に台所にすっ飛んで行ったのは、猛烈ないがらっぽさに襲われたからである。口中はそれほどでもないのに、喉がことに激しく感じるらしく、何度もうがいを繰返し、歯も磨き、甘い物ででもまぎらわそうと、次々いろんな物を食べても、喉のいらいらはしばらくの間おさまらなかった。」とあり,生食出来ない事を記した.
既に当ブログ,「ツルボ」(1)に述べたように,『大和本草』中に「根味甘ク 根オ採取シ水ヲ添ヘ久シク煮テ 極テ熟シ之ヲ食フ 水ヲ換ヘズシテ煮テ食ヘハ 後腹中鳴テ下氣有リ (中略)性冷滑にして瀉下す 飢人食へは瀉下しやすく 身はるゝと云 故に凶年にも多く食はす 水をかへて久しく煮れは害無シ 村民之ヲ知ラズ 是をすみれと云は誤れり 水をかへて久く煮る事を貧民に教フ可シ」とある.また橘南谿(1754 - 1806)の『西遊記』(1795)巻之六にも,「飢饉 近年打続き五穀凶作なりし上、天明二年(注 1782年)寅の秋は、九州飢饉して人民の難渋いふばかりなし。
村々在々は、かず根といひて、葛の根を山に入て掘来り食せしが、是も暫の間に皆掘つくし、かなづち(注 イケマの根か,ガガイモの根か)といふものを掘て食せり。是もすくなく成ぬれば、すみらといふものを掘りで其根を食せり。 (中略) すみらといふものは水仙に似たる草なり。其根を多く取あつめ、鍋に入れ、三日三夜ほど水をかへ、煮て食す。久敷(ひさしく)煮ざれば、ゑぐみ有て食しがたし。三日程煮れば至極やはらかになり、少し甘み有やうなれど、其中に猶ゑぐみ残れり。予も食しみるに、初め一ツはよし、二ツめには口中一ばいに成て咽に下りがたし。あわれなる事筆の書つくすべきにあらず。予一日行キつかれて、中にも大(おおき)にしてきれいなる百性の家に入て、しばらく休息せしに、年老たる婆(ばば)壱人也。「いかゞして人のすくなきや」と問へば、「父、子、嫁、娘、皆今朝七ツ時よりすみら堀に参れり」といふ。「それは早き行やうなり」といへば、「此所より八里山奥に入ざればすみらなし。浅き山は既に皆ほりつくして食すべき草は壱本も候はず。八里余、極難所の山をわけ入、すみらを掘て此所へ帰れば、都合十六里の山道なり。帰りも夜の四ツならでは帰りつかず。朝七ツも猶おそし。其上近き頃は皆々空腹がちなれば、力もなくて道もあゆみ得ず」といふ。「其すみらいか程か掘り来る」といへば、「家内二日の食にはたらず」といふ。扨も朝の夜より其の夜まで十六里の難所を通ひ、三日三夜煮て、やうやうに咽に下りかぬるものをほり来りて露の命をつなぐ事、あわれといふもさらなり。中にも大なる家だにかくのごとし。まして貧民の、しかも老人、小児、又は、後家、やもめなどは、いかゞして命をつなぐ事やらん、とおもひやれば胸ふさがる。」(板坂耀子,宗政五十緒 校注,新日本古典文学大系98,岩波書店)
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