一方,仏教では,釈迦の誕生日を祝う「灌佛会」で,仏像に掛ける五色水の一つの「赤水」として,サフラン(鬱金香)の抽出液を用いた.この五色水で浴佛する習俗は中国・日本で長く行われ,両国の歳時記に記され,日本では朝廷でも重要な年中行事としてそのプロセデュアが,記録された.
釈迦の誕生については,『佛說灌洗佛形像經』に以下のように記述されている.(CBETA,西晉 譯者釋法炬 本作品收錄於《大正新脩大藏經》)
「爾時佛告摩訶剎頭諸天人民:「皆一心聽。」佛言:「人身難得,無為道亦然,佛世難值。吾本從阿僧祇劫時,身為白衣累劫積德,每生自剋展轉五道,不貪財寶棄身施與無所愛惜。自致為王太子,以四月八日夜半明星出時,生墮地行七步,舉右手而言:『天上天下唯吾為尊,當為天人作無上師。』太子生時地為大動,第一四天王,乃至梵天、忉利天王,其中諸天各持十二種香和湯雜種名花以浴太子。太子得成佛道,開現聖法濟度群氓。」
この故事に基づいて,四月八日には寺院に於て,誕生仏に花を捧げ,薫り高い水を浴びせるようになった.現在の日本では「甘茶」を掛けるのが一般的だが,本來は薬草から造った「青・赤・白・黄・黒」の五色の「五色水(五香水)」を用いる.
『高麗版大蔵経』(1251完成)の『佛說摩訶刹頭經 亦名灌佛形像經』(西秦沙門釋聖堅譯,冒頭図)には,
「四月八日 浴佛法 都梁 藿香艾納
合三種草香挼而漬之此則靑色水
若香少可以紺黛秦皮權代之矣欝
金香手挼而漬之於水中挼之以作
赤水若香少若乏无者可以面色權
代之丘隆香擣而後漬之以作白色
水香少可以胡粉足之若乏無者可
以白粉權代之白附子擣而後漬之
以作黃色水若乏无白附子者可以
枙子權代之玄水爲黑色最後爲清
淨今見井華水名玄水耳
右五色水灌如上疏
以水清淨灌像訖以白練若白綿拭
之矣断後自占更灌名曰清淨灌其
福與第一福無異也
佛說摩訶刹頭經
己玄歳高麗國大蔵都監奉
勅彫造」と,
4月8日に仏陀を沐浴させるための「五色水」の作成法や灌水法,白絹や白綿の布で仏陀を拭う方法が述べられ,「五色水」の内の「赤水」は鬱金香即ちサフランから製するとある.他の色水作成に用いられている薬草については,後記事で述べる.なお,版木が彫られた「己玄」とは1239年のことである.
聖堅がこの経典をサンスクリット語?の原文から中国語に訳した時に活動していた「西秦」(385年 - 431年)は,五胡十六国の一つ。385年鮮卑族の乞伏 (きっぷく) 国仁が前秦から独立して建国。中国北西部に位置し,都は金城(現在の甘粛省の省都である蘭州)。431年夏 (か) に滅ぼされた.西秦は弱小国で,その統治期間は非常に短かったが、東西交易路と中国の母なる大河・黄河との交差する要衝に位置していたため、その領土における仏教の繁栄は当時の他の政権のそれをはるかに上回っていた。大きな仏教石窟(現在は甘粛省永靖市の炳霊寺石窟)は今日まで保存されている。
釋聖堅の伝記は残っていないが,彼の事績を記録した最も古い文献は,隋の費長房が著した『歷代三寶紀』で,其書卷九に,「乞伏は立国した際には僧侶を敬った.彼が聖堅に会ったとき,彼の教えに共感を覚え,教えを広め,経典の翻訳を実行するよう命じた.それは 5 人 (4 人であるべき) の統治者の下で 44 年間続いた.」(大意)とある.
聖堅が訳した仏典は,西秦‧聖堅譯で4点,西晉‧聖堅譯で2点,伏秦‧聖堅譯で4点,姚秦‧聖堅譯で1点,計11点が『大正新脩大藏經』に聖堅譯として収められている.
伏秦=西秦,乞伏 (きっぷく) 国仁の秦
西晋:(せいしん,拼音: Xījìn)は,司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年). 成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが,呉を滅ぼして三国時代を完全に終焉させ,後漢末期以降分裂していた中国を約100年振りに再統一した.
姚秦:中国の五胡十六国の一で,羌族の姚萇(ようちょう)が384年に建国した国で.都は長安で,417年に東晋の劉裕に滅ぼされた.
この経典が収められている『大蔵経』とは一切経とも言われ,経(釈尊の教え),律(僧侶の生活規範),論(経の注釈書)の「三蔵」と解説書などをすべて含む仏教典籍の総称である.中国では10世紀後半,宋の太祖(趙匡胤)の時に漢訳大蔵経の木版印刷による刊行が着手された.蜀(四川省)で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』である.
一方,高麗では,第8代顕宗の 1020 – 21 年頃,漢訳大蔵経の刊行に着手し第13代の宣宗の 1087 年に完成した(初雕本).しかしその版木は,1231 年のモンゴル軍の高麗侵攻の際にすべて焼失してしまった.1232 年崔氏政権は宮廷を開京(開城)から江華島に移すと共に,仏力による加護を得ようとし,大蔵経の再刊に
1236 年に着手し,1251 年に完成した.これが海印寺に現存する版木であり『高麗大蔵経(高麗八萬大蔵経)』(再雕本)と言われている.戦乱の中で莫大な財力・労力を傾注したのは,支配者層にとって大蔵経の刊行は救国の事業と考えられたからである.高麗時代に仏教は国教であり,国家鎮護の法として国王・文武百官以下広く民間に信仰されていた.
この復刻された経版は,その後長く大切に保存され,いまも南朝鮮の海印寺に残っている世界的仏教資料である.日本の室町・戦国の大名・豪族も朝鮮に使者を送り何度もこの版木で刷った大蔵経を求めた.それが現在,日本各地にも残っている.(旗田巍『元寇』中公新書
80(1965)p.33 – 34)
日本に於ては,大正13年(1924年)から昭和9年(1934年)までの10年間をかけて,『大正新脩大蔵経』を大正一切経刊行会が編纂し,大蔵出版が出版・刊行した.北宋代に蜀(四川省)で開版された漢訳大蔵経である『開宝蔵』を最もよく保存していた朝鮮海印寺の高麗大蔵経再彫本を底本としつつ,日本にあった各地・各種の漢訳仏典をすべて調査校合した民間人の手による「漢訳仏典の総集」とも言えるものである.大正大蔵経,大正蔵ともいう.編纂責任者は,高楠順次郎・渡辺海旭・小野玄妙の3名.当時の仏教関係の大学研究者が一致協力し,校訂作業に当たった.2008年,大蔵経テキストデータベース研究会によって『大正新脩大蔵経』テキストデータベースがインターネット上で公開された.近年では,東京大学の『大正新脩大藏經』テキストデータベース(SAT)や台北の中華電子佛典協會(CBETA)といったプロジェクトが,大正藏の電子テキスト化を推進している.それらは,一定の制約内ではありながら自由に使用できる.
この五色水を浴佛に用いる習俗は中国・日本で長く行われ,梁時代の『荊楚歳時記』を始めとする中国歳時記や,平安時代の一条兼良による『公事根源』などの有職故実書,江戸時代の曲亭馬琴による『俳諧歳時記栞草』などの俳句歳時記に記されている.
(後記事)