2025年6月18日水曜日

オオツルボ (1-2-2) 平賀源内 『物類品隲』巻之六『紅毛花譜』 ベレインブラーウ スウェールツ『花譜』


Scilla peruviana

 江戸中期の博物学者★平賀源内『物類品隲』(1763)は,師の田村元雄とともに1757年以来,5度にわたって開いた薬品会(物産会)の出品物,合計2000余種のうちから主要なもの360種を選んで,産地を示し解説を加えたもの.本文4巻,産物図絵1巻,付録1巻,計6巻からなる.
 この叢書の第二巻「石部」に「ベレインブラーウ」という輸入された青い染料の記述があり,その中にこの染料は『予 -毛花譜-帖ヲ藏ム -類凡-- -狀設-色皆奪 其青--色ノモノハ ベレインブラーウニテ彩ルト見エタリ』と「所蔵している紅毛花譜には数千種の実に写実的な図が収められているが,使われている「青碧色」はベレインブラーウであろう」ある.
 ベレインブラーウは北斎が「神奈川沖浪裏」等に好んで用いた「べろ藍」,即ち「ベルリン青 Berlijn blauw」(プルシアンブルー Pruisisch blauw, Prussian blue)であると考えられる.(平福百穂『日本洋画曙光』(1930)参照)


 この記述により,源内が入手したのは,手彩色したスウェールツ著『花譜』(
Florilegium)である事が分かる.
「△ ベレインブラーウ 紅毛人持-來ル扁-青ニ似テ質軽
 ク扁青ニ比スレバ色深クシテ甚鮮ナリ予-
 花譜-帖ヲ藏ム品-類凡--種形-狀設-色皆奪
 青--色ノモノハ此ベレインブラーウニテ彩ルト
 見エタリ其色至テ妙ナリ東壁曰-青大-青西-
 囘--青佛--種種不同囘--青尤ト疑ラクハ此
 物囘--青ナラン」

 ベロ藍は1704年、ドイツ・ベルリンの染料業者が偶然に発見した化学的な合成顔料で、日本には延享41747)年に初めて輸入されたと伝えられる.
源内が,宝暦11年(1761)に入手したスウェールツ『花譜』(Florilegium)は、1631年版で,手彩色されていた.冒頭図は NDL 所蔵の 1647 年版からの圖.(https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/L/M1/M1-001l.html)

2025年6月7日土曜日

オオツルボ (1-2) スウェールツ『花譜』,モリソン『オックスフォード大学植物史』

17世紀の欧州で人気のあったスウェールツ著『花譜』(Florilegium(1612) にもオオツルボの精細な図(冒頭図,右)が掲載され,欧州の庭園でもてはやされ,普及していたことが分かる.名称は「ペルーのヒヤシンス」とあり,特に原産地には言及していない.
 オックスフォード大学の初代植物学教授,★ロバート・モリソンの著した『オックスフォード大学植物史 第二部』(Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis, par secunda(1680) “Peruvianus multiflorus Floribus” の項に ‘Caeruleis. ☉”, “Albis. ☉” と青花・白花の二種のオオツルボが記載されている.更に,375 ページに,歴史や由来,実際に栽培して得られた詳細な知見がラテン語で記載されている.但しすでにパーキンソン(”Paradisi in sole paradisus terrestris” (1629))に依って,原産地はペルーではなくスペイン・ポルトガルと記されていたにもかかわらず,クルシウスの記述(前々報)を信じて ”Pro natalibus primò habuit regionem Peru.” と記したのは.植物学者としての矜持であろうか.また小さいながら図(冒頭図,左)掲載されている.

エマヌエル・スウェールツEmanuel Sweert1552 - 1612)は,ゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)に生まれ,アムステルダムで死去したオランダの画家,園芸家である.スウェールツの時代は,オランダや英仏の貿易船によって世界各地の植物がヨーロッパに紹介された時代であった.人々の植物に対する関心の高まりに答えるために,商人は各地から渡来した珍しい植物を育て,供給した.
 スウェールツは現在も続く “Frankfurt Fair (Messe Frankfurt)(フランクフルト物産會)1612年の會のために,自分の種苗園で供給可能な園芸植物のカタログ Florilegium Amplissimum et Selectissimum(花譜)を刊行した.第一部には球根植物330種,第二部には顕花植物243種が,計110枚の図版に描かれている.カタログの性質上か,各植物の細かい記述は見当たらないが,多言語目次(ラテン語,オランダ語,ドイツ語,フランス語)が付されていて,花色などが分かるようになっている.
 1612年にフランクフルトの印刷業者ヨハン・テオドール・ド・ブリー(Johann Theodore de Bry, 1561 – 1623)によって出版された.フランスの植物学者のピエール・ヴァレ(Pierre Vallet, c. 1575 - 1657)の知見に基づいた植物が描かれた,美しい図版は人気を呼び,1612年から1647年の間に6版を重ねた(添付図譜は 1647 年版).この書には多くのチューリップの変種の図が載っていたので,重版はこの時期,オランダで発生したチューリップ・バブルに応えたものでもあった.スウェールツは神聖ローマ皇帝,ルドルフ2世(Emperor Rudolf II, 1552 - 1612)のウィーンの植物園の園長を務めていたので,豊富な資料を自由に使えた.其の中にはフランス王,アンリ4世(King Henry IV of France, 1553 - 1610)のルーブルの植物園で栽培されていた植物の図譜が含まれ,『花譜』の図版の多くはそれに由来している.スウェールツの『花譜』は18世紀に日本に伝わり,1761年に1631年版が平賀源内の蔵書となり,蔵書目録で『紅毛花譜』として記録された.


この書の第一部の16には銅板の精緻なオオツルボ,二種の図が掲げられ(上図),一種は青花種,もう一種はやや桃色がかった種と思われる.目次には下図のように羅・獨・蘭・佛語で何れも「ペルー産のヒヤシンス」と名があり,花色の違いで分けて掲載されているが,カタログのため,植物名の他,記述はない.

 モリソンRobert Morison, 1620 - 1683)はアバディーンの出身の忠実な王党派であり,清教徒革命に伴う戦が始まった時には軍隊に参加したが,国王側が敗北した後フランスへ渡った.そこで彼は王室庭園の園芸家,ヴェスパシアン・ロバン(Vespasien Robin, 1579 - 1662)の指導を受け自然史を学び,大変優れた植物学者になった.1650年,ブロワ (Blois) にあるオルレアン公爵の庭園の管理者 (Curator) に任命され,その職を10年間続けた.王政復古の後,1660年に帰国し,チャールズ2世の侍医となり、すべての王立庭園を監督する職に任じられた.1669年に初代ダンビー伯 (Thomas Osborne, Earl of Danby, 16311712) の基金で設けられたオックスフォード大学の最初の植物学の教授職に就き,医術博士号を取得し,そこで講義をするとともに,『オックスフォード大学植物史』の著述に精魂を傾けた.それは1683年に道路で荷馬車との事故で亡くなるまで続いた.死後1699年に『オックスフォード大学植物史第三部』 “Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis par tertia” が出版された.


ロバート・モリソンの著した『オックスフォード大学植物史 第二部Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis, par secunda” (1680)* ‘DE HEXAPETALIS TRICAPSULARIBUS, radicibus bulboſis proprie dictis præditis. CAPVT XI. HYACINTHUS.’ の部のTABULA XII. には ‘Hyacinthus’ に属するとした 多くの種が記載され,その “Peruvianus multiflorus Floribus” の項に ‘Caeruleis. ☉”, “Albis. ☉” と青花・白花の二種のオオツルボが記載されている.更に,375 ページに,歴史や由来,実際に栽培して得られた詳細な知見がラテン語で記載されている.そのなかで,ヒヤシンス類の中で最もエレガントなもので,最初にペルーの世界から持ち込まれ,今ではすべての植物学愛好家の庭園で非常によく知られている.卓越した園芸家として知られているエドワード・モーガンの庭で,種から多くの個体が発芽し,5-7年後に開花した.などとある.但しすでにパーキンソン(”Paradisi in sole paradisus terrestris” (1629))に依って,原産地はペルーではなくスペイン・ポルトガルと記されていたにもかかわらず,クルシウスの記述(前々報)を信じて ”Pro natalibus primò habuit regionem Peru.” と記したのは.植物学者としての矜持であろうか


*なお,第一部は生前には出版されなかったが,この第二部を第一巻 “Tomus Primus” に,第三部を第二巻 “Tomus Secundus” にと標題のみを変えて 1715 年に再版された(上図).