17世紀の欧州で人気のあった★スウェールツ著『花譜』(Florilegium)(1612) にもオオツルボの精細な図(冒頭図,右)が掲載され,欧州の庭園でもてはやされ,普及していたことが分かる.名称は「ペルーのヒヤシンス」とあり,特に原産地には言及していない.
オックスフォード大学の初代植物学教授,★ロバート・モリソンの著した『オックスフォード大学植物史 第二部』(Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis, par secunda)(1680) の “Peruvianus multiflorus Floribus” の項に ‘Caeruleis. ☉”, “Albis. ☉” と青花・白花の二種のオオツルボが記載されている.更に,375 ページに,歴史や由来,実際に栽培して得られた詳細な知見がラテン語で記載されている.但しすでにパーキンソン(”Paradisi in sole paradisus terrestris” (1629))に依って,原産地はペルーではなくスペイン・ポルトガルと記されていたにもかかわらず,クルシウスの記述(前々報)を信じて
”Pro natalibus primò habuit regionem Peru.” と記したのは.植物学者としての矜持であろうか.また小さいながら図(冒頭図,左)も掲載されている.
エマヌエル・スウェールツ(Emanuel Sweert,1552 - 1612)は,ゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)に生まれ,アムステルダムで死去したオランダの画家,園芸家である.スウェールツの時代は,オランダや英仏の貿易船によって世界各地の植物がヨーロッパに紹介された時代であった.人々の植物に対する関心の高まりに答えるために,商人は各地から渡来した珍しい植物を育て,供給した.
スウェールツは現在も続く
“Frankfurt Fair (Messe Frankfurt)(フランクフルト物産會)” の1612年の會のために,自分の種苗園で供給可能な園芸植物のカタログ “Florilegium Amplissimum et
Selectissimum(花譜)” を刊行した.第一部には球根植物330種,第二部には顕花植物243種が,計110枚の図版に描かれている.カタログの性質上か,各植物の細かい記述は見当たらないが,多言語目次(ラテン語,オランダ語,ドイツ語,フランス語)が付されていて,花色などが分かるようになっている.
1612年にフランクフルトの印刷業者ヨハン・テオドール・ド・ブリー(Johann
Theodore de Bry, 1561 – 1623)によって出版された.フランスの植物学者のピエール・ヴァレ(Pierre Vallet, c. 1575 - 1657)の知見に基づいた植物が描かれた,美しい図版は人気を呼び,1612年から1647年の間に6版を重ねた(添付図譜は 1647 年版).この書には多くのチューリップの変種の図が載っていたので,重版はこの時期,オランダで発生したチューリップ・バブルに応えたものでもあった.スウェールツは神聖ローマ皇帝,ルドルフ2世(Emperor Rudolf II, 1552 - 1612)のウィーンの植物園の園長を務めていたので,豊富な資料を自由に使えた.其の中にはフランス王,アンリ4世(King Henry IV of France, 1553 - 1610)のルーブルの植物園で栽培されていた植物の図譜が含まれ,『花譜』の図版の多くはそれに由来している.スウェールツの『花譜』は18世紀に日本に伝わり,1761年に1631年版が平賀源内の蔵書となり,蔵書目録で『紅毛花譜』として記録された.
この書の第一部の圖16には銅板の精緻なオオツルボ,二種の図が掲げられ(上図),一種は青花種,もう一種はやや桃色がかった種と思われる.目次には下図のように羅・獨・蘭・佛語で何れも「ペルー産のヒヤシンス」と名があり,花色の違いで分けて掲載されているが,カタログのため,植物名の他,記述はない.

モリソン(Robert Morison, 1620 - 1683)はアバディーンの出身の忠実な王党派であり,清教徒革命に伴う戦が始まった時には軍隊に参加したが,国王側が敗北した後フランスへ渡った.そこで彼は王室庭園の園芸家,ヴェスパシアン・ロバン(Vespasien Robin, 1579 - 1662)の指導を受け自然史を学び,大変優れた植物学者になった.1650年,ブロワ (Blois) にあるオルレアン公爵の庭園の管理者 (Curator) に任命され,その職を10年間続けた.王政復古の後,1660年に帰国し,チャールズ2世の侍医となり、すべての王立庭園を監督する職に任じられた.1669年に初代ダンビー伯 (Thomas Osborne, Earl of Danby, 1631‐1712) の基金で設けられたオックスフォード大学の最初の植物学の教授職に就き,医術博士号を取得し,そこで講義をするとともに,『オックスフォード大学植物史』の著述に精魂を傾けた.それは1683年に道路で荷馬車との事故で亡くなるまで続いた.死後1699年に『オックスフォード大学植物史第三部』 “Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis par tertia” が出版された.
ロバート・モリソンの著した『オックスフォード大学植物史 第二部』”Plantarum Historiæ Universalis Oxoniensis, par secunda” (1680)* の ‘DE HEXAPETALIS TRICAPSULARIBUS, radicibus bulboſis proprie dictis præditis. CAPVT XI. HYACINTHUS.’ の部のTABULA XII. には ‘Hyacinthus’ に属するとした 多くの種が記載され,その “Peruvianus multiflorus Floribus” の項に ‘Caeruleis. ☉”, “Albis. ☉” と青花・白花の二種のオオツルボが記載されている.更に,375 ページに,歴史や由来,実際に栽培して得られた詳細な知見がラテン語で記載されている.そのなかで,ヒヤシンス類の中で最もエレガントなもので,最初にペルーの世界から持ち込まれ,今ではすべての植物学愛好家の庭園で非常によく知られている.卓越した園芸家として知られているエドワード・モーガンの庭で,種から多くの個体が発芽し,5-7年後に開花した.などとある.但しすでにパーキンソン(”Paradisi in sole paradisus terrestris” (1629))に依って,原産地はペルーではなくスペイン・ポルトガルと記されていたにもかかわらず,クルシウスの記述(前々報)を信じて ”Pro natalibus primò habuit regionem Peru.” と記したのは.植物学者としての矜持であろうか
*なお,第一部は生前には出版されなかったが,この第二部を第一巻 “Tomus Primus” に,第三部を第二巻 “Tomus Secundus” にと標題のみを変えて 1715 年に再版された(上図).
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